天涯硝子 9 - 11
(9)
駅のホームに降り、人の流れに合わせて階段を下りる。
改札口を出る前に、ヒカルは胸の高鳴りを抑えようと深呼吸をした。
人波が過ぎ、構内を見渡せるようになると改札の外に冴木の姿を見つけた。
冴木と会うのは水曜の朝、棋院会館の玄関で別れて以来、三日振りだ。
「…冴木さん!」
冴木が片手を上げて応える。
ヒカルはまっすぐに冴木に駆け寄り、子供がするようにその胸に抱きついた。
「…進藤」
顔を覗き込まれるとヒカルは照れくさそうに笑い、2、3歩後退ると冴木と視線を合わせた。
ヒカルが座席の上で俯せになって果てたあと、冴木はすくい上げるようにしてヒカルを抱きかかえ、膝の上に座らせた。
後しろからヒカルを抱きいたまま、身体を傾けてルームライトを点けると、
「…何だ、ライトつくんだ…」
明るくなった車内に瞳を巡らせ、ヒカルはつぶやいた。
−−あの夜の、あの場所でのことで覚えているのはここまでだ。
その後、冴木と何を話したのかも、どうやって服を着たのかも覚えていない。
走る車の振動に目を開けると、助手席に横になっている自分に気づいた。
街頭の灯りが規則的に流れて行くのが見える。
その灯りに浮かび上がっては消える冴木の横顔を、ヒカルはぼんやりと見詰めた。
次には冴木に揺り起こされた。
「起きられるか?」
ヒカルはのろのろと起き上がった。身体がぎしぎしと痛む。
「…ここ、どこ?」
ひどく喉が渇き、声がかすれている。
「俺の部屋に行くんだよ。そのままじゃ、帰せないから」
ヒカルは冴木に抱きかかえられるようにして、車から降りた。
身体がだるく思うように歩けない。腰から下の感覚が乏しく、どこか痺れているようだ。
冷たい汗がしたたり落ち、だんだん不安になってくる。
歩くのがつらく、情けなさが募ってくるとヒカルは思わず、もうここに置いて行って欲しいと冴木に泣きついた。
冴木はごめんなとヒカルの頭を撫で、軽いヒカルを抱き上げて歩いた。
身体がこんなに痛まなければ、冴木の部屋までの距離はそんなにないのに、
その夜のヒカルには、例え抱き上げられていても冴木に揺られて行く道程はつらかった。
部屋に着き、灯りがともされる。昼間の暑さが部屋にこもっていた。
和谷たちと何度か来たことのある冴木の部屋は、相変わらず殺風景だ。
奧のベッドにもたれ掛かるようにして座らされ、
「家に連絡しておいた方がいい。俺のとこに泊まるって 」と、
電話機の子機を渡された。
ヒカルは頷き、冴木に渡された冷たい水を飲んでから家に電話を入れた。
冴木が窓を開けると夜の涼しい風が流れ込んで来る。
「…お母さん? 遅くなってゴメン。今日、冴木さんのとこに泊まるから…。
うん、明日の手合いは冴木さんのとこから行くよ。…うん、言っとく。…うん」
電話機を冴木に返そうとヒカルが振り向くと、冴木は2杯目の水を持ち、驚いた顔をして立っていた。
「進藤、おまえ、明日…手合いがあるのか?」
「…うん」
ヒカルにコップを渡し、隣に座ると頭をおおげさに頭を抱えた。
「…もっと早く言ってくれ…」
「あれ? 言わなかったっけ?」
あっけらかんとヒカルが答えると冴木にぐいと抱き寄せられた。
「あー、冴木さん。水、こぼしちゃったよ…」
「…今夜はさ、一晩中おまえを抱いていようと思ってたのに…」
ヒカルは改めて、冴木の顔を見た。見たと思ったら、そのまま口付けされた。
(10)
軽く唇を吸われながら、ヒカルは何と言って冴木の腕から逃げ出そうかと考えていた。
水がこぼれ、ほとんど空になったコップを握りしめ、ヒカルは自分でもわかるほどガタガタと震えた。
「…そんなに怖がらなくていい」
冴木の穏やかな声が聞こえ、ヒカルはかたく閉じていた目を恐る恐る開けた。
「冴木さん、オレ駄目だから。…もう体が」
「汗かいて気持ち悪いだろ? シャワー浴びておいで」
あわてて言うヒカルに、冴木はやさしく言った。
「立てるか? 今日はもう休もうな」
冴木はヒカルを立たせると、手を引いて洗面所に連れて行った。
「タオルを用意しておくから」
冴木はそう言うと、ヒカルが握りしめているコップを取り上げ、あっさりと出て行った。
また服を脱がされ、冴木に抱かれるようなことになると思っていたヒカルは、
ひとりで真っ赤になってしばらく立ち尽くした。
「そうだよな。…明日、手合いがあるって言ったんだし…」
ヒカルはのろのろと服を脱ぎ、バスルームに入った。
ぬる目のシャワーを浴びていると、冴木が何か声をかけてきた。
「……イン…アンド………から」
そう聞こえた。
ヒカルは生返事をし、シャワーの水を顔に当てて、口を開いた。
口の中に溜まった水を飲み込むと、とても喉が渇いていることに気づく。
無性に水が飲みたくなって、ヒカルはシャワーを浴びるのをやめ、バスルームから出た。
冴木の言ったとおりタオルが用意されており、それでさっと体を拭いて服を着ようとすると、
脱いで床に散らかしたままのはずの自分の服がなかった。
タオルを腰に巻いて洗面所に出たがヒカルの服は見当たらない。
「…冴木さーん」
呼んでみたが返事がない。
ヒカルは部屋に戻ってみた。どこにも冴木の姿がない。
「どこ行っちゃったんだろう…」
ヒカルはそう呟くと、喉が渇いていた事を思い出し、冷蔵庫を開けた。
勝手にウーロン茶のペットボトルを出してコップに注ぎ、飲み干す。
二杯、ウーロン茶を飲んで、やっとホッとした気持ちになった。
ヒカルはベッドに腰を下ろし、ひとり部屋を見渡した。
何か違和感を覚えて、少し考えてみる。
「…あ、時計がないんだ」
ベッドの枕元を見ても、目覚まし時計もない。
ヒカルはテレビのリモコンを取り、床にペタンと座った。
テレビをつけてみるとニュースをやっていた。チャンネルを変えてもニュース番組が多い。
しかし、だからといって、普段テレビも見ずに碁の勉強をしているヒカルには、
何時頃なのかさっぱりわからない。
「…冴木さん、どうやって朝起きているのかな?」
ヒカルはテレビを消し、ベッドに座りなおした。
この部屋は窓を開けて風を通しておけば、冷房がなくても涼しく過せるらしい。
冴木の部屋の周辺がどんな風になっているか、今まで気にもとめたこともなかったが、
熱帯夜の続く東京では珍しいことだ。
この部屋のことと、時計のこと。
それから、どこに行っていたのか、冴木が戻ってきたら聞こう。
ヒカルはそう思いながら、もう一度テレビをつけた。
ぼんやりと見ていると、眠くなってきた。濡れていた髪も半分ほど乾いてきている。
少しだけ…、そう呟いてヒカルはベッドに横になった。
お腹がすいたな、と思ってハッとして目が覚めた。いつの間にかすっかり眠ってしまっていたらしい。
体を起こしてみると、薄いダウンケットを掛けていた。部屋の中は真っ暗だ。
「…あれ?」
眼が慣れてくると、隣りで壁に背中を押しつけて、冴木が静かに眠っているがわかった。
外はまだ暗い。
しかし、開けたままの窓からうす青く空が見え、家々の連なる影に街灯の灯りが淡く輝いているのが見えた。
車の中で見た、あのうす青いものは、空の色だったのかもしれないとヒカルは思った。
(11)
翌日の大手合いでヒカルは負けてしまった。
碁盤の前でじっと座っていると、身体の冷たさが痺れるようで、落ち着かなかったからだ。
盤上に集中しようとしても、冴木の顔が浮かんできてしまい、振り払えなかった。
ヒカルは何度も溜め息をつき、ついには諦めて投了した。
対局者もヒカルの様子に気づいていたらしく、投了後、具合が悪いのかと尋ねてきた。
ヒカルは何も答えられずに、黙って頭を下げた。
冴木とのことを後悔している訳ではないが、対局に集中できなかった自分が憎らしかった。
(…進藤、負けたのか。俺が)
「冴木さんのせいじゃないよ!」
謝ろうとする冴木の言葉を遮り、ヒカルは叫んだ。
その日の棋院からの帰り、駅に向かう人の流れに背を向け、ヒカルは携帯電話を握りしめた。
ヒカルの声に行き交う人が振り返る。ヒカルは慌てて道の脇により、ビルの壁に顔を向けた。
「今日はちょっと調子が出なかっただけ。次は負けないよ」
ヒカルは足を広げ、仁王立ちになった。
喉をそらして空を見上げ、体を揺らしながら反対側に向き直った。
「――だからさぁ…、冴木さんとこ、また行ってもいい?」
冴木の部屋に行ってもいいかなどと、改めて尋ねなければならない間柄では、もちろんない。
だが今回は別のことを言っているのだと、冴木もヒカルもわかっていた。
棋院の玄関まで、冴木はヒカルを送ってきたが、朝、ヒカルを起こしてから別れるまで、一度も
ヒカルに触れようとしなかった。
ヒカルは対局に負けた自分を責めながら、気持ちの反対側でそのことが不安で仕方がなかった。
(ああ、またおいで)
「…うん」
やさしい明るい声でそう言われ、ヒカルはホッとした。そして、体がすっと軽くなったのを感じた。
いつの間にか体も心も緊張して、こわばってしまっていたのだ。
(俺はちょっと仕事があるんだ。こっちから連絡するから、待ってて)
「うん。冴木さん、仕事がんばって」
そこで電話を切った。
それから三日。
土曜日の朝、夜更かしをした分けでもないのにヒカルは寝過ごした。
土曜は和谷の部屋で研究会がある。金曜の夜まで冴木から連絡はなかったが、今日は和谷の部屋で
会えるかもしれない。
ヒカルは慌てて服を着替え、家を飛び出した。
気持ちが逸り、駅に走りながら和谷の部屋に電話を入れると、冴木は来ていないと和谷は答えた。
ヒカルは足を止めた。
「え?」
(来てねぇよ。進藤はこれから来るんだな?)
日本の夏特有の湿った暑い空気が肌にまとわりつく。急に汗が噴き出して来た。
「…オレ、わかんないや」
(…は?)
「…また、電話する…」
ヒカルは肩を落とし、直射日光を避けて建物の影に入った。
冴木は携帯電話を持っていない。ヒカルや和谷が携帯を使うのを見ていて、どうしても持たなくては
ならないものではないと、持とうとしないのだ。
冴木の部屋に電話を入れてみる。
耳に遠く、コール音はするのに、誰も応える気配はなかった。
「…留守電になってない…」
ヒカルはひとりごち、もと来た道を引き返しながら、何度か冴木の部屋に電話を入れたが、
やはり同じだった。
沈んだ様子で家に戻ってきたヒカルを、母親は心配して、熱でもあるのではと
額に手を当てたりしたが、何でもないと答えるヒカルにそれ以上はつきまとわなかった。
ヒカルは自分の部屋に戻ると、大きな溜め息をつき、ベッドの脇に座り込んだ。
何より碁のことが大切だと思うのに、こんなことで気持ちがかき乱される自分を情けなく思った。
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