戻り花火 9 - 15
(9)
社が数日間の予定で上京してくることになったと切り出されたのは七月の初め、
アキラとよく会う碁会所でのことだった。
「・・・ふーん」
咄嗟には、それだけしか言えなかった。
いま石を置こうとしていたところだったのに、どこへ打つつもりだったかわからなくなる。
自分とアキラの間で生き生きと意味ある模様を織り成していたはずの盤面が一瞬、
無機質な白黒のドットで構成されたバラバラの絵に見えた。
それでも指は勝手に道筋を見つけ、自動操作のように盤上の一箇所に黒石を置いた。
石を打ってしまったことに気づいてから、慌てて頭の中でその場所で良かったか確認する。
幸いそれはヒカルが打とうと考えていたのと同じ場所で、打たれたアキラも「なるほど」と呟き
腕組みをして考え込んでいる。
伏し目勝ちにしていると強い目の光が隠れて少し儚い雰囲気になるアキラの顔を見ながら、
出来るだけ無感情な声でヒカルは言った。
「――で?」
「うん。関西棋院には、同年代で彼の相手になる棋士がいないらしくて。キミやボクや
中韓の棋士と打てた北斗杯が懐かしいって言うから、夏休みにこっちに来て研究会でも
しないかってボクのほうから言ったんだ」
用意されていたような淀みない答えを返しながら、アキラが白石をパチリと置いた。
(10)
「ふーん・・・オレは別に構わないぜ。そうだな、・・・オレも社とは久しぶりに打ちてェし、・・・」
「なら、後で日程を決めよう。彼のほうは、こちらの都合に合わせて仕事の調整をしてくれると
言っていたから」
「んー・・・」
返事とも思考中ともつかないような声を返しながら、ヒカルは黒石を持った手を迷わせた。
――社が来る。また、自分とアキラと打つために。
嫌なわけではない。
社とまた打てるのは楽しみだったし、北斗杯やその後の交流を通して知った社の人となりにも
一つも悪く思える所はなかった。
それなのに妙な胸騒ぎがして収まらない。
ヒカルとの会話の中で禁忌のように互いの名前を避けていたアキラと社。
その二人がいつの間に連絡を取り合い、再会の段取りまで行っていたというのか。
自分の知らない所で二人はどんな会話を交わしていたのか。
北斗杯の後もずっと二人が連絡を取っていたとするなら、何故それは自分に隠されていたのか。
黒石をまた一つ盤上に置いてから、ヒカルは脇に置いてあったお茶を喉も渇いていないのに
一口飲んだ。
つっかえたようなゴクリという音がやけに大きく盤の上に響く。
予想していた手だったらしく、ヒカルが湯呑みを元の場所に置き終わらないうちに
アキラはすかさずパチリと別の場所に攻めてきた。
「で、こっちにいる間社にはまたうちに泊まってもらうことになった」
「・・・ふーん。いいんじゃねェ?・・・オマエんとこ今一人だし」
口に出してから、言葉の意味が胸を焼いた。
アキラの両親はずっと外国を回っており、家を空けている。アキラは今あの家に一人なのだ。
そこに社が泊まり、アキラと二人きりで過ごすというのだろうか。
盤上の石の並びがゆらりと歪んで、また無秩序なドット柄に見えてくる。
考えようとしても拡散してしまう。
普段なら、何があってもこんなに盤面に集中出来なくなることなどないのに。
(11)
「それで、進藤。・・・その間、キミもうちに泊まってくれないか?」
ぐるぐる回っていた思考をアキラの声が断ち切った。ヒカルは顔を上げた。
「・・・え?」
アキラはいつものように口元に手を当てて盤上を睨んでいたが、ヒカルが聞き返したので
顔を上げもう一度繰り返した。
「社がいる間、キミもうちに泊まってくれないか?もちろん、出来たらで・・・構わないけど」
「オレ、行っていいの?」
「そのほうが思い切り打てるだろう?前に合宿した時は、キミは自分からそう言って
泊まりに来たじゃないか」
「そうだけど」
「・・・嫌?」
目が合った。
印象的な黒い瞳には、いつもの強気に似合わずほんの少し心細そうな、縋るような色がある。
もし社との間に疚しいことがあるなら、こんな風に全てを預けたような目でアキラが自分を
見ることは出来ないはずだと思った。
「・・・ううん。そうだな、合宿の時みたいで楽しいかもな。行くよ」
「ありがとう。・・・良かった」
アキラはほっとしたように微笑んで、おとなしく盤上に目を戻した。
ヒカルも石の並びに目を戻した。そこにあるのはもうドット柄ではなく、アキラと自分が
織り成した意味ある模様だった。
ヒカルが打って、アキラが返した。そうして十数手ほど進んだ。
(12)
「・・・実を言うと、少し不安だったんだ」
黙々と打っていたアキラが柔らかな声で言った。碁に没頭して先刻の会話をすっかり頭から
締め出してしまっていたヒカルは「んー?」と生返事をした。
「ボクじゃ、普段同年代の人と話すこともあまりないし、二人になったら何を話していいか
わからないから。・・・そんなんじゃ彼も、気詰まりだろうしね」
「・・・社のこと?だって今までも連絡取ってたんだろ?社がこっちに来るなんて、オレ
オマエに聞かされて初めて知ったぜ」
パチリ、パチリと連続で二つ、石の音が響いた。
手を止めて黙ってしまったアキラをヒカルがちらりと見る。
「そうだけど・・・」
石を摘みあげたしなやかな指が、珍しく迷うように碁笥に戻された。
今アキラの目に、この石の並びはどんなものに映っているのだろう。
――電話で話すのと、実際会って話すのとは違うよ。
小さな声でそう呟くと、
物思いに沈むような、何か考え事をしているような、伏し目勝ちの儚い表情で
アキラはパチリと白石を置いた。
(13)
社が東京にやって来たのは7月の末だった。
「よっ。進藤、元気やったか」
3ヶ月前と同じように駅で待ち合わせをして、アキラの家へ向かった。
「進藤たちはもうガッコ行ってへんのやな。ホンマ羨ましいわー。オレなんか一昨日まで
中間テストやったんやで」
「中間テスト!うわっ、思い出したくねェ〜。夢に見ちゃうぜ」
北斗杯を目前に控えていた前回とは状況が違うせいか、道すがら社はよく喋った。
ヒカルも、アキラと社の関係がはっきりしないことに少し不安はあったものの、
顔を合わせてしまえばさすがにかつて密度の濃い数日間を共にした者同士で、話が弾んだ。
――にしてもコイツ今日、ほんとよく喋るよなぁ。
電話で何度か話した時は、ここまで饒舌ではなかった気がする。
久しぶりに顔を合わせるとやはり違うということなのか、それとも。
「それでな、どうなったか知りたいと思うやろ?したらな、吉川師匠が渋ーい顔して言うてん――」
「着いた。降りるぜ」
「あ?ああ、もう着いたんか・・・」
ホームに降りてから、あれだけ饒舌だった社がすっかりおとなしくなってしまった。
何か考え込むような顔で懐かしそうに辺りの風景を見回している。
「社?階段こっちだぜ。・・・なんか珍しいもんでもある?」
「ン、いや、そういうわけやあらへんのやけどな。何や、またココに来れたんやなぁと思うと
感慨深いのと・・・塔矢・・・」
ヒカルの全身がビクリと竦んだ。
電車に乗っている間あれだけ喋ったのに、社の口からアキラの名を聞くのはこれが今日初めてだった。
(14)
「塔矢が何?」
嫌な予感に胸を高鳴らせながらヒカルは聞いた。
口を結んで風景を見渡す社の横顔が、急に大人びた自分の知らない顔に映る。
「あ――いや、この駅・・・塔矢がいつも、使おてる駅なんやなぁ思て・・・」
――なんだよ、それ。
ヒカルの視線に気づいたのか、社が慌ててフォローした。
「あ、つまりやな、塔矢ってあんまり普通の人間っぽくない言うか、電車に普通に乗ってる
とことか想像しづらいやん。せやから、アイツも普通にキップ買って手摺り掴まって、
乗り越してもーたら自動改札機でピコーンピコーン足止め食らうんかと思おたら、何やその・・・」
続く言葉を探して眉根を寄せ空を仰ぐ社に、ヒカルは助け舟を出した。
「・・・あー、確かに塔矢って、あんま親しくないうちはそんな感じあるかもな。
物食ってるとこも想像出来ないっていうか」
「せやろ」
社がホッとしたように笑顔になる。
その笑顔を見ていたら、急に今まで味わったことのない意地の悪い気持ちが込み上げてきた。
「――でも、塔矢と社ってもうそんな親しくないって間柄でもないだろ。
ずっと連絡取ってたんだろ?オレの知らない所でさ」
言い放つとヒカルは社の顔も見ずにさっさと階段を下り始めた。
棘のある言葉に社は一瞬呆気に取られていたようだったが、すぐに後を追ってくる気配がした。
――なんでオレ、こんなことしてんだろ。
大阪から数時間かけて自分たちに会いにやって来た社に対して申し訳ないと思った。
――違うんだ、社が塔矢を好きになったってそれは別にいいんだ。塔矢に憧れる奴なんか
他にいくらでもいるけど、それを怖いと思ったことはねェ。だからオレが怖いのは、
社が塔矢を好きになることじゃなくて――
改札口まで来て、一際目立つ凛とした姿にヒカルは足を止めた。
「進藤。あれ・・・一人?」
「塔矢――なんでここに」
(15)
「進藤、待ってやー。キップどっかに仕舞ってもーてん」
階段のほうから聞こえてきた声にアキラが顔を上げる。
アキラは心なしか首を伸ばし、瞬きもせずにその大きな目で階段から下りてくる人の流れの中を
落ち着きなく探した。
ヒカルは言葉を失ってそのアキラの顔を見守るしかなかった。
「お、あったわ、へへ。こういうのは入れとく場所決めとかなアカンな。・・・って、」
ヒカルより数歩手前で、社が足を止めた。
アキラが少し照れ臭そうに、きゅっと唇を引き結び微笑む。
「久しぶりだね。・・・社」
「・・・来てたんか。元気そうや。・・・良かった」
社もまた少し照れ臭そうに、顔を綻ばせた。
アキラはちらりと駅の時計に目をやって言った。
「キミたち二人にしておいたら、着くのが何時になるかわからないからね。
念のため迎えに来たんだよ。・・・ところで二人とも、早く出て来たら」
ヒカルと社がはっと顔を見合わせる。
二人とも改札口の手前で立ち止まったままだったのだ。
背を向けさっさと歩き出そうとしたアキラの真っ直ぐな背中を追って、夢遊病のように
切符も通さず改札口を出ようとしたヒカルはピコーンピコーンという派手な音と共に
遮断扉に足止めされた。
「うぁっ」
「うぉっ」
重なった声に振り向くと隣の自動改札機で社が同じように切符を手にしたまま足止めされて
固まっている。
ヒカルと目が合うと、社は屈託なくニカッと笑った。
どんな顔を返せばいいかヒカルが迷っているうちに、アキラが大きな溜め息をついて
またスタスタ歩き出そうとした。
「あっおい、塔矢!溜め息とかついてんじゃねェよ、たまにはこーいうことだってあるだろっ!」
「待ってや、塔矢ー!おーい、塔矢さーん!」
両肘を突き出し耳を指で塞いで足早に立ち去ろうとするアキラを、二人は慌てて追いかけた。
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