落日 9 - 16
(9)
前はこんなじゃなかったのに。
眩しい程の夏の日差しのような明るい笑顔だったのに、「彼」を失ってからというもの、彼は変わって
しまった。
振り仰ぐように空を見上げる彼は、秋の空気のように、悲しいまでの透明感を漂わせていて、目を離
したら消えてしまいそうだった。衝動的に彼の身体をきつく抱きしめた。抱きしめたことでわかる肩の
薄さに、腰の細さに、甘く香る彼の匂いに、頬に触れる柔らかな髪に、眩暈がした。小さな声で名を
呼ぶと、顔をあげてこちらを見た。涙で潤んだ大きな瞳と、小さく震えている薄紅色の唇に己の身体
の熱が上がる。そのまま唇を奪いながら彼の細い身体を探ろうと手を動かした。かれど彼は嫌がる
そぶりは無く、むしろそれを待っていたかのように抱き返された。
衣の袷を広げ、唇を落とすと、微かに甘い息が漏れる。それだけでもう夢中になった。多分、乱暴に、
性急に走ってしまった手に、彼は容易に身体を開いた。閉ざされた奥の門を乱暴にこじ開け、押し
入っても、それを待ち望んでいたように甘い悲鳴を上げながらしがみ付いてきた。
正直、戸惑ったのも事実だ。
けれど、ああ、やっぱり、とも思った。
やはり「彼」とはそういう関係だったのか。
そんなものは、「彼」が彼を見る優しく穏やかな瞳を、彼が「彼」を見上げる嬉しそうな幸せそうな瞳を
見れば、二人の絆は、二人がお互いを大切に思い合っているのは、誰の目にも明らかだった。
そしてそれが事実として確認されれば尚の事、今の彼の状態に理由がつく。
だがそんな事はもうどうでもいい。「彼」はもういないのだから。
いない人のことをいつまで思っていても仕方がない。そんな風に考えた。
弱みに付け込んで、という意識も無いではなかったが、そんな事を気にしてどうする、何と言っても
彼は自分を受け入れてくれているではないか、と乱暴に片付けてしまった。
(10)
重なり合った体の熱が上がり、息が荒くなる。
細く華奢な身体はそれでもその中に若い熱と靭さを持っており、同じく若い性をぶつけてもそのまま
受け止め、受け入れてくれる。引き抜き、突き上げる力に彼は強くしがみ付きながらも、悦びの声を
あげる。その声に、夢中になった。動きはしだいに激しくなり、彼の名前を呼びながら奥深くまで突き
入れると、二人同時に到達した。
快楽の余韻に痙攣する彼の身体をそっと抱きしめると、急に腕の中の存在がとても愛おしいものに思
えてくる。最初は彼の儚げな様子に心を奪われ、衝動的に抱きしめてしまって火がついたのだと思って
いたが、こうしていると、実はもうずっと、彼をこうしたかったのだという事に気付く。
小さな声で彼の名を呼ぶと、震える手が背に回され、弱々しい力で抱きしめられた。胸が震えそうになり
ながら彼の目蓋にくちづけを落とそうとした時、可憐な唇から弱い声が漏れて、はっと息を飲んでしまった。
半ば気付いていた事を、こんなふうにして思い知らされるのか。
こうして抱いているのは自分なのに、それでも「彼」の名を呼ぶのか。
それとも、彼は今自分を抱いているのが誰なのか、わかっていないのではないか?「彼」に抱かれている
つもりなのではないか?だから、あんなに、こちらが途惑うほどに積極的に身体を開いたのか?
気付かされてしまった事実に、呆然とする。
それでも。
それでも、と頭を振り、絶望を衝撃を追いやろうとする。そんな事はいい。わかっていた事じゃないか。
そう、今は、まだ「彼」を思っているのかもしれないけれど、それでも今抱いているのは自分なのだから、
時間が経てばいつか「彼」を失った傷も癒える。そうすればまた、以前のような彼に戻ってくれるだろう。
早く元気になって欲しい。
元のような明るい笑顔を取り戻して欲しい。
時が経てば忘れる。忘れてくれる。そうしたら今度こそ本当に、彼は自分のものになる。
いや、今だって、彼は自分のものだ。だって今はこうやって自分の腕の中にいる。抱きしめてやれば柔ら
かく抱き返してきてくれる。
いつか時が来たら、夏の日差しを取り戻して欲しい。そうして、今度こそ、その眩しい程の笑顔を自分に向け
て欲しい。
そう思った。
(11)
手に持った籠をみて、また口元が緩んでしまった。
彼の許を訪れる時はいつも、果物や菓子を手にする事にしていた。彼は甘いものが好きだったし、
食の落ちてしまった今でも、そういったものなら食べられるだろうと思って。
彼はこれを喜んでくれるだろうか。笑ってくれるだろうか。「美味しい。」と言って、自分を見て微笑ん
でくれるだろうか。いつもそう思いながら、彼の許へと足を運んだ。
今日は珍しいものを手に入れた。きっと喜んでくれるだろう。
それは、蜜の溜まった蜜蜂の巣を薄く切って天日に干したものだった。甘く、滋養にも富んでいるの
だと聞いた。こぼれた欠片を口に含むと、しゃりっとした蜜の結晶が口の中で溶けて、濃厚な甘さが
口いっぱいに広がった。微かに花の香りがした。
けれどこの甘い蜜よりも更に甘いものを知っている。抱きしめた時に頬にかかる甘い吐息。何より甘
い彼のくちづけ。思い出しただけでうっとりとその残り香に酔いそうだ。
甘やかな抱擁を反芻して路の途中でしばし立ち止まってしまい、急に我に返って、ぶん、と頭を振る。
それから彼の屋敷を目指して足を急がせた。そこには記憶よりも確かに彼自身が待っているはずだ。
甘い蜜を齧りながら、「美味しい」と笑う彼を想像するだけで胸が躍った。
「ヒカル、いるか?今日の土産は…」
話し掛けながら部屋に入ってきた和谷助秀は息を飲んだ。
自分ではない男に抱きとめられて、身体を揺さぶられて、恍惚の表情を浮かべるヒカル。
知らず、手に持っていた籠を取り落とした。
彼を抱いていた男がそれに気付き、顔をあげてこちらを見た。それが見知った人間である事に更に
和谷は驚愕する。伊角が和谷を認め、驚きに目を見張る。そうしながらも、伊角は更に激しくヒカル
を突き上げた。
和谷の目の前で、ヒカルは愉悦の悲鳴を上げて全身を痙攣させながら果てる。その締め付けに、
伊角もきつく目をつぶり、ヒカルを抱きしめながら彼の奥に欲望を放ったのが、見ていた和谷にも
わかった。
目の前の出来事が信じられない。
呆然としたまま、和谷は彼ら二人がきつく抱き合いながら果てていくのを見ていた。
(12)
やがて伊角の身体がヒカルから離れ、彼が意識を失ったらしいヒカルをそっと横たえ、愛おしげに頬に
くちづけるのを、ただ、見ていた。
ヒカルの身体を覆うように脱ぎ捨てられていた単をかけてやり、伊角は自分もそそくさと衣を着込んだ。
そうしてやっと顔をあげて、立ち尽くしたままの和谷を見た。
「何…してるんだ、あんた達…」
ぼそりと零れた低い声に、伊角は瞬時に彼をヒカルとの関係を悟った。
何をしている?と問われて、返す言葉などなかった。言えるとすれば「見ての通り」としか言いようがない。
応えようがなくて、ただ、伊角は友人の顔を困ったように見返すしかできなかった。
信じられない、と言うような顔で自分を見ていた、和谷の視線がゆっくりと動いた。
ヒカルを見ている。自分との情交の果てに意識を失ったヒカルを。
蒼ざめた面は、ヒカルを見つめたまま今度はどす黒く血が上り、その顔が怒りに歪む。握り締めた拳が
小さく震えていた。まるでそれは和谷とヒカルの事に気付いてしまった自分自身を見るようで、微かな
哀れみを持って和谷の顔を見ていた伊角は、突然、はっとして、下らない感傷を捨て去り、叫んだ。
「やめろっ!」
「ヒカルっ!」
掴みかからんばかりの勢いでヒカルに突進しかけた和谷の前に伊角が立ちはだかる。その身体を押し
退けようとした和谷の腕を逆に掴んで、彼がこれ以上ヒカルに近寄るのをとどめようとした。
「何をするんだ!乱暴はやめろっ!」
「うるせぇ、あんたになんか、用はねぇ!」
ぎりっと和谷が伊角を睨み上げる。負けじと伊角も和谷を掴んだ手に力を込めて和谷を睨み返した。
「ん……な…に……?」
それはほんの微かな声だったが、二人は瞬時に振り向いて声の方を振り返った。
ヒカルは、目を擦りながら怠惰そうに身を起こし、ぼんやりとした眼差しはまず最初に伊角の顔を捕らえ、
ヒカルはほっとしたような笑みを浮かべた。その表情に、和谷の顔に血が上った。
けれどヒカルは目を動かして、もう一人、その隣いる人を認めて、また、笑った。
「和谷?今日も来たんだ。」
和谷を見てにっこりと微笑んだヒカルを見て、伊角と和谷と両者の顔から血の気が失せていく。
「どうしたの?」
不思議そうな顔でヒカルは二人の顔を順に見た。
「どうしたの、二人とも。なんか怖い顔して。」
(13)
「おまえ……どういう事だよ、コレ…!」
先に口を開く事ができたのは和谷の方だった。
「どういうって、何が?」
言っている意味がわからない、というように、ヒカルは首を傾げる。
「おまえ、何、呆けてるんだよ。」
カッとして、和谷はヒカルに掴みかかろうとした。
「おいっ!」
「やめろっ!」
その手を伊角がまた押しとどめる。
「乱暴なことはするな。」
止めに入った伊角を和谷はぎろりと睨み付けた。
「てめぇには関係ねぇ。」
ぎりぎりと火花が散るほどに睨み合う二人の後ろで、その緊張を断ち切るように、くしゅん、と小さく
くしゃみする音が聞こえた。
一瞬、出遅れた。
ヒカルの身体は伊角に抱き寄せられた。
「出て行け…!」
「…何だって?」
何の権利があって、そんな事を言う、そう言い返してやろうと思ったのに、抱き寄せられたまま伊角
の胸に身体を預けているヒカルに、猛烈な怒りを感じた。
「おい、何とか言えよ、ヒカルッ!」
が、伸ばしたその手を、伊角が振り払った。
「黙れ。」
鈍く光る目に睨み据えられて、一瞬たじろぐ。
「声を荒げるな。彼が怯えているじゃないか。」
ヒカルの華奢な肩を抱きしめたまま、伊角は和谷を睨み上げて、言った。
「彼にそんな暴力をふるうような人間を、近寄らせるわけには行かない。」
そうして腕の中の少年に、柔らかな声で言い聞かせる。
「もう、心配しなくていいから。おまえは俺が守ってやる。」
その光景に、和谷は怒りに目が眩みそうになる。
「出て行け…!」
(14)
「あの……」
後ろからかけたれた声に、和谷は打たれたように振り返る。
そして女房の目から室内の光景を隠すように、戸の前に立ちはだかる。
「来るな!」
そして乱暴に彼女の腕を掴んで、そこから引き剥がすように部屋の外に出る。
「え、でも…」
「いいから…!」
そうしてまだ部屋の方を気にする女房を無理矢理引き摺るように、和谷は歩き出す。
緊張に身体を強張らせながら、伊角はヒカルを抱きしめたまま、和谷が女房をこの部屋から引き離
してくれた事に感謝していた。
必死に何か言い募る女房の声と、きつい口調で彼女を咎める和谷の声が次第に遠ざかり、彼らの
声も物音も遠くやがては聞こえなくなって、伊角はやっと深く息を吐いた。
可哀想に、と思う。
前から彼のことが好きだったのだろうか。
それとも、自分と同じように「彼」の代わりを求められて、そのまま夢中になってしまったのだろうか。
どちらにしても、自分と同じように、彼もこの少年に溺れてしまっているのだろう。自分たちが抱き合っ
ているのを目にした時の、彼の目に浮かんだ暗い炎を思うと胸が痛む。ぎりりと奥歯を噛み締めて、
自分たちを殺しそうな勢いで睨みつけていた彼の、怒りがまだこの部屋に立ち込めているようだ。
あれは自分自身の姿であったかもしれないのだ。
それでも、先程の彼の振る舞いを思うと、やはり彼には任せられない、と思う。
今の彼には、かつてのような強さはないのだ。
僅かな風にも怯えるような、この頼りない存在を守れるのは自分しかいない、と思う。
あの友人が、どれ程彼を恋うていたところで、それと、彼を守りきれるかとは別だ。
あのように乱暴な言葉で、乱暴な振る舞いで、あれでは彼を更に怯えさせるだけだ。
昔の彼とは違うのだ。今の彼は、弱く、脆く傷付きやすく、だから彼がこれ以上傷つく事の無いように
風にも晒さぬように、誰かが抱え込んで守ってやらねばならぬのだ。
(15)
それとも。
ズッと胸の底で何かが蠢くのを感じる。
あのように乱暴に、強引に、彼を抱くのか。抱いたのか。
このか弱く儚い存在を、無力さをよいことに、踏み躙ったのか。
いや、きっとそうに違いない。
嫌だと拒む声を無視して、逃げる力もない彼を強引に捉えて、その身体を引き裂いたのか。
悲しみに付け込んで彼をいいように扱ったのか。
ありえない事ではない、と伊角は思う。
彼はいつもそうだ。
抑えるべき時と所でも、己を抑えるということをしない。
素直で正直とも言えるような彼の直情さは、ある意味、彼の美点でもあり、動くよりも先にまず考え
込んでしまう自分は、時としてそれを羨んだこともあった。だが彼との事を考えると、自分の想像も
あながち誤っていないのではないかと思う。
その証に、彼は先程も、こんなにも怯えている少年に掴みかからんばかりではなかったか。
許せない。
あのように乱暴に彼の身体を扱ったのか。歯向かう力さえ持たぬこのか弱い存在を、力任せに強引
に犯したのか。
目に浮かぶようだ。
友人の優しさを信じて無邪気に儚げに笑う少年に、その笑顔に邪まな情欲を燃やされて、欲望のまま
に少年の身体を押し倒す、かつては親しかった友人の姿が。
暗い妄想に、目の底がぎらりと光った事に、伊角は気付いていない。
湧き上がる熱を、彼は怒りと解釈した。
親しい友人だと思っていた人間が、か弱く儚げな少年を強引に犯している。
怒りを滾らせながら、彼はその妄想に浸った。
(16)
彼らは親しげに会話を交わしている。
けれど、ふと会話が途絶えると、少年は目の前の友人でなく、どこか遠くを見ている。
視線を引き戻すように肩を掴んでこちらを向かせる。
視線が絡み合う。
けれど少年は目の前の友人ではなく、彼を通り越して逝ってしまった想い人の姿を探す。
自分を見ない少年に怒りがこみ上げる。
けれど、手にした肩の細さに、虚ろな大きな瞳に、儚げなその姿に、怒りと共に別の感情がひたひたと
胸に寄せてくる。それは無理矢理にでもこの目を己に向かせようという強烈な情念だ。
虚ろに中空に視線を投げやっていた少年は、突如、目の前の友人の暗い欲望に気付き、そこから逃げ
ようと身体を浮かす。その腕を掴んで引きとめると、彼の身体が横倒しに床に倒れる。
そのまま逃げようとする身体を後ろから掴まえる。
「嫌だ、やめて!」
拒む言葉など耳にも留めず、身体を押さえつけ、衣を引き裂く。
あらわにされた白い背に、ぞくりと震えを感じる。
暴れる身体をものともせず身に纏っていたものを全て剥ぎ取り、仰向けに四肢を押さえつける。
「どうして……」
彼は、信じられない、と言った目でこちらを見ている。
怯えの混じった眼差しに、情欲を煽られる。
逃がしはしない。
騙されるものか。
何も知らぬ、稚い子供のような顔をして、無力な子供が助けを求めるようなふりをして、男を誘う。
そうやって幾人の男を己の闇に引き摺りこんできたのだ。
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