指話 9
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そして突然、父が囲碁界から現役引退を表明した。
周囲の驚きと心配をよそに、父は、あくまで穏やかで普段のままだった。
その予感はあった。その日の朝、対局の後の父の言葉。
―これからは、私よりもお前の周囲の者から学ぶべき事が多くなるだろう…。
ボクは無言でいた。…進藤から、学べというのですか、お父さん…。
父もまたきっと、saiは進藤であると見抜いている。でも父にとって今やsaiの正体など
そんな事はとるに足らない小事なのだ。この世にはまだまだ面白い打ち手がいる。
そして自分の碁も、まだまだ変化していくのだと。父の興味は新しいものへ向かっている。
そんな父に、もう一人戸惑う者が居た。あの人だ。
囲碁界に新しい波がもうそこまで来ていると断言した、その当人の師匠が率先して
若い者に道を譲った。そう解釈する輩も当然いるだろう。そういう人達のあの人を
見る目は今後さらに好奇と厳しさを帯びるはずだ。
だが父の意識はもっと別の次元にある。もっとシンプルなものだ。だが、
嫌がおうにも父に替わって塔矢門下の現実的な看板の重みが、彼の肩にかかる。
直後に何人もの関係者が父の元を訪れ、いろいろ今後の事を話し合っていった。
あの人は数日遅れてやって来た。母が玄関に出迎えに言ったが、ボクは出ていけなかった。
父の部屋で、あの人はずいぶん長く父と話をしていた。
ボクは部屋から離れた廊下に立ち、庭を眺めていた。
…進藤が変えていく…いろんなものを…ボクの周囲の多くのものを…。
進藤にはその魅力がある。彼と打った者は、なんらかの影響を受ける。おそらく父が
一番影響を受けた事になる。対戦者に対し何の偏見も先入観も持たない父だからこそ。
―おかしなものだな…。
気が付くと、音もなくその人がすぐ後ろに立っていた。
―最近、塔矢先生と進藤が似ていると感じることがあるよ…。
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