天涯硝子 9
(9)
駅のホームに降り、人の流れに合わせて階段を下りる。
改札口を出る前に、ヒカルは胸の高鳴りを抑えようと深呼吸をした。
人波が過ぎ、構内を見渡せるようになると改札の外に冴木の姿を見つけた。
冴木と会うのは水曜の朝、棋院会館の玄関で別れて以来、三日振りだ。
「…冴木さん!」
冴木が片手を上げて応える。
ヒカルはまっすぐに冴木に駆け寄り、子供がするようにその胸に抱きついた。
「…進藤」
顔を覗き込まれるとヒカルは照れくさそうに笑い、2、3歩後退ると冴木と視線を合わせた。
ヒカルが座席の上で俯せになって果てたあと、冴木はすくい上げるようにしてヒカルを抱きかかえ、膝の上に座らせた。
後しろからヒカルを抱きいたまま、身体を傾けてルームライトを点けると、
「…何だ、ライトつくんだ…」
明るくなった車内に瞳を巡らせ、ヒカルはつぶやいた。
−−あの夜の、あの場所でのことで覚えているのはここまでだ。
その後、冴木と何を話したのかも、どうやって服を着たのかも覚えていない。
走る車の振動に目を開けると、助手席に横になっている自分に気づいた。
街頭の灯りが規則的に流れて行くのが見える。
その灯りに浮かび上がっては消える冴木の横顔を、ヒカルはぼんやりと見詰めた。
次には冴木に揺り起こされた。
「起きられるか?」
ヒカルはのろのろと起き上がった。身体がぎしぎしと痛む。
「…ここ、どこ?」
ひどく喉が渇き、声がかすれている。
「俺の部屋に行くんだよ。そのままじゃ、帰せないから」
ヒカルは冴木に抱きかかえられるようにして、車から降りた。
身体がだるく思うように歩けない。腰から下の感覚が乏しく、どこか痺れているようだ。
冷たい汗がしたたり落ち、だんだん不安になってくる。
歩くのがつらく、情けなさが募ってくるとヒカルは思わず、もうここに置いて行って欲しいと冴木に泣きついた。
冴木はごめんなとヒカルの頭を撫で、軽いヒカルを抱き上げて歩いた。
身体がこんなに痛まなければ、冴木の部屋までの距離はそんなにないのに、
その夜のヒカルには、例え抱き上げられていても冴木に揺られて行く道程はつらかった。
部屋に着き、灯りがともされる。昼間の暑さが部屋にこもっていた。
和谷たちと何度か来たことのある冴木の部屋は、相変わらず殺風景だ。
奧のベッドにもたれ掛かるようにして座らされ、
「家に連絡しておいた方がいい。俺のとこに泊まるって 」と、
電話機の子機を渡された。
ヒカルは頷き、冴木に渡された冷たい水を飲んでから家に電話を入れた。
冴木が窓を開けると夜の涼しい風が流れ込んで来る。
「…お母さん? 遅くなってゴメン。今日、冴木さんのとこに泊まるから…。
うん、明日の手合いは冴木さんのとこから行くよ。…うん、言っとく。…うん」
電話機を冴木に返そうとヒカルが振り向くと、冴木は2杯目の水を持ち、驚いた顔をして立っていた。
「進藤、おまえ、明日…手合いがあるのか?」
「…うん」
ヒカルにコップを渡し、隣に座ると頭をおおげさに頭を抱えた。
「…もっと早く言ってくれ…」
「あれ? 言わなかったっけ?」
あっけらかんとヒカルが答えると冴木にぐいと抱き寄せられた。
「あー、冴木さん。水、こぼしちゃったよ…」
「…今夜はさ、一晩中おまえを抱いていようと思ってたのに…」
ヒカルは改めて、冴木の顔を見た。見たと思ったら、そのまま口付けされた。
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