平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 91 - 94
(91)
風は北から吹いている。
その乾いた風に、ヒカルの髪がぱらぱらと音を立てた。
川の音がサラサラと、心地よく耳元をくすぐる音を聞きながら、ヒカルは賀茂の
屋敷の方角へと足を運んだ。
かの屋敷は川に近い。そのせいか、目的の場所が近づくにつれて、空気が湿り気
を帯びてくる。
夕刻をすぎて、通りに人影はなく、紫色の空気の中を痩せこけた犬だけが一頭、
ゆっくりした足取りで家と家との間に消えていった。
家々の向こうに姿を現した川の水面は、夕闇を映し、さざ波だって、細やかな
唐渡りの布の刺繍のように、規則的で美しい波模様を織り上げている。
しかし河辺では、最近嫌な目にあったばかりなので、それに見入ることもなく
ヒカルは目をそらしたまま橋を通り過ぎた。
少し歩くと大きな楠の影に、築地塀が見えた。
そこがまさに目指す屋敷だったのだが、ヒカルは、その場所の異様な気配に
足をとめた。
この家は、以前からこんな空気をまとっていただろうか?
ヒカルは、賀茂の家の、まるで寺社の境内にいるような清浄な空気が好き
だった。その中にいると、まるで自分の感覚まで澄み渡る気がしたものだ。
だが、今は。
目の前にした門は、そこだけ紫の空から切り取られたように黒々と立ち、道に
どこか不吉な感じのする濃い影を落としている。
一丈の高さもないはずの門がひどく大きく見えた。
胸が騒ぐ。それはヒカルの中における、賀茂アキラの友人としての部分より、
検非違使としての…剣士としての部分の琴線を揺らして、ヒカルは無意識に
太刀の柄に右手を置いていた。
門の外から大声で賀茂の名を呼ぶが返事はない。
強引に門扉を押しあけようとすると不思議なことに、まるで中から誰かがあけたかの
ごとく、パタリとその扉が口をあけた。
闇が中からヒカルを招いていた。
どう考えても尋常ではない気配にヒカルは、胸を打つ鼓動の間隔が短くなるのを
感じながら、屋敷に足を踏み入れた。
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空気が重い。信じられないほどに。
闇をかき分けるようにして、狭い庭をつっきり、建物にたどりつく。
建物は蔀戸がすべて降ろされていて、まるでそのまま誰かを閉じこめる檻のよう
だった。
ぎしりと音をさせて階(きざはし)から廊下へと足を踏み入れる。
もう一度、この屋敷の中にいるはずの友人の存在をたしかめようと、その名を口に
乗せようとした時だ。
暗い廊下の奥から、誰かがヒカルを見ていた。賀茂アキラではない。緑に光る
目が二つ。
それは、わずか一瞬だけヒカルと視線を絡ませると、家屋の奥の闇へと消えた。
まるで誘うように緑の光が光跡を描いた。
ヒカルは緑の光を追う。
途中、光を見失ったが、ヒカルがもたもたしていると、その緑の光はもどってきて、
「ニャア」とないた。
明らかにヒカルを待って、導いているのだ。
ヒカルは賀茂の家の廊下を、緑の宝石のようなそれを追って奔る。
賀茂の家の間取りは知っていたし、たいして大きな屋敷でもなかったはずが、
まるで夜中に知らない山中を延々とひとりで走っているような錯覚に捕らわれた。
いったいもうどれくらい走ったんだ、もう一里ほども来てしまったのではないか
と疑問に思い始めた頃、ヒカルはようやっと、賀茂アキラが普段使いしている
部屋にたどりついた。
馬鹿馬鹿しい! 入り口からここまでは五丈もないはずだ。
ヒカルが追ってきた緑の流れ星は光の尾を引きながらその部屋に入っていった。
躊躇することなく、ヒカルは目の前の 御簾をはね上げる。
「賀茂!」
目に入ったのは、真っ暗な部屋に立てられた白い絹の几帳と白い腕。
それは、この暗闇の中でぬめぬめと不気味に明るく浮き上がっていた。
その光景に一瞬だけ足を止めたヒカルだったが、すぐに自分をとりもどし、
几帳の向こうに回り込む。
案の定、そこに白い腕を投げ出して倒れていたのはアキラだった。
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「おい!」
慌てて、彼を助け起こしたヒカルは、その体の冷たさにぞっとした。
氷のように冷えきった頬に、自分の体温を移すようにヒカルは何度もその
頬をさすった。
「賀茂、しっかりしろよ、おい、賀茂っ!」
目を閉じてピクリとも動かないアキラの足元には、ヒカルの追いかけて
きた猫がいる。
今、ヒカルが追ってきた緑の光は、こいつの瞳の色だ。
――否。それは猫ではない。
なぜなら、その生物の顔は人の形をしていたからだ。体は確かに尾の長い猫
だったが、顔は年を取った人の男の面相だった。顔はこちらを剥いて口の
端をあげて笑った。
「…くっ」
その表情がひどく気に障って、ヒカルは、袖を翻して太刀を抜き、その生物を
床に縫い付けるように串刺しにした……かに思えた。しかし刹那、猫の姿は掻き
消えて、太刀だけがタンっと音をたてて、床にその切っ先を突き立てた。
ヒカルは太刀の刃を返してもう一度、その猫のようなものに切りかかるが、
ひらりひらりとかわされる。
まるで風にまう落ち葉を斬り伏せようとしているようだ。
「ニャア」
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上から声が落ちた。人の顔をした猫が、今度は梁の上から、黄緑色の瞳でヒカルを
見ていた。
「…の野郎!」
床に刃先をうずめたままの太刀を引き抜き、その猫に向かってもう一度構えを
とったヒカルの狩衣の後ろを何かが引っ張った。振り返って見れば、それは
黒と白のまだらの鶏――六本足の。さすがにゾッとして、部屋を見渡せば、
あちこちに何か白いふわふわした頼りなげな光のようなものがたゆたっていて、
更に目をこらしてその正体を見極めようとすれば、それらは、次々とあやふやな
中から異形の形を表して、ヒカルの事を見上げているではないか。
あるものは巨大な蟲になり、あるものは人面の獣となり。
さながら、百鬼夜行。
ヒカルが刀で振り払うと、彼らはするりとその場所から姿を消して、また違う
場所に現れてはヒカルをじっと見つめる。
なんともきりのない格闘を異形達と繰り広げながら、ヒカルは腕に抱いた
賀茂アキラの体を強く抱え込んだ。
(なんで、こんな事になってんだよ!)
さて、どうやって彼を屋敷の外に連れ出すか。
「俺が絶対に守ってやるからな」
誰も答えるはずがないと思っていた、その独り言の様な言葉に、意外にも
答えが返った。
「無理だよ」
ヒカルは、アキラの顔を見た。
暗闇の中、アキラが僅かに細く目を開けてこちらを眺めていた。青白い肌の
色が死人のようだ。
「君には無理だ」
アキラは声をたてて笑った。
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