裏階段 ヒカル編 91 - 95
(91)
アキラにも感じているところがあったのだろう。
夕べのキスや愛撫が、もう愛情の垣根を超えて自分に与えられる事がないと言う事を。
ようやくアキラもオレを手放してもいいと思ってくれたのかもしれない。
このまま歪んでいた互いの距離感が調整できる兆しが見えてきていた。
最初にオレが病室を訪れた時に交わした会話を、先生は覚えていないようだった。
だがあれが先生の本心だとしたら、
先生が少しもアキラの事でオレの事を疑っていないのであれば
オレはそれに応えていくべきだと思った。
その時は、自分のその行動がどれだけその後の先生の生き方を変える事になるとは
夢にも思っていなかった。
石には役割というものがある。
自分が生きるという役目と、他を生かすという役目が。
単独では生ききれない。常に接し、あるいは離れた場所で支え合う。
そしてある時は他を生かすために、自ら死地へと向かうこともある。
遥か高みからの意志によりそれは冷徹に、残酷に担わされるのだ。
その時のオレは確かにその役を負っていた。
布石として配された石がそうして結びついていった。
先生とsaiの直接対決と言うかたちへ。
(92)
夕食をとる場所を探していて、国道から一本入った小さな町の中で碁会所の看板を
見つけたのは進藤だった。
店内に入ると、かなりの高齢の老婦人が1人入り口に座っているだけだった。
席亭というわけではない、留守番がわりなのだろう。地元の人間以外の見知らぬ客に一瞬
躊躇したようだが、
「おばあちゃん、ちょっと打ってっていいかな」
という進藤の明るい笑顔につられて老婦人もにっこり微笑み返す。
手前に机と椅子、奥に靴を脱いで上がる座ぶとんの座敷きになっていて、進藤は迷わず奥を選ぶ。
料金を払って畳の座布団の上に座ると、進藤がホッとひと心地ついた顔になった。
老婦人がすぐにお茶を煎れて運んで来てくれた。地元のものらしい、柿の干菓子のようなものが
添えられていた。
「オレがニギろう」
そう言って碁笥の中の白石のいくつかを指の中に収める。進藤が一つの黒石を置く。
先までの疲れた表情はもはや消えている。
(93)
公式戦で進藤とあたった事はまだなかった。
碁会所で時々顔を合わせる事はあったが、互いに対局を持ちかけることはなかった。
棋院の一般客も打つ場所で進藤は時々誰かと手合わせをしているようだった。
同じプロ棋士であったり、かなり年の離れたアマチュアだったりするらしい。時には
年下の院生の相手も積極的に引き受け、師範代を感心させていた。
それでも今回も進藤の方から「打とうよ」と言われた時は少し意外な気がした。
大した意味はないのだろう。打てる場所があり相手が居れば始める。たまたまその相手が
オレしかいなかっただけで。ただそれだけなのだ。
「いいのか?」
碁打ちでありながら間抜けな反応をしてしまった。
「うん。打ちたいんだ、オレ」
「…オレでいいのか?」
「まあたー、変だよ、緒方先生」
そう言って進藤は可笑しそうに笑った。
道中いくらでも他の遊技施設はあった。だが彼の視界には入らなかった。
その施設前で目的も無く寄り添いあい路傍に座り込んでいる少年少女らと、アキラや彼と
何が違うのか、何から違ったのかはわからない。
誰が想像出来るだろう。シートを深く倒しネコのようにだらしなくもたれ掛かっている
この少年が、連日自分の倍以上の年令を重ねた者らとの火を放つような鮮烈な対局をこなし
渡り合っているなどと。
(94)
先生の病室に進藤がやって来た時は、やはり違和感があった。
進藤の年頃で、それほど好ましい関係であったとは言い難い友だちの親の見舞いに足が
向くだろうか。
そして進藤の表情は生涯のライバルを気遣うような思いつめたものがあった。
身の程知らずの子供が先生をそういう自分の相手として設定し一方的に心配していやがる。
まあ、その気負いだけは評価してやろうと多少意地悪な感じ方をした程度だった。
まさに今、先生と火花を散らし戦っている真只中に居るのはこのオレだという自負があった。
さして深く考えずその時は進藤だけを病室に残して、同じ見舞客であった市河嬢と碁会所の常連と
そこを出た。そして彼等から、以前進藤がネットカフェにいたという話を聞かされた。
そしてアキラがそのネットカフェに進藤を追いに飛び出していったという話と。
―『ネット碁、打つんだ…』
病室にあった先生のノートPCを見て進藤はそう呟いていた。
saiと進藤。だがいざ具体的にその可能性があるかどうか突き付けられると、オレの中では
答えが出ている事になる。その可能性はない、進藤はsaiではないというもので、
せいぜいsaiに通じる気迫を感じるという程度だ。
そう思っていても胸騒ぎがする。
自室のPCの前に座り取り留めも無い考えに意識が浮遊する。
「…今は…十段戦の事だけを考えるべきだ…」
努めて冷静であろうと努力した。
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そんな中での第四局を結局は落としてしまった。
その日、先生と顔を合わした瞬間に予感するものがあった。
先生の表情はいたって穏やかだが揺るぎないものを感じて普段よりさらにひと回り
大きく感じるその存在感に押された。
脅威を抱いた反面、嬉しかった。この対局に賭ける先生の意志を感じたのだ。
オレとの真正面の戦いを、先生も心待ちに望み楽しんでくれているのだと。
石を置く度に体の芯が熱くなり、指先が震えた。
怖れからでは無い。盤上での先生との意識の交感にオレは酔った。
肉体が触れあうよりも深く快楽を得られる瞬間だ。
そんな自分と同じ場所に居てくれるものと信じて先生の表情を見た。
その時、何か一つ、それこそほんの一目先生に届かない距離感を感じた。
先生が見つめているものがそこにはないような気がしたのだ。
一瞬カッとなる程頭の中が熱くなり、そして冷えていった。急激にオレの中で
何かが萎んでいった。
気のせいだ。あまりに先生の攻守が絶妙で気後れが出たのだ。
そう自分に言い聞かせようとしたが一度後手に回ると先生はそれを見逃してはくれなかった。
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