誘惑 第一部 91 - 95
(91)
差し伸べられた手を取って、アキラを立ちあがらせた。
少しだけアキラの方が背が高くて、立って並ぶと心持ち、ヒカルの目はアキラの目を見上げる。
頬に落ちる黒髪をかきあげるように手を差し入れ、顔を両手で挟んでそっと唇を重ねた。
少しずつ位置をずらしながらついばむようなキスをし、それから、唇の輪郭を確かめるように舌先で
アキラの唇をなぞると、待ちきれずにアキラの舌がヒカルの舌を舐めるように動く。
塔矢のキスは甘い。唇や、口の中に味なんかないはずなのに、いつもほのかに甘く感じる。
吐く息も汗の匂いも、何もかも甘いような気がする。
ヒカルはうっとりと甘やかなアキラの唇を味わった。手に触れる頬は滑らかですべすべしていて、加賀
の少しざらっとした肌触りとは全然違う。唇の厚みも、弾力も、その中の温度も。全然違う。
この、熱さが好きだ。手にさらさらとかかる髪が好きだ。甘く漏れる吐息が、その声が好きだ。
が、アキラを味わうヒカルの腕の下で、突然、アキラの身体が強ばった。目を開いてアキラを見ると、
なじるような目付きで、アキラがヒカルを見ていた。
「とう…」
「今、誰の事を考えていた?」
濡れた瞳が光っている。
「それは、誰のキス?ボクが気が付かないとでも思うの?」
ヒカルの身体も同じように強ばり、息を飲んでアキラを見つめた。
アキラがヒカルから離れるように頭を引くと、壁に軽くぶつかった。ヒカルの手がアキラの頭から離れる。
アキラはヒカルを見据えたまま壁に張り付いた。
さっきまでの甘い空気はもうどこにもない。さっきまで、ぴったりと寄り添ってお互いの体温を感じていた
のに、もう触れているところはどこもない。こんなに近くにいるのに、とてつもなく遠くに感じてしまう。
どこで、誰からそんなキスを覚えてきたんだと、詰問するようにアキラがヒカルを見据えている。
「そうだよ。」
視線をそらさずに、ヒカルは答えた。
「そうだよ。オレ、おまえ以外のヤツとキスした。おまえ以外のヤツと寝た。」
(92)
アキラの目が驚愕に見開かれる。
「どういう…ことだ…」
「言った通りだ。おまえ以外のヤツと寝た。」
「な…んで、そんな…」
今、彼は何て言った?
足元が定まらない。頭がぐらぐらする。
誰と何をしたって?ボク以外の誰と?誰が?
「わかってる…ボクに、キミを責める権利なんてないって事…わかってる…だけど…」
誰かが…進藤を抱いている…?
誰か、ボクじゃない、ボクの知らない誰かが。
ボクだけしか知らないはずの、あの滑らかな肌に誰かが触れたのか?
美しいラインを描くあの背中に、誰かがくちづけたのか?
ボクが愛して、焦がれてやまないこの身体に、この肌に、別の誰かが触れて、くちづけして、
そして、それにキミは応えたのか?ボクしか知らないあの声を、他の誰かにも聞かせたのか?
ボクしか知らないはずのキミの身体を、乱れた姿を、他の誰かに見せたのか?
ああ、気が狂いそうだ。
わかってる。ボクがこんな事を言える立場じゃないって事は。でも。それでも。
イヤだ。そんなのはイヤだ。キミはボクだけのもの。そうじゃなかったのか?
他の誰にもキミを触らせたくなんかない。それなのに。
それなのにキミの方からそいつに抱きついたりしたのか?
その唇で、そいつに触れたりしたのか?
別の男のモノを受け入れたのか?
胸が焼きつく。頭がガンガンする。
(93)
ヒカルの両腕を掴んで、責めるように訊いた。
「誰…だよ?相手は誰だ!?」
「きっと、おまえは知らない。中学ん時の先輩だ。」
「どうして、どうしてそんな事…」
「許さないって、そう言うつもり?」
冷静なヒカルの声にアキラが怯む。
そんな事を言えた立場でないことはわかっている。だから何も言えない。
けれど口に出さなくても、きっとそう思ってしまっている事は進藤にも通じているんだろう。
でも、だって、許せるはずが無いじゃないか。
「でもオレはおまえに許してもらわなきゃいけない事をしたとは思わない。
それにオレの事はオレが決める。おまえが許さないと言っても。
でも…オレが加賀と寝たのはおまえが好きだからだ。おまえの事を知りたかったからだ。」
「加賀?それがそいつの名前なのか?そいつが好きなのか?」
「好きだよ。好きだけど、おまえを好きなのとは違う。
オレが好きなのは、特別に好きなのは、おまえだ。おまえだけだ。オレの特別はおまえだけだ、塔矢。」
「それなら、どうして!」
「おまえの事が知りたかったからだ。」
「どうして!どうして他の男と寝る事がボクを知る事になるんだ!」
「わからないのか?塔矢。」
「ボクが緒方さんに抱かれたから?それで?ボクが浮気したから浮気返し?」
「塔矢!」
「それともボクよりもそいつの方が好きだから…?そうなのか?進藤!?」
「塔矢っ!!」
「ボクがもう嫌いにになったって言うんなら、そう言えよ!
他のヤツが好きだって言うんなら、正直にそう言えよ!!」
「そんな事、言ってないだろ!オレの話を聞けよ!!」
「嫌だ。聞きたくない。これ以上、聞くことなんて無い!!」
(94)
「おまえ、勝手だよ。」
ヒカルはアキラを睨みつけて、低い声で言った。
「勝手だよ。じゃあ、オレは今まで平気だとでも思ってたのかよ。
オレとの前の事だって、オレがどんな風に思ってたのかなんて。考えもしなかったんだろう。
オレが、どんな気持ちでいたのかなんて。
許せないだって?許せないのはこっちの方だよ。
なんで今更緒方なんだよ?おまえはオレを選んだんじゃなかったのかよ?」
掴まれていた手を振り払って、逆にアキラの肩を捕まえる。
「ふざけんなよ。いつだっておまえばっかり好き勝手やって、
そうかと思えば和谷を誘惑してみたりして、あいつはオレの友達なのに。
オレの親友だったのに。おまえの…おまえのせいで、あいつとだって、喧嘩しちゃったじゃないか!
どうしてなんだよ。あいつの事、好きでもないくせに、どうしてあいつとあんな事できたんだよ?」
「あんな事って、あれか?あんなセックスの内にも入らないような事?」
嘲るような言い方に、ヒカルは逆上する。
「なんだよ、その言い方…!やった事には変わりないだろう!?
無理矢理だろうと何だろうと、オレが好きなんだったら平気で他の男にやられるなよ!抵抗しろよ!
何で…何であいつから、全然嫌がってなかったなんて、聞かされなきゃいけないんだよ!!」
「それが何だよ。」
開き直ったような口ぶりでアキラが言った。
「…塔矢?」
「…なんにも知らないくせに。
抵抗しろだって?よく言えるね、そんな事。そんな事が何になるって言うんだ。
知らないくせに。無理強いされるのが、強姦されるのがどんなだって事だか、知らないくせに。
抵抗し続けて痛い目にあうくらいだったら、こっちから仕掛けてやったほうがよっぽどマシだ!」
(95)
アキラの目の暗い光に、ヒカルはゾクリとした。こんなアキラを見たことがなかった。
「優しく扱われたことしかないくせに。手荒にされたことなんてないくせに。キミに何が分かるって
言うんだ。キミは誰かに嫌われたことなんてないんだろうね。理由もなく嫌われて、何もしてない
はずの相手から険悪な目で睨まれる時の気持ちなんて、キミには想像もつかないんだろうね。
そんな奴のことを、キミの友達だろうが何だろうが、何を気遣う必要なんかあるんだ。
ああ、あいつを誘惑したのはボクだよ。
煽ってやったよ。からかってやったよ。
ふざけるなって言ってやりたかったからさ。
それなのにボクを好きだって?それこそ、ふざけるな、だ。
何が好きだ。ずっと好きだったの、憧れてたの、馬鹿馬鹿しくて聞いてられなかったよ。
ふん、『おまえが好きだ、だから…』って?だから、何だって言うんだ。
セックスはおろか、キスのやり方も知らないようなガキのくせにボクに手を出そうなんて、図々しい。
こっちから誘導してやんなきゃどうしたらいいかもわかんないみたいだったから、教えてやったよ。
それが何だって言うんだ。」
「和谷のこと、好きでもなんでもないのに、そうやって煽って、あいつに抱かれたって言うのか…?」
「あんな奴に『抱かれた』覚えなんかないね。
大体、好きか嫌いかなんて関係ないよ。征服するか、されるかだ。支配するか、されるかだ。
好きとか嫌いとかだけでセックスを語れるなんて、キミは幸せだよ。
知らないくせに。
力ずくで無理矢理やられるって事がどんな事だか、どれ程屈辱的で恐ろしい事なのか。
だったらやられる前にやり返してやる。こっちから仕掛けてやればこっちの勝ちだ。
溺れる前に溺れさせてやればこっちの勝ちだ。相手の気持ちなんて知ったことか。
そもそもこっちの気持ちも考えないのは向こうのほうが先だ。
好きだなんて気持ち、勝手に押し付けられたって迷惑なだけだ…!」
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