平安幻想異聞録-異聞- 91 - 95
(91)
その日の朝、出仕する佐為を迎えに来たのは、片桐という青年検非違使だった。
聞けば検非違使庁から、今日から近衛ヒカルのかわりに佐為殿の警護をするようにと
申しつかったという。
(どういう事なのだろう?このところヒカルはあの騒ぎせいで病欠が続いたから、
そのせいだろうか)
一昨日、賀茂家の屋敷にヒカルを預けたが、アキラからもヒカルからも
それきり連絡がない。
昨日なんの音沙汰もないのに焦れて、仕事のある自分に代わり、人を使いにやった。
使いにやったその者は、賀茂邸の扉はきつく閉ざされ、人の気配がしなかった
と佐為に伝えた。
佐為はそれをけげんに感じたが、
(何か祓いの儀式などの最中なのかもしれない、何かあったら賀茂殿が
連絡をよこすはず)
佐為は賀茂アキラの力を信用していたし、陰陽道では、大きな祓いの儀式をする時は、
そういった人払いをすることがあるのも知っていたから、とにかく一日静観していた。
その時は、佐為自身も、その一日の静観が大きな取り返しのつかないものになろうとは
思いもしなかったが。
そして今日、ヒカルの身を案じながら気もそぞろに内裏に出仕し、そこであの
信じられない光景を見たのである。
帝の囲碁指南にもろくに身が入らず、
「そのように、上の空であるなら、もうよい!」と叱責を受けた。
碁を打っていて、こんなことなど初めてだった。
帰り道、内裏の廊下を歩いていても、女房達のうわさ話が耳に入る。
更にその途中で呼び止められ、この噂の真相について、藤原行洋に申し開きに
行かなければならなくなった。
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散々な一日だ。
いつもなら、このような心無い噂話を耳にして自分が心揺らすとき、傍らには
常にあの検非違使の少年がいて、「平気平気」と笑ってくれた。
その彼が、今日はいない。今は、あの座間の元にいるのだ。
今さらながら、自分がいかにあの少年がこちらにむけてくれる笑顔を心の糧に
していたかを思いさらされる。
そして突然、佐為は、自分がこうも心揺らしているのは、ヒカルが裏切ったからでは
ないことに思い当たった。
自分がこんなに傷付いているのは、ヒカルが何も相談してくれなかったからだ。
そして、そのヒカルが、今、座間の元でどんな仕打ちを受けているかと心配になる
からだ。
おそらく、座間が表立って藤原一派にぶつけることのできない嫉みと怨嗟を一身に
受けているのではないだろうか。
今朝、通りすがったときに見た、ヒカルの左手首の新しい怪我の痕が思い出された。
手当ての為にまかれたらしい布に、血が滲んでいた。
あんな傷は二日前に別れた時にはなかったはずだ。
佐為は、その夜ひとり、賀茂アキラの屋敷に向かった。
戸を叩いても人の気配がない。
そっと木戸を押してみると開いていたので、中に失礼して入らせてもらった。
屋敷の中に上がらせてもらう。
ここも錠がかかっていない。
「アキラ殿、おられるのか?」
不審に思いながら、廊下を奥へ進むと、その突き当たって曲がった先に、
賀茂アキラが倒れていた。
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佐為は大慌てで、廊下の中ほどにうつぶせに倒れる賀茂アキラに駆け寄った。
呼吸を確かめる。大分早い。おまけに熱い。
「アキラ殿!アキラ殿! しっかりして下さい!」
とりあえず寝所に運ばねばと、そのぐったりした体を抱え上げると、
アキラが目を覚ました。
「近衛が…」
自分を抱き上げる佐為の姿を認めてのアキラの第一声はそれだった。
「佐為殿、近衛が…」
「おだまりなさい、アキラ殿。その話は後でゆっくり聞きましょう。
とりあえず、あなたの寝所はどこです?」
有無を言わさぬ、佐為の厳しさの混じった口調に、アキラは寝所の場所を
つぶやいて教えた。佐為はその部屋へ行き、1回アキラを降ろしてから寝床を
整えると、あらためてそこにアキラを寝かしつけた。
アキラの手が傷だらけになっているのに気付く。今日、内裏で会ったヒカル
も腕に怪我をしていた。
「佐為殿、僕は…、近衛が……」
うわごとのように擦れた声でつぶやくアキラを佐為が制する。
「そのような状態では、いったい何が起こったのか、順序立てて
私に説明することも出来ないでしょう? アキラ殿。まずは、あなたの
体調を戻すのが先です。私もそれまでは、どういう事がここで起こったのか、
聞くことはしますまい」
佐為はそう言って、さらに熱冷ましの薬などがしまってある場所を問う。
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それにアキラはゆるく首をふって、その必要はないと断った。
佐為が、なおもアキラに薬の必要性を説こうとすると、ふいに部屋に
一陣の風が吹き、となりにいつの間にか、一人のわらわが立っていた。
短く禿刈りに切りそろえられた色の薄い髪。なんのつもりなのか、
その幼さで瀟洒な眼鏡などかけている。
それが、どこからか持って来たらしい薬を、アキラの枕元に置いた。
驚く間もなく、その童は幻のように消え去ると、今度はそれと入れ替わるように、
部屋の入り口に、白湯を載せた盆を手にした、豊かな黒髪の美しい女房が立っていた。
趣味のいい襲ねの色をした十二単の裾を引きずりながら、部屋の中に入り、
アキラの枕元に膝をつく。
ゆったりとした動作でアキラの体を助け起こすと、持って来た白湯で、
先ほどの少年が持って来た薬をアキラに飲ませる。
このように身の回りの世話をする女房など、いつのまに雇ったのだろうと、
佐為が不思議に思いながらそれを眺めていると、薬を飲ませ終わり、立ち上がった
女房はそのまま廊下に出、これもまた、瞬きする間に霧が霧散するように
かき消えてしまった。
唖然とする佐為の耳に、アキラの声が届く。
「身の回りの世話を式神たちにさせると、近衛が怒るので、最近は控えていたのですが…」
「アキラ殿」
アキラはそのまま目を閉じると昏倒するように眠ってしまった。
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賀茂アキラが目を覚ましたのは、それから一刻ほどしてからだった。
佐為は薬を飲んでから、見る間にアキラの呼吸が穏やかになっていくのに
目を見張りながら、その寝床のそばにその間じっと座していた。
目を覚まして一番にアキラがしたことは、布団をよけ、板の間の上に正座をして
両手を突き、佐為に深々と頭を下げることだった。
「佐為殿、申し訳ありません。大口を叩いたうえに、あなたに近衛の事を
託されたにもかかわらず、このていたらくです」
そう言って、アキラは一昨日の晩に起きたことを、佐為に話し始めた。
かの異形に結界を破られたこと、ヒカルをその魔手から救うことができなかったこと。
ヒカルの足に刻まれた『印』のこと。
蠱毒の元凶となる壺を探すために式神を飛ばし、そこで力を使い果たして
寝入ってしまったこと。
目がさめると、近衛ヒカルの姿が消えていたこと。
「僕の着物でなくなっているものがあったので、外に行ったのかと、あわてて
探しに出ようとしましたが、その途中で突然、手足がしびれて自由が利かなく
なりました。おそらく、異形の噛みつかれた傷からやつらの瘴気が入り込み、
時間をかけて体を巡ったのでしょう。とんだ無様な様をお見せしてしまいました」
常のアキラなら、すぐに自分の体の変調に気付き、なんらかの対処を施していただろう。
だが、ヒカルを救う手だてを探るのに夢中で、自分の傷の手当てをする時間を
惜しんでしまったために、処置が遅れた。
噛み傷から体に入った毒は、ゆっくりとアキラの体を侵食し、それを自覚した時には
手遅れになっていた。
そのつけは、あろうことか、アキラがヒカルの行方を追おうとしたその時に現れたのだ。
そのアキラの話を聞き、佐為は驚いた。どうやら話によると、アキラは昨日の夕刻から
ずっと、丸一日、ああして廊下の途中に、息も絶え絶えで倒れていたのだ。
自分が現れなかったらどうなっていたことか。
アキラを責めることはできない。
彼は本当に精一杯のことをやってくれたのだ。
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