日記 91 - 95


(91)
 緒方の危惧したとおり、ヒカルはその夜発熱し、下痢と嘔吐に苦しんだ。緒方は、一晩中
ヒカルに付き添った。ヒカルが心配だったこともあるが、何よりヒカルが緒方の手を
離さなかったからだ。ヒカルは、眠りに落ちかけると悲鳴を上げて、飛び起きた。
そうして、緒方の顔を見ると安心したようにまた目を閉じる。それを何度も繰り返した。
 ヒカルが漸く眠りについたのは、明け方近くなってからだ。髪を梳いて、額に手をあててみる。
熱は下がっていた。絡みついたヒカルの指をそっと外して、部屋を出ようとした。その
背中に声をかけられた。眠っていたはずのヒカルが、緒方を見つめていた。うつろな瞳は、
悲しげだった。
「先生…ごめんなさい…」
緒方は首を振った。ヒカルが謝る必要はないのだ。何よりヒカルに頼られて嬉しかった。
「……塔矢に…言わないで…」
ヒカルが絞り出すように言った。
「お願い…」
震える唇で懇願するヒカルが哀しかった。緒方が頷くとヒカルは、「ありがとう」と小さく
呟いてまた目を閉じた。


(92)
 緒方が頷いたのを確認して、ヒカルは安堵した。あの時、どうしてもアキラに会いたくて
アパートまで行ってしまったが、気持ちが落ち着いてくるにしたがって、急に怖くなって
しまったのだ。

――――――塔矢にもう会えない…
何もかもなくしてしまった。
お気に入りのリュック。
買ったばかりの携帯。
アパートの合い鍵。
アキラに見せたかったリンドウの花……。
それから、一番の友達。
何より、アキラに会えないのが一番辛い。

 ヒカルは、タオルケットを頭の上までかぶった。声を殺して泣いた。


(93)
――――――また、鳴っている。
 ヒカルの残した荷物の中から、携帯の音が聞こえた。これで、何度目だろうか?持ち主を
必死で呼んでいるようだ。
 その音が和谷を責めているような気がした。ヒカルを犯しているときも、あの電子音が
聞こえていた。あの耳障りな音……。
「アイツ…着メロも入れてないのかよ…」
まだそれほど、手に馴染んでいなかったのかもしれない。自分も知らなかった。ヒカルが携帯を
持っていたことなんて…。もしかしたら、教えてくれるつもりだったのかもしれない。
子犬のように何の疑いも持たずに、自分について来たヒカル。そのヒカルを裏切ったのだ。

 携帯のコールを送り続けているのは、きっと…。
 ヒカルのリュックの中から、それを取り出し叩き付けてやりたい。
―――――こんなことでまで、見せつけやがって…!
オレの知らない進藤を…オレの知らなかった進藤を…彼奴はずっと見ていたんだ。
 和谷は、耳を塞いで蹲った。いつの間にか、音は止んでいた。

 誰かに、優しく肩を抱かれたような気がした――――――――伏せていた顔を上げた。
窓辺に置いたリンドウが、月明かりにほんのり浮かんで見えた。


(94)
 目が覚めた時はもう昼過ぎだった。痛む身体を押して、ヒカルは電話を手に取った。
家に連絡を入れておかないと…。
「あ、お母さん?オレ…」
無理やり明るい声をつくった。

 「先生…」
キッチンでヒカルの食事を作る緒方の背中に声をかけた。緒方が驚いたように振り返った。
「進藤!寝てろって言っただろう!」
一言そう怒鳴るなり、慌ててヒカルを抱き上げた。緒方の胸は広くてヒカルの身体は
その中にすっぽりと収まってしまう。その心地よい温かさに顔を埋めた。
「先生、家に電話してくれてたんだ…」
「ああ…親御さんが心配なさるからな…」
一見冷たく見えるが、緒方は優しい。ヒカルが気づかないところで、色々と気を配ってくれている。
「今日も…泊まっていいの…?」
こんな身体では帰れない。なんて言い訳すればいいのか、ヒカルには見当もつかない。
「昨日、そう言っておいたから…」
何でもないように、素っ気なく緒方は言った。
「ありがとう…」
ヒカルは、緒方の胸に顔をすりつけた。涙が出てきてしまったからだ。


(95)
 今から出かけるのは気が重い。体調の優れないヒカルを置いて出なければいけないとは
……いっそ断ってしまおうか?よりにもよって、何故、今日仕事を入れてしまったのか…。
 浮かない顔の緒方に、ヒカルが笑顔を向けた。
「先生、オレ一人でも平気…もう熱も下がったし…」
無理をしているのは、わかっている。食欲もないし、顔色も悪い。
 緒方が何を言っても、ヒカルは「大丈夫」を繰り返した。
「なるべく早く帰るから…」
後ろ髪を引かれる思いで、自宅を後にした。
 気が重い理由は他にもある。明日、アキラが帰ってくる。明日会わずにすんだとしても、
いつかは顔を合わせるだろう。その時、ヒカルのことを言わずにすむだろうか?それより、
ヒカル自身はどうするのだろう。アキラに会わずにいられるのか?ヒカルはアキラに
知られることを…そして、そのことで軽蔑されることを怖れている。ヒカルには、何の
責任もないというのに…。
 ふと、自分はどうしたいのだろうかと疑問が浮かんだ。今、ヒカルは緒方の腕の中にいる。
喉から手が出るほど欲しかったヒカルが…だ。今なら自分のものにすることもできる。
だが、アキラを傷つけてまで手に入れたいとは思っていなかった。例え、一生に一度の
チャンスだとしてもだ。
 結局、緒方は二人が可愛いのだ。どちらが傷つくのも見たくない。いくらヒカルが欲しくても
アキラが傷つくのは嫌なのだ。
「子供を泣かせるのは、気分が悪いからな……」
それが、ただのやせ我慢であることは十分自覚していた。



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