日記 94 - 96
(94)
目が覚めた時はもう昼過ぎだった。痛む身体を押して、ヒカルは電話を手に取った。
家に連絡を入れておかないと…。
「あ、お母さん?オレ…」
無理やり明るい声をつくった。
「先生…」
キッチンでヒカルの食事を作る緒方の背中に声をかけた。緒方が驚いたように振り返った。
「進藤!寝てろって言っただろう!」
一言そう怒鳴るなり、慌ててヒカルを抱き上げた。緒方の胸は広くてヒカルの身体は
その中にすっぽりと収まってしまう。その心地よい温かさに顔を埋めた。
「先生、家に電話してくれてたんだ…」
「ああ…親御さんが心配なさるからな…」
一見冷たく見えるが、緒方は優しい。ヒカルが気づかないところで、色々と気を配ってくれている。
「今日も…泊まっていいの…?」
こんな身体では帰れない。なんて言い訳すればいいのか、ヒカルには見当もつかない。
「昨日、そう言っておいたから…」
何でもないように、素っ気なく緒方は言った。
「ありがとう…」
ヒカルは、緒方の胸に顔をすりつけた。涙が出てきてしまったからだ。
(95)
今から出かけるのは気が重い。体調の優れないヒカルを置いて出なければいけないとは
……いっそ断ってしまおうか?よりにもよって、何故、今日仕事を入れてしまったのか…。
浮かない顔の緒方に、ヒカルが笑顔を向けた。
「先生、オレ一人でも平気…もう熱も下がったし…」
無理をしているのは、わかっている。食欲もないし、顔色も悪い。
緒方が何を言っても、ヒカルは「大丈夫」を繰り返した。
「なるべく早く帰るから…」
後ろ髪を引かれる思いで、自宅を後にした。
気が重い理由は他にもある。明日、アキラが帰ってくる。明日会わずにすんだとしても、
いつかは顔を合わせるだろう。その時、ヒカルのことを言わずにすむだろうか?それより、
ヒカル自身はどうするのだろう。アキラに会わずにいられるのか?ヒカルはアキラに
知られることを…そして、そのことで軽蔑されることを怖れている。ヒカルには、何の
責任もないというのに…。
ふと、自分はどうしたいのだろうかと疑問が浮かんだ。今、ヒカルは緒方の腕の中にいる。
喉から手が出るほど欲しかったヒカルが…だ。今なら自分のものにすることもできる。
だが、アキラを傷つけてまで手に入れたいとは思っていなかった。例え、一生に一度の
チャンスだとしてもだ。
結局、緒方は二人が可愛いのだ。どちらが傷つくのも見たくない。いくらヒカルが欲しくても
アキラが傷つくのは嫌なのだ。
「子供を泣かせるのは、気分が悪いからな……」
それが、ただのやせ我慢であることは十分自覚していた。
(96)
――――――――誰もいない部屋の中に、一人でいるのは寂しい……
普段はさほどでもない。でも、今は……。体中がだるいし、胸も痛い。あの時のことを
思い出すと涙が止まらなくなる。心細くて仕方がない。
ヒカルは、タオルケットにくるまって、緒方の愛用の椅子にちょこんと座り込んだ。
いつものように、水槽を覗く。
揺れる水草。
戯れるように踊る魚達。
その鮮やかな色彩。
それを見てはしゃぐ、懐かしい笑顔。
少し、心が和む。
「リンドウ…どうなったかな…」
和谷の部屋に置いてきた鉢植えの花が気になった。
「水…もらっているのかな…」
小さな欠伸が出た。薬のせいだろうか?何だか、眠い。
一人で眠るのは怖い…昨日は怖い夢ばかりだった。
眠ってしまう寸前まで、この奇麗な色を見ていたい。
そうしたら、怖くない。
きっと、夢の中であの人に会えるはずだ。
椅子の上で眠ってしまったヒカルを緒方がそっと運んでくれた。
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