裏階段 ヒカル編 96 - 100
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オレの悪いクセだった。無心に何かを求め切る事が出来ない。
ここ一番の絶対的な一手を放つ腕がまだない。
がむしゃらに強引に流れを引き戻す力が、意欲が持てない。
そのうえもう一つの発見もあった。
その後の検討会に参加した棋士らは揃ってオレの足り無さを指摘し師匠との対決に
躊躇いがあって冷静さを欠いたという表現をした。
「緒方くんは人が良いとこがあるからねえ――体調を崩した塔矢さんに遠慮が出たかな」
あまり言葉を発しなかったオレに一柳棋聖が慰撫するような見当違いの言葉を掛けて来る。
反論する気は無かった。彼等に理解してもらうつもりのない感覚だ。
直接打った者以外にはわからない、いや、それらを超えて、普段身近で過ごしているからこそ
肌で感じたものかもしれない。
先生が変化している。変わろうとしている。
届くと思った指先をすり抜けて、まだ先へ、まだ遠くへと先生は飛び立とうとする。
その事自体には確かに苛立ちを感じていた。相手程には、自分の中に意固地のように
変化出来ない部分がある事がもどかしかった。
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「…逃げられてたまるか…!」
まだ後一局ある。珍しく1人で過ごすのがたまらなくなり、同期の棋士と適当に何件か店を
まわった後そのままオレは例の彼女のマンションに向かった。
碁石の匂いのしない場所で気晴らしをしたかった。
「あたしのこと、都合の良い女だって思ってるでしょ」
再度の突然の訪問に彼女は口では不満を漏らしながらどこか得意気だった。
こういう時は女性は不思議な力を発揮する。無知を装い、男を現実から切り離して
その身に抱き留め漂わせてくれる。無条件に男を胎児のように扱い包んでくれる。
アキラに対してはどうしても庇護者として振る舞おうと構えてしまう。向こうがそれを
望んでいない事が判るだけにこちらも意地になってしまうのだ。
ただ彼女には申し訳ないが、彼女の柔らかい肌を弄りながら頭の片隅でsaiが
女性であったらという願望のようなものが頭を擡げていた。
saiのイメージは――猛々しくもあるがふと繊細で思慮深い手が見える。両性的とも言える。
古風で、必要最低限にしか前に出ようとせず、それでいて印象深い。
静かで、激しい。闇の中に凛と光を放ち乱れ咲く桜のような。
アキラのイメージに近いが、さらに両面性が深いものだ。
saiと打ちたいという願望が、saiを抱きたいという願望に重なる。
苦笑いがこぼれる。
自分は頭がおかしくなっているのかと思った。
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翌日は彼女の部屋で丸々過ごした後、そこを出て直接病院に向かった。
今のオレに必要なのは先生と会う事だった。
向こうが最終局を前にどれくらいの決意をオレに示してくれるか見たかった。
それが支えになると信じた。
「面会謝絶」の札に一気に血の気が引いた。対局後に容態が急変したのだろうか。
そして病室から出て来た看護婦を捕まえたのだが、聞き出した話は思いも寄らぬものだった。
「ネットで碁を打っているんですよ、もう、ものすごく集中されて…」
物理的に、運命的に何かを遮断されたような、たった一枚のドアがそこに立ちふさがっていた。
その向こうで先生は誰かと何をしようとしているのか。
――わざわざ面会謝絶の札を頼んでまで、一体誰と?
イヤな予感がした。「まさか」、その言葉の繰り返しだった。病院を後にして
自分のマンションに駆け込みPCの電源を入れ立ち上がる時間が果てしなく長く感じた。
そうしてその対戦者の名前欄に見慣れた英文字を見た時は、驚きと怒りで目眩がした。
「sai!?」
先生とsaiが対局していた。
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既にPCの画面で繰り広げられていた痕跡とそこからの一手一手が、彼等が紛れも無く
当人同士である事を証明していく。
刻々と観戦者の数が増していく。
アキラに伝える事も考えたが連絡をとる方法が思い当たらなかった。
それを見ている間の感情はどうにも説明し難い。
「…進藤は、saiじゃない…」
saiの正体を思案し、改めて最後の砦となる呪文のような言葉を自分に言い聞かせる。
進藤はsaiじゃない。だがおそらく彼もこれを見ているような気がした。
そしてアキラも。
saiに関わる多くの者は自然にこの場面に引き寄せられることになっている、地域を超えて、
国を超えて、そんな気がした。
つまらない雑事は次第に遠のき、対局の行く末に気持ちが惹かれた。
ここからとんでもないものが発信されようとしている。この対局でそれまでの何かが全て
変わってしまうような気がした。何よりも自分の中のものが抉り出されるような思いがした。
魂が、これ以上なく同質のものが全霊をかけて挑み合う。
碁を打つ者なら、何かを極め頂点を目指そうとする者であれば誰でも一度は望む
戦いのかたちがそこにあった。
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本音を語るとすれば、やはり嫉妬が大きい。そして怒りだ。
看護婦の話では先生からの今日の面会謝絶の札の依頼は前もって出されていたという。
オレとの対局の時点ですでにこの戦いの約束をsaiと交わしていたとすれば、
当日感じた先生の変質も理解出来た。
先生のことだ。例え相手がどこの誰かも判らないとは言え、一旦約束した手合いなら
全力で向かうという心情だろう。
だが何故今なのだ、とオレは心の中で問いかけていた。
十段戦五番勝負の真只中だ。オレとの戦いの最中なのだ。
盲点を突かれたように、少なくともオレにとってそう多くはない、与えられた大事な場を
横からかすめ取られたようなものだった。
まるで行為の途中で相手を奪われ“真の交わりはこうだ”と見せつけられたようなものだ。
この対局は、何故今、一体誰の為に用意されたものだと言うのか。
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