誘惑 第一部 96 - 100


(96)
急に、塔矢が知らない人間みたいに見えた。
そんな事…そんなふうに、思ってたのか?
おまえにとってはそういう事なのか?じゃあ、オレとの事は何なんだ?何だったんだ!?
「じゃあ、オレもそうなのか?オレとしたのも、オレを支配するためか?そうなのかよ!?」
「そうだよ!!」
叫んでしまってから、アキラは怯んだように見えた。
「…そうだよ。キミをボクに縛り付けるためだよ。ボク以外の誰も見えなくさせるためだよ。
キミをボクだけのものにするためだよ。そうじゃないか?それなのに、それなのに!!」
「おまえ…ヘンだよ。おかしいよ。どうしてそんな事言うんだ。そんなにオレを信じられないのか?」
「どこがおかしいのさ?信じられるはずがないよ。ボクはボク自身さえ信じられないのに。
それなのに…それなのに、他の男の匂いを残したままボクの部屋に来るなよ!ボクに触るなよ!!
ほんの少しでもボク以外の誰かを見てるなんて許さない。」
「勝手な事言うな!オレはおまえのもんなんかじゃねェ!!」
頭に血が上った。おまえはオレに何の権利があってそんな事言うんだ。じゃあおまえは何なんだ。
自分ばっかり好き勝手やって、何が許さないだ。ふざけるな。
ムカついて何か言い返した。こんな、怒鳴りあって、互いに罵り合うような喧嘩をするのは、初めて
だった。だから、それから何を言って、どうやってあいつの部屋を出て、どうやって家に帰ってきたか
はよく覚えていない。でも、腹が立って腹が立って、あいつが憎くて仕方がなかった。
「知らないくせに」って、「キミにはわからない」って、そう言われたら、何が言えるってんだよ?
わからねぇよ。わかるはずねぇじゃねぇか。じゃあ、おまえはオレのことがわかるのかよ。
全然わかってねぇくせに。
「畜生!」
腹が立って、ムカついて、悔しくて、枕を投げて八つ当たりした。
「畜生!!塔矢の馬鹿野郎!!」
あんまり悔しくて涙が出てきた。こんな事で泣いてるのが余計に悔しい。それなのに涙が止まらな
くて、ハンカチを探そうとして、初めて、ポケットの中にあるはずのものがないのに気が付いた。


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一気に血の気が引いた。涙なんて止まってた。
両方のポケットを探ったが、やはりなかった。
ズボンのポケットだけじゃなく、上着のポケットや、シャツの胸ポケットまで、それからリュックの中も、
全部ひっくり返して探して、それでも、見つからなかった。
どうしたんだろう。どこかへ落としたんだろうか。思い出せ。いつまであった?落としたとしたらいつ、
どこでだ?まさか、加賀んちか?あそこで服を脱いだ時に落としたのか?
いや、違う。今朝は確かにあった。そうだ。あの鍵を使って、あの部屋に入った。
それじゃ、塔矢んとこか?
どうしよう。
どうしよう、オレ、どうしたらいいんだろう。
本当に失くしちまったのか?それとも、塔矢んちに忘れてきただけなのか?
震えながら、携帯を引っ張り出して、塔矢に電話をかけた。
「もしもし、塔矢?」
「進藤?」
「オレ…」
鍵を、おまえんちの合鍵を、忘れていかなかったか、そう言おうと思ったのに、上手く言えなくて。
「オレ…」
「…どうしたんだ?進藤?」
「…なんでもない!ごめん!!」
そう言って通話を切ってしまった。
だって、言えるわけ、ないじゃないか。
失くしてしまったかもしれないなんて。
せっかく、おまえがくれたのに。


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切ってすぐに、今度はオレの携帯が鳴った。塔矢からだった。
「進藤?」
「塔矢…」
「あの…さっきの、電話のことだけど……もしかして、この事かと思って……
キミ…忘れて……いかなかったか…?」
そして確かめるように、まるで自分に言い聞かせてるみたいに言う。
「忘れただけだよね?置いてった…訳じゃない、よね?そうだよね?忘れてっただけだろう?」
オレが何も言えないでいると、電話の向こうで塔矢が辛そうな声でオレを呼んだ。
「進藤?」
「…もう…いいんだ。…もう、要らないんだ、それは…!」
違うだろう?オレは何を言っているんだ。今すぐに取り消せ。まだ間に合う。まだ、今なら。
「……どういう、事だ…?」
「もう、要らねぇんだよ、そんなもん!もう、やめよう、オレ達。」
どうしてこんな事を言い出したんだ。オレは自分でも何を言っているかわからないんだ、塔矢。
「だって、意味、ねぇよ。」
「進藤…待って、何を言ってるんだ?何を言いたいんだ?わからない…」
「オレはおまえを許さない。おまえはオレを許さない。どっちもどっちなのかもしんねぇけど、
もう、いいよ。もう、馬鹿馬鹿しい。やめよう、こんな事は。」
「…本気で、言ってるのか?」
「もう、やめよう、オレ達。終わりにしよう。」
「嫌だ。」
「塔矢、」
「嫌だ。絶対に、嫌だ。そんな事…」
「塔矢!」
「ボクを…嫌いになったのか?もう、好きじゃないのか?…だから…だから、そんな事、言うのか?」
「違う…そうじゃない、おまえを嫌いになったわけじゃない…」
「なら、どうして!」
「だって…だって、オレ…」
「進藤!」
「オレは……オレ……………オレはおまえに会いたくないんだ!」


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携帯の向こうで塔矢が息を飲んでるのがわかる。
「会いたくないんだ。おまえを見るのが怖いんだ。おまえを傷つけてしまいそうで。
オレはもうおまえがオレのものだなんて思えない。おまえを信じられない。
きっと、おまえを見るたびに、おまえに触るたびにあいつの事を思い出してしまう。
違う、ずっとそうだったんだ。オレはあいつが怖かった。おまえの中のあいつの影に怯えてた。
それなのに、オレを好きだって言いながらあいつに会いに行ったおまえを、もう信じられない。」
「待って、進藤、」
「はじめっから、無理だったんだよ。オレなんかにおまえの相手は務まんない。
オレみたいなバカなガキには、おまえの事なんかわかんないし、おまえにもオレの事はきっと
わからない。だから、もうやめよう。やめた方がいいんだ。」
「違う、違うんだ、進藤、お願いだから、聞いて…」
「おまえだってそうだろう?オレが加賀に抱かれたのが許せないんだろう?
でもおまえが許さないって言ったって、オレはオレのものだ。おまえのものじゃない。
それでおまえの言う事を聞いていられるほど、オレは優しくない。大人じゃない。
だから、もうやめよう。無理だったんだよ、最初っから。」
「進藤、待って…待ってくれ。…ううん、電話なんかじゃダメだ。今から行くから…」
「ダメだ!」
「進藤!」
「来るな。来ないでくれ。もうオレはおまえに会いたくないんだ。来ないでくれ。オレに会いになんか
来ないでくれ。あっても声もかけるな。オレはおまえを傷つけたくないんだ。
もうイヤだ。もう、イヤなんだ。イヤなんだよ!」
一方的にまくし立てて通話を切った。電源もすぐに切った。
ハァハァと荒い息をつきながら、さっきまでアキラと話していた携帯を両手で握りしめて、それを
睨んでいた。ぱたっと、音をたててその上にしずくが落ちた。
「うっ…」
嗚咽をこらえようと思っても、こらえ切れなかった。そして涙も、こらえ切れずに、ぱたぱたと手の
上に落ちた。慌てて携帯を拭っても止まらずにぽたぽたと涙はこぼれ続けた。いくら携帯を拭い
ても、顔を手でぬぐっても、涙は止まらずに流れ続けた。


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それでも、本当は、オレは内心期待してた。
繋がらない携帯に業を煮やして家の電話にかけてくるんじゃないか。
会いたくないって、来るなって言ったって、家に押しかけてくるんじゃないか。
家には来なくても、棋院に行ったら待ち構えてるんじゃないか。
「どうしてだ、進藤!」って、血相変えて、オレを怒鳴りつける塔矢を、心のどこかで期待してた。
あいつがオレを追いかけてくるのを、ずっと待ってた。
オレは…オレは、そうして欲しかったんだ。オレがやだって言っても、それでもオレを好きだって、
やめるなんて許さないって、そう言ってオレを追っかけてきて欲しかったんだ。
でもそんなのはオレの勝手な期待で、電話はかかって来なかったし、家にあいつが来ることも
なかったし、棋院に行っても、あいつの姿はなかった。

そして、会おうと思わなきゃ会えないんだって、その時まで気付かなかった。
いつも当たり前みたいに会ってたから。
オレが手合いがある時はあいつはない。あいつがある時はオレはない。
でもオレは、もうあいつの対局を見になんて、行けない。あいつの碁会所にも行けない。
あいつの部屋には、もう、行けない。
あの部屋の鍵は、もうオレの手元にはない。要らないって言ったのはオレだ。
もう要らないって、もう会いたくないって、もうやめようって、言ったのはオレだ。オレの方だ。
どんなに後で後悔したって、自分がバカだったって思ったって、一度言っちゃったら、もう取り消せ
ないんだなんて、こうやって思い知らされるまで、オレは知らなかったんだ。



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