日記 96 - 100
(96)
――――――――誰もいない部屋の中に、一人でいるのは寂しい……
普段はさほどでもない。でも、今は……。体中がだるいし、胸も痛い。あの時のことを
思い出すと涙が止まらなくなる。心細くて仕方がない。
ヒカルは、タオルケットにくるまって、緒方の愛用の椅子にちょこんと座り込んだ。
いつものように、水槽を覗く。
揺れる水草。
戯れるように踊る魚達。
その鮮やかな色彩。
それを見てはしゃぐ、懐かしい笑顔。
少し、心が和む。
「リンドウ…どうなったかな…」
和谷の部屋に置いてきた鉢植えの花が気になった。
「水…もらっているのかな…」
小さな欠伸が出た。薬のせいだろうか?何だか、眠い。
一人で眠るのは怖い…昨日は怖い夢ばかりだった。
眠ってしまう寸前まで、この奇麗な色を見ていたい。
そうしたら、怖くない。
きっと、夢の中であの人に会えるはずだ。
椅子の上で眠ってしまったヒカルを緒方がそっと運んでくれた。
(97)
不思議だった。ヒカルの望んだ通り、優しい夢を見ることができた。それなのに、夢に
現れたのは、大好きなあの人ではなく、アキラだった。
「ホントに会いたかったのは…塔矢だったのかな……」
自分で呟いた言葉にショックを受けた。突然、涙があふれ出した。緒方の着せてくれた
パジャマのだぶついた袖で拭った。拭っても拭っても、後から後から涙が零れ出す。
―――――罰があたった……!
アキラがいるのに、寂しいなんて思ったから…
佐為を恋しがったから…
二人とも失った…
もう、会えない……!
「う、うぅ…うえ……」
緒方に泣き声を聞かれないように、歯を食いしばる。それでも、その隙間から声が漏れた。
ヒカルは、タオルケットを噛み締めて堪えた。
(98)
寝室の方から、物音がする。どうやら、ヒカルが目を覚ましたらしい。昨日から飲み物以外
口にしていない。果物なら、食べるだろうか?
緒方が、様子を見に行くと、ヒカルが声を堪えて泣いていた。
「どうした!?」
慌てて側に駆け寄ると、ヒカルが緒方に抱きついた。涙に濡れた大きな瞳で自分を見つめる。
「先生…!先生はどこにも行かないよね?オレの側にいてくれるよね?」
「オレ、一人になりたくない…一人は怖い…」
震えるヒカルをそっと抱きしめた。ヒカルは、緒方を見つめたまま、ゆっくりとその瞳を
閉じた。
アキラを傷つけない…そう誓ったばかりなのに、決心がぐらつく。ヒカルは緒方の
口づけを待っている。もしかしたら、それ以上のことも……。
振り切るように、ヒカルから視線を外した。そっと、髪を梳く。ヒカルが、瞼を開けた。
大きな瞳に絶望の色を宿していた。
ヒカルの目の高さに、自分の視線をあわせた。
「進藤…どうするんだ?」
「……」
ヒカルは俯いた。頼りない肩。このまま、ずっとここに置いてやりたい。だが、それは
出来ない。アキラにだって、棋院に行けばイヤでも会う。いつまでも、隠れているわけには
いかないのだ。
「どうしたいんだ?いいのか?」
このまま、オレのものになっても…。こんな、逃げるような形で…。ヒカルへ告げた言葉は
たったの二言。「どうしたい」「いいのか」だけだ。だが、それで十分に意味は通じたらしい。
「先生…オレ、塔矢が好き…だから怖い…」
「逢いたくない………逢いたくないよ……」
俯いたまま、ヒカルは涙を含んだ小さな声で呟いた。
(99)
何度携帯をかけてもでないヒカルに、アキラは焦れていた。早く帰りたい。こんなことでは、
いけないと思いながらも、仕事に身が入らない。たったの一言だけでいいのに……。
いつものように、元気いっぱいの明るい声で名前を呼んで欲しい。
「家の方にかけてみようかな……」
携帯の一番上に登録してある番号を押した。呼び出し音はすぐに、途切れた。
ヒカルの母は、彼が緒方の家に泊まっていることを告げた。息が詰まった。まさか、
ヒカルが緒方と…が、すぐに考え直した。
緒方がヒカルを大事に思っていることは知っている。しかし、それと同じくらい自分を
心配してくれていることも知っていた。
一瞬でも疑った自分を恥じた。
帰ればわかることだ。ヒカルは単に携帯を忘れただけかもしれない。買ったばかりだから、
持ちなれていないのだろう。
一人に退屈して、気まぐれに緒方のところへ押し掛けたのかな。今頃、子犬のように
じゃれついて、緒方を困らせているのだろうか。無邪気で可愛いヒカル。早く会いたい。
帰ったらその足でヒカルの家に行こう。ほんの少しだけでも、顔を見たい。当分の間は
会えないのだから…。
(100)
緒方の唇が、ヒカルの額に触れた。そのまま、瞼、頬と続けて口付けされた。そして、
最後に唇に……。緒方のキスは煙草の味がした。頬に添えられた大きな手。温かい。
緒方に触れられると、不思議と心が落ち着いた。だが、その手がヒカルの首筋を通って
パジャマのボタンを外そうとしたとき、全身が震えた。怖かった。逃げたいと、思った。
昨日のことが、蘇る。怖い、怖い、怖い。それなのに、身体が竦んで動かなかった。
怖くても我慢しなければ……それに、今逃げたら、緒方にまで去られてしまう。
――――――先生…オレを見捨てないで…一人はイヤだ…
何故、そんなことを考えたのかはわからない。ただ、一人になりたくなかった。
ヒカルは堅く目を閉じて、緒方の次の行動を待った。
いくら待っても、緒方はヒカルに触れようとしなかった。恐る恐る目を開けた。痛ましげに
自分を見つめる緒方と視線がぶつかった。その哀しそうな目を見た瞬間、ヒカルは、酷く
自分が恥ずかしくなった。その視線を受け止めることが出来なくて、俯いてしまった。
自分は、彼を利用しようとした。一人が怖かったから、身体でつなぎ止めようとした。
そして…緒方の気持ちを踏みにじった……!
――――――オレ、知ってた…!?先生の気持ち…ホントは、知っていたんだ…きっと…
心のどこかで感じていたのに、知らないふりして甘えていた。緒方が優しかったから…
居心地が良かったから…今のままが楽しかったから…
「ゴメンなさい…ゴメンなさい…」
「どうして、謝るんだ?」
怖くて当たり前だと、緒方はヒカルを柔らかく抱きしめた。違うと言いたかったが、涙で
声が詰まって言えなかった。
|