Shangri-La第2章 37 - 43


(37)
「ん………」
まだ髭の生えていないヒカルの頬は柔らかく
弾力があり滑らかで、その感触がアキラを幸せにした。
暫く二人で頬擦りしあってから、アキラはヒカルの頬に口付けた。
頬骨から目元へ、こめかみからフェイスラインをなぞって顎先へ、
さらに顔の反対側へ――ヒカルの華奢な骨格を唇で確かめる。
鼻先へ、ちゅっと音を立てた軽いキスの後、
アキラの動きがふっと止まった。
目を閉じて身を任せていたヒカルが、その静寂に耐えられず
そっと瞼を少しだけあけると、アキラの顔は
鼻先でキスしたままの場所に留まったままだった。
ヒカルはアキラの頭に手を添え、軽くこちらに押しやると
その唇に、ぱくりと食いついた。
アキラの唇は、柔らかくヒカルを迎えた。
少し離れてはまた、どちらからともなく求めて
お互いに何度も小鳥のように唇をついばみあった。
「塔矢……、する?」
何度目かに唇が離れた時、ヒカルが囁いた。
どれだけしても深くならないキスも、
抱きつきはしてもそれ以上求めない手も、
アキラが今、これ以上を望まないと言っているのだとは思うが―――


(38)
「ううん……、今は、このまま…」
アキラはそう言うと、ヒカルの首筋に顔を埋めた。
ここは、確かにヒカルの匂いがいっぱいある。
確かめたくて、ゆるゆると首を振って擦りついた。
背中からヒカルの腕がアキラを包み、その手が髪を撫でる。
アキラは目を閉じて、全てをヒカルに預けた。

「塔矢さぁ…、やっぱ風邪じゃねぇ?」
「え?」
「声つらそう。大丈夫かよ?昨日は声、普通だったのにな?」
昨日は二人揃って芹澤の研究会に出ていたが
棋院内で不用意に会話をしないようにしているため
昨日二人が交した会話は挨拶程度だった。
「大丈夫……風邪だったらキスなんかしないよ。
 うつっちゃったら、キミが困るだろ?」
―――確かに。今ヒカルのスケジュールは目一杯埋められている。
風邪でダウンする暇などある筈もないのだ。
でも、それなら何故ここまで声が違うのか…?
ヒカルは思うまま、その疑問を口にした。


(39)
「うーん、昨日、羽目外しすぎちゃったかな…?」
アキラは暫く昨晩の事を思い巡らせ、とりあえず無難な答えを返した。
こんなことなら、昨日はさっさと帰ってくれば良かった。
「へぇ…、何したの?塔矢が羽目外すって、想像つかねぇー!」
「――悪かったね。一人で居ると、いろいろあるんだ」
アキラは少しだけ身体を起こして、ヒカルを睨んだ。
いくら眼光鋭く睨みつけても、口を尖らせていては
単に拗ねているだけとしか思えない。
ヒカルはニヤニヤと笑いを浮かべ、両手でアキラの頬を挟んだ。
「ふぅ〜ん、淋しかったんだ?構って欲しかった?」
別に、とぶっきらぼうに答えてアキラは視線を逸らした。
アキラの気持ちは推し計るに容易い。
ヒカルは口元に含み笑いを浮かべながら
逃げようとするアキラをヒカルががっちり抱き締めた。
「ちょっ…進藤?何?」
「アキラちゃん、淋ちかったんだー。そっかー。
 だから抱っこちて欲ちかったんだー?」
ヒカルはぽんぽんとアキラの頭を撫でてやりながら
わざと子供をあやすような口調で、その様子を窺った。
アキラはヒカルを詰りながら、身を捩って逃げようとしている。


(40)
ヒカルは更に、アキラに頬擦りを始めた。
「アキラちゃんは、ほっぺたも大ちゅきだもんなー?
 ほっぺむにむに出来て、嬉ちいなー。なぁ?」
「しっ…進藤っ!いい加減に…」
ふっ、とヒカルがアキラを放したので
急に解放されたアキラは、続ける言葉に詰まった。
「塔矢、降りて」
ヒカルの意図が分からず、アキラはただヒカルを見ていた。
「降りろよ、早く」
あ、ごめん、と一言謝って、アキラはヒカルの上から退いた。
ヒカルは座椅子に座り直して深く息を吐き、両膝を立てた。
アキラを見ると、不安に瞳を揺らし、ヒカルとも微妙に距離を置いて
息を飲み、じっとヒカルを見ている。
「塔矢、こっち来て」
ヒカルはその神妙な様子に吹きだしそうになるのを
ぐっと噛みしめてから、出来るだけ優しく声をかけた。
「なに…?」
「こっち、ここ」
ヒカルが自分の両脚の間にあいた空間を示すと、
アキラは安堵した様子でそこに収まると、ヒカルに寄りかかった。
ヒカルの手がそっとアキラの髪を弄り、その動きに合わせて
ふわり、ふわりと微かにヒカルの香りが漂う。
ヒカルにされるまま、アキラはうっとりとしていた。


(41)
アキラを腕の中に収めて、艶やかなその髪をくるくると
指に絡めたり外したりしながら、ぼんやりと時間を流していく―――
近頃毎日、何らかの仕事を入れているヒカルにとって
それは、とてつもなく贅沢な時間の使い方だった。
母の退院が決まったら、指導碁以外のバイト、特に深夜帯のバイトは
継続できないだろう。だからそれは全部やめるつもりで
限られた日限の中で、できるだけ早く、沢山、稼ぎたくて頑張ってきた。

そして、もうじき、その日が来る。

なのに貯金は目標を大きく下回り――外で過ごす時間が増えたせいか
小遣いの減りが異様に早く、当初の計画は大幅に後ろにずれ込んで
しまったため、正直、まだまだバイトはやめられそうにない。


(42)
アキラには、多少淋しい思いをさせているとは思う。
二人の関係が進むにつれ、アキラは信じられない程
ヒカルに甘えるようになってきた。
なのにもうずっと、アキラと二人きりで過ごす時間はとれず
触れるどころか、直接話をすることすらできずにいる。
森下先生のことは気にしなくていいと言ったが、アキラには
気になるようで、棋院周辺での接触は自粛されたままで
芹澤の研究会の時でも、目も合わせずに挨拶するだけだ。
しかし時々、アキラはヒカルを見ていた。
ふと目が合うと、その瞳は激情に燃えていて、
なのに棋院内やその周辺でヒカルから声をかけても
アキラはひどくそっけなかった。

いつもだったら指導碁の予約がキャンセルされたくらいで
その日をオフにしたりはしないのだが、
最近電話もかけてこなくなったアキラが気になっていた。
それに何より、ヒカルは疲れていた。
毎日どこかしらに出掛けて、仕事も碁の勉強も並列でこなしている。
たまには休みたい。それも本音だった。


(43)
胸にかかる、久しぶりのアキラの重みに心が安らぐ。
アキラはヒカルの胸元が気になるのか、何度も撫でている。
その手から、重なった身体から、体温がじんわりと染みてきて
そのぬくもりが、身体の中にある重たい何かを消し去っていくようだ。
それと同時に、意識までもがすうっと薄らいでいく中で
アキラが、何かとんでもないことを口にした。
言葉の意味は理解できるが、その意図が分からなくて
どうしてそんな事を言うのか聞き返したいと思ったのに
その思いすら、ほの白く霞んで霧散した。
全てが揮発して消えていくその感覚が、幸せに思えた。



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