Trick or Treat! 11 - 20


(11)
「ごめんなさいね、緒方さん。芦原さんから聞いたわ」
明子夫人から詫びの電話が入ったのはその日の夜のことだった。
門下の中でも最年少の芦原は、まだ入門して日も浅いというのに夫人やアキラから
抜群に受けがいい。
媚びることなく、自分を歪めることなく、自然体のままで人に好かれる芦原もまた、
緒方にとってはささやかな嫉妬を感じる人種の一人だった。
どれだけ碁の勉強をして強くなっても、自分はきっと一生そんな風にはなれない。

「あ――いえ。オレが大人気なかったのが原因ですし――それで、その――
あの・・・先生にも、そのことは・・・?」
「あの人には、言わないほうがいいと思うわ」
即答が返ってきた。
「芦原さんたちともこのことは伏せておきましょうっていう話になったの。大丈夫よ。
今も、あの人がアキラさんとお風呂に入ってる間にと思ってお電話差し上げたの。
今二人でお歌を歌っているんだけれど、聞こえて?」
「・・・微かに」
「幼稚園のお遊戯の時間に習ったお歌をね、毎晩ああして歌っているのよ。
今日のことも、幼稚園で他の子がお友達にしたのを見て真似したみたい。
男の子が好きな女の子にちゅっ、てしたら、女の子が泣いちゃったんですって。だから」
「ああ・・・」
そう言えばアキラが外で色々なことを覚えてくると、昼に聞いた気がする。
自分が菓子をくれないとわかった後の、そんなことを言ってどうなっても
知らないぞと言わんばかりのアキラの不敵な笑みを思い出した。


(12)
「・・・とにかくそんなわけだから、緒方さんもこのことはあまり気になさらないでね。
今日は本当にごめんなさい」
「いや、そんな――オレは・・・オレよりもアキラくんに、悪いことをしたと思って――」
「あら、どうして?」
「・・・オレはともかく・・・アキラくんにとってはその――初めての」
「ああ。ファーストキス?」
受話器の向こうで夫人がけろっと言った。こんな単語を師匠の夫人に言わせるのは、
いわゆるセクハラというものになりはしないかと少し焦る。
「そんな、だってあの子はまだ子供だし、それに男性同士でしょう?
そんなの、キスのうちに入らないわ」
「そう――でしょうか」
「そうよ。あの子がもっと大きくなって、素敵な女の子を見つけて――
本当に好きだと思う相手とキスしたら、それが本物のファーストキスよ。
口がくっついただけでキスになるなら、私なんて実家で飼ってた犬のペロに
しょっちゅう顔を舐められていたのがファーストキスになっちゃうわ」
夫人がころころと笑った。

「・・・・・・」
「あら、もう出てきたみたい。アナタ、アキラさんの新しいパジャマ置いてあったの
分かりますー?え、なーに?・・・ごめんなさいね緒方さん、それじゃ今日はこれで」
上機嫌らしい師匠とアキラの合唱が大きく近づいてきたところで、電話は切れた。
ツーツーという無機質な電子音の中受話器を置きながら、緒方はなんとなく
深い疲労感を覚えてその場にずるずると座り込んだ。
タバコを一本取り出し煙を吸って吐き出すと、
甘い匂いのするあの感触が、タバコの刺激に紛れて消えていく。
ホッとしたようながっかりしたような、妙な気持ちだった。


(13)
通りすがりの花屋に、見たことのあるオレンジ色の物体がデンと据えられてあった。
「・・・・・・」
立ち止まって眺めていると、店の奥から学生のような若い女の店員がニコニコと出てくる。
仕方なく緒方は呟いた。
「・・・最近は、花屋でもカボチャを売るのか」
「今日はハロウィンですから。大きいのは店の飾り用ですけど、小さいのを
ご自宅用に買っていかれるお客様は結構多いですね」
「小さいの?」
「こちらになります」
店員が体をずらした方向に、緒方の手のひらより一回り小さいくらいの
オレンジ色のカボチャが、大きいカボチャと同じように目と口をくり抜かれて笑っていた。

金色と薄桃色の夕映えが次第に菫色がかった青に染まり始めると、もう黄昏時だ。
逢魔が刻だ。
お化けや魔女が街中を練り歩き、甘い菓子の匂いに誘われて家々の扉を叩く時間だ。
花屋の包みを抱えコートの襟を立てて家路を急ぐ緒方の頭上で、
暮れ時の鮮やかな青い空を背景にした黒い街路樹のシルエットから、
何か黒い鳥の影がバサバサッと飛び出していった。


(14)
最近は自分で鍵を開ける日と、開けないで済む日とがある。
マンションのエントランスで部屋番号を押す時にふっと思いついて、
包みから取り出した顔つきカボチャをモニターの前に押し付けた。
「はい」とモニターの向こうに現れた相手が、息を呑む音が聞こえる。
その反応に満足しながら、緒方はカボチャをどけ自分の顔を見せた。
「オレだ」
「・・・開けますよ」
一枚板と厚いガラスを組み合わせた、エントランスの自動扉が開く。
エレベーターを降りると、エプロンを着けたアキラが中からドアを開けて待っていた。

「お帰りなさい。あまり変なことをしないでくださいね」
「ただいま。・・・お土産だ」
両手を差し出させて載せてやると、アキラは不思議そうに首を傾げた。
「・・・カボチャ?」
「ハロウィンだ」
「そうですけど。緒方さんの部屋って、クリスマスもお正月も何か飾られていたのを
見たことがないから」
「昔を思い出したのさ」
「ふうん・・・?ボクが、飾っていいですか」
「ああ」
片手でネクタイを解きながら、着替えるために緒方は寝室へと向かった。


(15)
深刻な喧嘩を何度か繰り返した末に、緒方はやっと「アキラと一緒に暮らす」
という選択肢を思いついた。
結局自分はアキラが常に自分の手の届く所にいないと不安なのだ。
年上の兄弟子という立場にしがみついて大人ぶってみせても、
実の所はアキラが離れていくのが怖くて、置き去りにされるのが怖くて、
捨てられるのに怯えているただの情けない男なのだ。
惚れた相手に去っていかれるのを恐れる男など世の中にはいくらでもいて、
自分はその中の一人に過ぎない。
そう自分を相対化してしまうと楽になった。

渋られたら土下座してでも頼み込むつもりで緒方が提案した共同生活を、
アキラはあっさり承知した。
ただし、両親が留守中の家を管理しなければならないし訪ねてくる人々への
応対もあるから、一週間ごとに生家と緒方の部屋を行き来する。
そんな条件だったが、アキラが定期的に自分のもとで暮らすことを承諾したと
いうだけで緒方の精神は格段に安定した。
以後、アキラはまめに通ってきては緒方と共に時間を過ごし、
生家に戻る時は何やかやと自身がいない間の注意事を申し渡して帰っていく。
お守りされている、と思う。
だが見栄や意地を捨て去ってしまえばその状態は信じられないくらい心地よく、
自分たちにとってはむしろこうした状態でいるほうが自然な姿なのだと
思うようになった。
盤上の世界での優位を譲り渡す気は毛頭ないが、
それ以外の部分で、役にも立たないプライドを後生大事に守る必要など
かけらもなかったのだ。


(16)
リビングに戻ると、こちらに背を向けたアキラが
窓辺に居場所をもらった小さなカボチャをよしよしと撫でているところだった。
「気に入ったか」
「はい」
アキラは振り向いて微笑み、ぱたぱたとキッチンへ向かった。
「何か作っていたところだったのか?」
「カボチャと、きのこと、鶏肉のシチューです」
鍋を重たそうに掻き回しながらアキラが言った。
料理に関しては、緒方は酒のつまみか炒飯くらいしか作れない。
一人の時は買ってきた物と外食と出前でどうにかなっていたが、
それでは栄養が偏るからとアキラが調理器具を買い揃えて自炊を始めた。
芦原弘幸のお料理教室などと称しては月に一、二度芦原が上がり込んでいくのは
気に食わないが、家で誰かの手料理が食べられるというのはいいものだ。
自分も料理教室に参加するようにと芦原から再三勧誘されているが、この朗らかな
弟弟子に「教えてもらう」という立場になるのが何となく癪で延ばし延ばしにしている。

「・・・カボチャを入れたのか。ハロウィンだから?」
「いえ、何となく甘いものが食べたくて。緒方さん、苦手でしたか?」
「いや・・・」
鍋からもうもうと上がるシチューの湯気の中に、
甘い毒を混ぜたようなカボチャの香りが妖しく立ち込めている。
甘い菓子のような匂いを嗅ぎつけて、そろそろお化けが集まってくる頃合いだろう。


(17)
「・・・かなり、甘くなっちゃったかなぁ」
鍋の中身を小皿に取って味見をし、上唇についた分をアキラはちろりと舐めた。
「甘いのか」
「ええ。チーズでも、入れてみようかな・・・」
「料理の話じゃない」
「え?」
アキラは怪訝な顔をしたが、緒方が笑みを含んで唇を指してやると
呆れたように肩を竦めてくるりと鍋のほうに向き直った。
「おいおい」
「今は、今日美味しいお夕飯が食べられるかどうかの瀬戸際なんです。
邪魔をするなら向こうへ行っててください」
「・・・・・・」
緒方は黙って手を後ろに組み、所在無げにアキラの横に立った。
アキラは無視してチーズを探し始める。
「・・・ここだ」
「・・・ありがとうございます」
軽く頭を下げて黄色い塊を両手で受け取ったアキラに、ふと思いついて聞いた。
「アキラくん。・・・オレたちが初めてキスしたのは、いつだったかな?」

アキラは「は?」というような顔で緒方を見ると、すぐにチーズの包装を開け
ナイフとカッティングボードを並べながら、
「ボクが中3の冬ですよ」
と答えた。


(18)
「・・・いつだって?」
「中3の冬です。緒方さん、憶えてらっしゃらないんですね」
アキラは緒方を見ないまま、チーズにぐっとナイフを突き立てた。
「そんなに後だったかな。もっと、早かったんじゃないか」
「いいえ、あれが初めてですよ。ボクとセックスするようになっても、緒方さん、
長いことキスはしてくださらなかったじゃありませんか」
アキラの声が強張り始める。チーズの大きな塊が音を立てて本体から切り離された。

「・・・・・・」
忘れているのはどっちだと思う。
確かにあの時アキラはまだ子供だった。「お化け」のアキラにとってあのキスは、
従わない者を懲らしめるための単なる悪戯だった。
だからアキラが憶えていなくても仕方がないと頭では思う。
だが、だからと言ってこんな責めるような口調をされるのは心外だった。
――あの時オレがどれだけ驚いたと思ってる?
「おい」
「あの時期、どういうおつもりでボクとセックスなんかしてらしたんですか?
キスしなかったのは、セックスだけで、キスしてやる必要なんてない相手だった
からですか?ボクがあの時期、どれだけ――」
何か甦ってきたらしく、アキラは声を詰まらせ眉間に力を込めて口を噤んでしまった。

鍋がグツグツ言う音と共に重苦しい沈黙が流れる。
アキラを抱くようになってからも暫くの間、唇へのキスを避けていたのは事実だった。
その行動がアキラにとっては不安を呼び起こすものであったらしい。
だが緒方としても別に、したくないとかしてやる必要がないとかいう考えで
キスを避けていたわけではないのだ。


(19)
「あれは――おまえがそのうち彼女でも作って、そっちとキスするようになると
思ってたからさ」
「・・・何ですか。それ」
アキラはますます表情を硬くして、チーズをガシガシと卸し始める。
さぞや自分勝手な言い分に響くだろう。
だが、実際それがあの頃の自分の気持ちだったのだ。
甘い匂いのする小さな唇が自分の唇に触れた日の夜、アキラの母である人が
自分に言った言葉がずっと胸の奥に蟠っていた。
――アキラはやがて好ましい異性を見つけて、その本当に好きだと思う相手と
本物のファーストキスをするのだと。
それは実に尤もだと思った。
それに、乱れた世相の中で大人に肉体を売るようになった少女たちが、
金のために体は許してもキスは許さないといった話も耳にしたことがあった。
他の全てを奪っても、そこは自分などが侵してはならない部分だと
自分に言い聞かせていたのだ。
そこを触れずにおくことによって、まだ自分は理性を残した大人であり、
アキラから全てを奪い去ったわけではないと逃げ道を作りたかったのだ。
――一日も早く、丸ごと奪って全部自分のものにしてやればよかった。

沈黙の中、強張っていたアキラの横顔が少し緩んで哀しそうな顔になる。
パサパサとチーズを鍋の中に放り込み、目尻をほんの少し濡らしながら
おとなしくシチューを掻き混ぜるアキラがいとおしかった。
だがそれと同時に、昔自分自身がしたことはすっかり棚に上げて緒方一人が悪いような
顔をしているアキラに「それはないだろう」と思った。
何やかやの気持ちが混じり合ってむらむら込み上げてくるものがあり、

少し思案してから、緒方はアキラの顔を覗き込んで呪文を唱えた。
「・・・Trick or Treat!」


(20)
「・・・えっ?」
アキラが怪訝そうに振り向く。もう一度繰り返した。
「Trick or Treat!」
「何ですって?」
「お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ」
唐突に妙なことを言い出した緒方にアキラが面食らった顔で答えた。
「・・・お菓子なんて、持っていませんよ」
「だろうな」
緒方は不敵に笑ってアキラの顎を持ち上げ、瞳の中を覗き込んだ。
「なら、おまえを寄越せ」
「・・・ふざけてるんですか?」
「くれないのか?」
「駄目ですよ。お鍋ついてなきゃ、焦がしちゃう」
「そうか。くれないなら・・・」
緒方は焜炉の火を止め、アキラの身体に腕を回すとそのまま抱き上げた。
「おまえに、悪戯する」
「ちょっ・・・緒方さん!?」
アキラがシチューを掻き混ぜていた杓子が手から落ちて床に当たった音がした。

大股で寝室まで運びベッドの上に投げ出すと、アキラが怒りを含んだ声で言った。
「・・・ボクをからかってるんですね?」
「からかってるように見えるか?」
「そうとしか見えません」
「心外だな」
さっさと覆い被さって唇を塞ぐと、そこにはまだ少し澱粉質の甘い味が残っていた。



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