45.人形

 手塚が宮崎に旅立つ、当日の昼休みのことだった。
 屋上に呼び出された手塚は、不二から一つの袋を受け取った。

「手塚、はい」
「……?」
 不思議そう袋を眺める手塚に、不二は微笑んだ。
「餞別だよ」

 袋の中に入っていたのは、20cmほどの愛らしいクマのぬいぐるみだった。いわゆるテディベア、というものだろう。ベージュ色をした生地で作られており、目のガラス玉は青色をしている。
 最初、何の冗談かと怪しんだ手塚は、思いっきり不審の目を不二に向けた。

「これは、何だ……?」
「だから餞別だって」

 不二は同じ言葉を繰り返した。後ろ手に腕を組みながら、可愛らしく少し首を傾げる。
「姉さんに教わりながら、僕が一針一針、愛情込めて縫ったんだ……」
「そ……そうか……」
 はにかんでいる不二のその笑みの裏に何か禍禍しいものを感じずにはいられない手塚だった。
「僕の代わりだと思って、向こうで大切に可愛がってあげてね」
「……しかし、ぬいぐるみなどもらっても、俺は……」
 手塚は困り顔でテディベアを見た。作り主の髪と瞳を模したらしいテディベアは、手作りとは思えないほどよく出来たものだった。手塚も可愛らしいものだとは思う。だが、健全な中学生男子がぬいぐるみを餞別にもらって喜べるものだろうか。
 だが、不二は有無を言わさぬ笑顔で押し切った。
「大切にして、ね?」
「…………」
 その気迫に圧倒された手塚は、テディベアを握り締めたまま、思わず首を縦に振ってしまった。

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 こうして、手塚はテディベア付きで宮崎に行くことになった。
 可愛いテディのぬいぐるみと無骨な自分とは不釣合いな気がしていたが、ベッドの枕もとにある戸棚の上に飾っておくと、それなりに部屋のインテリアになっているように見えた。もともと殺風景な内装なので、一つぐらいそういうものがあった方が部屋の雰囲気をよくしていた。医者や看護婦からの評判も上々だった。ただ、「餞別でもらった」と言うと大抵「彼女から?」と聞き返されるのには困っていたが。
 そうやって、テディベアとともに過ごす日々も、数週間が過ぎた。

 月のよく冴えた、ある夜の事だった。
 病院内はしんと静まり返っていた。時々聞こえる、見回りの足音だけがリノリウムの床に響き渡っていた。
 手塚は眠れない夜を過ごしていた。ベッドの上で上半身を起こした姿勢で本を開いていたが、どうも読み続ける気になれなかった。そっと本を閉じて戸棚の上に戻すと、ベッドサイドのライトを消し、ぼんやりと窓の方に目をやった。
 青白い月光が部屋の中にも入り込み、全体を幻想的に照らし出していた。
 窓の外に見えた月は、ほとんど真南にあった。右側がやや欠けた円形をしている。
(十六夜の月、か)
 十五夜の次、16日目の月の事だ。「いざよい」とには「ためらう」、という意味があり、月の出が一時間ほど遅くためらっているように見えることからその名前が付いたと言う。
 古典で習ったその知識を、不意に思い出した。そして、その名前の由来について教えてくれた古典好きの顔もついでに浮かんできた。
 まだ二十日も離れていないのに、懐かしい気持ちになった。
(……向こうも、同じ月を、見ているのだろうか)

 そのとき、不意に部屋の片隅に、何かの気配を感じた。

(!?)

 慌てて窓にやっていた視線を部屋の中に戻した。注意深く部屋中を見回すが、とくに動くようなものはない。ほんの少し違和感を感じたが、それも一瞬のものだった。
 虫か何かだったのだろう、と考えた。
 月明かりのもたらす静謐な空気のせいだ。周りが静かなせいで、ほんの些細なことにも敏感に反応してしまっただけだろう。室内に感じた違和感は気になるが、それもまた、月明かりのせいだと思う事にした。
 急に興が削がれた手塚は、もう横になることに決めた。眼鏡を外して枕もとのケースにしまい、掛け布団の中に潜り込んだ。

 その矢先だった。

「――ッツ!!?」

 手塚は声にならない叫び声を上げた。上半身を起こしてライトを点し、掛け布団を捲り上げる。
 布団の中に妙な感触があった。自分以外の何かが中で動いたのだ。
 それを確認するために起き上がった手塚は、信じられないものを目の当たりにした。

「……!!」

 余りの光景にまず自分の目を疑った。両目を一度擦って目を細めてもその光景は変わらなかった。眼鏡を付けて確認してもなんら変化はしなかった。
 自分の股間に、枕もとに飾っておいたはずのテディベアのぬいぐるみがあった。
 ベッドの中で感じた妙な感触はこれのせいだったらしい。
 だが、何故ぬいぐるみがいきなりベッドの中にあるのか。手塚自身が移動させた記憶は当然無い。部屋の電気を消すまでは確かに戸棚の上にあったはずだ。

 先ほど感じた謎の気配と室内の違和感が思い出された。
 考え出される結論は一つしかない。

 ……まさか、このぬいぐるみが、自分で動いたのか?

 だがそんな非科学的なことはすぐに信じられるものではなかった。手塚は首を横に振ってその馬鹿げた考えを打ち消そうとした。ぬいぐるみが勝手に動くなんて、漫画や小説じゃあるまいし……。

 そんな手塚の逡巡も、すぐに現実を目の当たりにしたことによって打ち破られた。

 手塚の足の間に顔を埋める形になっていたテディベアは、周囲が明るくなったのが解ったように、はっと顔を上げた。
「!!」
 馬鹿げた考えが、現実となって手塚の眼前に襲い掛かってきた。

 テディベアと手塚の視線が一直線に交わる。
 その瞬間、直感的に手塚は全ての物事が理解できたように感じた。

 綿と布で作られたぬいぐるみが勝手に動くという不可解な事態において、手塚が何とか正気を保っていられたのは、テディベアと視線が合った瞬間に理由が推測できたからであった。
「――不二!!」
 名前を呼ばれたテディベアはいたずらがばれて困った子供のように、首を竦めた。

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<えーと、久しぶり、手塚>
 テディベアはそう言って、右腕を上げて挨拶をした。テディベアの表情は変わらないはずだが、手塚はクマの顔に不二の笑顔をダブらせて見た。
 『不二』と呼ばれた事を否定しなかったのは肯定の証と受け取ってよいだろう。筋肉のない身体がどうやって動くのか、声帯のない喉がどうやって声を出すのか、疑問は尽きないが、全て「不二だから」の一言で片付けておくことにした。無理を通して道理を引っ込めさせるのはこの天才のいつものやり口だった。
「お……お前、何故……!?」
<んー、実は僕もよく解らないんだけど、綿の中に髪の毛とか入れたから、かなあ。さすが、姉さんのおまじないはよく効くや>
 それはおまじないというよりむしろ呪いだろう、と手塚は思った。ちなみに「おまじない」は漢字で「お呪い」と書くので呪いとはもともと同義である。
 手塚が何から言っていいか解らず呆然としているうちに、不二inテディベアは器用にパジャマをよじ登って、手塚の顔面に達した。
 かなりの至近距離で見つめ合っていると、手塚はテディベアの顔を通して不二の心配げな表情が見える気がした。
<元気だった? 肩は大丈夫? 治りそうなの?>
「あ、ああ……経過は順調だ」
<……ならよかった>
 心底安心したように不二は言った。
<君、自分から全然連絡くれないからさ……心配してたんだよ>
 確かに、テニス部宛てのメールならば何度か送った事はあるが、不二個人宛てのメールや電話は一度もしなかった。忘れていた……というよりも、もともと不二から連絡が無い限り手塚から連絡をとるようなことはめったに無かったのだ。
「悪かったな」
<……寂しかった>
「……」

 テディベアはそっと手塚のもとに顔を近づけた。ぬいぐるみの口と、手塚の唇がそっと触れ合う。
 起毛した生地の感触は、普段のキスとは全然異なるものだった。

「……ッ!!」

 慌てて不二を払いのけた。思わず雰囲気に流されたが、相手がぬいぐるみであることを思い出した。自分達のしていた行動は端から見ればただの変態だ。

 軽いぬいぐるみの身体は、勢いよく飛んで病室の床に叩きつけられた。その音がかなり激しかったので、手塚はやりすぎたと思った。すぐに床の方をうかがう。
「す、すまん……! 大丈夫か?」
 顔面から床に打ち付けられた不二inテディベアは、すぐに両手を突いて起き上がった。全身についたほこりを払いながら、手塚の方を向いた。
<……大丈夫だよ。中身綿だし。ちょっと頭フラフラするけど>
「そうか……すまない、俺の考えが足りなかった……」
 テディベアはベッドの足をよじ登りながら、ベッドの上に戻ってきた。
<じゃああんまり動かないでよ。僕、今こんな身体なんだし、すぐ吹っ飛ばされちゃう>
「む……」
<抵抗しちゃ……ダメだよ>
 不二はそう言うと、手塚の下半身に向かった。パジャマのズボンそして下着の中に潜り込みはじめる。
 焦ったのは手塚だった。不二の意図しているところを察して、思わず両手でぬいぐるみを掴んで動きを止めようとした。
「……って、お前!!」
 だがぬいぐるみは、今度ばかりは妙に力強かった。引っ張ってもなかなか剥がれようとしない。
<せっかく久しぶりなんだしさ……>
 不二は両腕で手塚の性器を掴むと、ゆっくりと上下に扱きはじめた。
 布と綿のもたらす質感は生身の手で触られる時とは大きく異なるものだった。柔らかく、ゆるゆるとした刺激がじんわりと身体の熱を高めていく。
「……ッ……」

<どうせ君、一人じゃしてなかったんだろ?>
 確かに不二の言う通りだった。だが、だからといってそれを認めてやる義理はないだろう。手塚は何も応えなかったが、不二には全てお見通しのようだった。
<良くしてあげるからさ、じっとしててね>
「んっ……」
 熱くなっていく身体に流されて、手塚はぬいぐるみを引き剥がす事を忘れていた。より強い刺激を求めて、うっかりぐっとぬいぐるみを押し付けた。
<痛いってば……>
 迷惑そうな不二の声で手塚は意識を取り戻した。

 自分達のやっていることが急に実感を伴って意識された。はっきり言って馬鹿馬鹿しい光景だ。いくら精神は不二だと言っても、これはあくまでぬいぐるみだ。不二相手ではいつも済し崩しになるとはいえ、ぬいぐるみにまで同じように流されるのにはいくらなんでも抵抗があった。だいたいこれでは、事情を知らないものから見れば、ぬいぐるみで自慰をしているのと同じだ。

「だったら……、こんな真似は、止めろ……っ」
<本当に……止めていいの?>
 不二は愛撫をいったん止めると、一度中から外に出てきた。解ってくれたのか、と思って手塚が安心したのもつかの間だった。不二は手塚のパジャマのズボンと下着に手をかけると、力強く一気にそれを引き摺り下ろして股間を剥き出しにした。すでに成長している性器がはずみをつけて飛び出してきた。
「ッ……」
<ほら、こんなに大きくなってるのに>
 手塚の足の間に身体を移動させた不二は、再び愛撫を再開した。ぬいぐるみの鼻先を敏感な部分に擦りつけられる。鼻の硬さが綿の柔らかさとは違った刺激になって手塚を攻め立てた。ぬいぐるみの腕は下の方に伸ばされ、陰嚢と棹の間の部分を軽く行き来している。
「……く……っ……」
 棹の付け根の部分を強く弾かれると、手塚の上半身が前に傾いた。
 自分で処理していなかったことに加えて、久しぶりに聞く不二の声が、より一層速いペースで手塚の身体を高めていた。
<ああ……もう溢れてきた>
「う……」
<感じてくれてるんだね>
 嬉しそうな不二の声とは対照的に、手塚は羞恥で一杯だった。人以外のものに与えられた刺激で反応するなんて、自分の身体がどれだけ淫乱かをまざまざと見せ付けられているようなものだった。
 だが、羞恥心もまた、官能を高める要因でしかなかった。
「もう……嫌だ……っ」
 不二が顔を上げて手塚の表情を伺う。快感と羞恥に塗れた顔を見られたくなくて、手塚は両手で自分の顔を隠した。
<恥ずかしい? ぬいぐるみ相手に感じるの>
「あ……当たり前だっ……」
 弱々しい声で抗議する。普段の行為でさえ慣れないのに、こんな非常識な相手なんて、耐えられるものじゃない。
 だが不二は、少し笑ったようだった。
<僕は嬉しいけど。手塚が僕のすることで感じてくれるの>
 そう言うと、透明な液体の溢れる先端にキスをされた。

 手塚は慌ててぬいぐるみの顔を引き剥がした。
「馬鹿者……汚れるだろう!?」
 不二は一瞬、何のことか解らないようにきょとんとした。だが、すぐに自分の身体が布と綿で出来ている事を思い出したらしい。

 確かにこれ以上行為を続けると、ぬいぐるみは使い物にならなくなるだろう。
<あーそうか……まあいいよ。また作るからさ>
 不二は軽くそう言うと、再び手塚の性器に顔を近づけようとした。
「やっ……止めろ!」
 手塚は不二をを必死になって止めた。

「せっかくお前がくれたものなのに……!」

 手塚が思わず口走った台詞を聞いて、不二は動きを止めた。突然大人しくなった不二を訝しく思いながら、手塚も動けなかった。
 二人の間に沈黙が訪れる。
<……大切に、してくれてるんだ?>
「……!!」
 自分が先ほど言った台詞の意味にようやく気付いた手塚は、思わずぬいぐるみから顔を背けた。
 まともに顔を見ることが出来ないまま、小さな声で言う。
「……と……当然、だろう……」
<……そっか>
 手塚が手を離すと、不二は少し移動して、手塚の頬に軽くキスをした。

<ありがと>

 それで今晩の営みは終わりになるかと、手塚はそう期待したのだが。
 不二は手塚の耳元で、真剣に悩んでいた。
<でも……このままほっといたら君辛いよね……>
「だっ……大丈夫だ……だから」
 ぬいぐるみにこれ以上されるようなことは避けたかった。だが不二はそんな手塚にはお構いなく、きょろきょろと部屋中を見回していた。

<何か……代わりになるようなもの……>

 不意に、不二はある一点に集中した。
 視線の先には、お見舞いの品であるフルーツ籠と、その中で一際存在感を持つバナナがあった。

 その意図を察した手塚はさすがに抵抗した。ぬいぐるみの首を掴むとベッドの上に叩きつけた。
「……止めんか!!」

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 結局、手塚がトイレに行く事で、その場は収まった。
 病室に戻ってくると、ベッドの上に座っているぬいぐるみがこちらを向いた。まだ不二の意識が入ったままらしい。
「……戻らないのか?」
 ベッドに入りながら手塚が尋ねる。不二も一緒にベッドの中に潜り込んできた。手塚の首元に顔を埋めながら答えた。
<そういやどうやれば戻れるんだろうね。知らないや>
 不二の暢気な口調に手塚は黙り込んだ。そんな簡単に笑って流していい問題だろうか。
<まあいいよ、このままこっちで君と一緒にいられる方がいいし>
「馬鹿な事を言うな。お前の御家族が心配するだろう。それに……」
 手塚が続けようとした言葉を、不二が先取りした。
<テニス部のこと?>
 図星だったので手塚は言葉に詰まった。
「……その、とおりだ」
<そんなの解ってるよ。君がいないんなら僕ががんばらないとね……>
 不二はつまらなさげに答えた。
 そのまま急に喋らなくなった。
「……不二?」
 ひょっとしてぬいぐるみに戻ったのかと手塚は慌てた。だが名前を呼ぶと不二は冷めた感じで答えた。
<……何?>
 返事があったことに手塚は安堵した。だが、少し機嫌を損ねてしまったらしい。
「いや……どうかしたのか?」
 不二はちょっと間を置くと、溜息混じりに答えた。
<結局、君、テニス部のことしか考えてないんだなあ、って……>
「……すまない」
<謝らなくてもいいよ。実に君らしいと思うし>
「そうか……」
 誉められているのか貶されているのか微妙に解らない言い方だった。

 手塚が悩んでいると、突然、不二が抱きついてきた。
「……どうしたんだ」
<昔の人はね、好きな人の夢を見るのって、相手が自分の事を想ってくれているから、相手の魂だけ自分のもとに飛んできたって考えたんだって>
 確か古典で聞いたことのある話だった。
 何の物語だったか、それを思い出そうとしているうちに、急に眠気が襲ってきた。意識はまだ眠りたくないが、身体は既に深い眠りへと入りかけている。不二の声がゆっくりと小さく霞んでいく。
<夢でも会いたいって思うほど……ずっと想ってたんだよ……>
「そうか……」
 薄れゆく意識の中でなんとかそれだけ答えると、手塚はようやく短い眠りについた。

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 次の日の朝、手塚が起床した時、胸元にいたぬいぐるみはただのぬいぐるみに戻っていた。動きもしないし声も聞こえない。ガラス玉の瞳には何の感情も映ってはいない。
(……夢だったのだろうか)
 だが、昨日の夜のことが全て夢だったとしたら、ベッドの中にぬいぐるみがいることの説明がつかない。まさか無意識のうちに自分で連れ込んだとは思いたくない。
 力なくだらんと垂れ下がるぬいぐるみの腕は、僅かに染みと汚れがついていた。
(…………)
 夢だった方がマシな気がした手塚だった。

 その日、洗面所でぬいぐるみを洗っている彼の姿を、看護婦と医師数人が発見した。「彼女からのプレゼントを大事にしているのね」という余計な憶測がオプションでついてきた事は言うまでも無い。

 終幕。


『BLEACH』のコンをイメージして頂くと非常に解りやすいかと。

人形じゃなくてぬいぐるみだろそれ、というツッコミは甘受します。書いてから気付きました(遅)。
不二inテディベア……どっかで誰かが書いてそうなネタだと思いつつ……

本当はボールペンとかバナナとかいろいろ使おうと考えてたんですが……生ぬるくなってしまった……。
まあまた別の機会に。なんかいろいろとこの設定でネタ出来そうな予感。

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