眼鏡をはずして顔についた泥を洗い落とすと、そこはいやにひりひりと痛んだ。
「痛……」
だが、痛いのは別の場所かもしれない、と乾は思った。
彼がいなくなってから、誰とダブルスを組んでも何かうまくいかなかった。
自分でもそれは甘えでしかないと解っていたから、努力はしてみた。だが、どうしても物足りなさだけが残った。
今の場合だって、そうだ。
だが、この「何か」うまくいかない気分を言葉にすることは難しかった。
数字やデータで表すことの出来ない問題は、あまり得意ではない。
しかし、こんな理由からシングルスに行きたいわけではない。
そんな後ろ向きな理由では、ない。
それとこれとは別問題だ。
あの日の試合の決着をつけなければならない。
「大丈夫ですか。乾君」
その声で乾は水道を止め、顔を上げた。
水で洗ったとはいえ、まだ頬は痛んでいる。
眼鏡がないので視界はぼやけているが、声で誰だか判断はついた。
「……部長」
眼鏡をかけていない素顔を見られることに少しの恥ずかしさはあったが、気にしている場合ではなかった。
だが、おそらく大和であろう人物は、返事を返さなかった。
「……部長?」
不安になってもう一度、今度は疑問系で呼びかける。
「えっはい……って乾君、なんですか?」
大和は急に我に帰ったような奇妙な答え方をした。
ひょっとしたら、眼鏡がなかったせいで、一瞬自分だと解らなかったのかもしれないな、と乾はそう思った。特に自分の眼鏡は顔の大きな特徴になっているだろうから。
「そうです」
「はあ……」
大和は何か感心したような声を出した。
「っと、こんな場合じゃないですね。怪我は大丈夫ですか?」
「は、はい……掠り傷、です」
膝を曲げて乾と視線を合わせて、大和はやさしく問いかけた。近くに人の顔があるのが照れくさくて、乾は思わず視線をそらした。
「……何が、あったんですか?」
大和は優しい声を出した。
「この顔は、ぶつかって転んだせいです。先輩には責任はありません」
「向こうはね、乾君がダブルスを嫌がっているって言ってましたよ」
「……そういう……わけでは」
「でも、乾君は、シングルスを希望してるんですね」
「……はい」
素直に乾はそのことを認めた。
「どうしてですか?」
だが、その問いには即答できなかった。
自分の中にも、何か、判断できない部分があった。
昨日の太陽と同じように、心にもかさがかかっている。
先ほどのダブルスの最中も、「教授だったら……」と思うことがたびたびあった。
あの日の決着をつけるためか。
それとも。
ただ、柳のことが忘れられないだけか。
そんな理由じゃない、と心の中で言い聞かせてみても、否定できない自分がいる。
「まあ、……先に保健室に行きましょうか」
大和は緊張感をほぐすようにそう言った。
「え、いえ……大丈夫、です」
大丈夫であるということを示すために右手で少し頬の傷に触れると、ピリリと痛みが走った。
その様子を見て、大和は少し溜息をついた。
「……でもまだ血が滲んでますよ」
そう言って立ち上がると、大和は乾の手を引いた。
「!?」
親切に世話を焼いてくれる部長の心遣いは理解できたが、そこまでされるとさすがに恥ずかしかった。
「い、いえ。一人でいけます」
乾は大和の手を無礼にならない程度に振り払った。
「本当に? 大丈夫ですか?」
「はい」
なおも念を押してくる大和を安心させるために、乾は力強く答えた。まだ視界はかすんでいるが、なんとか、大和と視線を合わせて。
「そうですか」
大和は少し寂しげにそう答えた。
「では、僕は部室に戻ってますね。その後、ちゃんと50周走ってください。……ところで、乾君」
「はい」
「コンタクトにしないんですか」
脈略のない突然の質問に乾は首を傾げた。
何の話かわからなかったが、とりあえずその予定はないと答えた。
「……残念ですねえ」
大和は少し肩を落として去っていった。
その様子を乾はぽかんとしながら見ていた。
尊敬すべき点は多いとは思うが、時々思考回路がよくわからない人であった。
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「手塚の次は乾君狙いですか」
校舎の影にいた不二は、苛立ったように大和にそう言った。
今のやり取りを見られていたらしい。
「ほんっとに最低ですね、貴方」
「……そういうわけじゃありませんよ」
そうは言ってもやや後ろめたい点があったので、不二の軽蔑のまなざしが少し痛かった。乾の素顔が予想以上に可愛かったので思わずまじまじと見てしまったが。
だが、乾を気にかけていたのは、ここ最近のことではない。
「前から注意はしてたんです。手塚君や君ほど目立ってないとはいえ、乾君も名前が知られていましたから。そのうえ頑固ですし。いつかこういうことはあるんじゃないかと思ってたんです」
ひたすらノートを手放さずこつこつデータを採り溜めている姿に、あまり好ましくないイメージを持っている上級生は多かった。後輩のくせに生意気だと言うのだ。そして昨日のように、割と遠慮なく欠点を指摘する。それが正確であり、しかも小難しい分、指摘された側の怒りも大きい。
「にしても、彼、どうして、シングルスにこだわるんでしょうか」
不二は少し目を開いた。
何か知ってるのだと直感でわかった。
「不二君、知りませんか?」
「……さあ?」
知っているのに知らない振りをしているような言い方だった。
まあ、自分に対して好ましくない感情を抱いている不二が、教えてくれるはずもあるまい。
大和もあっさりあきらめた。
「ま、自分で聞き出しますよ。ところで不二君は何か話があったんじゃないんですか?」
そう大和に指摘されて、不二はわずかに戸惑った。
「あの」
しばらく悩んだような様子を見せた後、不二は重い口を開いた。
「もしも、乾君がどうしてもシングルスに行きたいって言ったら、どうするんですか?」
大和は顔には出さずに驚いた。
基本的に他人に興味を示さない不二が、乾のことを気にかけていたとは思わなかったのだ。
「……乾君の経験上、ダブルスの方が望ましいっていう理屈はわかります。けど……」
安心してください、と大和は苦笑しながら答えた。
「本人の希望を優先しますよ。でも、基本的に、シングルスもダブルスも、どちらもできるようになることが目的です。そのように練習しますから」
「そう……ですか」
不二はちょっと安心したように胸を撫で下ろした。
「でも珍しいですね。不二君が手塚君以外の話題を持ちかけるなんて」
そうからかうと、不二は少し気を悪くしたようだった。
「悪いんですか。僕が乾君の心配したら」
「そうは言ってませんよ。珍しいなあと思っただけで」
「…………」
不二は憮然としながら大和を睨み付けていた。
「だって、乾君は」
「?」
だが不二は首を横に振った。
「………止めた。誘導尋問にはひっかかりませんから」
「おや。駄目ですか……」
この様子で、あわよくば乾の事情を聞きだせるかと思ったのだが。
不二はぷいと顔を背けると、そのまま踵を返した。
だが、去り際に一言だけ残していった。
「……乾君には、戦いたい相手がいるんです……シングルスで」
大和は結局教えてくれた不二に驚いたが、すぐに軽く微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして、小さくなっていく背中にお礼を言った。
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不二が帰った後、大和は部室に戻った。しばらくして、乾が傷の手当てとランニングを終えてやってきた。無論、すでに眼鏡は装着している。
汗をタオルで拭っているところに声をかけた。
「どうですか、気分は」
「……部長」
頬には大きくガーゼが当てられている。口元にまで絆創膏が張られているためか、喋る時に口が痛そうだった。
「それと、怪我の具合はどうでしたか」
乾は少し口ごもってから答えた。
「血はよく出てますが、それほど重症ではありません」
「それは何よりです。ま、こちらに座ってください」
大和が勧めた椅子に、乾は軽くお辞儀をして腰をかけた。
「乾君は、ダブルスは嫌なんですか?」
「……そういう、わけでは」
歯切れ悪く答える。
「じゃあ、シングルスをやりたいんですか?」
「……出来れば、そっちを希望しています」
「でも君の経験を見る限り、ダブルスの方が向いている気がしますけど?」
「それは……」
乾は口ごもった。
「はっきり言いましょう。青学は代々シングルス向きのプレイヤーが多い傾向があります。僕たちの代も今の二年生もそうですし、君たち一年生もそうみたいです」
「……」
もっともこんなことは、いまさら大和が言わなくても、乾もよく理解しているのだろうが。
「君たちは……手塚君、そして不二君辺りがシングルスになるでしょう。そうすると、単純計算でシングルスの残りの枠は一人、と言うことになりますね」
「……はい」
乾の表情が暗くなる。
それは同じ一年生である乾自身が、よくわかっていることかもしれない。
「といっても、シングルスとダブルスプレイヤーに完全に分けてしまうことはありませんが……それでも、一応の目安みたいなものがありますから。はっきり言うと、ダブルスの才能を伸ばしたほうがレギュラーの道は近いと言えます」
乾はぐっと手を握り締めていた。
顔がやや、青ざめている。
「…・正直に言いましょう。君の小学校時代の成績を見る限り、ダブルスプレイヤーとしての君の存在に僕たちは期待していました」
「……!」
息を呑む音が、大和の元にまで届いた。
「今日はとにかく……もしも青学で乾君にあったパートナーが現れたとしたら、ダブルスを、考えてくれますか? ……それとも、やはりそれでも、シングルスを希望しますか?」
両手の拳をぶるぶると震えさせながら、乾は下を向いていた。
大和は少し言い過ぎたかもしれない、と反省していた。乾を責めるつもりではなかったのだが、彼の信頼を得るためには、こちらも正直に手の内をさらけ出してしまう必要があった。
確かに入部してきた乾の存在を知ったとき、竜崎と自分はダブルスで有力な選手が入ってきたと喜んだものだった。だが、乾は言い方は悪いがその期待を裏切ってシングルスに行きたいと言っている。
「すみません……」
乾の口から小さな言葉が漏れた。
「でも、俺、……教授以外のパートナーと気が合うなんて、考えられません」
聞きなれない「教授」と言う言葉に大和は少し首をひねったが、文脈から誰のことか予想はついた。
小学校時代の乾のパートナー、柳のことだろう。
今は立海大付属中に通っているという。幸村・真田といったメンバーと並び一年生ながらすでに名前は聞き及んでいる。
大和は少しきつい声を出した。
「……彼とでなければ、ダブルスは嫌、だと?」
そういう理由なら聞き入れられない、と暗に牽制しておいた。だが乾はそれを否定した。
力強く。
「そういうことでは、ありません」
走りながら、乾はずっと考えていた。
そんな理由でダブルスを捨てるのは、それはダブルスに失礼だと、そう乾は思い直した。
二人でがんばってきたダブルスを、そうやって思い出にしたいわけではない。
「ダブルスが嫌なんじゃないです。ただ……あいつとの試合が、まだ終わってないんです。どっちが強いのか、いつかシングルスで戦わなきゃならないんです。そのためにはシングルスじゃなきゃ駄目なんです……」
乾は急に饒舌に喋り出した。
「……」
「お願いします。シングルスでやらせてください……!」
先ほど不二の言っていた乾の「戦いたい相手」とは、彼の元パートナーのことらしい。
ふと、大和は不二が乾を気にかけていた理由がわかった気がした。
乾にとっての柳と、不二にとっての手塚という存在。
同じ追いかけるもの同士の何かを、感じていたのかもしれない。
「先ほども言ったでしょう? シングルスとダブルスに完全に分けてしまうことはしませんよ。だから当然、ダブルスの練習もシングルスの練習も同等に行いますよ」
大和の声がふと優しくなったのを、乾はぼんやりと感じた。
てっきり、身勝手な理由で部内に混乱を引き起こしたことで、怒られると思っていた。
だが顔を上げると、大和は微笑んでいた。
「それは……解っています」
「ですが、君の気持ちも解りました。……そうやって、ちゃんと話してくれればいいんです。ただ何も言わないで不満そうな顔をされても、相手は困るだけですから……」
大和の言葉に、乾ははっと気づいた。
「す、すみません……」
練習中の自分の態度を思い出した。
先輩に言っても解りっこないと高をくくって何も言わなかった。
それが今回のいざこざの原因になったのだ。
「これからは気をつけましょうね」
「はい……」
そう言って、大和は乾の方に微笑みかけた。乾も肩の力を抜いて笑った。
何か心も吹っ切れたような気分だった。
「テニスは個人技が中心ですが、大会はチームプレイです。皆が団結していないと勝ち抜くことは出来ません。解りますね」
「……はい」
「関東大会まで行けば、立海大付属と戦う機会もあります」
「そう、ですね」
ここ数年都大会止まりの青学には、関東大会は大きな目標だ。
だが、そこまで行かなければ、彼と戦える機会はない。
あの試合の決着を。
「関東大会目指して、がんばります」
そう答えた乾に、大和は苦笑しながら違いますよ、と返した。
「え?」
「目指すのは関東大会じゃありません」
「じゃあ、何ですか?」
大和はしばらく間を置いて、ゆっくりと答えた。
力強いまなざしで。
「僕たちが、青学が目指すのは、全国です」
その言葉に、乾は少し口を開いていたが、やがて納得したように首を縦に振った。
終幕。
まあこうやって、新入生を一人一人誑かしていく大和でしたってことですな。
ぶっちゃけ最後の台詞が書きたかっただけです。大和乾……三年生だとリバ推奨(……)。
不二の乾に対する感情はなんというか、ペットを愛でる感覚でしょうか。だから不二乾。
天才様の本命は塚です。不二塚思考なのでこれは譲れません。でも手を出すぐらい……(最低)
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