饗庭孝男



『故郷の廃家』
 (新潮社
  2005年2月刊)

●『幻想の都市』


 もうずっと前に読んだ本なのだが、鮮烈な印象を残している一冊に講談社学術文庫の『幻想の都市』がある。副題に「ヨーロッパ文化の象徴的空間」。フランドルやブリュージュやフィレンツェなど、ヨーロッパの歴史ある都市を逍遙し、その現在の風景の中に歴史の面差しを見つけるといった風情の歴史紀行なのだが、僕にとってはそもそも歴史云々はまずはどうでもよかったのであり、むしろその文体と、その文体によって切り取られる都市の情景の息を呑むような美しさに魅せられたことが何より貴重な読書体験であった。見知らぬ都市とは、それが現実の都市であれ架空のそれであれ、第一義的にファンタジーである。
 今でも憶えているのは、たしかブリュージュについて書かれている箇所だったと思うのだが、古い石造りの家々が建ち並び、その家の前を小さな水路が水音を穏やかにたてながら流れており、つがいででもあるのかそこに2羽の白鳥が静かに浮かんで毛繕いをしている、それを著者は、その水路にかかった古い石造りの小さな橋から眺めている、といった情景である。無論、僕の記憶自体は非常にあてにならないし、今この文章を書くに当たってその本を読み返しているわけでもないので(というか、僕の部屋のどこかにはあると思うけど行方不明になっているので読み返せない)、ほんとにそれがブリュージュだったのか、白鳥なんてものが描かれていたのか、もうまったく自信はないのであるが、しかし重要なのは、そうした風景がこの本を読んだことで今でも僕の頭の中に残っているという事実だろう。
 年間に読む本の中で、そうした描写が深く心に残っていくような本が何冊あるだろうか。いや、まあ、これは僕が忘れっぽいだけなのかもしれないけれど。
 その本の著者が饗庭孝男氏であった。フランス文学者であり、文芸評論家でもある。その文体の端正さについては、池内紀氏の『ザルツブルグ』の感想を書いたときにも触れた。

●中断


 と、およそここまでが5月末頃に書きつけた感想である。それから1ヶ月間、意識的に更新をやめたので、感想はここでふっつりと途切れることになった。更新をやめていた理由は、簡単に言えば心の病気である。6月下旬くらいからどうにか復活してきてはいたが、念のために期間を区切って7月までは更新をしないことにしたのだった。
 そんなわけで、読んでからえらいこと時間の経ってしまった感想の続きをどうぞ。

●「私」へとつらなる「歴史」


 本書の謳い文句は私小説ならぬ「私歴史」らしい。すなわち、天下国家の趨勢にしたがって記述される編年体の通史でも、みずからの出自にかかわらない古事をたどる民俗学的な歴史のあり方でもなく、あくまで出発点を筆者自身に置き、ちちはは、祖父祖母、親戚の者たちへと歴史を遡及する形での歴史随筆である。対局に置かれているのは、あるいは司馬遼太郎の歴史随筆あたりだろうか。
 本書では、父、母、叔父といった、比較的容易にその足跡がたどれる人々がどう生きたかを軸に据えつつ、最終的に「この自分」を終着点とする時代の歩みを描いている。その筆致は一様でないが、全体としては恬淡として必要以上に感情移入しないようつとめている印象を受けた。それをどう感じるかは人それぞれだと思うが、僕自身はそれを好ましいものと思う。歴史とは、感情移入しすぎると浪花節へと矯められてしまうものだと思うからだ。
 もっとも、淡々としすぎていてともすれば退屈に感じることもないではなかった。まあ、そうそうドラマティックなことばかりではないのが歴史の実態というものだろう。ただ、大きな歴史のうねりではなく、そのうねりの中で慎ましく生きる人々を描く以上、饗庭家には関わりのない人間にとって、いくら克明にその人生が描写されていようと、「だから何なんだ」という一言で済まされてしまう危険性があることは否定しがたい。そんなものどうでもいい、と言ってしまえばそれまでなのだから。
 そういう慎ましい人生を見ることで、読者である自分が生きていく上でのヒントが見つかるのなら、それは無意味なことではないはずなのだが、それをどう感じるかは理屈ではない。合わない人には合わない本だと思う。

 しかし、自分から遡って父母、祖父母、曾祖父へと歴史をたどってみたいというのは、歴史随筆を書くきっかけとしてはかなりプリミティブなものではないかという気がする。僕自身そんなようなことを考えたこともあるが、ものぐさで実行に移してはいない。
 僕のように考えたことはあるがやったことはない、あるいは途中でやめたという人が多い(多そうに思える)のは、ひとつにはこれが意外に面倒な手順を踏まねばならないものだからだろう。単純に系図を遡ればいい、というのなら戸籍をたどればいいが、まがりなりに人となりやたどった人生を明らかにしようとすれば、手近な存命中の親戚に話を聞くだけではすまされまい。場面によっては史料にあたってみなくてはならない、それなりに専門的な知識を要する場面も出てくるであろう。それにそもそも、一般に死者を悪しざまにいうのはよろしくないと見なす風習が日本にはあって、それが遡行者の目を真実から遠ざけるといったことも容易に予想しうる。真実を見極めるには、それ相応の知恵と技術が必要になる。
 また、饗庭家の場合は、江戸時代には地域の農民と班の侍たちとをつなぐパイプ役のようなことを、地域に根ざしたインテリの家系として担っていたらしいのだが、ほじくってもほじくっても百姓だ、という家系の人も多いと思う。こういう家系の人の場合は、そもそも史料がほとんどないから家系をたどること自体が困難であろうし、また文字に起こしてみてもまったく面白くないであろうことがたやすく予想できる。
 そう考えると、本書はおそらく、かなりの幸運が重なって生まれてきたものなのだろう。こうした試みが、こうして本になったことだけでも稀有なことであると思う。

●オススメできるかは人による


 なんだか、面白い本なのかどうなのか、そこのところがはっきりしない感想になってしまった気がする。
 人によって感じ方が極端に違う性質の本ではないか、と思えるがゆえに、なかなか感想自体が書きにくい本なのは確かだが、ここはひとつ、言い訳がわりに本書を面白いと思えるかどうかの尺度を示して筆をおくことにしたい。
 本書の帯には「児玉清氏絶賛!」という文字があった。別に児玉清氏が嫌いなわけじゃないし、読書家なのも知ってはいるが、「それははたして本の売り上げを伸ばすのに役に立つコピーなのか?」と僕としてははなはだ疑問だったものである。ともあれ、NHKの「週刊ブックレビュー」などでもオススメしていたらしいので、自分が児玉清氏と似た感性をしている、と思うのであれば、まず間違いなくオススメできる。
 あとは、おそらく、この自分自身が「歴史の総体」なのだという意識を持ったことがない人には、それなりにインパクトのある歴史の眺め方であると感じられるだろうから、これもオススメ。
 まあ他にも色々とあるけれど、できればスレていない人に読んでほしい一冊である。こういう歴史の見方は、年寄りになると自然に身に付くような気もするが、若いうちに触れておくとそれなりにその後、人生を楽しくするのに役立つ気がする。

 ちなみにどうでもいい話だが、この『故郷の廃家』という書名は、かつての学校唱歌「故郷の廃家」からとられているらしい。そうしかと書かれているわけではないが、年代的に著者がこの唱歌を歌ったことがあるのではないか、という勘ぐりはそう突拍子もないものではないと思う。
(2007.7.1)


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饗庭孝男

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