鮎川哲也



『準急ながら』
 (光文社文庫
 2001年8月刊
 原著刊行1966年6月)

●ただの冗談です


 ものすごく速い準急が出てくる話なのではないだろうか、と思っていた。
 たまの出張でその準急に乗り合わせた鬼貫警部は、そのあまりのスピードに驚いて言うわけだ。
「この準急は非常に速いな。そう、準急ながら速いな…」

 いや、もう、これほんまねえ、どうしても言いたかったんでねぇ。いやもうこれどうしようかなということなんですけども、ええ、まぁ、これねえ。
 ホントに申し訳ございませんでした。

●パラレルなピークと構成力


 ということで、閲覧者の9割がブラウザを閉じたところから感想がはじまる。
 本格推理の泰斗、鮎川哲也の長編推理小説で、本作でのカギとなるのはアリバイ崩しだ。
 とはいえ、アリバイ崩しにかかるまでの事件の展開の面白さは素晴らしい。むしろそちらが本作の眼目ではないか、と推理小説に接してもほとんど自分で推理しながら読むということをしない僕などは思ってしまう。

 愛知県の犬山で土産物屋の主人が殺害される。ところがこの主人、内縁の妻もおり、この地で長い間土産物屋を営んでいたというのにもかかわらず、警察で調べてみると男の名が偽名であったことが発覚する。当人が名乗っていた名前・本籍地の男は、今も青森県でピンピンして暮らしているというのだ。
 しばらく前にこの男に届いた手紙の差出人が参考人として浮かび上がるが、この差出人のお花の先生もまた、少し前に毒殺されている。
 はたしてこの両者の関係は、犯人の目的は、というわけで捜査が進められる。アリバイ崩しが主要トリックとなるわけだから、そこへいくまでに犯人の目星も動機も、かなりはっきりとわかっていくのだ。にもかかわらず、この凝った構成で、そこにたどり着くまでの決して短いとは言えないページ数、飽きさせることなく一気に読者を引き込んでいく。
 この構成力は、やっぱりただごとではない。

 推理小説好きなら、おそらく後半、鬼貫警部が真犯人のトリックを、ああやったんじゃないかこうやったんじゃないかとひとつひとつ仮説を積み上げては、やっぱりダメだったというので崩し、また次の仮説を積み上げる、推理の賽の河原ともいうべきロジックの積み重ねを本作の圧巻とするのではないかと思う。
 確かにこの箇所というのは行き詰まる迫力があって読ませるが、僕としては、まずいちばんに印象に残ったのは、そこに到達するまでの、事件の発端から真実を探り当てようとする丹那刑事他の悪戦苦闘ぶりである。
 それは僕がトリックにあんまり興味を持ってないからそうなのかもしれないし、解説で西澤保彦氏が言うようにいかなるトリックもそれが要請される小説構造の中にあってこそ意味を持つ、すなわちトリックとは小説構造そのものをてこにして小説の核心の位置まで昇りつめる装置であるからなのかもしれない。
 しかし、いずれにしても、小説のどこを面白かったと思うかは個人の自由だ。そして、さしてトリックに興味を持たない僕のような人間でもそういう箇所が発見できるというのは、小説として優れているということの証なのだと思う。
(2004.5.4)


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『死びとの座』
 (光文社文庫
 2003年3月刊
 原著刊行1983年12月)
 公園に置かれている1脚のベンチは、夜になると上から街頭の光があたり、そこに座っている人の顔が妙に青白く死人のように見えるので「死びとの座」とあだ名されていた。ある朝、その「死びとの座」で、正確に言えば、そのベンチから少し離れた水飲み場で、1人の男が死んでいた。「死びとの座」には銃痕が残っており、そこから取り出された弾丸は男の体にのこされていた弾痕と一致した。
 この小説はそんな始まり方をする。
 ありふれた、と言えばまぁありふれた推理小説の始まり方だが、「死びとの座」というネーミングが秀逸だ。
 そして、この始まりに先立って配置されたプロローグが、また秀逸である。
 これがどう秀逸だかには2つの理由があるが、そのうちのひとつの理由は、言うと思いっきりネタバレになるので控えるとしよう。言っても差し支えない方の理由を書いておく。

 プロローグでは、AとZ、そしてOとPという4人の仮名の人物が登場して、それぞれ別のシーンを演じる。Zがベンチに座ったAを射殺するシーンと、そしてPの運転する車にOが乗っているというシーン。
 そしてそれに続けて、こんな文言が挿入されている。
 AおよびOの正体は作中で明らかになる。しかしAとZの正体はわからない。それを追求していくことが、この小説の最終的な目標になる、と。
 推理小説という小説形式は、基本的に被害者から始まって犯人にたどり着くところで終わる。それが推理小説という形式のAtoZであって、鮎川の文言は、もちろんそれを踏まえている。
 しかしもちろん、それに自覚的だということ自体にはさしたる意味はない。それはポーが「モルグ街の殺人」を書いたときからわかっていたことだ。
 ただ、この小説の被害者が「有名人のそっくりさん」まぁ、今で言うものまねタレントであることを思うと、ここでその構造を宣言している意味合いは、意外に小さくないのではないかという気がする。どう小さくないのかについては秘密。
 ネタバレなしで推理小説の感想を書こうとすると、どうにも中途半端なところで筆を止めざるを得ないなぁ。

 それはともかく、小説自体はとても面白かった。
 やっぱり、この最後の最後でスコーンとひっくり返される感覚がたまらん。
 まぁ、それはいいんだけど、もしかしてこれ、火サスでテレビドラマ化されたときは犯人が変わってなかったかな?
(2003.11.19)


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『黒いトランク』
 (創元推理文庫
 2002年1月刊
 原著刊行1956年7月)
 本格推理小説の名作にして鮎川哲也氏の代表作とされる一作だが、同時に、鬼貫警部が終始、自分であっちこっちに動き回るという、鬼貫警部ものとしては珍しい作品でもある。被害者も加害者もスケープゴートも、みんな鬼貫警部自身の大学時代の同級生で、鬼貫は、これまた大学時代の同窓生で鬼貫のかつての思い人でもあった被害者の妻から、個人的にも捜査の依頼を受けることになる。
 僕が読んだのは創元推理文庫版だが、これの「Inspector Onitsura’s Own Case」という英訳題は、こうした内容をくみ、「クイーン警視自身の事件」をパロった形でつけられたものらしい。
 ちなみに、この「黒いトランク」、名前だけは有名だが絶版で入手できない、という時代が長くあったそうだが、鮎川氏が昨年(2002年)に物故する半年ほど前、創元推理文庫と光文社文庫から、相次ぐようにして版が起こされている。このへんの経過にどういった事情があったのかはしらないが、光文社版が初出のままのテクストを、仮名づかい等のみ訂正したにとどめたのに対し、創元推理文庫版は、鮎川氏自身の校訂によって手が加えられているそうだ。
 とまぁ、このへんの事情は、押さえておいていいんじゃなかろうか。
 鮎川氏の事実上のデビュー作である点、ほぼ同時期デビューであった松本清張との対比、影響を受けたクロフツの「樽」との対比、近年の新本格と呼ばれる作家たちへの影響など、推理小説ファンの方には、もっと語りたいことがあると思うけれども、今、僕としては、さしあたってそれを詳述する必要を感じないので省略する。
 蛇足ながら、この創元推理文庫版の語註は、妙に鉄道に関してのマニアックなデータに終始していて、書いた人の趣味性がにじみ出ている。註も鮎川氏自身によるものなのだろうか。

 本書の事件はトランク詰め殺人である。
 トランク詰めにされた死体が、駅の荷物預かり所で発見されるくだりなど、過去のトランク詰め殺人を踏まえていて、なかなかクラッシックで楽しい、と感じるのはちょっとひねた意見だろうか。
 それに続けて、そのトランクが駅に向けて発送された九州北部から中国地方にかけての地図やら時刻表やらが登場したときには、正直、うへえ、とか思ったものだが、そこらへんのディテールはまったく無視しても構わないくらいの勢いで、鬼貫が事件を整理していってくれる。
 推理小説を読んでいるにもかかわらず、自分で推理するということをしない僕のような怠惰な読者にも安心だ。
 最後の最後であかされるアリバイトリックも、なかなか意表をつくものがある。多分、「こりゃすごいよ!」と膝を叩くためには、物語を追いかけつつ、読者自身も推理を進めたのちに解答部分を読む必要があるのだと思うが、別にそこまでしなくっても、「意表をつかれたなぁ」レベルの感動なら、僕のような読者にも味わうことは可能だ。
 なんか、褒めてるのかけなしてるのかわからない文章になってしまった。しかし、これは一応、褒めているのだと思ってもらっていいので、それを付記しておく。
(2003.11.13)


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『王を探せ』
 (光文社文庫
 2002年5月刊
 原著刊行1981年12月)
 火曜サスペンス劇場では、水谷豊氏が主演の「地方記者立花陽介シリーズ」と、大地康雄氏が主演する「刑事鬼貫八郎シリーズ」が好きだ。放映があるときには、何をさておいても、というほどではないが、暇であればチャンネルを合わせるようにしている。
 何がいいといって、あのゆるさがたまらんのである。
 それなりに推理ドラマとしての体裁は整えられているものの、火サスを見ながら推理しているなんて人は日本中さがしたってほとんどいないのではなかろうか…と言ってしまったらやや語弊があるか。
 要は、ホームドラマ、旅情ドラマ風の味付けのされた推理「ドラマ」であり、画面の中の探偵たちがいかに推理を繰り広げようとも、視聴者としてはその推理に無理をしてついていく必要はなく、その推理劇のさまを「ああ、頑張ってはるなぁ」などと思いつつだら〜っと見ていられる。これがいいのだ。
 さすがに橋田壽賀子作品を見ようという気にはなれないが、ホームドラマ風の味付けのされた推理ドラマなら見てみようかという気にもなるのである。
 早めに風呂に入って、とりあえずパソコンをつけて適当にホームページを見回ったりしながら、その一方で垂れ流すように火サスを見る。この時、お好きな人ならビールなど飲んでいてもけっこう。大事なのは、別に推理なんてしていないし、それ以前にする気もないというところだ。
 このゆるさ加減の楽しさは、本格推理小説好きを自称する方々にはわかるまい。
 ただし、垂れ流しとはいいながら、やっぱり丁寧な作りのされたものの方が、見ていて面白いのは当然である。その点、上記の2シリーズはなかなかいいのだ。「刑事鬼貫八郎シリーズ」など、大地氏のコミカルな演技と、妻役の左時枝氏とのやりとりもいい箸休めになっているし、気がつくとはまりこんでいたりして。

 で、その「刑事鬼貫八郎シリーズ」の主役、鬼貫刑事(小説では警部)の生みの親が、本書の作者であり、約1年前に亡くなられた鮎川哲也氏である。すっかり前置きが長くなった。
 本書も鬼貫警部ものの一作なのだが、いやあ、読んでびっくりである。
 鬼貫警部って、独身だったんすね、小説では。
 それどころか、原作では鬼貫「八郎」という名前ですらなく、山前謙氏の解説によれば、そもそも名前自体が設定されていないらしい。もちろん糖尿病で医者にかかってもいないし、その割に甘い物に目がなかったりもしないのである。コーヒーよりもココアが好きなのだが、砂糖を調節して甘さは控えめにしているという。どっちかというとダンディーな感じなのだ。
 言うまでもなく、テレビドラマ版では、氏名は「鬼貫八郎」、公営団地風の手狭な家に妻一人娘一人との3人で暮らし、甘い物に目がないのがたたってしばらく前に糖尿病で入院。以来、妻の厳格な監視の元で食事制限を施されつつ、その反動で捜査先におもむくやコーヒーに何杯も砂糖を入れたりコンビニでケーキを買ってむしゃぶりついたりするという、大地氏の風貌とも相まって何とも憎めないおっちゃんとして描かれている。
 そうかー。あれはホームドラマ風の味付けのためにテレビ版ではじめて後付けされた設定なのか。あれはあれでいい味を出しているんだけどな。
 ふと思い立って、サーチエンジンで調べてみると、出てくるわ出てくるわ、やっぱり本格マニアには、この手のテレビオリジナル設定というのをものすごく嫌っている人が多い。推理小説に限らないが、何かのジャンルがものすごく好きだという人は、結構、自分の好きなものに他人が手を加えるということを嫌う人が多いのである。
 これは自戒も込めて書くのだが、できるだけ、心を広く持ちたいものだ。
 だいいち、原作通りの鬼貫警部像でドラマを作ってしまったら、絶対に人気はでなかったと思う。

 小説自体は、本格推理を探求した鮎川氏らしい骨太なもので、読者にどの情報を与えるか、どの情報を与えないか、という取捨選択にものすごく気が配られているのがよくわかる。
 被害者の残したメモによって、犯人の名前自体は最初からわかっているが、東京都内および近郊で5人いる同姓同名者のいずれもが、表では被害者とつながりを持たないために、誰が犯人であるかはわからない、という変わった構成となっており、5人のアリバイ崩しを軸にした捜査が展開される。
 テレビドラマ版で同じ話を見たことがあったせいかもしれないが、描写が真犯人だけ細かいものだから、犯人がどの人物かは割とわかりやすいのではないかと思う。アリバイ偽証のトリックについては、僕は専門家ではないのでよくわからないんだけど、まぁ、適度なのではないかと。
 非常に抑制のきいた、淡々とした文章が、横溝正史とはまた違った、乾いた味わいを感じさせる。それが警察組織のチームワーク捜査という面とよく合っているように思えて、僕にはむしろ文体についての興味が刺激されるところが多かった。
(2003.10.9)


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鮎川哲也

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