安斎育郎



『死体が語る真実』
 (文春文庫
  2005年7月刊
  原著刊行2004年)

●法人類学って知ってますか


 この本を読み終わったのも随分前になるので、感想を書くかどうかについては迷ったんですが、まー、ここは、自分の感想を他の方に読んでいただくための場であると同時に、自分のための読書記録でもあるので、やっぱり短くても書くだけは書いておこうかと。
 著者であるエミリー・クレイグは、現役の法人類学者で、「白骨死体のプロ」である人物。
 身元不明の死体を調べ、顔を復元したり、身元を特定したり、死因について何かヒントを見つけたりするのが仕事。
 で、まあ、こう書くと、人によってはテレビドラマの「CSI」シリーズを思い浮かべるかもしれない。あるいは、このサイトでも感想を書いたこともある上野正彦氏の著作とか。
 実際、本書には殺人事件の被害者も登場するし、ブランチ・ダビディアン事件も、9・11テロも登場する。それら全ての事件で、著者が「仕事」をしている。
 しかし、先にも挙げた著者の肩書きである「法人類学者」というのがどういうものなのか、と問われると、それを正確に理解している人はどれだけいるだろうか。
 法人類学と法医学とはどう違うのか、あるいは、法人類学者って要するに法監察医とか検死官と同じものなのか。法病理学というのもあるけど、それとの違いはじゃあなんなのだ。こうしたことをスッキリわかっている人というのは、たぶんそれほど多くない。
 実際、自分もわかってなかったし、今でもかなり怪しい。あと、多分、少なくとも訳語としては、「法人類学」というのは熟してないんだと思う。だって、民族学の一派のことも法人類学って呼ぶことあるみたいだし。

 えーと、それで、簡単に説明すると、法人類学というのは、法医学の一部であるらしい。
 法医学というのは、「法医学教室シリーズ」というサスペンスドラマのシリーズもあるくらいで、割に耳慣れてきてる言葉ですけれども、実際のところ、法医学といっても中身はかなり広い。一般の医学にも、耳鼻科から眼科、内科・外科・泌尿器科・産婦人科・精神科と色々あるのと同じだ。死んだ人間にだって目から内臓、骨や歯と色々なパーツがあるわけで、それを1人の学者が法医学の全ジャンルについてエキスパートですということはまずありえない。
 法人類学というのは、そういう広い法医学のエリアの中で、人間の堅い組織、すなわち骨とか歯を専門に扱うジャンルのことなのだそうだ。
 一方、法病理学というのは軟組織、つまり筋肉とか内臓を専門にするジャンルだとのこと。
 したがって本書の「まえがき」でキャシー・ライクス(作家であり、法人類学者。法人類学の世界をあつかったアメリカのドラマ「BONES」の原案者の一人)が述べているように「死後間もない、比較的損傷の少ない死体は病理学者のところへ。屋根裏部屋から出てきた白骨死体や、墜落したセスナ機の中の焼け焦げ死体、木材粉砕器で砕かれた骨の断片といったものは人類学者が引き受ける」ことになる。
 監察医とか検死官というのは、役職名ということになると思うが、遺体の状態が様々である以上、その役職には法人類学者も法病理学者も、双方がつくと考えた方がいいだろう。
 ただし、一般に自分たちが思い浮かべるような、モルグの引き出しから変死体を引っ張り出して解剖し、弾痕を探したり傷跡から鈍器の形状を予測したりして、遺体に残された殺人の痕跡を探し出す、というのは、主に法病理学者の仕事と考えていい。
 法人類学者は「骨を調べる」のだから、五体満足な死体(という表現もおかしいですが)は専門外だ。彼らの手元にやってくる死体は、どこか一部分だけの骨であったり、あるいは筋肉や内臓組織は腐ってしまって、そこからでは何もわからないことが明らかであるような肉塊であったりする。

●死体のリアル


 さて、法人類学者の仕事を逐次解説していっても、いたずらに長くなってしまうばかりなので、感想なのだが。
 序盤は、正直言って、あまり面白くない。
 この類の本を読むとき、何を期待するかといったら、実際の事件に即して、「こんな死体があって」「調べたらこんなことがわかって」「こんな犯人がつかまりました」ということだろう。「CSI」のリアル版である。
 でも、法人類学者がいくら頑張っても、死体の身元さえわからない場合もあるし、身元がわかっても犯人逮捕に至らないこともある。現実はそんなにスッキリとは片づかない。それはもう、当たり前といえば当たり前のことなのだ。
 だが、それは承知の上とはいえ、エミリー・クレイグ本人がいかにして法人類学者になったか、を聞かされつづければ、ちょっと待ってくれ、そんなものは頼んでない、と言いたくなるのもやむを得ないことだと思う。
 最初の100ページくらいは、おおよそそんな感じで、彼女の修業時代と新人時代に出くわした事件のことがつづられている。パトリシア・コーンウェルの小説にもなったテネシー大学の「死体農場」での研修のことなど、興味深い記述もあるが、ぐいぐい引き込まれるとまでは言えない。

 あと、人によっては、蛆虫の描写がきつい、という人もいるでしょうなあ。当たり前だけど、死体にはウジが湧くのである。
 法人類学者は骨を調べるのが仕事なので、まだ完全に白骨化していない死体の場合、肉塊を蛆虫ごと茹でてから、肉をそぎ落とす、というところから仕事が始まることもある。
 蛆虫に関しては、著者も多分、嫌な思い出が山ほどあるのだろう。法人類学の仕事において、貴重な証言者であることもあり、つきあっていかざるをえない虫であると言いつつも、妙に力の入った描写が多い。「死体の胸腔や腹腔内に何千匹ものウジがかたまっているようすは、ちょうどゆですぎてドロドロになった米を鶏のお腹にぎっしり詰めてあるところのようだ」(p.174「正義を求めて」より)なんて、もうなんか読者に脅迫的に訴えかけてくる。あ、ちなみに明日からサムゲタンが食べられなくなっても責任持ちませんよ。

●アメリカの死体


 面白くなってくるのは、100ページ過ぎたあたりで、「ブランチ・デビディアン事件」(一般に日本ではブランチ・ダビディアンと呼ばれることが多いが、ここでは本書の記述に倣う)で、著者が調べた遺体について語られはじめたあたりだろう。
 そこからいったん、ケンタッキー州で携わった事件の記述になるが、ここも多種多様な法人類学者の仕事がわかって非常に面白い。そのままドラマにしても十分に成立しそうだ。
 骨から何がわかるか。男か女か、というのももちろんわかる(ことがある)。そして、これは日本にいるとすぐにピンとこないのだが、彼らの仕事で非常に重要なのは、骨から人種を推定するという作業らしい。当然だが、白骨化した死体の多くは身元が不明である。顔を復元して身元を確認するにしても、白人か黒人かアジア系か、そのあたりの情報がわからないと復元は不完全に終わり、身元不明死体が増えることにつながる。これは多民族社会であるアメリカでは、とりわけ重要なことなのだろう。人種の推定に関する苦労話は、本書の中にもいくつも出てくる。
 そして、そういう身元不明の白骨死体が、また凄くたくさん出てくるのもアメリカならでは、なのかもしれない。
 ケンタッキー州というところは、僕などはどうも、のどかな田舎というイメージしかなかったのだが、昔から荒事の多い土地柄らしい。マーク・トゥウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』にも材をとられたハートフィールド家とマッコイ家の争い以来、ある種の伝統のようにして、暴力で片を付けることをよしとする風潮がある、と著者は語っている。ちなみに、ハートフィールド家とマッコイ家が血で血を洗う抗争を繰り広げたのは19世紀末のことなのだが、Wikipediaによれば最終的に2003年になって、両家の間で停戦協定が結ばれたという。ホント、最近の話だ。

 そして、オクラホマシティの連邦ビル爆破事件、9・11テロ事件と記述は続く。
 このあたりになると、著者の筆も奔っている。いわゆる殺人ではない、ということとは関わりなく引き込まれてしまう面白さがある。
 一片の骨から身元を割り出し、どうにかそれを家族の元に返すため、大規模なチーム制が敷かれ、著者もそのチームの一員としてみずからの責務を果たす。
 法人類学者チームの中での体験、そして、同じ事件現場で仕事をする警察、消防隊、そして遺族たちとの関わりを、著者は「大規模テロからの復興」というドラマの中で描いている。
 そのあたりの社会正義みたいなものへの無邪気な信頼感はアメリカ人らしいなと思うのだが、それでもその社会正義という原理に基づいて仕事をし、ひとつひとつの遺体を(こうしたテロ事件では、それこそ膨大な身元不明死体が出るわけだが)家族に返すために働く法人類学者チームの姿は非常に面白いし、尊いものであると思う。
 本書の記述は、必ずしも完全にまとまりきってはいないのだが、しかし著者がみずからの仕事に持っている誇りと興味を雄弁に物語っていて、単なる殺人事件への野次馬的な興味から読み始めても十分にひきつけられる一冊になっていると感じた。
(2009.3.23)


目次へ    


エミリー・クレイグ