石原千秋



『テクストはまちがわない -小説と読者の仕事-
 (筑摩書房
 2004年3月刊)


 テクスト論によって書かれた論文集。
 石原先生の仕事で一番売れているものというと、やはり入試国語について書かれているものなのだろうと思うが、しかしその入試国語の欺瞞を言うとき、その根っこの部分には「テクスト論」による読解がある。それがわかっていないと、結果的に『秘伝中学入試国語読解法』を読んだとしても、何を読んだことにもならないような気がする。
 もちろん、『秘伝中学入試国語読解法』にしても、その中にテクスト論のエッセンスは書かれている。書かれているのだがしかし、それをしっかり読みこなせる読者がどれだけいるのか、ということになると、いささかの疑念を禁じ得ない。ただのハウツーとして読んでしまうのは、あまりにも惜しい本なのだ。

 そこで、本書である。
 専門書だからちょっと高いけど、5000円足らずならまあ良心的な方ざんしょ。
 いろいろなケースがあるからオールラウンドに言えることではないけれど、何かの理論をベースに他の仕事をしている、というような著者について理解を深めたいと思ったら、とにかく本丸に近いところに飛び込んでみることはひとつの有効な手段だろう。養老孟司を知るためには『バカの壁』ではなく、まず『唯脳論』を読むべきだ、ということ。
 石原先生の場合、理論書としてまとまったものよりも、こういう、実際に作品に当たりながら、それをテクスト論として読みこなすというような仕事が本丸かと思う。もっとも、本丸過ぎて読むのが大変、みたいなこともあるかとは思うし、論文である以上、懇切丁寧な作品解説などは望めないのだけれども。

 こちらの理解不足はひとまず措いて、単純な印象だけで言うなら、面白かったのは漱石の『夢十夜』を、独立した10本の連作短編としてでなく、時間と空間をモチーフに、ひとつの問いを10に区切ったものとして読んだ「『夢十夜』における他者と他界」あたりか。
 村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や、太宰治の『人間失格』など、僕自身にとって思い入れの深い作品を論じたものも収められているのだが、理解が及ばなかったのか、あまり印象に残っていない。出来ればもう一回、気になるものは読み返したいと思っているけれども…、字が小さいのだけなんとかしてほしい。最近、乱視がひどくなったのか、近くのものでもなんかぼやけて見える。
(2008.5.17)


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『Jポップの作詞術』
 (生活人新書
 2005年11月刊)

 ちょっと時間があったときに一気読み。まあ石原先生の本の中では、そうやって一気読みのできる本ではある。これはいい意味で言っているように聞こえるかもしれないけれどそうではなくて、読んでいて引っかかりが少ないという意味合いだ。
 最近、新書やなんかの世界では売れっ子の仲間入りを果たした感のある石原先生だが、新書などでの仕事は石原先生の仕事のすべてでは当然ない。石原先生の著作は基本的には自分の研究に関わる著作と啓蒙の仕事に二分されていると考えていい。それは石原先生が、、受験関係の著作をいくつか手がけた結果(あるいはもとからなのかもしれないが)、大学教授という仕事の「教師」としての側面を重く見るようになっていることのあらわれだろう。
 本書はタイトルからもあるていどわかるとおり、Jポップの歌詞をテクスト主義の方法論を用いながら読み込んでいくというもの。ま、石原先生の名前を知っていないとテクスト主義とJポップとを結びつけるのは難しいかもしれないけど。
 で、これ、元は「ドリコムニュース高校生 東日本版」なる受験生向けのフリーペーパーで連載されていたものらしい。まあ、言ってしまえば高校生向けですな。受験生向けに大学クラス以上の「読み」の一端を紹介し、啓蒙していくというのは必要でもあり大切なことなんだろうけど、まー、なんつーか、このレベルのものだと食い足りないかなあというところはありました。すでに他にもテクスト主義で漱石なり他の作家なりを読む、という本を読んでるからなんだろうけど。
 入門にはいいかもしれませんが、漱石を扱っていたとしても別に難しいということはないし、かえってその方が奥深くて面白いと思うので、入門であってもそちらの方がおすすめかなあ。

 採用している歌詞に対する批判が皆無だとか、歌詞に対する読みが恣意的なのではないかと感じられる部分もあったりとか、あら探しをすると色々とあったりはしますが…。
 ま、ジャスラックの許可を得て歌詞を全部載せてるし、高校生にファンが多そうなアーティストの楽曲が多かったりするので、批判的な読みが少ないのは大人の事情でしょうね。読みが恣意的なのもその延長かな。まあ、そもそもテクスト主義自体がそういう恣意的な読みを導入してしまう危険性を持っていることはしばしば言われることでもあるわけです。それは承知の上で、それでも研究方法のひとつとして意味は十分にあるんですが、万能の読み方ではないので。
 そういうアラが見えてくれば大学生レベルへのステップかな、という意味でも高校生レベル向けの一冊かと。繰り返しになるけど僕はもうこのレベルのもんだったらいらないなあ。
(2006.11.23)


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『漱石と三人の読者』
 (講談社現代新書
 2004年10月刊)

●今のサイトもよしあしあって


 読んでからしばらく、この感想を書きはじめるまでに間があったため、読み終わった時の感動をダイレクトに表現できないのが惜しいなと思う。まあ、感動というのともちょっと違うのだが、「ああこのひとすげえ!」とか「本読みになってよかった!」とかいう気持ちは読み終わった時には確かにあって、でもそれは時間をおいて濾過することで、今の僕の中では本書がとっているスタイルの構造分析的な意見になっている。僕が研究者だったらそれでいいのだが、そうじゃないからな、残念ながら。
 今の、「読み終わった本」が常に感想待ちの状態でストックされている状況というのは、僕自身にとってもあんまり理想的ではないのだというお話。

●スッキリ夏目漱石


 講談社現代新書のカバーデザインが変わったのはもうけっこう前の話である。本書はその変わった当初に刊行された。スッキリしたかわりに、以前のカバーデザインが持っていた猥雑さみたいなものが今のデザインからは感じられない。新書のシリーズ全体をアカデミズムよりにもっていくのなら、イメチェンとして今のデザインはアリだが、さて、そうすぐに変わるものか、とも思う。かつては一番アカデミズムから遠かった新書シリーズなんだけどね。いや、これは現代新書の魅力でもあったわけだが。
 ただ、本書に関しては新デザインと内容はそれなりにマッチしている。たぶん以前のデザインでは、ちょっと内容のスッキリ具合にあってこないんじゃないかと思う。
 スッキリ具合というのが何を示しているのかを明示せずばなるまい。
 それはつまり、内容の絞り込みかたである。漱石のいくつもの作品について語っている本書は、中身をギュウギュウに詰め込んでいるように見えるかもしれないが、そうではない。そうではなくて、視座を「漱石の読みの多様性」に固定することで、この作品もあの作品も違う顔が見える、とサンプルを多めにとっているだけなのだ。それぞれのサンプルの読み方が面白いので、ついそっちに目がいくが、重要なのはその視座の方である。
 実は石原先生ご自身は、本書の眼目は漱石の読みの多様性を示すことではない、と「あとがき」で明言している。本書においては、漱石がおよそ3種類の読者像に向けて、それぞれの読者像に対応する読解を重層的な構造として織り込んで書いたのではないか、という漱石の読者意識の問題こそが焦点なのだと。
 そうかもしれない。でも読者としては何よりもまず、示されている読みの多様性を玩味すべきじゃないのだろうか。
 その多様性の淵源を、漱石の読者意識に求める石原先生の解釈ないし推理が正しいのかどうか。それはその後で考えるべき問題だ。でも、ぶっちゃけそこまで考えることができる読者がそうそうたくさんいるとも思えない。僕自身、それを考えることができるほどのスキルはない。
 漱石の小説が重層的な構造を持っていることは、今さら否定のしようもない。でも、「何のために漱石はそのような構造をとったのか?」という問いをみずからに問うことができる読者がどれだけいるだろうか? ここで考えられているのは、そういうことなのだ。

●職業作家としての夏目漱石


 少し話が前後したが、本書で試みられているのは、漱石自身はおよそ3種類の読者像を持ち、それぞれに向けて小説を書いていたのではないか、という試論である。
 作家というのは、少なからず「自分が書いているものを読んでいるのはどんな人なんだろう」ということに興味を持つものだ。別に小説家じゃなくともいいので、ブログだってそうだ。優れた書き手とは、読者のニーズを読むことに長け、それに応えることができる者のことを言う。その上で、自分の主張を語ることができる人というのが理想ではあるが、これはやってみればわかるけど尋常じゃなく難しい。締め切りに追い立てられていればなおさらだ。
 逆はいっぱいいる。自分が語りたいことを語るのに熱心で、読者のニーズは「書きたいことを書く」という大義名分のもとに一顧だにしない。あるいはそもそもそういうものが目に入っていないのかもしれない。別にアマチュアならそれでも本人が楽しんでいればいいんだろうけれど、たとえばそういう作品が週刊少年ジャンプに載っていたらこれは問題だ。10週打ち切りはもちろん、載せた編集者だってただではすまない。
 何でこんな僕自身の首を絞めるようなことを書いているかというと、漱石は朝日新聞社に雇われた専属の職業作家として、そうした読者意識というものを鋭敏に発揮したのだ、というのが本書の主張だからである。
 当時、朝日新聞に限らず、「新聞」というものを読む層というのはまだまだ限られていた。まだ大新聞・小新聞(おおしんぶん・こしんぶん)の区別があったころの話だ。政治や社会問題を扱う大新聞である朝日新聞の読者層は、官僚などを中心とした、都市に住むホワイトカラーの中級エリート層であり、漱石も彼らに向けて小説を書いていた。漱石が執拗に描いた「東京山の手」が、そうした読者たちの暮らす土地であったことは、すでに石原先生自身『漱石の記号学』の中で述べているとおりである。
 だが、漱石には、そうした何となく顔の見える読者像以外に、明確に意識せざるをえない読者たちがいた。いわゆる漱石山房の弟子たち、すなわち小宮豊隆であり森田草平でありといった人々である。生意気ざかりの文学青年たちは、漱石にとってもっとも身近な読者であり、また批評家であった。
 そしてまた第三の読者像がある。これは、漱石にとっては顔の見えない読者であると石原先生はいう。彼らは、たとえば最初にあげた「何となく顔の見える読者」になりたいと思っている人々だ。勉強して出世して山の手に住む、朝日新聞を読み、日々忙しくしかし充実した日々を送り、故郷に錦を飾る、そんなことを夢見ているが、実際には、小説こそ読むものの、山の手の住人にはなれていない人々。

●売れない作家夏目漱石


 漱石のテクストに依りながらその重層性を示し、それぞれがどのような読者に向けて書かれているのかを考察する石原先生の言葉にはいつもながら説得力がある。だが、何より説得力があるのは、「あとがき」に書かれている、「生前の漱石は本が売れない作家だったのだ。」から始まる箇所だろう。
 当時の出版業界は、もちろん今とは比べものにならないほど小さい業界ではあった。が、もともと少なかった部数自体、朝日新聞社入社後、目に見えて減っていく。しかも当時は奥付に作者自身が検印を押していたわけだから、その「減少」は漱石自身、体感していたはずなのだ、というのである。
 「では、いったい漱石は誰に向けて書き続けたのか。何が、漱石を支えたのか。」その疑問から、石原先生は複数の読者像に向けた書き分けという着想を得たという。
 「誰に向けて書いたか」と「何が漱石を支えたか」というふたつの疑問の間には、実は飛躍が潜んでいる。「作家を支えるのは読者がこれを読むんだという矜持だ」という意識が前提として存在しているからだ。実のところ、自作のクオリティへの自負とか、数少ない顔の見える読者からのレスポンスとか、他にも作家を支えるものはあるんじゃないかという気はしないではない。
 ただ、その飛躍は飛躍としても、漱石の読者意識をめぐる推論自体は非常に興味深い。
 願わくば、本作でやや触れられることが少なかった「第3の読者」に向けた漱石の意識にも、今後の著作で触れていっていただければと期待する。
(2005.9.29)


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『教養としての大学受験国語』
 (ちくま新書
 2000年7月刊)
 「秘伝 中学入試国語読解法」「小説入門のための高校入試国語」(以下、それぞれを「中学入試」「高校入試」と略す)と読み進める中で、ひとつ気になったのは、中学・高校入試国語と大学入試国語では、ちょっとレベルが違うよ、という石原先生の主張だ。この主張は、具体的には「高校入試」の方にちらっと出てくる。
 大学入試国語では、そもそも小説問題が少ないこともあるけれども、高校入試までで前提となっている、学校空間の倫理を前提とした学校的な問題文・物語というのはあまりない。と、おおよそそんな感じのことを書いている。
 同様の主張は、本書の表紙をめくったところ、カバーの折り返しの部分にも書かれている。「大学受験国語は、限られた条件の下での出題とはいえ、高校の『国語』よりもはるかにバラエティに富む。心ある出題者が、思考の最前線に幾分かでも触れてほしいと願っているからだ」。
 まぁ、この折り返し部分は、おそらく編集者かだれか、著者以外の人間が書いているのだが、それでも、本書にはまったく書かれていないことが、いきなりここで登場したりはしない。
 本文中、著者は、みずからも大学で国語の入試問題を作る立場から、いろいろと内幕をしゃべってくれるが、その中に、どうして大学入試国語が高校までの入試国語と違ってくるのか、またどう違ってくるのかを読み解くためのヒントも豊富にある。

 高校国語のレベルに比べて、大学受験の現代文が難しすぎるのだ。高校国語のレベル設定の低下は、教育が大衆化する時代の要請でもあったからやむを得ない点もあったが、やさしくしさえすればいいと考える文部省にも責任がある。(中略)一方、入試で現代文を出題する大学教員の多くも、高校国語のレベルを知らなさすぎる。(p.11)

 などというのがパッと目についたけど、「(問題文を引用する際)出題者にとって意外に大切なのが、受験生の心に残る文章であること。入試問題は、合格した受験者だけでなく、不幸にも不合格になった受験者にも真剣に読んでもらえる唯一の文章なのだ。だから、せめてこの大学の国語問題は面白かったとか洒落ていたとか思ってもらいたい」とか、「日本文学の研究者にもカルスタ(※書評者註:カルチュラル・スタディーズ)の信奉者がどんどん増えているから、大学受験国語にも国民国家というキーワードが顔を出し始めたのである」なども、大学入試と関係のない場所に立っている人間には面白いだろう(僕自身はこちら側)。
 一方で、大学入試が自分の身にやがて降りかかる、というリアリティーをまだ持っている高校生や浪人生には「(『その』とか『そうした』などの)指示語の設問は、大まかに言って三種類ある(1.問題文が悪文で指示しているものがよくわからない場合。 2.指示語が本文のゆるやかな要約を求めている場合。 3.指示語が本文の主旨を指している場合)」とか「本文との合致を問う設問では、合致する選択肢の数は間違いの選択肢の数より少ないのがふつうだ。なにしろ、引っかけて落とすのが入試なのだから」といった、受験テクニックと微妙に関わりのあるコメントの方が興味深いのではなかろうか。

 さて、本書のモチーフのひとつが、受験生の国語能力の低下ではないか、という推測は、昨日、「国語入試」について述べる中で書いた。
 その解決のために、著者は、さまざまなトピックに対して、自分なりの座標軸を持ってくれ、と言っている。
 大学入試で取り上げられることの多いさまざまなトピック(それはアイデンティティーであったり、フェミニズム批評を含めた身体であったり、大衆についてであったりするが)について、それぞれ、適当な例題問題文を引きながら簡便な解説を加えているので、「さながら現代思想のすぐれたアンソロジー」(「はじめに」より)としても読めるし、楽しめる。
 ただし、大学受験のためには、別にそれぞれのトピックについて、代表的な批評の考え方を知ってなくてはいけない、などということではない。まぁ、当たり前だ。
 「教養とは知の遠近法のことだ」という「はじめに」での言葉が示すように、問題とされている事柄に対して、二元論で座標軸を作り、その座標軸の上に問題文を配置することが求められるのである。そして、その軸の上に、自分自身の立場を置いてみることが、ひとつのトピックに対するスタンス、距離のとりかたをもたらす。それこそが、大学受験国語で求められる素養のひとつ「教養」だということらしい(ちなみに、求められる素養のもうひとつは「受験テクニック」)。

 扱われているさまざまな事柄についての問題文は、単純に読み解くだけでも、けっこう頭を使う。およそ1日で読み終えてみたものの、最後の方はかなり頭が疲れていたので、僕自身、キッチリと理解しおおせているかと問われればおぼつかない。ただ、それだけに、脳味噌の中の普段使っていない回路を使う快楽は得ることができる。
 「中学入試」では父親(兼教師)としての立場を、「高校入試」では兄貴分(兼教師)としての立場を感じさせる書き方をしてきた著者が、本書では、研究者としての先輩(兼教師)のスタンスをとっているように、僕には見受けられた。トピックに対しての石原先生自身のスタンスに疑問符をつけたい箇所もあったわけだが、しかし、それをある程度まで著者・読者の双方が許容するところから、教養とははじまっていくものだろう。互いのスタンスを尊重しながら客体化・相対化することにより、知とは次代へと進んでいくものだ。
 ちなみに、研究者でありながらまた教師でもあるというのが、一般的な大学教員の姿であるとするなら、「日本語教育のあるべき姿」を、受験という切り口から考え直しているこのシリーズは、非常に健全なものだと思う。健全なだけに食い足りない、というのは、まぁ、贅沢なのでしょう。素直に研究書の方を買えばいいことであるのかもしれないし。
(2003.1.2)


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『小説入門のための高校入試国語』
 (NHKブックス
 2002年4月刊)
 石原千秋先生については、昨日読み終えた『秘伝 中学入試国語読解法』の感想(この下にある)でも書き付けたばかりなので、さすがに今日も同じことを繰り返して書きたくはない。
 気鋭の漱石研究者であると言うことくらいでいいだろうか。もうちょっと詳しく知りたければ、昨日の日記を覗いてもらえれば幸いだが、おそらく、Googleで探せばもっと適当な紹介もあることだろう。

 『秘伝 中学入試国語読解法』(以下「中学入試」)の刊行から3年後、今度は高校入試国語、それも小説問題についての1冊である。
 「中学入試」のことを知っている人は、「今度は息子さんが高校に入るために勉強した体験を元にしているわけか」と思いそうになるところだが、残念ながらハズレだ。中高一貫校に入るために中学受験した息子さんが、高校入試を受けるはずはないのだった。
 と、いうことは、この本には、「中学入試」とはまた違ったモチーフがあるということになる。
 それを考えるためのヒントは、すでにいくつか呈示されている。
 まず、本書のタイトル「小説入門のための高校入試国語」。確かに本書ではいわゆる評論文問題は取り扱われず、小説問題についてのみ書かれている。だからタイトルでそれを断るのは当然なのだが、わざわざ「小説入門のための」と書くには相応の理由がある。

 小説と物語とは違うものであって、高校入試国語に出題されるのは物語のほうだなどと言ったら、また驚かしてしまうだろうか。(p.34「序章 学校空間と物語−−−成長」)

 つまり、「高校入試国語で出題されているのは『小説』ではないですよ」という含意が、本書のタイトルにはあったわけだ。その「小説」を読むための入門編として、入試国語をテクストに使いましょう、というわけである。
 ちなみに、本書のテーマに関わることでもあるので、用語を定義しておくなら、「小説」とは読者によって多様な解釈が可能なもので、「物語」とはそれらのうちの1種類の解釈、ということになる。著者の言葉を借りれば「小説にはいくつもの物語がびっしり詰まっていて、読者がそこから好みの物語を引き出すのが、読書というもの」なのだ。
 ここで、「読みの多様性」とか、専門的な言い方をしそうになるのをぐっとこらえているあたり、実際に高校受験をする中学生にも読んでもらおうという石原先生の心意気が感じられる。ここは泣く場面だ。

 さて、本書のモチーフを考えるためのもうひとつのヒントは、本書よりさかのぼること2年前に書かれた『教養としての大学受験国語』(以下「大学受験国語」)だろう。
 実は「大学受験国語」は、どうも評論問題を中心に扱った「大学受験国語」は、受験をくぐり抜けて入ってきたはずの大学生が、入ってきてみたら評論・小説・論文を読みこなすことができない、という、大学生の学力低下問題に対しての問題意識から書かれている節がある。
 どうして高校での勉強不足を大学で尻ぬぐいしたらなあかんのじゃい、というのは、今や全国あらゆる大学で言われていることで、それに対する、ひとつの解答というか、「最低限このくらいは出来るようになってから来てください」が「大学受験国語」であると。
 とすれば、つまり、「中学入試」と「大学受験国語」の間を受け持つのが、本書「高校入試国語」なのだろう。受験国語を利用して、大学で必要になる技術の基礎を作ってください、というシリーズなのだ、これは。その中の、「大学で小説を読むための練習を今のうちからやっておいてね編」が本書なのである。

 一読した限り、高校入試国語の構造は、中学入試国語とそんなに変わらない。というか、ほぼ同一だと言っていい。
 著者はそこに隠されている「ルール」を引っ張り出し、実際の入試問題と向き合いながらそれを解説するわけだが、「中学入試」と違うのは、折を見つけては「小説の構造」という問題にも触れているところ。
 リアリズム小説で「いま振り返ると」といった表現はまずい、なぜなら、その表現は作者には結末がわかっているということを暗に示してしまうからだ、といったことを言う第6章「反=学校的物語−−−友情」での「リアリズム小説の『いま』」などはその典型だろう。また、本書の分析の基礎になるのは、ロラン・バルトの「物語の構造分析」であることを考えてもいい。
 小学生や高校生を相手にするのと違い、生意気ざかりの中学3年生を相手にするということで、先生自身の体験を盛り込んだり、スレてしまった読者から見るといろいろと苦心の跡が見えてしまう本書だが、問題にしていきたいことは十分にわかる。
 また、現役の中高生にとっても学ぶことは多いだろう。できれば若いうちに出会っておくべき本だ。
 と言いつつ、僕は次の「大学受験国語」へと取りかかることにする。
(2003.1.1)


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『秘伝 中学入試国語読解法』
 (新潮選書
 1999年3月刊)
 石原千秋先生の名前を知らないと、おそらくこの本の持っている意味合いに、一面的にしか接する機会がないだろう。また、書店で見かけてもWeb書評で名前を見かけても「ハァ?」という以外の反応をしようがないと思う。
 この書評でも、たまにお名前を出すことはあるが、石原先生は漱石を専門とする日本文学者で、漱石研究においてはトップランナーのひとりと言っていいと思う。俗な言い方をするならスター研究者のひとりだ。
 ごくごく間接的にだが、かつて卒論を書く際に先生の著作から学ぶところが多かったので、僕自身も私淑している学者である。

 さて、その石原先生が、なぜ「中学受験国語」なのか。答えを言ってしまえば息子さんが中学受験をした経験を元に書かれたのが本書ということになる。本書が刊行された1999年当時は、本職の日本文学者が中学受験国語について問いを投げかけたとして、それなりに話題にもなった。
 ちなみに、清水義範氏に「国語試験問題必勝法」という短編があるが、あれとはまた違う。受験国語・学校国語というものに対して突きつけている疑義には共通するところも多いのだが。

 総ページ数409ページと割に厚めの本書は、息子さんの中学受験を時系列に沿って記録した第一部と、そこで得た経験を元にして、実際に国語の試験問題を解いていく第二部に分かれている。
 いわば体験談と実践編ということで、実践編の礎となるべき理論編は体験談の中に織り込まれているということになる。
 「いま『国語』がやっていることは『道徳教育』である。(中略)しかし、そのことは当の子供たちにはきちんと知らされていない。いないどころか、『思ったこと』を答えなさいなどとまやかしの『自由』を押しつけられている。子供たちだって知っている。本当に『思ったこと』を答えたら叱られることを。あるいは、マルをもらえないことを。でも、なぜそうなのかは教えてもらえない。子供たちは、ルールを説明されないままゲームに参加させられているようなものだ。」と、著者は「はじめに」で述べる。
 言ってしまえば、この部分が本書の要であり、読み手によっては全てであるだろう。

 少なくともある程度本格的に文学を学んだ者なら、学校で習っていた国語と文学がまったく別物であることは誰でも知っている。そもそも日本語の基礎であるはずの文法からして、日本語学の現場では使用されない「学校文法」が教えられているのだから(基礎としては、学校で習う国語がまったく無用というわけではないが、ワープロを習う基礎としてローマ字を知るという程度のものだ)、お話にならないというか、要はグダグダなのだ。
 ちなみにこれは、日本文学をやっている学生が国語の家庭教師や教育研修をやる場合に、しばしば引っかかるトラップでもある。「なぜわざわざウソを教えないといけないのか」と悩む学生の姿は、大学時代、僕も何人か目にしたことがある。
 それでも、大学などの現場から学校国語・入試国語に対して、これまであまり強い非難があがらなかったのは、ひとつには自分たちも(高校入試までといささか趣が違うが)入試を実施する側であるということと、そして、おそらく他人事でしかないから、ではないかと僕は思っている。僕自身にしても他人事だから、わざわざ告発のアクションを起こす気にはならないし(お前と一緒にするな、という関係者の方がいらっしゃったらすみません)。

 ところが著者にとっては、息子さんの受験という形で、それが他人事でなくなり、そしてその入試国語というものに対して、ある程度、その法則性の把握ができてしまった。
 「要はこれはゲームなのだから、そのルールを知って有利に戦おう」と本書は言う。
 それは、ひとつの告発であると同時に、実践的ガイドブックでもある(本書は小学生でも読めるように気を配られている)。
 もうひとつ重要なのは、石原先生が、決して受験という制度については否定的でないことだ。
 「子供が自分の足で一歩を踏み出すのを見守り、あるいはそっと手助けしてやることができたなら、受験それ自体がひとつの自立の物語になるだろう(p.84)」と受験というシステムをとらえ、また受験を「学校と子供との真剣勝負という対話の場」としてとらえる。そこからは昨今のゆとり教育への否定的な見解も導き出すことができるだろうが、今はそこまで筆を伸ばさないことにしよう。
 ガイドブックであり、同時に一組の親子のなかなか感動的な受験への記録である本書だが、石原先生は以後、受験国語というものに教育者として問題意識を持ったのか、翌年にはちくま新書で『教養としての大学受験国語』を、2002年にはNHKブックスから『小説入門のための高校入試国語』を上梓した。
 2003年の頭には、僕も「中→高→大」と、この「受験国語」シリーズを読み解いてみようと思っている。
(2002.12.31)


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『漱石の記号学』
 (講談社選書メチエ
 1999年4月刊)
 いい研究書は、下手な小説なんかよりよっぽど面白い。もっとも、自分がその研究書の内容について、いちいちその真偽を確かめる義務があるような立場にないならば、の話だけど。
 まぁ、そういうことをよく理解できるような良書であった。ただし、いい研究だけどつまんない、というパターンの論文も多々あるわけで、無論、自分の感触「だけ」を頼りに論文の善し悪しを判じるのは軽率というものなわけだが。でも、もうひとつ付け足すなら、「感触」というのは割と大事なのだ。
 漱石のそれぞれの小説について、各々を独立した世界として「漱石世界の一部」という枠を外した地点から考察したという『反転する漱石』と対になるものだとされている。すなわち、それぞれの小説の中での「長男」「次男」「セクシュアリティー」といったものの役割に、何かしら共通したものを発見して、そこに漱石の自覚的、或いは無自覚的な認識を読みとろう、という立場。
 基本的には、時代相を読みとるところから始まって、それを作品の中に発見する手法なのだよな。割合に自覚的に、作品の中で「長男」「主婦」「山の手」といった時代相を取り扱っているあたりは漱石の面目躍如たるものと言えるかもしれない。ただし、時代相との関わりを足がかりとしている以上しょうがないことでもあるのだろうが、『夢十夜』『倫敦塔』などはほとんど論文中に出てこない。
 もし不安があるとすれば、というのはつまり、将来的に突破口になるようなほころびが見つかってくるとすれば、という意味だが、そういうことがあるとしたら、それはつまり、ここで取り扱われなかった小説空間の中から発見されるだろう。しかしまぁ、面白い研究書であった。
(1999.7.24)


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石原千秋

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