井村君江



『妖精学入門』
(講談社現代新書
 1998年9月刊)

●図版がいっぱい


 なんかこう、こういうときにまとめて読んでおかないとなかなか読まない本かなあと思って、『ケルトの神話』に続けてこれも読んでみた。
 講談社現代新書らしい、と言っていいと思う。興味本位で読める入門書で、単純に妖精とかファンタジーとかが好きな人なら、さらっと流し読むだけで楽しい一冊。何よりいいのは図版が多いことで、オーベロンやティターニア、パックといったシェイクスピア劇などで有名な妖精が描かれた絵画が多く掲載されている。
 ヴィジュアル面からも妖精をとらえることができるようになっているのはやっぱりありがたい。多分こんにち、妖精の姿をもっとも手軽に見ることができるのはコンピュータRPGだろう。ないしはマンガとかイラストとか。そこに描かれる妖精の姿というのは、あるていどの共通項を持っている。というのも、そこに描かれるヴィジュアルというのは、昔の絵画だったり挿絵だったりといった色々な元ネタがあって、それらの集積され整理された形として表現されたものだからだ。
 それらの絵画ないし挿絵たち自身はどこからヴィジュアルを拾ってきたのか、また最初は色々な形があった妖精の姿が、どのような過程をたどってあるていどの統一化がなされたのか、というのは非常に興味深いテーマだけど、そこまで扱うのはちょっと新書では無理だろう。
 ともあれ、現代においてモニタ上で再現されている妖精の姿のルーツを垣間見ることができる、というのはちょっと嬉しい。妖精の姿を多く描いた画家というのもいるし、そうした人の画集なども出ているのだろうけど、画集となるとやっぱり高いし。
 ちなみに、かつての妖精絵画は、女性の裸体を描く方便という一面も持っていた。アフロディーテを描いたと称して裸体画を描くが如し。このへんの事情についてはピーター・ブルックス『肉体作品』などが詳しい。

●娯楽としての妖精


 なんか本自体の紹介をまるでしていないことにここにきて気づいたが、実際問題として、それはあんまり必要ないだろうという気も同時にする。「妖精学」の入門書、という位置づけは取られているけれど、それほどアカデミックな本ではないからだ。
 そもそも妖精とはなんぞや、といった起源の話、あるいは分類、さまざまな妖精を紹介した小辞典、絵画や小説、戯曲での妖精、といった内容は、たしかに入門書的なのだろうけれども、あえて「入門」しなくてはいけないほど本格的に妖精を学びたい人というのは、たぶん本書の読者の中でもごく少数だろう。そしてそういう人にとってはちょっと物足りない中身だろうと思う。
 むしろこの本は、そうではない読者、たとえば僕のように、ゲームとかファンタジー小説などを通じて妖精についてのごく表面的な知識はあって、かつもうちょっと本格的にそのルーツなどについて妖精のことを知りたい人間に取って都合がいいように書かれている。それは入門ではないのか、という意見もあるだろうけど、これ以上深くこの世界に入りこむつもりはもっていないのだから、入門というよりはただの興味本位であり、娯楽だろう。

 井村氏というのは、ちゃんとアカデミックな活動自体もしているのだが、娯楽として妖精のことを知りたい、という層が多いこともわかっていて、そうした読者を対象にした本も多い。そうした本の執筆というのは井村氏にとっては、おそらく余技みたいなものなのだが、自分が手がけているジャンルについて、どういったニーズがあるのか、といったことをちゃんと把握できているという点では、学窓の人には珍しい視点の持ち方をしていると思う。
 それは多分、井村氏自身も、ある部分では娯楽として妖精のことを見ているというか、妖精自体が好きで、僕たちのような一般のファンに近い感性で妖精と接している部分があるからなのだろう、と僕は勝手に想像する。
(2006.2.9)


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『ケルトの神話
 -女神と英雄と妖精と-

(ちくま文庫
 1990年3月刊
 原著刊行1983年3月)

●筑摩書房の漢気


 3〜4年ほど前に、ちくま文庫が「ケルト神話フェア」みたいなのをやってたことがあって、その時に購入したもの。たしか夏のことで、角川・新潮・講談社文庫が「〜文庫の百冊」とか「ナツイチ」とかのフェアをやっている中、ひとり我が道を行くちくま文庫の漢気に「お前は重大ニュースのときのテレ東かっ!」と心の中でツッコミながら購入したことを思いだす。
 ドストエフスキーや夏目漱石が並ぶ新潮文庫に対して、ちくま文庫はイェイツブリッグス、井村君江だ。その気になれば文庫版全集で鴎外もニーチェも揃うというのに。
 …あ、そういう作家でちくまがフェアをやると、全集ばっかりになってしまうからやらないのか。なんとなく自己解決。

●『ティル・ナ・ノーグ』と「Truth in Fantasy」


 中学高校時代、システムソフトのPCゲーム『ティル・ナ・ノーグ』シリーズで、持ち物を売り飛ばす際にディスク1・2を入れ替えてただのロッドをものすごい高値で売却したり、その金で買える薬で魅力値をバカみたいに上げてフェアリードラゴンを仲間にしたり、といった日々を送っていたことがある。一応、名作だったし、他にもそういう青春時代を送った人は多いんではなかろうか。なんか、割と最近になって「4」が出たとかいう話も聞く。
 それはともかく、その『ティル・ナ・ノーグ』の舞台となっていたのが、ケルト神話の世界だった。もっとも、シナリオ自動生成という革命的なシステムの代償として、あんまりそれっぽい世界観がシナリオに投影されていたわけではないのだが、神話といえばせいぜい北欧神話までだった日本のゲーム界においては、これがそうとう目新しい世界観だったことは間違いない。
 いや、「ドルアーガ」の元ネタであるギルガメシュ叙事詩はメソポタミアだろうとか、そういう特殊例はあるけれども、やっぱりゲームに神話を取りいれる場合、最初はギリシャ神話だったのだよ、「カレイジアス・ペルセウス」とかな。んで次が北欧神話。時代がくだるにつれて、徐々にマイナーな神話を取り入れることができるようになっていく。いきなりケルトじゃあ、やっぱり馴染みがなさすぎるというものなんだろう。
 で、ゲームの話はともかくとして、僕の場合、次にケルト神話に出会うのが、新紀元社の「Truth in Fantasy」シリーズにあった『虚空の神々』だ。たしかこれにケルト神話の人間味あふれる神々の物語も掲載されていた。
 こういう神話紹介本というのは、数は少ないんだけれども読むと面白いものが多い。西洋神話では一番日本人に馴染み深いのがギリシャ神話だろうけど、阿刀田高氏に『ギリシャ神話を知っていますか』と問われるまでもなく、ほとんどの日本人は「知っている」とは言えないのだ。漠然としたイメージは持っているし、ゼウスだアポロンだアフロディーテだアテナだといった有名どころの神様は知っているだろうけれど、それらを統一して系統だった把握ができている人などほとんどいない。
 神話というのは大体がそういうもので、そもそも日本神話だってちゃんとわかっている人というのは少ないだろう。「Truth in Fantasy」がヒットシリーズになった理由というのも、実はそのへんにある。
 TRPGのシナリオというごく身内の間でしか発表しないものであるにしたところで、実際にそれを作るとなると大変だ。神話なら神話をあるていどちゃんと把握しておかないと妙なことになってしまう。そのくせ、それらをちゃんと解説してくれる本、というのは少なかったから、こうした事典ものが大変に重宝されたわけだ。
 そしてまた重宝なだけではなくて、ちゃんとまとまった紹介というのは、読むとそれまでの断片的な知識では及ばなかった部分までわからせてくれて、新しい驚きがある。あるていど知っていると思っていても、知らないこと、断片的な知識だけでは推しはかれないことは多いのである。

●神話の総合的な紹介


 で、話はようやく本書のことになる。
 井村君江氏と言えば日本におけるケルト神話ないし妖精学の研究者として、第一人者と言っていいと思う。ただ、こういう言い方が適切かどうかはわからないが、アカデミズム一辺倒でなく、ディレッタンティズムの突き詰めた形として研究者になっているという趣が強く、その意味ではたとえば種村季弘氏とか池内紀氏などと同じ系列にいる人なのではあるまいか。
 この本が初めて刊行されたのは1983年のことだそうで、多分、日本におけるケルト神話受容史のうえでは最初期の重要な1冊であると思う。と同時に、いま一般の人が読んでも十分面白いものになっている。この本の刊行当時と比べれば、日本でもケルト関係の本を手にすることはずいぶんと簡単になっているし、光の神ルー(ルース、ルーフとしている場合もある)とか、英雄ク・ホリン(クー・フーリンとも呼ばれる)などの個々の名前はファンタジーファンにはおなじみのものになっているとも思うが、こうして神話全体での紹介を受ける機会は十分に整ってはいないだろう。
 だから、「ケルト神話には、神話にはつきものの天地創造神話がない」といった指摘は新鮮だし、神話をトータルに眺めることこそ得られる視点もあるのだと気づかせてくれる。
 気張って読まないといけない本でもないので、割に誰にでもお勧めできる本なのではないかと思うが、実のところ、気張って読めばそれだけの読みごたえがある本でもあるだろう。
 ただし、割に年代順がはっきりしている神話群の割に年代の序列が未整理なところもあり、読んでいて混乱する可能性はあるのだが、これは元の伝わっている神話群自体に齟齬があるのだからしょうがない。
 たとえば日本神話を稗田阿礼が誦唱していたように、特定の個人ないし一族が神話の語り部として頂点に君臨していない限り、神話の時系列などというのはあってなきがごとしでどんどん混乱して、色々なバリエーションができていくものなのだ。そして、日本のような例というのは、むしろ少数派だろう。また、そうした日本神話のような状態が、神話というものを考える上でいい状況なのかというと、必ずしもそうでもないと思う。
(2006.1.31)


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井村君江

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