泉鏡花



『山海評判記』
 (ちくま文庫
 『泉鏡花集成10』所載
 1996年7月刊
 雑誌連載1929年)

●温泉・異界・迷宮的構造


 少し前に読んだ『薄紅梅』は昭和12年、鏡花晩期の作だったが、この『山海評判記』は、それより約10年さかのぼって昭和4年の作。
 鏡花の写真は、硯友社時代のまだ若い頃のものを多く見るが、昭和4年と言えば鏡花も56歳、いい中年である。この頃、鏡花は能登の和倉温泉に遊んだと言うが、本作の舞台のモデルだろうか。
 もっとも、鏡花は幼少時に辰口温泉近くに住んでいた叔母にかわいがられていたこともあって、温泉をしばしば作中に登場させている。

 舞台は温泉宿「鴻仙館」。たまたまここに泊まった小説家矢野誓が、逗留するうち、さまざまな「ちょっとした怪異」と出会うという筋立てが、どことなく「ぽっぺん先生」を思いださせる。
 怪異と言っても、部屋の外から女の声がしたとかその程度で、あからさまに人外の存在がからんでいるというたぐいではない。それもあってどことなくほのぼのしているのだが、反面、初期作品のような直線的な構造をとっていないので、ぼーっと読んでいると何が起きているのかよくわからないまま終わってしまうというところもあるのではないだろうか。というか、僕がそうだったので、ここは「ある」ことにしていただかないと面目が立たない。

 先頃に亡くなられた種村季弘先生は、本書巻末の「解説 三人の女」で、『山海評判記』というタイトルが、中国の怪物博物誌『山海経』を踏まえたと同時に「三階評判記」ともひっかけてあるのでは、と推測しつつ、本作の構造分析を試みている。
 それによると、鴻仙館の、立ち入り禁止になっている三階へと矢野が足を踏み入れたところから、怪異の世界への扉が開くということであり、所々に登場する正体の知れない三人の女が、白山信仰における三峰の姫神の化身であるらしく、また他にもそうした化身、あるいはもっと下位の「使い」かとおぼしい正体不明者がいるのだとのこと。
 三階以上、すなわち建物の高殿が化け物のすみかで、というのは、指摘を待つまでもなく「天守物語」などと同様の構造である。
 しかし、作中にオシラサマ信仰の解説も出てくるとはいえ、正体不明の三人の女を白山の姫神の化身とする読みは、僕みたいな素人がすぐに看破できるものでもない。実際、解説を読んでも、ほんとにそうなのかどうか判じかねる。
 できれば、こういう解説を先に読んでから本編を読むと、もっと理解がしやすいのではないかと思う。
 全体として小説としてのダイナミズムには乏しいが、鏡花の趣味性はよく出ている、と評価したい。
(2004.10.25)


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『薄紅梅』
 (ちくま文庫
 『泉鏡花集成10』所載
 1996年7月刊
 新聞連載1937年)

●不思議な軽み


 鏡花は不思議な作家で、読んでいてときどき、渾身の力で書いているのか、それとも勝手知ったる馴染みの道具でままごとなどするように遊んでいるのか、それがわからなくなるときがある。
 もとより、力こぶを張って大汗をかきながら、などといったような作家ではない。
 しかし何の苦労もなく書けてしまうほど、工夫のない作家でもないだろうと思うので、そこが不思議なのだ。仮にあの文体そのものは、幼少よりの漢籍和籍読本黄表紙で培った素養でもって、そう頭を使わずに書けたのだとしても(当時の知識人の知識量というのは、特に漢籍についてはちょっと現代人がどれだけ努力しても追いつけないのではと思わせるものがある)。
 『薄紅梅』は鏡花晩年の中篇で、彼が若かりしころに属した尾崎紅葉門下、硯友社を舞台にして、小説家の卵たちの恋と、背伸びした野心と、ちょっとした怪異とが綴られている。一応、明治期の閨秀作家である北田薄氷という人がヒロイン月村京子のモデルなのではないかという説もあるらしいのだが、このあたりは未詳。
 硯友社一派が活躍した時代には、実はけっこうたくさん、女性作家がデビューしているのだが、樋口一葉を例外として、この人たちの研究というのはほとんどなされていないというのが実情じゃないかと思う(もちろん、なかには真面目にアプローチしている研究者もいることとは思うので、無礼は先に謝しておく)。彼女たちの果たした役割がどのていどだったか、という部分がまずクリアになる必要はあるだろうが、研究してみる価値はある問題だろう。以上、ちょっと余談。

●おおよそのあらすじなど


 ヒロインがいて、恋の絡んだお話なら相手方というのがいなくてはならない。辻町糸七なる作家が一応の相手方といったところ。
 この辻町は、社中きっての閨秀月村京子に、一度筆誅を喰らわせたことがある。京子が、樋口一葉の芸風を気取ってか遊郭の女性を随筆に描いたのを、上から遊郭の芸妓を見下ろすような態度だとして切って捨て、彼らの先生に言いすぎをとがめられた。以来、彼は京子を虫が好かないと公言している。
 筆誅の理屈はどうともつくだろうが、辻町のこの筆誅は、先に世に認められた京子への、同じ作家としての嫉妬心だ。また、そうでなくては話が単純になりすぎてつまらない。
 ある日、辻町は同輩の作家矢野弦光から、京子への恋心を聞かされる。「共通の先生である上杉映山に、君からとりなしをお願いしてはもらえないか」。矢野の頼みを辻町は引き受け、たくらみをはこんだのだが、しばらくして辻町の住む陋屋に京子が訪ねてきて告白することには、京子は実は辻町に懸想していたとのこと。
 惚れた男が、自分を他の男とくっつける算段をしたというので、京子は勢いあまって野土青鱗なる挿絵画家からの求婚を受けることにしてしまう。この野土というのを、辻町が誰より嫌っているのを知ったうえでのことだ。
 それを聞けば、辻町も大きなショックを受ける。自分の京子への気持ちに気づいた、と言ってしまえばえらく陳腐だが、それももちろんあるだろう。それに、女を追い込んでしまった罪の意識と、取り返しのつかない場に踏み出してしまったということそのものへの、青春らしい悔悟と。

 小説として、そこに深みを加えているのは、ほんのさわりだけ出てくる怪現象だろう。
 たそがれどき、頬から首筋にかけて、濡れたような気持ちの悪い感触が走り、ふと手をやると、長い女の髪の毛が一筋、そこにまとわりついている。
 それだけで、正体も何も明かされないし、物語の中で重要な役割を果たすかというとそうでもない。それでいて、やけに印象に残る。
 これは何なのか、と問われても、僕にも確たる答えもないのだが、強いていうと、魔が差す、ということなのかなという気がする。矢野が辻町に恋心を明かすその数時間前、京子の首にこの髪がまとわりついたのだから、というのは、理由としては薄弱だが、結局、このときの京子のようすに矢野が見惚れて、これが契機で運命が悲劇へと転がるので。
 そういう、何か人の手の及ばないところで運命が悪い方に転がっていくよう、そっと背中を押すようなものを、怪異に託した、と考えてみたい誘惑に駆られる。

●昭和14年の泉鏡花


 これが硯友社を舞台にしたものだというのは、先に書いた。
 鏡花の作品には、たまにそういう、自分の知人である実在の作家や画家を登場させる、というものがあるが、本作が昭和14年、鏡花晩年の作品であると言うことを考え合わせると、そこに鏡花の来し方を懐かしむような気持ちを汲むこともできるだろう。
 日本を泥沼の戦争に引きずり込んだ日華事変は昭和12年のことであり、真珠湾攻撃は昭和16年のことだ。時代が戦争へ傾斜していく。
 文学では、硯友社の隆盛も今は昔、紅葉を追い落とした自然主義さえ古色蒼然で、その自然主義私小説と、川端・横光ら新感覚派、マルクス主義文学の一派が、平野謙の言う三派鼎立をなしていた。太宰治が登場してくるのもこの頃だ。いわゆる「文芸復興期」を過ぎ、「昭和十年代」という言葉でひっくくられる時代の作品なのである、なんとこれが。
 鏡花の懐旧はむしろ淡々としていて、作中で「ここはこう書くべきだがあえてこう書く」などと作家の胸の内を明かすなど、色々と遊びっぽい要素も取り入れて、軽さを出している。太宰の「道化の華」を少し思わせるが、影響を受けているわけではない、という気がする。
 冒頭に言った「勝手知ったる」の伝で、鏡花はどこか楽しそうに、懐旧と、軽いタッチとを組み合わせて書いている。そこに鏡花なりの考え方や韜晦を見ることが出来もするだろうが、そう理路整然と割り切るよりも、女の髪一条のように、割り切れない不思議さを見た方が、落ち着きとしてはむしろいい。
(2004.10.8)

●補記


 確認したところ、本作の執筆と新聞連載は昭和12年のことなので、お詫びして訂正します。
(2004.10.25)


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『風流線』『続風流線』
 (ちくま文庫
 『泉鏡花集成11』所載
 1997年4月刊
 新聞連載1903年10月〜)

●語られる文学


 この前に鏡花を読んだのはいったいいつだったか。
 とか深刻ぶって言っても、こうやって書評をつけてるから、調べるまでもなくすぐにわかってしまうんだけど。1999年の2月以来だね。実に5年ぶり。
 鏡花と言えばあの独特の文体だ。慣れてくればそこまででもないけど、慣れないうちは割に読むのに苦労したおぼえがある。きっと久しぶりだから、やっぱり最初のうちは読むのに苦労してしまうだろう、意味がよくとれなかったりしたらどうしよう、などと心配しながら読み始めたのだったが、これがどうして、体が覚えていたのか少しは頭が柔らかくなっているのか、実に読みやすい。
 あれ、嬉しい誤算だったなと思っているうちに、筋立ての面白さにぐいぐいと引き込まれて、非常に楽しい読書ができたのだった。

「あれ失礼、どうぞこちらへ。」
 と座を譲って、旅姿の身を片寄せた娘は、道中の風に乱れた、ばさばさの銀杏返。たとえば青柳の糸を洗わず、簪(かざし)の花に露置かぬ状(さま)ながら、耳許(みみもと)の清らかな、目の涼しい、細面の、年紀(とし)の頃九か二十、類なく目に立つのが、赤毛布(あかげっと)でくるりと身を、草鞋穿(わらじばき)、脚絆掛、帯の端さえ露(あらわ)さないけれども、包み果てぬ色は洩れて、長き旅路を来たらしく、肩にも裾にも埃を置いたが、もみじに霜の紅冴えて、視(ながめ)は濃(こまやか)な風情である。
 床几にかけた腰とともに、小な風呂敷包と、蝙蝠傘を傍へずらした、店前に憩うものは、ただこの一脚より多からぬ、田舎路の御休所。

(p.9「祝使」より。カッコ内はよみがな)

 引用するだに疲れてしまうのはふりがなよみがなが多いからだが、現代口語文に慣れていると突っかかって読みにくいようなこの文体が、なんでか知らないけど、慣れてくると気持ちよく読めるようになる。
 まあ、タネを明かせば、講談調とはちょっと違うにせよ、鏡花の文体は基本的には語り口調だということなのだった。なので、コツさえつかんでしまえば、割に楽に読んでいける。

●藤村操と村岡不二太


 「水滸伝」を下敷きにしながら、あそこまで話を大袈裟にせず、そこに幾組かの男女の愛憎を盛り込んでそれを話の軸にした本作は、鏡花の作品の中でも非常にエンターテイメント性が高いものだと言えるだろう。ちなみに、「風流線」「続風流線」と2作にわかれてはいるが、これは2本を通してひとつの作品であると考えていいと思う。
 舞台は石川県、手取川流域の鞍ヶ嶽とその近隣。ここに鉄道を引くというので、大勢の工夫たちがかりあつめられて大工事にあたっている。ところがこの工夫たちが荒くれの無頼漢ぞろいで、近在の者たちは彼らを大変おそれている。
 ゆえあって、この工夫たちに合流していくことになる男女が一組、名を村岡不二太とその恋人のお竜という。不二太は先年、最後之感として遺書を書きのこし華厳の滝に飛び込んで自殺したとして国中を騒がした一高生。解説で種村季弘氏も指摘するとおり、これは当然、藤村操がモデルとなっている。
 藤村操の自殺についても、当時から「万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く”不可解”」という有名な遺書「巌頭之感」の哲学的な言辞はそれとして、その真相は男女関係の悩みからの自殺ではなかったか、という無責任な噂が飛び交った。本作中の村岡不二太の場合は、実際にお竜との道に沿わない恋路の果てに自殺をした、それも「最後之感」という哲学的遺書を遺して偽装自殺を図り、死んだと見せかけて実は生きており、石川県まで逃げてきていたという設定になっている。
 ところが、藤村にせよ、原口統三の『二十歳のエチュード』にせよ、その思想的自殺は当時の青少年に深い影響を与えただけでなく、後追い自殺が頻発するという余波をともなった(原口の自殺に影響を受けての自殺者は、この『泉鏡花集成』シリーズの編集者である種村季弘氏の世代で、実際に種村氏の同級生にも何人か自殺者が出たという)。村岡の偽装自殺もまた、偽りの哲学的遺書のゆえにこうした後追いの自殺者をたくさん出してしまったのである。
 村岡はこれに苦悩する。「しかし僕は、区々たる名誉心のために、大罪を犯したですな。たとい愚にもせよ、痴にもせよ、僕ゆえに多くの人が死にましたから、つまり手を下さないで、人を殺したと同一なんだ」(p.85「鞍ヶ嶽」より)と、これは再会を果たしたお竜に、山奥のうらさびれた陋屋でその苦悩を語る場面である。そしてこれに続けて村岡は、ひとつの決意をお竜に語る。

「お聞きなさいよ。そこではじめて、いつわって遺書したような懊悩を実際にし出したです。何とぞして、生ながら自分を葬り得て安心が出来るような、解脱の要道をもとめんけりゃならんでしょう。」
(中略)
「竜さん、解脱の道を胸に問えば、新しい釦の間から、微かに答えるのは貴女の名、貴女の名ばかりであったんです。」
(中略)
「古の哲人は、悟道の暁に仏になりました。
 僕は迷に迷をかさねた結果、思い切って悪魔、外道になったのです。
 村岡は死ぬに死なれず、生きるにも生きられず、横にも縦にも身を置くに処なく、煩悶に煩悶して、死しても到底、解脱を得、慰安を求むることが出来ないから、生きながら悪魔になるのだ。
 あらゆる罪を犯す、なし得る限り不法を働く。悪逆、無道、酷薄、残忍、人を殺す」
(中略)
「火を放つ、」
「嬰児を屠る、婦女を辱める。」
(中略)
「犯してその眼に唾吐き、屠ってその臓腑を炙る。牛馬を裂き、犬を煮る、草木を枯らし、水を濁す、いずれも天満破旬のなす処、すなわち僕の行わんとする処だ、」

(p.85〜92「鞍ヶ嶽」より)

 どうしてそうなる、というところではあるが、不二太の理屈は少しのちにお竜が説明してくれる。
「待って下さい、それでは、難しい理屈はわかりませんけれども、何、つまりこうですか。貴下は生きちゃいられない、死ぬにも死なれないから、心でなり、仕事でなり、よくないことをして、悪人になる。
 そうすると、悪人は滅びなければならないから、天なり、命なり、神、仏、人なり、何にせよ、その悪人を滅ぼすものはきっと、善人、人でなければ、神、仏ですから、そこで、頼んで、成仏をしたいというのね。(後略)」(p.94〜95)
 お竜はもちろん、不二太を見捨てない。「さっぱりして好いわ!」「私だって、火水の中も厭いませんよ。貴下が構ってくれなくっても、いつまでも一所に居て、そして、貴下の前途を見届けて、安心をして、もう一度、インキの罎を提げて、あの本郷のね、竜岡町辺を通った時のような顔を見ましょうね。」と不二太に告げる。
 そして2人は、前述した、鉄道工事の工夫たちの元へ行き、彼らと合流して、その首魁となることになる。

 構ってくれなくても勝手についていきます、というのは、昨今はさすがにあんまり見かけなくなったが、割によくある殺し文句だろう。ただ、明治時代としては、この女性像は新しい。
 ただ、ここはそうした女性像の新しさや、不二太のちょっと無理のある理論はむしろどうでもよくて、彼ら2人が抱え込んだ業の深さと、堕ちなば堕ちんもろともにという凄絶さとかっこよさを、鏡花としては打ち出したかったところだろう。

●さっぱりとした読み心地の好篇


 一方、敵役はというと、当地では並ぶもののない素封家の巨山五太夫。表の顔は行きどころのない貧者を養って仕事を斡旋するという慈善家ながら、裏では彼らを軟禁状態におき、貧しい食事で彼らをこき使ってその上前をはねるという偽善者である。種村季弘氏の解説によると、この巨山は、高球というよりも、覇気にもスキルにも乏しく、後にあっさりと朝廷に恭順したことで、むしろ日本などではあまり人気のない水滸伝の首領、宋江をモデルにしているのではないかとのこと。
 以下、本家のように108人などという大風呂敷を広げることはせず、登場人物数はさして多くないながら、工夫側、巨山側ともに、バリエーション豊かな傑物が登場して活躍する。
 とはいえ、舞台はあくまでも明治の日本なので、活躍といったところであまりに荒唐無稽なことはできない。また、いくら荒くれ工夫と言えど、たとえば警官隊が大挙して押し寄せてくるようなことになれば、それは太刀打ちはできない。そもそも、彼らを雇って鉄道の線路を敷設させているのはさかのぼれば政府なのだから、当然といえば当然である。
 その替わりに物語に奥行きを与えているのが、不二太とお竜をはじめとする、幾組かの男女である。
 不二太の友人にして鉄道工事の設計者兼監督である水上規矩夫と、かつての彼の恋人でありながら、今は巨山の妻となっている美樹子。さらに美樹子の友人のお妻のさしがねで美樹子のもとに潜り込み、美樹子と情を通じながら彼女の元へ養子に入ることになる美少年幸之助。はたまた、かつて不二太とお竜を争った巨山の甥、竪川少尉。
 大恋愛もあれば情と欲とのドロドロもあり、しかしいずれも一筋縄にいかないこれらの男女関係が、小競り合いを次から次に引き起こしつつ、物語の筋を運んでいくのである。
 エンターテイメント性が高いというのは、おそらく、こうした恋愛をはじめとする人間関係に、変な思想やモラルが絡んでこず、さっぱりと割り切れるものが主体になっているというところに由来するのだろう。
 「続風流線」のラスト、七夕の夜の決戦をクライマックスとして、人々はそれぞれの運命に殉じていくことになる。けっこう悲惨な運命をたどった人もいると思うのだが、それを悲劇と感じさせないのは鏡花の力量だろうか。お竜の言葉を借りるなら「さっぱりしてて好いわ!」とでも言いたくなるような好篇である。
(2004.8.23-26)


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『南地心中』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 冒頭、「萌黄色の海のような、音に聞いた淀川が、大阪を真二つに分けたように悠揚流れる」の一文にしてやられた。目の前に、ぐんと景色が広がるような感覚。
 細部に細部にと先鋭化することの多い鏡花の描写に慣れていた折に、いきなり頭をぶん殴られたような雄大な広がりが来た。いいなぁ、名文だなぁ。
 金沢生まれの鏡花は、雪景色や山間の風景をよく描写する。町なかの風景も多いけど、何屋さんがこれこれで、何屋の客がこれこれで、という具合に、人間の視点でのカメラワークが多くて、こんな具合に俯瞰のカメラワークが展開されるのは、あんまり記憶にないな。
 なんか、いいものを見せてもらったような気分。
(1999.2.24)


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『歌行燈』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 話自体は、親子再会ものの、なんていうか、ありがちな話。テンポはいいし、よくできてるけどね。割とありがちって言うか。それよりもです。
 途中に「可愛い人だな、おい、殺されても死んでも、人の玩弄物(おもちゃ)にされるな」という台詞があって、これを太宰がなんだったかの小説かで随筆かで引用してるんですよね。なんだったかなぁ。
 なんかがあって、「その時、私は鏡花の小説のあのキザな台詞『死んでも、人のおもちゃになるな!』を思い出していた」と続く。引用部分は太宰の記憶違いか、間違えていたはずです。
 晩年、『もの思ふ葦』かなんかで、三文映画の佐倉惣五郎(一揆の人ね)の子別れのシーンで、親の方の気持ちを思うと泣けた、と書いてますが、そういうベタな話をある面好む嗜好みたいなものは、鏡花を耽読していた青年時代に、既にあったのかなぁ、とか、そんなことを思いました。
(1999.2.14)


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『茸の舞姫』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 『高野聖』に似ている。「高野聖」では、僧が人里離れた山中に住む女のもとに転がり込み、あやかしとなった女に不思議な体験をさせられる。
 『茸の舞姫』では、昔、神隠しにあった男が村祭で出していた出店に、神社の神官やひやかしの芸妓さんが訪れ、不思議な体験の末に発狂する。
 構図としてはちょうど逆ね。異界往還譚とでも呼べばいいかな。「世にも奇妙な物語」じゃないけど、身近にある異界への侵入とそこからの帰還。まぁ、発狂しちゃったら帰ったことになってないような気もしますが。
 加えて言えば、ほんのりとエロティシズムが漂うあたりも似てますね。鏡花作品には、常にある種のいかがわしさがつきまといますが、その中でも、この2作には何か共通したものが。
(1999.2.14)


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『白金之絵図』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 これ、ひそかにいい作品だと思うけど。有名な作品ではないと思うが。
 鏡花の作品では、時々、主人公や主人公の友人に芸術家が出てくる。絵描きが多い。『唄立山心中一曲(うたい、たてやましんじゅうのいっきょく。多分ね)』では、小村雪岱が実名で登場したこともあった。
 他にも仏師だとか、作家だとか。そして、彼らには常に、鏡花は同情の目を注ぐ。簡単に言いかえると、一般人ならたたり殺されるところで、芸術家は死なない。ぎりぎり生き残って、後の世へ作品としてその体験を語る役目を背負わされる。
 芸妓さんも多いが、芸妓さんは芸術家である以前に女として認識されているらしく、例えば、名作『義血侠血』での芸妓、滝の白糸は、最後で死刑に処せられる。

 というよりも、鏡花の作品では、女性は必ず魔の系譜に連なるものであるから、たたられるよりたたる方なのだ。芸妓さんであっても、それは同様で…あると思うんだけど、自信はない。
 鏡花の作品、美女が登場する。確かに登場するが、「可憐な」というのはまずもって登場しない。あだなはねっかえり(たとえば『義血侠血』)か、魔にとりこまれたもの(たとえば『高野聖』)か、まぁ、そのどっちか。
 ちなみに、その両方の特徴を兼ね備えたのが、『貧民倶楽部』の女主人公(名前は失念した)であると思う。
 町の貧乏人やごろつきを束ねて、ある時は品評会に全員で押し入り、あるいは弱い者を助けたりする。最後は、自分の仲間だった女中を殺した金持ちの家に乗り込み、その家の醜聞を暴くと脅して、その家の奥方を発狂に追い込む。
 魔性で、かつ強くて美しいという。
 こういうヒロイン像って、今の作品でも時々あるよね。レジスタンスのリーダーとか、そういうの。

 いかん、話がずれた。大幅にずれた。
 『白金之絵図』の主人公は、爺さんである。爺さんだが、狂言師の偉いさん。でもって、当然ながら芸術家だ。そうそう、芸術家なんだよ。
 この爺さんが、「釣狐」という演目で、白蔵主という化け狐を演じようとする。聖心女学院の娘さんの1人の所作に感銘を受けて、そこから狐の動作をうまく演じるコツをつかもうと四苦八苦し、最後には狐に化身して鳥居の向こうへと消える。
 結局たたられていると言う人もいるだろうが、これ、芸術家にとっては救いであるということでは。

 しかし、白蔵主(はくぞうす)ねぇ。幼き日に、水木しげるの絵で親しんだ化け狐に、こんなところでまた出会うとは。
(1999.2.10)


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『蒟蒻本・第二蒟蒻本』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 『蒟蒻本』は、蝋燭好きな遊女に入れあげて蝋燭にたたられる男の話。
 『第二蒟蒻本』は、ある男の家に、かつて不義理をした遊女が、寒い雪の日に緋の襦袢1枚で遭いに来たという話。
 どちらも最後は鏡花らしい怪奇趣味な幕切れをする。
 『蒟蒻本』の男は蝋燭を撚り集めたのに緋襦袢を着せたのを愛玩している。それの髪、つまりは芯に火をつけて、蝋でどろどろになった部屋の中でそれを膝に抱く。
 『第二蒟蒻本』で訪ねてきた女は、最後に自分が生き霊だと明かし、数年前に男と別れた後、自分が殺されたいきさつを話しながら血みどろになって消えていく。

 出来は最初の『蒟蒻本』の方がいい。蝋人形、というと鏡花より乱歩の世界だが、この話での蝋は、見事におどろおどろしい。
 ただ、日常から怪異へと世界が移り変わっていく構成、プロットは『第二蒟蒻本』の方がよくできてるんだけど、でも筆は『蒟蒻本』の方が走ってる。
 蝋の方が書きやすかったのかな。ある意味、鏡花の書く女性は人形だし。金沢生まれだから加賀人形かしらん。
(1999.2.9)


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『冠弥左衛門』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 明治13年に今の平塚市で起こった、「真土村百姓一揆」に題材を採った小説で、京都日の出新聞に連載されたもの。鏡花のデビュー作にあたるはずだ。
 この小説、実は日の出新聞では、尾崎紅葉の硯友社で鏡花の仲間であった岩谷小波の作品として発表された。
 結構有名な話なのだが、小波が日の出新聞に記者として就職するにあたって、小説を1本連載するように命を受けたのを、小波が忙しかったものだから、鏡花に代作させたんだな。
 当時は、新聞小説って、作家に依頼するのでなしに、記者が執筆する形が一般的だったそうで、これは今から考えれば驚きかもしれない。作家が新聞に小説を書くという形式が定着したのは、漱石と朝日新聞との関わりから広まったことじゃなかったかと思う(うろ覚え)。
 もちろん、それまでにもそういう例はあっただろうけど、広まるきっかけとしてはね。

 小説は、実際の事件に材を採ったとは言いながら、鏡花らしく、美少年、霊山卯之助をはじめ、架空の人物を創作し、活劇として面白いものに仕上がっている。
 敵味方共に、魅力的な人物が多く出てくるあたり、水滸伝や三国志ほどのスケールはなくとも、似たような架空戦記的なとこがあっていい。
 とりわけ、話の途中で未亡人になる(勿論、悪役の連中のせいだ)お浪、という女性がいい。忠犬の魔侘羅(まだら)というのがいて、これと一緒に、単身、敵陣に潜り込んだりして活躍するのだが、「水滸伝」で言えば顧三娘のような、可憐ながらも強い女性という役どころで、何とも魅力的。

 是非一読を、と言いたいところだが、この小説、講談の台本ように、実際に音読してみないとテンポの良さがつかみにくい。
 正直、最低でも鏡花の文体に慣れてないと、読んでて、何がどうなってんだかわかんないだろうな、と思う。あんまり万人向けではない、かもしれない。
(1998.8.26)


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『外科室』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 鏡花の代表作の1つとして、『夜行巡査』と共に論じられることの多い作品である。
 一般に、『夜行巡査』『外科室』を、日本文学のその後の流れと照らして「正しい」作品であると解することが多いように思うが(取り立てて資料に当たって言っているわけではありません。あくまで、鏡花について書かれたものを思い返すとそんな気がするって話)、先に『夜行巡査』について日記に書いた際(4/26)にも述べたように、僕はこの説を採らない。
 確かに、その後の日本文学の潮流からすれば、『夜行巡査』『外科室』は流れに合致した作品であったかもしれないが、鏡花という一作家がこの後に歩むべき道としては、この方向は圧倒的に真面目すぎ、作家の本質が表れてこないタイプのものではないかと思うからである。
 『おばけずきのいわれ少々と処女作』などを読んでみると、鏡花の本質は、そもそも作家になる以前、子供の頃に遡って、やはり異端であったのだろうと思える。その異端の流れを矯めるのを、僕は好まない。
 この鏡花の真面目っぷりと、『湯島の境内』などにも描かれる彼の恋人との間に何らかの関連があるのかな、とも思うのだが、ひとまず、今は両者の時間的な関連について調べる時間がないので、これで失礼。
(1998.6.17)


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『夜行巡査』
 (ちくま文庫『泉鏡花集成1』所載
 1999年刊)
 鏡花の『夜行巡査』は、代表作の1つに数えられるだけのことはあって、考えさせられるところのある作品だが、「『夜行巡査』『外科室』の後、扱うテーマという面で退行した」とまで考えてしまうのはどうか。確かに近代日本文学の辿った道筋からすれば退行だろうが、妖怪や盗賊、人形的な女性といったものは、彼の内面で、より彼自身にコミットしていたはずで、そちらに向けて関心が移動したのは、作家の内面と作品のテーマの結びつきということで言えば、初期の青臭いテーマ(いかにも紅葉門下という感がある)を扱っていた時代よりも進歩していると考えることもできる。端的に言えば、妖怪ものの方が、鏡花でなくては書けない作品だということである。
 僕自身は、鏡花は『夜行巡査』的な作風で進んでも、やがて潰れる時が来ていたのではないかと、直感的に感じているが。
(1998.4.26)


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泉鏡花

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