石川九楊 |
『二重言語国家・日本』 (NHKブックス 1999年5月刊) |
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帯には表紙側に「日本語は中国語の植民地語である」の文字が踊り、裏表紙側では本書の元となった論文初掲載時の評が載っている。この時点で「うわー、大丈夫かよ、おい」という感じですが、高橋敏「江戸の訴訟」のような、第一印象が悪くても読んでみたら面白かった、という本だってたくさんあるので、とりあえず読んでみたわけです。 ちなみに、この裏表紙の文言が面白いから引用してみますね。 石川九楊「『二重言語国家』日本」(「アステイオン」’95春号)は、停滞気味の日本文化論に風穴を開けようとする志の壮大な論文である。(朝日新聞’95.3.9・芹沢俊介(評論家)) 日本のナショナリティ(民族性)の問題を文化=言語(日本語)の多元性、あるいは重層性として、論理的に解きほぐそうとした力作論文が石川九楊の「『二重言語国家』日本」(「アステイオン」’95春号)であろう。(中略)日本語の二重・三重の、ある意味では「あいまいな」構造を解き明かすことによって、石川九楊は日本のアイデンティティの複雑な、多元性の原理の深奥に迫っているのである。(産経新聞’95.5.7・松本健一(評論家)) 教育論・家族論といういかにもうさんくさい分野で評論活動を続ける芹沢俊介に、右翼評論で知られる松本健一という取り合わせもなかなか意味深ですなぁ。で、芹沢のことを少し調べている間に通りかかった戸塚ヨットスクールのホームページにも面白いのでリンクを張っておきます。石原慎太郎よ、こんなとこを支援してて大丈夫か?(笑) んで、この本の要諦はと言うと、「日本語の構造から考える日本文化論」なわけですが、ではそこで結局どういうことが語られるのかというと、「日本語の根幹は漢字(中国語)である」「中国語と中国文化はエラい」「書道もエラい」という、まぁ、この3点。ああ、言い忘れてましたが、この石川九楊という人は、書道家です。まぁ、なんかそれっぽいお名前ですな。 基本的には、この3点で構成されているので、内容としてはいわゆるトンデモ本に近いです。NHKブックスらしく、各種資料で粉飾してあるから、一応、それっぽく見えますが、実際のところは、各種資料を抽出するときの恣意性が高くってそれっぽくみえるというだけで、さしたる内容のある本ではありません。 読み始めたときの印象は、吉本隆明の「共同幻想論」に近くて、研究書というよりは現代思想に近い形でとらえれば読めるのかなとも思いましたが、その気になって読んでいくと、どんどん話が一方に偏っていくのがわかって、かなり引きます。 日本語が、中国語の構造を内包する文法を持っているというのは、従来の日本語論でも言われていることなんですね。で、石川さんは「文法なんてどうでもいいんだ。2種類のものが入り組んで、かつ根幹にあるのはむしろ中国語だというところが日本語の特徴であり、文化とは言語によって支えられるから日本文化の特徴でもある。漢字を根幹に持つというのは、つまり書き文字ベースだということだから、それをちゃんと表現力豊かに書く書道はエラい」というところに、従来の言語論としての日本語論を「ソシュールとかチョムスキーの言っているようなことは、アレは全然ダメだ」と否定して突っ走るんですわ。 なんか、要約すると右翼的にも聞こえるんだけど、微妙に左翼的な言説も天皇論に関するくだりで展開されています。松本健一が絡んでいるあたり、やっぱ右翼方面に受けるものだとは思いますが、言っている本人は、イデオロギーと言うよりも、むしろ書道家としての立場なんでしょう。 で、このアホな論理を押し進めるとですね、「ワープロなんてのは、筆の運びの抑揚で感情を文字に込めるという、日本で古来からおこなわれていたことが出来ないから、アレで書いてもダメだ」という話になります。フォントの種類とか文字の大きさを変えるとかの、Web上の書き手の苦労はあっさり全否定されてしましました。 で、この本の一番嫌なところは、どうもこの人が、本気でこれを信じているらしいところです。最後の方で「文字が言葉に内在的であることを理解していない現在の日本において、毛筆教育の再構築を主張すると、よほどの時代錯誤の奇矯な思想の持主か、あるいは毛筆教育産業の代弁者くらいにしか理解されないだろう。だが、それは、言葉と文字に対する無理解から来るものである」と予防線を張っているところがあって、これ、単純な予防線というより、本気だというアピールだと思うんですわ。 真面目に反論するのもいささか馬鹿らしいので、これはこのまま放置プレイということにしますけど、問題はこの本が出てくる位置というのがどのへんだったのか、当時の言論状況ですね。 出版されたのは1999年の5月、元になった2編の論文は1995年春と、1997年春の「アステイオン」に掲載されています。 で、キーになるのが、94年の大江健三郎のノーベル文学賞受賞と受賞講演「あいまいな日本の私」であり、98年の小林よしのり「新ゴーマニズム宣言『戦争論』」だと思うんですね。大江の受賞講演が、一時期、少し静かになりかけていた日本文化批判を再燃させ、そこから、「アステイオン」にこういう論文が出てくる。その後の曲折を経て、「戦争論」が出たことで、こういうキワモノ的な本が出版の場に現れてくることになります。もうほとんど言説なのかどうかすら怪しい代物なんですが、それが言説と見なされた時代があった、ということでしょうね。 しかし、最近読書運がイマイチですな。かなり前のこととはいえ、こんな本買っちゃうし。 (2001.11.2) |
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