大塚英志 |
『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』 (講談社現代新書文庫 2004年2月刊) |
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●「摩陀羅」原作者としての大塚英志大塚英志氏の「おたく」語り。と、それだけでこの本のほとんどすべてを語り尽くしてしまったような気分になるのはいかがなものか。 しかし、大塚氏が延々と手を代え品を代えして語り続けている「おたく」という概念の生まれと育ちについての語りは、人によってはほとんどそらんじることができてしまうくらいのものだろう。それだけ大塚氏の思い入れも深いわけだろうが、まあ、ここまでくると思い入れというよりも業とかカルマとか呼びたいような気分になってくる。いや、余計なお世話なんだろうけど。 何から語るべきかよくわからないので、僕にとっての大塚氏という文脈から語りはじめてみる。 大塚氏は、僕にとってはいまだに「『摩陀羅』の原作者」というのが第一義である。 …いや、えーと、もしかすると若い人とか知らないですか、「魍魎戦記 摩陀羅」って。 まあ、知らなくても本書の感想と直接に関わらないので大過ないのだが、そういうマンガがあったのだ昔。で、実は僕も、このマンガにさして深い思い入れがあるわけではない。実際にはほとんど読んでないし。でも、大塚氏が原作をやって、田島昭宇氏が作画を担当したこのマンガは、連載誌が当時の角川メディアオフィス(後のメディアワークスね)が編集していた「マル勝ファミコン」だったこともあり、同じメディアオフィス編集だった「コンプティーク」読者だった僕としては非常にその名前を目にすることが多かった。 まあ、僕の知っている範囲の簡単なあらすじで判断する限りにおいては、確かに面白そうだったし。後に「マル勝SFC」で連載していた「摩陀羅・赤」を読んだときは、そんなに刺さらなかったんだけど、まあ、それはまた別の話か。 大塚氏の名前を見たのは、その「摩陀羅」の原作者としてが最初であった。しかしそれが爾来、たとえば「おたく」がらみの評論家というような肩書きに置換されなかったのは、単に僕が氏の書いたものをまとめては読んでいなかったからという部分も大きいのだろうが、当時「摩陀羅」の原作者として書かれていた文章になにがしか感じるものもあったのだろう。 ●それはいったい何なのか少し原作者としての大塚氏に筆を割きすぎたかなとも思うが、ここを言っておかないと、後が続かない。 大塚氏がおたく語りをやめないと言うのは、多分、商売上の理由からではない。つまり、ええと、この人は小池一夫とか梶原一騎とは明らかに路線自体は違うのだが、彼らと同様、マンガ原作者としてオンリーワンの個性を持っているのだ。梶原一騎ほど広い読者層に受け入れられはしないだろうが、まあ、原作者一本に絞ってしまっても、食うには困らない。というか、詳しいことは知らないが、多分現在でも、大塚氏の収入は、おたく語りの評論書よりもマンガ原作に多くを依存しているのではないだろうか。 原作の仕事の方が、多分本人にとってのストレスも少ないと思う。梶原一騎らと比べて読者層が狭い分、読者との間に軋轢が生じにくいし、長年の編集者としての経験は軋轢を減殺するノウハウを必然的に身につけさせているだろう(もっとも、編集者としての大塚氏はあまりに自分のカラーを誌面に出し過ぎていた、という批判はあるらしいのだが、それはノウハウを持たないということを意味しない。ノウハウを持っているということとそれを実際に活用するかどうかというのはまた別問題だ)。 それでも氏がおたく語りをやめないのは、なにか使命感みたいなものがあるからなのだろう。それは理解できる。そしてそれが宮崎勤事件をきっかけに生まれたものであることも、氏の仕事を見れば明らかだ。だが、なぜ氏がそこに使命感を背負い込まねばならないのか? 本書のキモは、多分実はそこにある。 本書は80年代という時代を通じてサブカルチャーという領域からおたくという分野が次第に独自のものになっていく過程を描いた年代史であると同時に、大塚氏の個人史でもある。むしろ個人史の側に力点が置かれている箇所も多々ある。 それが許されるのは、氏が「漫画ブリッコ」という、中森明夫氏によって「おたく族」なる言葉がまさに創出されたその現場に編集者として居合わせたからに他ならないが、年代史としては夾雑物が混ざりすぎている感も受ける。 しかし、本書の内容を、個人史の側から照射した場合、本書は別の80年代史としての顔を見せる。それはつまり、大塚氏がどのように「おたく」業界の黎明期発展期に携わり、そしてそれを反省的に捉えるようになったかという80年代史だ。 その黎明期から「おたく」業界に関わり、ある時にはそれを育てるような役割を演じた大塚氏は、宮崎事件を期に転回する。事前にもその予兆があるので「転向」とまでは言えないのだが、それまではあえて不問としてきた「おたく」業界の反省点に積極的に向き合おうとするようになる。 本書も含めて、大塚氏のおたく語りの仕事というのは、すべてその転回の延長線上にあるのだと言っていいと思う。 その転回をはたから見ていると業界を生んだ人間の一人として使命感に燃えているようでもあり、生んでしまった人間の一人としての悔恨の裏返しのようにも見える。 どちらも当たっているようでもあるが、どちらもはずれだろう。 それはたぶん「こうでない形もありえたかもしれない」という感情であって、信念とかそういうものではない。あえて言うなら小林秀雄の言う「歴史とは死んだ子どもを思う母親の気持ちのようなものだ」という定義に近いのかもしれない。 宮崎事件は、当時のおたくカルチャーのひとつの極北であったが、けっしておたくカルチャーの埒外のものではなかった。つまり大塚氏はそこに、あれが他のおたくたちの誰であっても、もちろん自分自身であってもおかしくないという可能性を見て取ってしまったのだ。 もちろん当時から、「宮崎勤はおたくですらない」とか「彼は彼であり、我々とは違う(他のおたくたちがみな有害な存在ではない)」といった報道への反論はおたく側からもなされたわけだが、大塚氏はそうは感じられなかった。理屈よりも感情でそう感じてしまったのだろう。 自分が感じた感触をロジックで否定できないところが、大塚氏の取り柄でもあり弱点でもある。冷静に考えればおたくも人間である以上、醜い部分も美しい部分もあるのであり、愚かな人間も賢明な人間もいるわけだが、その愚かさを宮崎勤のような形で含む部分がおたく業界にあるということが、大塚氏に「こうでない形もあり得たはずだ」と感じさせたのだと思う。 だがもちろん、先にも述べたようにおたくも人間である以上、「そうでない形」にはそうでない形なりの愚かしさもあるはずなのだが、しかしそれはロジックである。大塚氏はそれでは納得しないのだろうし、それが感情の感情たる所以でもあるのだろう。 (2005.4.15) |
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