大槻ケンヂ



『変な映画を観た!!』
 (ちくま文庫
 2007年6月刊
 原著刊行2004年6月)

●旅先で読む本


 ちょっくら鹿児島まで出張してきた。で、その途中に読んだ一冊。
 「キネマ旬報」に連載されていた「オーケンのなんかヘンなの観ちゃった」という映画コラムを、加筆・再編集のうえでまとめたものであるそうな。
 旅先なんかで読むのには向いた本であろうと思う。
 コラムをまとめたものなので1回あたりが短いし、気軽に笑いながら読めてあとくされがない。疲れない。唯一の難点は三留まゆみ氏の細かいイラストが文庫サイズに縮小されちゃってることだろうか。手書き文字でびっしりと書き込まれたネタも、このサイズでは読むのに苦労する。大昔、「コンプティーク」の読者イラストに書かれた書き文字を虫眼鏡使って読んでたの思い出すわ。
 まあでも、気になったのはほとんどそこだけだ。
 そう言えば、リリー・フランキーの『日本のみなさんさようなら』という映画コラム本も出張先で読んだのだった。映画評というのは総体に出先で読むのに向いているのかもしれない。

●映画を観ない人


 映画はほとんど観ない。
 これまでの人生を振り返ってみると、まあ、映画館では5年に1回くらい観てるかなってくらいなもんだ。あと、テレビで年に1本観るか観ないか。
 イナカモンなもんだから映画見に行くのにそこそこ手間がかかるとか単館上映系なんてとんでもないとか、そういった立地的な要件もあるにはあるが、それ以前にそもそもそんなに映画が好きじゃないんだろうと思う。金と時間がもったいない、とかせこいことを考えてしまう時点でダメなんだろうなあきっと。
 本書の場合、正しい読み方としては、読者側もそれなりに映画を観ていて、「『オートバイ少女』が激眠!」とか「『スターウォーズ・エピソード2 クローンの逆襲』の演出古くさすぎじゃね?」とかのコラムに対して、そこそこ以上の頻度で「そーなんだよなー」と頷きながらクスクス笑う、といったものなのだろう。
 まあ、紹介されるすべての映画を観ている、ということは実際問題として無理だろうけど、やっぱり観たことのある映画が多いほど楽しめる一冊であるには違いない。もとが「キネ旬」のコラムだというのもそのあたりを裏書きしているようではないか。
 その点、僕は全然ダメである。「オートバイ少女」はクソつまんないという話だけは知っているが観たことないし、「クローンの逆襲」は金曜ロードショーで20分くらい観て飽きて消した。ちなみに、本書に出てくる映画で通して観たことあるのが何本あるか数えたら7本だけだった(ちなみに「燃えよドラゴン」「がんばれ!!タブチくん」「エヴァンゲリオン劇場版シト新生」「同 Air/まごころを、君に」「キャノンボール2」「トータルリコール」「マトリックス」。我ながらオタくさいラインナップで情けなくなってくる)。この数字が多いか少ないかというと、たぶんものすごく少ない。名前が出てくるだけの作品も含めれば200本くらいは登場するのだが、実際に観ているのがそのうちの7本なのだから、「あー、あれね」と言えるのが30本に1本くらいの計算になる。月二回刊の「キネ旬」本誌で読んでいたら2ヶ月に1回言えるかどうかだ。
 別にメインで取り上げられるようなB級映画とかだったら観てなくてもどうってことないと思うのだが、「2001年宇宙の旅」も「時をかける少女」(大林宣彦版)も「エイリアン2」も「地獄の黙示録」も観たことないって、我ながらどうなんだろうとちょっと反省してしまった。でもきっとこの先も観ないだろうなー。

●それでも映画コラムは楽しい


 そんなわけで、先に挙げたような楽しみ方ができない僕としては、単純にいつも通りのオーケンのエッセーとして読んだ。
 なんというかまあ、それで全然問題なく面白い。
 そもそも「ヘン」な映画を取りあげようというのだから、取りあげるのはマイナーな作品が多くなるに決まっている。したがって、読者が観たことがない映画であっても楽しめるよう、それなりに詳しくどこがヘンだったか解説してくれるし、タイトルがあがった映画については、編集部がつけたのか、短い解説も掲載されている。
 いたれりつくせりと言ったところではあるが、それゆえに、この本を読んで映画を観てみようという気にはなりにくい。「キネマ旬報」の編集部にとっては困ったことなのかもしれません。まあ、読者にとっちゃ別にいいんだけど。
(2007.10.21)


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『我が名は青春のエッセイドラゴン!』
 (角川文庫
 2004年12月刊
 原著刊行2001年5月)

●青春ってそういうもんだよなあ、とトシくうと思える


 なんだかんだでけっこう久しぶりに読んだオーケンである。でもまあ、いつもどおり、というか。なあ。
 こんな感想しか出てこないようじゃ書評サイトの看板を下ろさなければいけないところかもしれない。でも情けない青春を(青春というのは基本的には情けないものだ)さらに情けなく描いて笑い飛ばすオーケンの芸風は、たぶんこの先も変わらないだろうし、それをのほほんと笑って読み流すのが、正しいあり方ではある、と思う。

 サクサク読めるのであんまり実感はないのだけど、ページ数的には300ページちょっとあって、そこそこ読みでがある。で、そのうちのおよそ半分を占めるのが、高校時代から現在(UGSをやってたころ)に至るまでのオーケン本人の情けない青春をエッセイ風につづった「オレってダメだな〜、と思っているすべてのボンクラ野郎に捧ぐ」。
 『リンダリンダラバーソール』と通底する「なにをやったらいいのかわからない」ことへの虚無感焦燥感みたいなものがかすかに鳴り響いて基調音をなしているが、どちらかと言えばこっちの方が「お笑い」寄りだろう。虚無感はあくまで、ところどころでふっと顔を覗かせる程度になっている。
 まあ、それが青春というもののリアルかもしれない。毎日が虚無、という青春を過ごした(ないし過ごしている)人はあんまりいないだろう。基本的には毎日の生活の中で虚無感は抛棄されて、モラトリアムの馬鹿騒ぎが主旋律を奏でるのが一般的だろうと思う。で、たまーに、退屈な授業を上の空で聞いているときとか、深夜の自室とかで、俺って10年後に何やってんだろう、とかいう思いに襲われて、なんにもなれそうにない自分に絶望するのだ。
 当人はそのときは、もっと深刻なことだと思ってるんだろうけど、そうした青春はあとから振り返ればアホで情けない笑い話である。そうした笑い話が150ページほど入っている。いま青春中の人の方が、読んで得るところがあるんじゃないか、とも思うが、僕が実際にそのころに読んでたら、「得るところ」に気づかなかったかもしれない。まあそんなもんだよなあ。

 残りの150ページは、オーケン思い出のテレビ番組についてつづった「テレビ・キルド・ザ・テレビスター」、自作の漫画「大東京大仏」、割と最近のことを書いたエッセイ「よろづの思ひで書き」が収録されている。
 前半の「オレってダメだな〜」からの流れを引きずったままで読むと、懐古調の話が多いような印象も受けるが、それぞれの章を単独で読むとそうでもない。ただま、往事のことを振り返って馬鹿話に仕立てる、というスタンスは割に一貫していて、今は知らないけど、この当時のオーケンの書くものにはこうした傾向があったのかもしれない。調べて書いてないから責任は持たない。
 いずれにしても面白くて笑えるんだから、文庫で安いんだし見かけたら買っちゃえと言える一冊ではあるだろう。
(2006.12.21)


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『オーケンのめくるめく脱力旅の世界』
 (新潮文庫
 2004年4月刊
 原著刊行2001年10月)

●のほほんの力学


 『行きそで行かないとこへ行こう』なんかの流れの延長線上にあるのであろう、オーケンの旅エッセイ。
 ただ、旅エッセイとはいうものの、『のほほんと熱い国へ行く』でインドとかタイにわざわざ出かけていた頃とは異なり、旅と言っても遠出してせいぜい熱海くらいの安・近・短。それでも近くたって出かけていればまだいい方で、読み終わって「あれ、今回どっか出かけてたか?」と思って読み返すと、医者に行ったとか、池田貴族の家に線香をあげに行ったとかいう章もある。出かけてはいるにしても、それは旅と言うより用事を足しに行ったと世間では言うのではあるまいか。
 しかし、そういう細かいことに、ちまちま文句をたれる気にさせないのは、一種の人徳というか、芸風だろう。ちょっと苦しい弁護をしている気もするが、実際に読めばわかる。今回はどこにも行ってないぞ、とかいったことは、読んでいるうちになんかどうでもよくなってくるのだ。たぶん、これが「のほほん」であり「脱力」なんだろーな、と思う。
 「のほほん」は、すべての批判を無効化する。柳に風であり、相手の力を利用して相手を倒す合気道のようなものなのだ。
 なんか例えが間違ってる気もするけど、たぶん、そういう真っ正面からの批判とかツッコミとか、そういうものを棚上げして、テキスト自体の持っている主題の中に全部からめとってしまう構造があるんだと思う。牧野信一なんかに近い力学があるのだ。

 でまあ、そういう牧野信一的力学の中で何を語るのかといえば、カレーだったり、恋だったり、池田貴族の死だったり、「特撮」での音楽活動のことについてだったりする。その中でどっかに行ったよ、ということも語られるのだが、こういう章の時は、ウエイトは旅には置かれていない。
 で、たまに、熱海の温泉街にいるという外国のロックスター激似ストリッパーを見に行く、とか、運転免許を取ったので練習を兼ねてマザー牧場までドライブする、とか、取材で新宿二丁目のゲイバーへ行く、とか、明確な目的のある旅が間に挿入される。
 どっちのパターンの方が面白い、というのはあんまりない。これがごたまぜになっているからお気楽に読めるのだと思うし、前者のパターンだけではちょっと重いというか、読んでてしんどくなっちゃうだろう。たぶん、しばらく重いのが続いたからたまには軽いやつで、とか、そのへんはバランスを意識的にとっているんじゃないだろうか。
 まあ沢木耕太郎氏でもあるまいし、そうそう旅にばかり出かけてはいられないさ、ということで旅がミニマルなところには目をつぶり、目をつぶったままでのほほんな力学に身をまかせてみれば、本書の魅力は十分に体感できるのではあるまいか。
(2004.7.12)


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『リンダリンダラバーソール』
 (メディアファクトリー
 2002年3月刊)

●私小説、ならびに回顧録


 2002年の3月にメディアファクトリーから刊行されたのを購入してのち、しばらく本棚で眠っていたこの本。なぜだか僕は、これを小説だと思いこんでいたのだった。
 しかしながら読んでびっくり。いや、こっちが勝手に小説なんだと思ってただけだからびっくりってほどのこたないのだが、これは元筋肉少女帯ボーカルである大槻ケンヂ氏による、バンドブーム回顧録(フィクション入り)なのである。
 そもそもなんでそんな思い違いがおきたのか。色々考えてみると、オビの惹句にその原因があるような気がする。そこには「大槻ケンヂの自伝的物語」と書かれているのでありまして。「物語」の部分に注目なのである。
 「物語です!」と言い切られたら、「小説なのか!」と思いません?

 ただ、これがまるっきり小説と呼べないか、というとそうでもない。私小説、の、ような、気もする。ものすごく自信なさげで申し訳ないけれども、もともと私小説自体がいまいち定義のしゃっきりしない、というよりも包摂する概念が意外に広いものなのだから、しょうがないと思ってあきらめてほしい。
 後半に入り、ブルーハーツ、X、池田貴族、氏神一番、ジュンスカイウォーカーズ、奥田民生といった個々のバンド・アーティストについて語りはじめると、「うん? これはやっぱり小説ってわけじゃなかったのか?」という気にもなったりするのだが、それ以外の部分はけっこう正統的私小説だったりもするのである。

●バンドブームという波の中でのび太は


 少し話の順序が逆になったかもしれない。
 この本は、年号が昭和から平成に変わる、そのちょっと前くらいからスタートする。年号が平成へと変わると、なんだか今では伝説のようになってしまっている深夜番組「いかす! バンド天国」がほぼ同時にスタートし、バンドブームが本格的なものになる。
 そのちょっと前だ。
 BOOWYや尾崎豊をみんなが聴いていたが、ブルーハーツはまだ新人で、世間的には光GENJIの方が遙かに人気があった時代だ。
 その当時、大槻ケンヂ氏はまだ大学生で、筋少はすでに結成していて、インディーズでは人気が出始めていたものの、プロデビューなどまったく念頭になく、まだコンビニでバイトをしていた、という。
 ここが大事なポイントなのだが、当時、バンドがメジャーデビューして芸能人に、というのは万にひとつも可能性のないことだった、と大槻ケンヂは言う。それがバンドブームを経て現在、バンドブーム当時ほど簡単にではないにせよ、割によくある話になった。
 よくわからない人は、現在、ITバブル期ほど簡単にではないがデジタル企業を立ち上げるのがそれほど難しくなくなった、というようなものだと思えばいい。つまるところ、大槻ケンヂ氏はその言葉を意識的に避けている気がするが、バンドブームというのは一種のバブルだった。そこに功罪はあれど、波が引いたあとに砂浜が残るように、インディーズバンドの世界と職業的ミュージシャンの世界に架け橋を残したのは、バンドブームの大きな足跡であったのだと思う。

 大槻ケンヂ氏は、無名のインディーズバンドから、メジャーデビューを果たし、やがてオールナイトニッポンのパーソナリティになる。
 僕自身が筋肉少女帯を知るのがちょうどこの頃だ。というか、まさにオールナイトニッポンでもって、大槻ケンヂ、および筋肉少女帯の名前を初めて耳にしたのだった。僕が自分の昔話をしたってしょうがない。が、それは踏まえた上であえて少し書く。
 当時の僕は中1で、ようやく自分の部屋を持ったばかりだった。初めてオールナイトニッポンを聴いたのは夏休みの最後の日で、やってもやっても終わらない宿題に半泣きになりながらラジオをつけると、デーモン木暮閣下が喋っていたのだった。
 そこから深夜ラジオの虜になるわけだが、オーケンがパーソナリティーをはじめたのがたしかその年の9月だったと思う。ちなみにそのとき、同時に2部でパーソナリティーをはじめたのが、当時まだ三遊亭楽太郎の弟子の三遊亭楽大でもあった(もうやめてた?)伊集院光。当時の彼はオペラ歌手という触れ込みだった。まぁ、みんな若かったということだ。
 僕や数少ない友達は、オーケンのラジオに夢中になっていた。いや、僕自身はデーモン閣下の洗練された放送の方が幾分か好みではあったんだけど、でもそれはそれとしてオーケンのラジオの無茶苦茶加減も好きだった。
 その頃毎週、「キノコパワー」というシングルカットされた曲が流れていた。
「キノコパワー キノコパワー どこか僕を連れてって♪」
 どこか不安定なものをはらみながら突っ切っていく大槻ケンヂ氏のボーカル。そこに「僕の宗教においでよなんとかしてあげるぜ!」へと後に通じていく、超常的な力への憧れと逃避傾向が荒削りながら込められているのを読みとるのは、決して間違いではない。
 そして「イカ天」が始まり、本格的にバンドブームがやってくる。
 大槻ケンヂ氏も、成功者ではもちろんあるものの、ほとんどなすすべなくムーブメントに巻き込まれ、とまどいながら生きていく。それをオーケンは「のび太になったようなものだった」という。

 『ドラえもん』ののび太は、ドラえもんのポッケのおかげで、同世代の誰もできないようなことを、簡単にやってのける。しかしそれは、のび太自身に人間的成長が起こったわけではないのだ。のび太はひ弱な子供のまま、ドラえもんという超常の存在によって、いびつな万能感を得たにすぎない。ブームという超常の時間と、たまたま青春の一時期が合致したバンドマンたちは、自分の意志ではないところで、予期せぬ自然災害にでもあったように、等身大以上に自我を肥大させてしまう、このいびつな、のび太の万能感を手に入れてしまったのだ。
(p.107「そしてブームが到来し、のび太とブロンソンは踊った」)

 表現としてものすごく的確だ。この自己分析力が、正統的私小説のひたすらな自己沈潜と相通じるところである。
 やがてバンドブームも終わり、なんだかんだあって大槻ケンヂ氏は筋肉少女帯を脱退。オールナイトニッポン当時から続く執筆活動を継続しつつ、「特撮」を結成したりして現在にいたる。
 一方、回想の縦糸として準備されているコマコという女性との恋も終わりを告げる。多分、幾分かの実体験も入ってはいるだろうけど、このコマコに関しては大槻氏の創作だ。出会いも恋愛も別れも、いくらか定式的になっている。それがかえって縦糸としての機能を強化しているので、定式的なのがいけないというわけではない。
 コマコはおそらく、ひとつのブームの、あるいは青年期のメタファーなのだ。
 だからブームが終われば恋も終わらなくてはならない。後に再会することがあったとしても、もう時計の針を元には戻せないし、当時の面影を引きずりつつも、懐かしさとともにしか触れあうことができない。
 それでもその時代は確かに存在したし、その意味も功罪も、確かにそこにあったのである。恋愛と同じで、目に見ることはできないにしても。

●補足


 『リンダリンダラバーソール』は、特撮のオフィシャルサイトのプロフィールを見ても「自伝的小説」となっている。大槻ケンヂ氏本人も小説と認識しているということなのかなとも思うけど、途中、どう見てもそれ小説じゃないだろ、という感じのところもあるので、読者としてはフィクション入り回顧録という認識でいいのではないかな、とやっぱり僕は思っている。
(2004.2.25)


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『90くんところがったあの頃』
 (角川文庫
 2003年9月刊
 原著刊行2000年3月)
 うーん、感想と言ってもな。「そういやあったなー」などと懐かしみつつへらへら笑って楽しく読める本であります。
 批評だなんて、そんな野暮ったいことはしたくないよな。

 一応、どんな趣旨の本だか説明しましょう。
 90年代をざざっと総まくりして、そのとき起こった事件を取り上げ、それについてオーケンが語るという、まぁ、そういう本であります。こういうのは、誰がどんな視点で語るかによって、取り上げる事件も違ってくれば、面白い内容になるかどうかも決まってくるという企画ですが、そこはもうオーケンなので。脱力しつつアハハと笑って読めるということで、90年代にものごごろついてた人なら、万人にお勧めできるのではないでしょうか。
 視点が大槻ケンヂですから、バンドブームにはじまり、EL&Pの再結成、尾崎豊の死去、町田康の作家への転身、江戸アケミや池田貴族の死などの音楽関連と、幸福の科学の流行、サイババ、ヘール・ボップ彗星の飛来とともに集団自殺をとげたカルト教団ヘヴンズゲート、さらに90年代の締めくくりであるノストラダムスの大予言期限切れなど、宗教・オカルト系についての話題が充実しています。

 オーケンの本というと、「のほほん」シリーズなどにも見られるように、脱力しつつ「なんか考えてるらしい」と感じさせるダウナー系のテイストが、彼の書く歌詞とも共通する魅力ですが、そういった意味では、この本はちょっと懐古趣味が過ぎていて、そういう魅力に欠けると言うことも出来るでしょう。
 「あったねぇ」「あったあった」「そう言えばそのころ身の回りでこんなこともあったよ」「わはは」という懐古譚で終わってしまうわけで。
 けど、これはそもそもがそういう企画でもあるんだからしょうがないわな。
 オーケンもやっぱりバンドブーム世代なんだなぁ、というのが、ところどころに見えるスターリン、じゃがたら、町田町蔵らへのリスペクトからうかがえるのが、妙に感慨深くもあります。
 …なんか結局、野暮ったい批評をやっちゃった気がするな。
(2003.11.17)


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『オーケンののほほんと熱い国へ行く』
 (新潮文庫
 1998年10月刊
 原著刊行1991年12月)
 レインボーマンの話を皮切りに、番組の取材で倉本美津留らとインドに出かけた時の体験を語る<インド編>と、おもむろに1人でタイへと、初体験のバックパッカートラベルをした時の旅行記となっている<タイ編>の2部構成となっている本書は、熱い国に似合う、あの頭の中がぐにゃぁんとなってくる感触をよく伝えてくれて、たくさん笑えて軽くほろりとさせられるという、そういう本です。
 何というか、大槻ケンヂというのは、「最近どうもみんなが僕を笑ってる気がする」とか歌う一方、「僕の宗教においでよ、なんとかしてあげるぜ!」とか、最終的に根っこのとこで健康的な楽観主義を持っている人で、そういうとこがよくうかがえる1冊でもあります。
(2000.2.11)


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大槻ケンヂ

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