香山リカ



『いまどきの「常識」』
 (岩波新書
 2005年9月刊)

●そのブレはどこからくるのか


 いい本なんだけどブレがある、と思う。そのブレはどこからきているのかというと、精神医学の方法で社会心理を分析してしまう、という方法論からくるのだろう。
 本来、個々人それぞれのこころを分析し、治療するための精神医学でもって、不特定多数からなる社会の傾向を「精神医学では○○という用語があるが、いまの社会はまさに○○であるように思える」と言ってしまうのは、どこか飛躍がある。
 もっともそれは今に始まったことではなく、ゲームに関するコラムでもプロレスに関するコラムでも、そういった方法論は存在していた。僕自身はそれを好ましいものとしてみていたし、精神科医という職業に視座をおきながらサブカル系統のもろもろに言及することで、香山リカという書き手はオリジナリティを確保してきたのだというのは疑いようもない事実である。
 ただ精神医学的な分析が、ゲームやプロレス相手ならばスパイスとして許容できたにもかかわらず、社会心理を相手にするとなると、ちとスパイスの領域を越えてしまうように感じられる。方法としても精神医学一辺倒というわけではないにもかかわらず、それが本書の説得力に不安を感じる所以ではあろう。

●感想は書きにくいが叩くには易い


 話を戻して本書の概要から説明したい。
 かつては別に常識ではなかったはずなのに最近「常識」になりつつある、と香山氏が感じている事柄を取り上げ、それについて考えるという趣旨の一冊である。
 取り上げる事柄は「反戦・平和は野暮」「お金は万能」「世の中すべて自己責任」など30におよび、そのジャンルも人間関係から経済、メディア、政治と多岐にわたっている。ページ数的には岩波新書のスタンダードサイズであると言っていいおよそ200ページなので、ひとつの話題については6ページ前後が割かれていることになる。
 この本はなんだか妙に感想の書きにくい本で、時流に絡んだ本だからなのかなあ、と考えていたのだが、色々と考えていてようやくわかった。この盛りだくさんな感じが感想の書きにくい原因なのだ。
 とにかく話題が30個と多い。これは近年になって世の中のスタンダードが変化してきている、ないしは揺れているということなのだが、しかしこれだけ多いと、感想を書く側が恣意的に話題を取り上げることができてしまう。つまり、普段から保守よりの考え方をしている人なら、国防がらみの話題について書かれた箇所だけを取り上げて難点をあげつらって非難することもできる。左寄りの考え方をしている人が(しかし「保守」の反対語として「革新」という語はそぐわなくなってきている。これも世の中の動きのひとつか)、別の、たとえば教育に関する箇所を抜き出してきて賛辞を送ることもできる。
 でも、そういう書き方をした感想というのは、つまるところこの本について、ないし香山リカ氏という書き手について何かを語っていることにはならんでしょう。自分に都合のいいように話題をセレクトして、自説を述べて褒貶するだけの感想なら、この本はダシに使われているだけでしかない。それがいけないとは言わないけれども、まあ、アンフェアな感想の書き方だろうなとは思いますね。
 また、ひとつの話題について書かれたページ数が短いというのも問題で、どうしても議論をはしょった箇所も出てくるから、そういう箇所を取り上げて説明が足りてないんじゃー、と書けば、好きなところをぶっ叩くことができる。右から叩いてもよし、左から叩いてもよし。実はどっちもできる本だったりする。

●リカたん萌え


 で、こういう書かれ方をしているのは、あるていどまで自覚的なのかもしれないけれど、しかし本書が構造的に抱えてしまった難点ではあるだろうな、と思う。
 それぞれの話題について取り上げて叩かれるばっかりでは、30個にわたる「常識」の変化はトータルではいったい何を意味しているのか、という問題について目がいきにくくなってしまうだろう。
 「あとがき」では、「新しい30の『常識』について、読者がそれぞれに多様な解釈や見解を見いだしてくれれば」というようなことも書かれているが、個々の問題だけでなく、その根っこにあるものについても目を向けていくべきなのだろうと思うし、たぶん、そういったことは香山氏の頭にもあったことだと思う。
 本書での結論をひっくるめて言うと、それは現在の日本社会の「余裕のなさ」に起因した変化なのではないか、というようなところに行き着くように思う。そこまで明確に、「すべての原因は余裕のなさだ!」と指摘されているわけではないけれど、端々から僕が読みとった限りではそうだ。ただ、冒頭でも述べたように、精神医学の方法論で社会心理を分析するという手法がいささか説得力を欠くのも事実で、好意的にとらえるならば、あるいは方法面での飛躍に自覚的であったがために、30個の「常識」からその源泉をたどるというつっこみかたは避けたのかもしれない。
 いずれにしても、そのブレは欠点として考えないといけないとは思うけれど、こういう叩かれやすい主題の本に取り組んでいる香山氏の努力は評価したい。
 いやぁ、実際、たぶん苦手なジャンルなんじゃないかと思うんだこういうのは。自虐だの何だの言って叩くのも自由だけれど、そういう主題からあえて逃げない書き手としての責任感みたいなものは評価するべきなんじゃないの? 僕個人はそれは評価するし、あとこう言っちゃ本人はいい気持ちじゃないかもしれないけど「萌える」ポイントだと思うですよ?
(2007.1.30)


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『結婚幻想
-迷いを消す10の処方箋-

 (ちくま文庫
 2003年6月刊
 原著刊行1999年11月
 原題『ウェディング・マニア』)

●香山リカ氏の守備範囲


 勝手な思いこみ、なのかもしれないのだけれど、香山リカ氏には、フェミニストというイメージはない。もともとが「サブカル+心理学」の人というイメージだからなのかもしれないけれど、もっと本質的な部分でも、おそらく一般的にイメージされるフェミニストにはなれないタイプの人なのではないかと思う。ま、フェミニストの人だったら、自分のペンネームに香山リカなんてつけないよねえ。
 フェミニズムが、社会・制度・共通認識という方向に対して、女性たち自身の現実とのズレを発見し、告発していく外向きのものだとすれば、香山リカ氏の活動というのは、やっぱり個々人の心理に向かうわけだから内向きなのだろうと思う。
 だから、結婚を前にした女性をテーマにした本書について、「あら、似合わないことやってんのねえ」という感想を一瞬だけ抱いた。実際のところはそうでもなくって、香山氏には昔から、このテーマの本ってのはあるわけだけれども、いまいちピンと結びつかなかった、僕の中では。

 同様のことは、香山氏が「ぷちナショナリズム」に批判的な文章を書きはじめた頃にも思った。でも、今や(なぜか、と言っても失礼には当たらないと思うが)反ぷちナショナリズムといえばこの人、みたいになりつつある。まあ、これは旧来的なマルキシズム系の知識人に元気がないことも大きな一因ではあるわけだが、それよりなにより、香山氏の扱う問題の幅が、「サブカル」という言葉の概念が広がるのとシンクロして広がってきてしまっていることが原因のひとつじゃないかと思う。ぷちナショだって、最初はインターネットなどにおけるサブカルの一文脈でしかなかった。それにハイカルチャーの一部が無節操に乗っかってきて、現状が作られているわけだ。
 しかしその守備範囲の広がりが、個人的には、前線を拡大しすぎて、むかし主戦場だったところに目がいかなくなってきている、というふうにも見えてしまう。ちょっとこの人の本来のキャパを越えているのかなという気がする。
 だから、たとえば僕はぷちナショ関連の最近の氏の仕事は面白いと思うし非常にまっとうな中身だとも思うんだけれども、しかしその一方で事実として、ゲーム脳などについてのカウンターで論を張るのが遅れたとか、そういった手落ちが出てきてもいるわけだろう。結果的にちょっと散漫になってる、というのは、厳しい見方だろうかなあ。少し仕事の幅をシェイプアップした方が、クオリティの高いことができるタイプの書き手だと思うのだけど。

●あなたのココロもダイジョーブ!


 閑話休題。
 本書のとっかかりはダイアナの死である。ああ、サブカル的、と思ってしまうのはうがちすぎた見方だろうか。当時はダイアナの死体写真とか、ネットでも流れてたよな。けっこうグロかった記憶がある。
 ダイアナについて、その人生と死があんなにも多くの女性にショックだったのは、ダイアナが抱えていた心の問題が、実は多くの女性に共通するものだったからだ、と香山氏は言う。
 だから多くの女性がその死にショックを受け、涙まで流したのだ、という説が正しいのかどうか、それはわからない。でも、その仮説にいったん立った上で、一人のクランケとしてダイアナを見るという香山氏の手法は面白いと思う。

 長男を早くに亡くした貴族の家に、世継ぎ候補として生まれたダイアナは、早くから自分が「男の子だったらよかったのに」と望まれながら生まれてきた女性であることを発見する。そこから始まる「自分探し」は、「結婚」にすべての答えと幸せへの鍵があるかのような幻想を生み出すが、しかし現実の結婚は残念ながらたいした解決策を与えてはくれない。
 それでも「幸せな結婚」を追い求めた結果として、過食と拒食、買い物やボランティアへの依存、そして「世紀の結婚」が離婚へといたるというこの矛盾。

 まあ、あたし男なんで、そう書かれても「わかるわかる!」とはならんのですけど、女性の読者の中には、共感できるという人が多いようです。
 でも結局、そういう共感に対する「処方箋」は、「サブカル+心理学」の頃にも言っていた「あなたのココロはダイジョーブ!」(というタイトルの著作がある)だったりする。まあ、人間の心って、表層化してくる形態は違っても、抱えてる問題はそうかわらないということなのかもしれません。
 なんかちょっとキレイにまとめてみました。
(2005.7.7)


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『ぷちナショナリズム症候群』
 (中公新書ラクレ
 2002年刊)
 昨年のワールドカップをひとつの契機にして、妙に高まった「ニッポン大好き!」的風潮を考えるという、そこまで本腰を入れて考えたいテーマでもないが、あんまりおざなりに感想を書くのもちょっとどうか、という内容の本書。感想を書きはじめてさっそくではありますが、けっこう気の重い宿題であります。
 そもそも僕自身は、そもそもがドゥルーズ好きであるあたりからして明白なように、国家というものに対してカケラほどの信頼も持っていないので、ワールドカップで日本チームを応援したり、皇后の実家が壊されるのに反対したり、石原慎太郎を崇拝したりする人たちの心性というものが、正直よくわからない。
 そういった意味では、ワールドカップ時の韓国サポーターも、北朝鮮の飢えたる臣民も、まぁ、理解できないし、端的に言って「よくわからないものに熱狂している」というあたりが気持ち悪いんだけれども、でも当然、「ぷちナショ」な日本人もやっぱり同じように気持ち悪い。何がそんなに嬉しいねん、アホちゃうか。
 でも多分、そういう人たちの日本という国家への心情というのは、「信頼」ってほど重くない、何となく好きであるべき、みたいなところなんだろうなと推測はするんですが、どうなんでしょ。

 本書の刊行が2002年9月。それから1年経ってこの本を読んでいると、「がんばれニッポン!」みたいなポジティブな形でのぷち・ナショナリズムってのは、ずいぶんとおとなしくなってきたな、と思う。替わりに、というか相対的に目につきだしたのは「ニッポンこのままじゃやばいからどうにかしようぜ」的な、ネガティブな形でのぷち・ナショナリズム。
 ただそれは、犯罪発生率の上昇とか、北のお国のあれやこれやとか、色々と外的な要因があって、それに対するカウンターでの高まりだから、僕自身もある程度「しょうがないか」という気はしている。グローバリズムが高まれば、自分の身の回りに対する「異物」の侵入を防ごうとナショナリズムも高まる。それは世論の流れとしては自然なものだし、日本のそれなどはおとなしい方だろう。本書でも取り上げられているフランスの極右政党、国民戦線のルペンや、あるいはオーストリアのハイダーの台頭などは、そのもっとも先鋭化したものだと言える。
 そう考えていくと、まぁ、一気に右傾化するということもなく、多少は揺り戻しというか、一時期の熱狂もさめてマシになってきてるな、という印象だ。

 そんな印象の中でこの本を読んでいると、少し「賞味期限切れ」といった言葉も頭をかすめるが、しかし、ぷち・ナショナリズムは、実は簡単にウルトラ・ナショナリズムに転化しうるという本書の指摘は、ひとまず心にとめておかねばならない。
 香山氏は、この(2002年現在の)ぷち・ナショナリズムの高まりは、「階層化の進行」と「切り離し」が複合した結果として起きているのではないかと言う。
 「階層化の進行」は読んで字のごとし。経済アナリストの森永卓郎氏なども指摘するとおり、経済構造改革の流れの中で実力主義が広く浸透していけば、経済的には、一部のエリートと、そしてその他大勢が生まれることになる。森永氏は「ビンボーはカッコイイ!」の中で、「実力による年俸制が導入されると、自分の給料は上がると思うか下がると思うか、とアンケートをとると、『上がる』という答の方が多いが、実際にはごく一部のプロ野球選手級のエリート以外の人間以外の給料は下がることになる」と言っている。
 さらに、親のコネや、あるいは家柄といったことを「しょうがない格差」だと受け入れる風潮が今の若者には強いと、香山氏は指摘する。
 こうして生まれた「ロー階層」が、他にすがるところがないから、「日本人であること」にすがるのではないか。そして、すがっている人々は、「それは昔の戦争とか、右翼とは関係ないから」という「切り離し」によって、その自らの心性にも、そして自らが拠っているぷち・ナショナリズムが右翼的であることにも無自覚でありすぎているのではないか。
 香山氏の主張はおおよそそういったところだ。

 そして、インテリ層はその「切り離し」に荷担する形でひとまず現実を肯定してしまうという安易な態度をとるのではなく、ぷち・ナショナリズムが根ざしている土壌や、その暗部について考え、語ることで、インテリ層としての責任を果たすべきだ、と説く。
 僕は、香山リカは遅れてきたニューアカだと思っているのだが、このあたりの結論づけ方は、非常に香山リカらしさの出たところなんじゃなかろうか。そこがいいところでもあるのだが、この人は、分析から今後の指針を示そうとする段階になると、かなりロマンティックな考え方をする癖がある。それは、個人の暮らし方とか生き方を精神医学の面から語る上ではとても魅力的だと思うのだが、社会学的なアプローチからテーマに迫る上では、正直、今さら感が漂う。
 今日日、「インテリの責任」という言葉を真面目に持ち出せる人は、そうそういまい。大体それって、経済的エリートの台頭を「しょうがない」で済ませるのか、と言っている割に、「替わりに知的エリート層の権力を保持しよう」ということでもあるもんなあ。
 で、この本、気をつけて読んでいると、そういうロマンティックなところは随所に顔を出したりするのだが、しかし、そうした部分をあげつらうのはフェアというものではない。香山氏の指摘した右傾化の危機というのは実際に現在もあるわけだし、それがどこに端を発するかという分析には、見過ごしにできない部分がある。
 石原慎太郎の高支持率については、「日本人の多くが、極端な意見の持ち主『ゆえに』石原を支持しているわけではなく、『それでもなお』石原を支持している」のだというニューズウィーク誌の見解が的を射ているだろうが、もし、今度の自民党総裁選に彼が出馬したとすれば、(国民からの支持という面に限ってみれば)それなりに善戦したであろうことは想像に難くない。ということはつまり、「それでもなお」他の政治家よりマシだ、と国民が判断しうるということだ。つまり政治に限ってみれば、政治家の資質の貧困が、その根底にはある。
 また、階級格差は今後も着実に広がるだろうが、その中で不平等を愚痴ってナショナリズムに転ぶのではなく、森永卓郎氏の言うように「だから仕事以外の趣味にもっと価値観を見いだせ」という生き方もあるだろう。それができづらいというのなら、ここには生き方の選択肢の貧困がある。
 香山氏の指摘は、別に理由も根拠もないでっち上げではない。それをいかなる局面でいかに読むかによって、国家などという正体不明の概念にとらわれた生き方を回避する方法は、まだまだ残されていると考えるべきだ。
(2003.9.8)


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香山リカ

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