木田元



『ハイデガー「存在と時間」の構築』
 (岩波現代文庫
 2000年1月刊)
 えーと、ハイデガー関係はこれが初見でありまして、たしか開高健がハイデガーの影響下にあるんだったかしら、というくらいのおぼつかない知識しかない状態で読み始めた本書でしたが、著者の解説の仕方が割にさばけているので、理解しやすかったです。これなら高校生くらいで読んでも、時間さえかければどうにかなるかな、という気がしました。
 本書は、ハイデガーの主著である「存在と時間」が、そもそも二部構成の予定で書かれはじめたものであり、そして第一部の第二篇までを上巻として出版した後、続く第一部第三篇と第二部が書かれなかった、というあたりの事情に着目して、「では書かれなかった部分(とりわけ構成メモから推して本論となるはずであった第一部第三篇)には、本来どのようなことが書かれる予定であったのか」という問いを立てることから始まっています。
 その「書かれなかった第三篇」へのアプローチとして、様々な資料の検討を行い、この時期のハイデガーの企てを推理していくことになるわけです。
 そもそも、アプローチすべき対象である物が存在していないのですから、話は自ずと傍証を積み重ねていく方向で進んでいかざるを得ませんが、その過程で、「存在と時間」の既刊部についても解説をしてくれていて、これが非常にわかりやすい。

 「存在と時間」において問われている問題とは「〈存在〉とは何か」ということである。と、まず言っておいて、その問い自体に付随する「存在」という概念の見取り図を描き、〈存在〉と〈時間〉という概念との不可分性を明らかにし、さらにはハイデガーの講義ノートその他から、第二部で書かれることになっていたプラトン以来の西洋哲学の伝統と〈存在〉概念との蜜月を示した後に、第一部第三章の内容推理を立論。そして「存在と時間」でのこの企てが挫折したのは何故であったか、と言うところまで話が及んでくるのですから、木田先生大活躍です。
 普通、これだけの話を扱おうとすると、本自体もかなりの大部になってくるような気がしますが、それがこれだけコンパクトであるというのは、木田先生の頭の中に、ハイデガーの思想の見取り図が、長年、ハイデガー研究に携わってきたことで出来あがっているからでしょう。そのこと自体が、本書の信頼性を脇からサポートする形となっています。

 ハイデガーの「存在と時間」において核となる問いが「〈存在〉とは何か」というものである、と指摘されていることは、先に述べたとおりです。
 では、この問いにはどういった意味があるのか。本署での解説に即して整理してみましょう。
 まず〈存在〉とは、それ自体が何らかの「モノ」ではなく、「モノ」を存在させている「作用」の呼び名であります。そしてさらに、この〈存在〉には、よく考えてみると「Aがある」(例:ここに椅子がある)という意味合いと、「AはBである」(例:椅子とは人間が腰を下ろすための道具で、3〜4本程度の脚などの安定した土台の上に人間が腰を下ろせる程度以上の大きさの板や布などが据えられているものだ)という意味合いの2種類があることがわかります。このとき、前者を「事実存在」、後者を「本質存在」と呼び分けることが出来ます。
 ところで、先の例で言えば、「椅子とは人間が腰を下ろすための道具で、3〜4本程度の脚などの安定した土台の上に人間が腰を下ろせる程度以上の大きさの板や布などが据えられているものだ」というのは、実は「椅子とは人間が腰を下ろすための道具【として作られたもの】で、3〜4本程度の脚などの安定した土台の上に人間が腰を下ろせる程度以上の大きさの板や布などが据えられている【ように作られた】ものだ」とも言い換えることが出来る。
 ということは、椅子の「本質存在(椅子とは〜である)」にとっては、あらかじめ、人間がそれを作るときの制作意志が必要であるということになります。
 そして、「椅子とは〜である」という定義がなければ、「椅子がある」ことは不可能なのだから(定義が定まっていなければ、例えば「椅子」として我々が普段使っているものがそこにあっても、それは「椅子」とは呼び得ない。よって椅子があることは不可能である)、「本質存在」は「事実存在」に先行する、とも言えるでしょう。
 ところで、椅子についてはそれでいいとして、では例えば僕という人間についてはどうか。
 「僕が存在する」ためには、あらかじめ「僕という人間とは〜である」が定まっていなければいけないはずですが、それを定めたのは誰か。
 あるいは自然についてはどうだろうか。
 なんだか話が神学的になってきましたが、この問いはそもそも神学的な問いであるので、これでいいとしてください。で、そう考えていくと、「自然が存在する」ことへの驚きといったようなものが、「〈存在〉とは何か」という問いを追いつめていく中から明らかになってきます。

 で、「〈存在〉とは何か」という問いに対しての解答ですが、ものすごくぶっちゃけてネタバレ、種明かし的に言ってしまうと、これはモノが持つ「時間性」だということになってきます。
 なぜなら、「椅子とはBである」という「本質存在」には、「B」を定める制作意図が必要であり、そのためには、例えば木材という「材料」が、「この先にどうなっていくか」ということを気にかける、「未来への視線」が必要不可欠であるから。
 この「未来への視線」こそが、あるモノにとっての「本質存在」を決定することになるのだから、「〈存在〉とは、そのモノの〈時間性〉である」という話になってきます。
 で、ここで注意。「〈存在〉とは、そのモノの〈時間性〉である」という記述は、本書には出てきません。少し考えればわかるとおり、ここまで単純化して書いてしまうと、どうもせっかく考えた内容が意味をなさなくなってしまう。だから、「〈存在〉という概念の中核には、そのモノの〈時間性〉が深く影響している(とハイデガーは考えているらしい)」といったようなことまでは言ってくれますが、「〈存在〉とは、そのモノの〈時間性〉である」という、そのもの直球一直線な書き方はしてくれないし、(ここでは便宜上そう書きましたが)そこまで言ってしまうと不正確になってしまいます。

 話はいよいよ、書かれなかった第一部第三篇では、どのような主張がなされる予定だったか、という核心部分に入っていきます(ちなみに、第二部は、第一部の内容を下敷きに、哲学史の再検討をおこなうという構成が予定されていたむね、メモが残っているそうですので、本論となるのは第一部第三篇ということになります)。
 〈存在〉という作用と〈時間性〉との密接な結びつきと、そして、そこから「あるモノが存在するとき、その存在の前提条件であるはずの制作意図は、例えば人間や自然の場合には何者の制作意図であるのか」といった「驚き」については、すでに昨日の日記で解説済みですが、木田先生はここで得られた「驚き」の解体を、ハイデガーの真意であったのではないかと推測していきます。
 というのは、別に何の根拠もなくそう推理するというのではなくて、「存在と時間」の上巻刊行の直後にマールブルク大学でハイデガーがおこなった講義が、どうやら「存在と時間」の既刊部未刊部を合わせた内容となっていると考えられるためで、そこからすると、第三篇の内容についてもおおよその推定が可能であるということのようです。木田先生はこの講義について、上巻までのところで挫折してしまった「『存在と時間』全体の書きなおし」をハイデガーがおこなおうとしている「としか思われない」と判断しておられます。

 では、この「驚き」の解体(このへんは僕自身が勝手にそう呼んでいるだけ)とはどういった内容のことなのか。
 ハイデガーは、前述の講義の中で、これまでに述べてきた、【「椅子とはBである」という「本質存在」には、「B」を定める制作意図が必要であり、そのためには、例えば木材という「材料」が、「この先にどうなっていくか」ということを気にかける、「未来への視線」が必要不可欠である】といったような〈存在〉のあり方は、時間のさまざまな姿の中でも「未来」が「現在」や「過去」よりも圧倒的に優位に立った了解の仕方である、と指摘します。
 どういうことか。
 例えばここに椅子が1脚あるとしましょう。この椅子が存在するにあたり、まず何らかの制作意志があった、と考えるのが、ここまでの〈存在〉に対しての了解の仕方でした。ところが、この了解の仕方には、それ自体の中に、椅子を「作られたもの」として認識する一面があるというわけです。これはつまり、西洋の無意識的な認識として、万物は神の被造物であるという認識がある、という部分と深く関わってくると思うんですが、ま、それはひとまず置いておきましょう。
 かなり簡略化して言ってしまえば、何者かによって「作られたものである限り」、そのモノに制作意志が関与しているのは当然である、ということです。「制作意志」については、一般に「イデア」と呼びうる概念ですが、ここではまぁ、それもおいといて、制作意志とは、そのものの「未来」を考えることと同義であるという認識だけしておいていただければよいでしょうか。
 しかし、ここでハイデガーは、あるモノ(例えば人間)が、作られたものでないとしたならばどうか、という考え方を導入してくる。
 これは別に人間でなくてもいいんですが、さすがに椅子よりは人間の方が「作られたものでない」と了解しやすいと思うので、人間で話を進めますと、まず、僕という人間がここに存在するとき、これまでは、その僕の存在の前提として僕を制作する意志があったわけですが、そこらへんのしがらみを全部取っ払います。そして、「僕が〈現在〉ここに存在する」というところから話を進める。
 ここで過去に一旦戻ってしまってはこれまでと同じことであるので、過去をとりあえず振り切って、「僕が今現在、この場に生成している」と認識する。時間態の主役・立脚点を、「未来」から「現在」にシフトさせるわけです。
 同じ方法で、世界をとらえ直すとき、自然はもはや何者かによって意図され制作されたものではなく、今この瞬間に生起し続けているものとなる。それは新しい驚きではあるでしょうが、制作主の存在を問うこれまでの驚きは、すでにそこには存在していないわけですね。
 これは西洋的な認識を丸ごとひっくり返す手法であり、かなり大胆というか、不敵な叛乱であると言えるでしょう。

 で、ものすごく長くかかりましたが、これが本書のおおよその内容です。もちろん、僕が曲解している箇所がある危険性はありますが。
 僕自身は、この木田先生の考え方、解釈の仕方には、なるほどなぁ、と思わせられる点が多かったんですが、しかし、僕自身が本書を曲解している危険性があるのと同様に、木田先生がハイデガーの言葉を曲解している可能性があるのではないか、ということも、本書の内容を改めて振り返るとき、問われなければならないでしょう。
 というのも、最初に述べたように、アプローチすべき対象である「存在と時間」第一部第三篇が存在していないのですから、話は自ずと傍証を積み重ねていく方向で進んでいかざるを得ない。この場合、傍証とは、第一部第三篇の内容を推定するための資料としての他のハイデガーの著作であり、またその読解です。
 どんな論文でもそうですが、資料の取捨選択と解釈の方法というのは、論文の著者の意図がもっとも如実に現れる部分であり、また、それが読み手にばれづらい部分でもあります。言い換えれば、ここで好き勝手やってしまえば、後の部分では至極まっとうな方法を用いていながら、大間違いの方向に論を進めていくことが可能だとも言えるわけですね。
 木田先生の資料選択や解釈が無茶苦茶だと言うことが言いたいわけではありません。むしろ、その妥当性について言及するだけの知識は今の僕にはないし、その限りで言えば論が破綻している箇所もなかったように思える。しかし、これがひたすら傍証で構築されていかざるを得ない論であることを考えれば、この推理が、あくまでひとつの可能性である、ということを、読者の側も認識しておく必要があると思うわけです。
 それは木田先生自身も当然、理解していて、「あとがき」では「これで『存在と時間』の理解がいくらかでも深まるなら、冒涜くらいいくらしてもかまわないと思っている。ハイデガーが『存在と時間』の未完部で書こうとしていたのはそんなことではないと思われる方は、ぜひ別の再構成をやってみせていただきたい。そちらの方が納得がいくようなら、いつでも私の試みは撤回するつもりでいる。いろいろな試みがあっていいと思う。むしろこれまでなかったのがおかしいくらいだ。」と、別の可能性についても(自信を窺わせつつ)言及しています。
 「この部分はこう理解しておいて構わない」という言い回しが、本書には散見されます。そうした言い回し自体、本書が木田先生の解釈を土台に据えて構成されていることを明らかに物語っているし、である以上、他の解釈に立てば、別の可能性が示されることも推測できる。それはやっぱり、ある種の危うさというものだろうし、その危うさ自体を賛美することは出来ないんだろうと思う。けれども、それでも、こうした試みはなされるべきだし、その試みのひとつとして、この本は評価されていいとも思うわけです。
(2002.6.2〜4)



木田元

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