私市保彦



『幻想物語の文法』
 (ちくま学術文庫
 1997年5月刊
 原著刊行1987年)
 筆者は、ギルガメシュ叙事詩からホフマン、メルヴィル、ヴェルヌを経て、グィンの『ゲド戦記』に至るまでの幻想小説・冒険小説の系譜を辿っている。
 そして、時代やシチュエーションに合わせて形を変えながら、一貫してその中に存在する「影との対決」「冥界下り」といった共通のモチーフを見て取って、その意味をユング派心理学にのっとって「死との対面」と「胎内回帰」(「生と死」と言っても可)を根本構造にすえた精神的イニシエーションである、としながら、各作品に対峙する。

 ちょっとわかりにくい説明になってしまったけど、面白い本なのよ。
 例えば、そもそもの始まり、ファンタジーの祖型として、第1章で取り上げられるのは、『ドルアーガの塔』の元ネタでもある(つっても登場人物の名前だけね)、バビロニアの古代神話「ギルガメシュ叙事詩」。
 暴れ者だったギルガメシュを懲らしめるため、創造の女神アルルはギルガメシュと瓜二つのエンキドゥを作り、2人を対決させる。勝負の末に2人は親友となり、ギルガメシュも人間らしい性格となり、そして2人は協力して森に住む怪物、フンババを退治する。
 しかし、神の領域である森に立ち入ったことで、2人は神の怒りに触れ、エンキドゥは死ぬ。ギルガメシュはエンキドゥを復活させる秘薬を求めて旅をし、ついに冥界で、大洪水を生き残って不死になったというウトナビシュティムなる老人と出会い、不老長寿の薬草を手に入れるが、帰り道、水浴びをしている最中に、その薬草を蛇に食べられてしまう。
 ギルガメシュの「影」としてのエンキドゥ、影との対決(「イニシエーション」)を経て人間らしくなるギルガメシュ、不老不死を求めての「冥界下り」と、確かにプリミティブな形での「ファンタジーの定番」が、ギルガメシュ叙事詩にはある。

 ちなみに、創造の女神アルルが『魔導物語』のアルル・ナジャの元ネタである…かどうかはよく知らない。でも、こやま基夫のガンダムパロマンガ『Gの影忍』に出てくる盗賊集団「怨鬼堂」の元ネタが、エンキドゥだったのは多分確実。
 ついでに、大洪水神話は、ノアの方舟の元になった大洪水神話の中でも最も古いものとされているそうな。
 あ、ドルアーガの女神さま、イシターは途中で出てくるかんね。悪役だけど…。

 ファンタジーにおいて、影は写し身である。主人公のダークサイドであるといってもいい。フロイトで言うところの「シャドウ」。まぁ、まさしく影なんですけど。
 結局、「影との対決」というモチーフの示すところは、克己に他ならない。それがイニシエーションとして機能する理由も、ギルガメシュがエンキドゥとの戦いの後に人間らしくなったということの理由も、まさにそこにある。ちなみに、四つん這いになり口を直につけて泉の水を飲んだりするエンキドゥの場合は、ギルガメシュの獣性という明確な定義づけができる。
 「影」は、中世から近代にかけてのドッペルゲンガー・引き裂かれた自我の象徴を経て、『ゲド戦記』では「邪悪なもう一人の主人公」という形になる。他にも、『指輪物語』の灰色の善き魔法使いガンダルフに対する、悪しき白の魔法使い…えーっと、名前何だっけ…サウロンか。
 ダメだな、いずれ、もっかい『指輪物語』、読み返した方が良さそうだ。

 ゲド戦記や指輪物語では、「影」というものの持つダークサイドとしての意味が、かなり明確に意識されていると言っていい。ゲド戦記については本書に詳しいが、ガンダルフとサウロンについて言えば、ガンダルフの持つ「色」が、サウロンの白に相対する黒ではなく、白を取り込んだ「灰色」であることを考えても、トールキンの意識が、「影との対立」のイニシエーションとしての意味に及んでいることが推察できる。
 実際、この意味においては、本来の主人公であるホビット、フロド・バキンズよりも、灰色の魔法使いガンダルフの方が主人公らしいといえるかもしれない。
 もっとも、フロド・バキンズは、半魚人ゴクリと、火山の火口で死闘を繰り広げるという「冥界下り」のモチーフを担っている点で、正しく主人公なんだけど。

 「冥界下り」は、主人公が必ず冥界から生還するという点で、「死」の物語であると同時に「生」の物語であるのだという。生と死は表裏の関係にあって不可分であり、どちらが欠けることも許されない。
 また、バランスを崩す存在(例えば指輪物語の指輪)は、死と再生の冥界下りを経ることで浄化されたりもする。
 本書では、ここでギリシャ神話のオルフェウスと、日本神話のイザナギ・イザナミが語られる。「神々の指紋」のグラハム・ハンコックが聞いたらどう解釈するか、ちょっと意地悪な疑問も浮かぶが、まぁそれはともかく。
 オルフェウスは妻を連れて地上に帰る際、「振り返ってはいけない」という禁忌を、つい破ってしまうが、妻の姿は相変わらず美しい。
 対して、イザナギが禁忌を破り、暗闇に灯をともして見たイザナミの姿は、腐乱死体のそれであった。本書では、ここに2つの神話の性格の違いを見る。
 「鶴の恩返し」でもわかるとおり、「見てはいけない」「振り返ってはいけない」というタブーは、必ず破られる。生きた人間には、異界を直視することは許されていないのだろう。「許されない」事を示すためにも、タブーはまず、破られねばならないということだ。

 さて、ここで僕は、京都の渡月橋を舞台にした伝統行事「十三詣り」を思い出す。
 4月13日、13歳になった子供は、虚空蔵に参詣に行く。問題は帰り道だ。渡月橋を渡り終わるまで、振り返ってはいけない。振り返ると、せっかく授かった智恵が失われてしまうから、というのだが。
 少なくとも、その原初形態では、渡月橋の彼方は異界であり、此方は現世として設定がされていたのだろう。あれは、冥界下りをモチーフとしたイニシエーションなのだ。渡月橋が出来たのは室町時代のはずだから、恐らくは、イザナギ・イザナミ神話を取り込む形で生まれた儀式なのだろう。
 本来、振り返ってしまった子供はどうなってしまうはずだったか。多分、本当は、授かったものがなくなる、なんていう生やさしいものではなかったはずで、恐らくは、異界から帰ってこられなくなるというのが正解だったんじゃないかな。
 行きはよいよい帰りは恐い、というあれだ。
 帰り道、というのは、恐いものだったんですよ、本当は。
(1999.2.21-22)


私市保彦

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