子安宣邦



『「宣長問題」とは何か』
 (ちくま学芸文庫
 2000年12月刊
 原著刊行1995年)

●「宣長問題」って言われても困る


 花粉アレルギーで体調が悪化したため、読み終わってからしばらく間をおいて感想を書く羽目になっておりますが。
 えー、『「宣長問題」とは何か』。何かって言われたってなあ、困るよなあ。初耳の単語ですよそんなの。
 というか、「宣長問題」という単語をよく聞くとかよく知っているという人がいたら、それは大嘘つきである。だって、そんな単語は一般的な用語としてもまた学術的な用語としても、全く熟していないどころか流通さえしていない言葉だからだ。
 したがって、ひとつ明言しておくなら、僕は、この書名のつけかたはよろしくないと思っている。そもそも、本書は流通もしていない「宣長問題」について語ったものではないからだ。本書が語るのは、本居宣長という研究者・思想家が、現代日本を生きる僕たちにとって、どのような形で問題化してくるか、ということだ。それを「宣長問題」と呼ぶのは自由だが、それを書名にまで持ってくるのは、やはり説明不足の感が否めない。

 「宣長問題」という言葉は、元来、朝日新聞夕刊の「夕陽妄語」で加藤周一氏が使った、いわば造語である。それを子安氏は本書で、なかば揶揄のニュアンスを込めて使っている。
 加藤氏の「宣長問題」は、ハイデガーの哲学とナチスへの協力とがどのように結びつくかという「ハイデガー問題」(これは一時期、実際に流通した用語らしい)との対照の上で、宣長の古事記研究と強烈な排外主義がどのように結びつくか、という問題を指す。が、宣長の国学とは、国粋的排外主義(ちなみに、この場合の「外」とは主としてインド・中国文化である仏教儒教を指すことに注意)のもとに、儒教的仏教的世界観をその存在自体のうちに刻印された漢語的世界を捨て、古代の日本人が持っていた(と宣長が想定する)日本的なるものの恢復を古代日本語による古事記の世界の探求を通じて求めようとするものだ。
 つまり、子安氏も言うのだが、それ、実は矛盾してないし、したがって謎も問題もそこにはない。
 たしかに、精緻な注釈学の成果と感情的な排外的な言説とは、にわかには結びつきがたいものだが、実際にそこに矛盾をはらむハイデガー哲学とナチス協力との関係とは、「宣長問題」は相似のようで相似でない。

●日本を問う言説の反復と怨霊的再生


 で、ここらへんはプロローグなのである。加藤氏の勇み足を軽くいなした子安氏は、ここから、「だが」と言う。この「だが」からが本書の眼目だ。
 だが宣長は、小林秀雄をその代表例として、なお日本人を引きつける存在ではある。近現代の日本人にとって、宣長がいかなる存在であるのか。そこにこそ真の「宣長問題」があると子安氏は言うわけだ。ここで「宣長問題」という言葉は加藤氏の込めた意味からは大きく逸脱して子安氏独自の用語になる。
 真の「宣長問題」とは何か。その直接的な回答が「文庫版あとがき」に記されている。間をすっ飛ばすので少し急ぎすぎの感はあるが、それを引こう。

 「宣長問題」とは日本人の自己認識のあり方が、あるいは日本への自己言及のあり方が宣長の反復としてこの現代の日本にたえず再生する、そのことの問題であった。私は本書において宣長におけるこの日本人の自己への問いの原初的な成立を問題にしたのである。いいかえれば宣長における「日本語とは?」「日本人とは?」そして要するに「日本とは?」という問いと、日本の自己同一性をめぐる回答との成立を問題にしたのである。
(p.221〜222より)


 宣長にとっての古事記研究は、つまるところ「原日本人とは?」と問うことによって日本の特異性と優越性を証しようとする試みに他ならなかったというのが、ちょっと乱暴なまとめ方ではあるが、子安氏の言い分だ。そして、子安氏はその特異な中国と異なる「日本」という概念が、実は「『日本とは?』の問いが『日本』という回答を言説上に作り出していく」ものだと言う。
 もとから存在していながら埋もれていたある真実を掘り起こすのではなく、問いそのものによって創出されていく回答である。そこに一定の恣意性が働くことは言を待たない。
 こうして構図は、以前に読んだ『日本近代思想批判』で子安氏が明らかにした構図と相似である。つまり近現代に民俗学その他によって原初の日本像が描かれるのは、宣長的な問いと回答の反復であると位置づけられる。

 ものすごく乱暴にまとめてしまったので、宣長の問いがいかに回答を作り出すのか、といった事をつまびらかにする子安氏の姿勢と方法論については触れていない。
 だが、子安氏のえぐり出した宣長はいかにして現代日本に問題化するか、という問いとその解が、現在においてもいまだ有効性を失ってはいないことは言うまでもないだろう。現代の「韓国とは?」「北朝鮮とは?」「アメリカとは?」といった問いが、その対照として「日本とは?」を浮かび上がらせるための逆説的問いでしかないと言う見方は当然成立する。そして、「北朝鮮とは?」という問いとその回答があながち間違っていないところにこそ、現代の宣長的反復の醜悪さがあるのだ。
(2005.3.25)


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『日本近代思想批判 -一国知の成立-』
 (岩波現代文庫
 2003年10月刊)

●「近代」とは何だったのか


 書き手に熱があって、それが文章にもこもっているから、読もうと思えば結構なスピードで読むことができる。
 でも、ここに書かれていることを真面目に考えようと思ったら、かなりの難物だ。
 本書のテーマを僕なりにまとめるとするなら、「日本にとって近代とは何だったのか。また日本的な近代のあり方というものがあるとすれば、それはいったい何だったのか」といった形になるだろうか。
 しかし、まとめるだけならこれくらいでもいいだろうけれど、近代と一口に言ったところで、何を見れば「近代」の姿がわかるというのか。社会学か、文学か、それとも当時のマスコミか。初手から難問なのである。突き詰めればそれらすべてを見ていかなくてはならなくなってしまう。とてもじゃないが、一人の人間の手には負えない。
(と、思わせておいて、たまに手に負えてしまうような人がいるから怖いというかうかつなことは言えないというか。上を見ればきりがない)

●柳田民俗学と国民国家の成立 1


 本書の子安宣邦氏がまず入口として用意するのは、柳田国男が本邦に導入してきたフォークロア、すなわち民俗学である。日本に民俗学を持ち込んできたとき、そこにあった思惑について、子安氏は次のように解説する。

 「国民」とは個別の郷土研究の成果を、そして各地の平民の生活記録を一つの綜合へと読みとっていく柳田の学の主題であり、彼の学の論理である。民俗的素材を自国の内部観察者の親密な視線をもって読むことをいう彼のフォクロアの学とは、辺地の住民の習俗や俚謡を、また歴史外の平民の生活を「国民」を主題として解釈する学、その主題のもとに綜合する筋道をそれらに読みとっていく学だということができる。「一国民俗学」とはそのような学をいうのである。
 地方の俚謡や平民の衣食は既成の歴史を解きくずす外部としてあるのではない。それらは「国民」を主題とする「一国民俗学」の内部に読みこまれていく素材としてあるのだ。

(p.25〜26 I−第一章「一国民俗学の成立」より)


 前段が抜け落ちたままで引用しているので、少々わかりづらいだろうか。
 柳田はさまざまな民俗素材を採集するにあたり、旅人、よそからやってきた観察者として採集にあたるべきではないと説いた。「五年三年の寄寓者の孤立には、通例は見るよりも見られる方の心もとなさが多く、人もまた一郷一家族どうしが、互いに無言で会釈しあうようなものを、彼等に向って示そうとはせぬ場合が多い」(『郷土生活の研究法』より)から、寄寓者としてでなく、同じ生活者として採集に当たるべし。
 子安氏はこの柳田のスタンスに、「〈内なる者〉の特権性」が「ふてぶてしくそこで主張されている」のを見る。
 採集の対象者となる平民に対し、柳田は同胞として接することで、〈内なる者〉となる、すなわち内部的存在となることを主張する。だが、はたして観察者は、いかなる立場においてかれら土俗の平民と「同胞」たりえるのか? 平民にとって内部的存在であるというこの観察者は、いかなる立場において同胞であるのか? もっとくだけた言い方をするなら、この観察者は何様であるのか?
 その解が上の引用である。平民も観察者も同じ「国民」であり、「国民」という立場において同等だ、ということになる。だがそれは、被観察者にしてみれば、同等という名目の元に「国民」の習俗へと自分たちが綜合されていく過程でもある。このことは、たとえば遠野の人々を例にとるよりも、いわゆる琉球処分によって新たに日本という国家に組み込まれた沖縄の人々を例にとって考えればより実感できるだろう。

●柳田民俗学と国民国家の成立 2


 そしてまたそこには、「自国を〈内から見る〉ことができるだけの知性の自負が重ねられ」つつ、「平民の日常に向って「お前は美しい」と、勝手に価値付けの視線を注ぐような」意識がうかがわれるという。
 つまりここで暴き出されているのは柳田のある種の夜郎自大であるわけだが、こうした糾弾に、僕としては全く別のある事象を連想する。
 それは「サブカル−オタク」という関係性だ。最近はすっかりおとなしくなっちゃったけど、5年くらい前は、サブカル系の評論とか雑誌がオタク系のメディアにかなり接近してきていた。「エヴァンゲリオン」がひとつの契機だったことは語るまでもないだろう。で、オタク系の人というのは、人にもよるけれども、その接近をけっこう嫌っていたところがあった。
 そもそも他業種が絡んでくるのが嫌だった、というのもあるにせよ、思えば、その接近の中に何かしら、この民族学が平民の生活へと接近してくるのと同種の夜郎自大さを感じ取っていた人もいたのではないかなあという気がする。単純にちょっとコジャレた感じを毛嫌いしてた人も多かったんだろうけれども。

 すこし話がずれたが、一応押さえておきたいのは、実は江戸の末期まで、日本という国は幕府あるいは朝廷として存在するにはしていたけれども、平民にとって「お上」と言えば、意識にのぼるのはせいぜい国元のお殿様どまりであって、自分たちが日本という国家に属しているとか、あるいは日本の国民であるとかいう概念はほとんど縁がなかったという事実だろう。
 その上で、上記のような柳田民俗学の方向性が、次のようなひとつの志向を持っていることの意味が問われねばならない。

 しかしなおその志をいうのなら、国民国家の真の内発的な形成への志向とでもいったほうがよいだろう。
(p.24 I−第一章「一国民俗学の成立」より)


 国民国家を形成するためには、平民が国民にならねばならない。それもみずからの意識変革の中でである。
 そのことの是非はここで問うまい。だがこの柳田の民俗学は、戦後になってさまざまに批判されることにはなるものの、一定の成功をあげ、まさに国民国家の形成に少なからぬ影響を及ぼした。
 日本の近代は、学問によって国という概念のもとに生活をかこいこむところから始まると、子安氏は言うのである。

●近代と現在


 この調子で本書にあげられたさまざまな学問と近代と国家政策との関わり合いについて説明を加えていては、いたずらに文を長くするだけでさしたる紹介にもならないだろう。子安氏は、上にあげた民俗学への批判に続けて、戦中、内藤湖南らによって推進された「支那学」、和辻哲郎の『風土』などに顕著な文化類型論、あるいはかの「近代の超克」座談会、はたまた戦後の教科書問題や歴史の語りなおしの問題について、批判的言説を展開していく。
 中にはちょっと消化不良気味ではないかと思える論もあるが(「国語学」が「日本語学」へと改名されることの問題を扱った第3章「『国語』は死して『日本語』は生れたか」などは、僕の理解が足らないせいも多分にあるとは思うが、過去の経緯の確認で話が終わってしまった印象がある)、いずれも読みでのある、考えさせられるところの多い論であると思う。意図的にアグレッシブに論を展開しているため、刺激がやや過多であるかなあという気もするが、基本的に近代史についてはいたってのんきな日本人(ところでそれは国民的性格というよりも、政治的にそうあらしめられている部分が大きいと僕は思う)にとっては、これくらいでちょうどいいのかもしれない。
 割にシビアだなと思うのは、ここにあげられている問題が、それぞれ、今日的な課題とどこかしら密接であるという点だろう。結局なんだかんだ言いつつ、僕たちは同じ課題の残滓を引きずって今日という時代を形成する一部でありつづけている。

●座談会「近代の超克」 -近代の主体- 1


 多様な形で近代の過程を生きてきた知識人に開戦は、己れの生きてきた近代の過程への衝動ともいいうるような一様な感慨を与えているのだ。その近代の再認識への衝動を、河上はあえて「近代の超克」といってみようというのである。だからこそこの開戦を契機に催された座談会「近代の超克」で語り合われるのは、いわゆる日本浪曼派的な主題「近代の超克」だけではないのだ。むしろ座談会を支配する共通な主題は、開戦が知識人に促した近代の再認識の問題なのである。
(p.181 III−第一章「日本の近代と近代化論」)


 日本にとって「近代」「近代化」とは何であったのだろうか。子安氏がここで、座談会「近代の超克」での河上徹太郎の言葉をひきながら言っているのは、太平洋戦争の開戦が「近代化」をめぐる言説を当時の知識人たちに促したという構造の確認である。
 なぜ開戦が、日本の近代化を振り返る契機たりえるのか。
 それは日本において「近代化」とは、すなわち「欧米化」だった、とする見地に拠っている。日本においてのみならず、イスラムにおいてもアジアにおいても、この時代「近代化」とは、産業革命に始まるヨーロッパ的な近代を受容していく過程のことを指した。
 すなわち太平洋戦争の開戦により、欧米との対決という方向性が明確になったことで、一旦スタート地点に立ち直し、近代化=欧米化と距離を置いて、反省的に日本の近代を振り返るチャンスである、と捉えるような考え方が、「近代の超克」座談会に参加した面々の多くにはあったのであろう、と子安氏は推測し、その上で、そうした近代の概括のしかたを、座談会参加者の下村寅太郎の言葉を引きながら批判する。

 「近代がヨーロッパ的由来であるにせよ事実上我々自身の近代になつたこと、又なり得たことは、それが世界性をもつてゐることに外ならぬ。……近代とは我々自身であり、近代の超克とは我々自身の超克である」という下村の言葉を、子安氏は重要な、そしてこの座談会で他の参加者が語らず、のみならず戦後にいたるまで意識的・無意識的を問わず隠蔽されてきた指摘であると見なす。
 なるほど近代化とは欧米化に他なるまい。が、大政奉還より半世紀あまりして、紆余曲折はあるにせよ日本がまがりなりにも近代的国家になりえた以上、「近代は我々自身」に他ならない。

 いま開始されている戦争は不完全な日本近代とその国家体制のもたらした非合理な結果でもなく、また「近代」を克服する課題を担った日本の遂行する「現代」戦でもなく、まして「近代」に汚染された文明の日本精神による革新でもなく、むしろそれは「近代」をそれなりに己れのものとして「近代国家化」に成功した日本の、まさしくその帰結としてこの戦争はあるという認識であり、そうした認識がもつ「近代」への視点である。
(p.187 III−第一章「日本の近代と近代化論」)


 そして、「近代化」が「欧米化」に他ならない以上、日本が近代化したということは、つまり日本は欧米の論理をすでにその胎内に取り込んだということでもある。
 経済的軍事的優位性を盾にアジアの盟主を気取ってみたところで、そこで展開される近代国家日本の論理は、欧米の論理と大差ない。「大東亜共栄圏」による欧米への対抗などという題目が欺瞞に過ぎなかったことはもはや指弾するまでもない。
 さらにまた同時に、ゆがんだ近代化の生んだ非合理なナショナリズムが日本をあの勝ち目も大義もない戦争に向かわせた、という、戦後になって喧伝されたあの神話も、同時に否定されているわけだ。

●座談会「近代の超克」 -近代の主体- 2


 僕はこの感想を書きはじめるにあたって、本書のテーマは「日本にとって近代とは何だったのか。また日本的な近代のあり方というものがあるとすれば、それはいったい何だったのか」という問いであると書いた。
 ここでひとまず、このテーマに対して僕なりに、本書が何をもって「解答」としているのかを見いだしておきたい。本当は、歴史教科書の検定問題について触れた第4部についても概括してからこのテーマに戻った方が据わりがいいのかもしれないが、それはあくまで傍証として利用可能だという範囲のことであると思うので割愛する。
 日本にとって近代とは何だったのか。それは日本が近代的国家へと、慌ただしくもともかく体裁を整えていく、その過程であった。その過程そのものが日本にとっては近代であったと言っても良いだろう。そしてまた、その過程の中で、ひたすら価値判断の主体を曖昧にし、あたかも主体などなくても進行していく自然の成り行きででもあるかのように振る舞うことでもあった、と本書は指摘している。
 柳田民俗学は、国家と国民という概念を、民俗学によって内発的に人々の間に熟成させようとつとめた。それはあたかも、もとよりそこにあったものを再発見するかのようになされたのであり、そしてまた柳田民俗学の成果にはそうした再発見が数多くあったにせよ、そこに裏打ちされてあった意図自体は隠蔽されてきたのだと言ってよいのだろう。
 「近代の超克」座談会においても、日本の近代化とは他ならぬ「我々自身」がおこなったことである、という認識は閑却された。戦後になって戦前が反省的に批判的に振り返られるようになっても、日本を近代化した主体そのものについては、ひとまず抜きにして考えられるような風潮が一般的であったと言っていい。
 日本の近代には、当然のことながらある連続性があったのであり、その連続性の正体とは我々自身であった。わかりやすい例で言うなら、太平洋戦争が終わり、すべてが刷新されたように見えても、実は中核にいた人物は変わっていなかったりしたのである。

●隠蔽される主体


 なるほど、そうだったのかと、そのとき私は自分の迂闊さを顧みたのである。高橋健二氏といえば、井上靖氏の前に、日本ペンクラブ会長だった人である。昨年(昭和五十九年)五月の国際ペン大会のときにも、私は補聴器をつけた高橋元会長の矍鑠とした姿を、会場で何度も見掛けていた。その高橋氏が、翼賛会文化部長の職に在ったとは!
 (中略)いや、ひとり高橋健二氏のみではない。昨年五月の国際ペン大会で、大会実行委員会幹事長として大活躍した、巌谷大四日本ペンクラブ専務理事の場合はどうだろうか。記憶を確かめるために、『日本近代文学大事典』(講談社刊)の、「巌谷大四」の項を索いてみると、保昌正夫氏の筆によって、巌谷氏が、文芸家協会書記と日本文学報国会事業課長を歴任したことが記述されている。
 つまり、巌谷氏は、かつて文学報国会事業課長として大東亜文学者会議を組織し、いままたペンクラブ専務理事として、国際ペン大会を組織したのである。私は、つい数ヵ月前までは、文学団体というものは、不思議に人が変っても同じようなことをやりたがるものだと考えていた。なんという浅薄な理解だったことだろう。そもそも人が変っていなかったのである。看板だけを塗り替えた団体を、同じ人が操って同じようなことをしていたのである。

江藤淳『昭和の文人』 p.15〜16
「一身にして二生を経るが如く 一人にして両身あるが如し」より)

 あるいはまた、河合隼雄氏が『中空構造日本の深層』で指摘したような、中央を空洞にしてバランスをとっていくような日本の社会構造を想起しても良いのかもしれない。
 日本の近代は、中空のように、特に強力なリーダーシップを持った人間によって成し遂げられた近代化ではなく、自然にそうなっていったかのように見える。だが、それは実は中空ではなかったのではないか。中空のように見えて、実はそこには「我々自身」がいたのではないか。そしてその判断主体としての我々の存在そのものが隠蔽されて、中空に見えていただけではなかったのか。
 隠蔽をする者に、隠蔽の意図はあるいはないのかもしれない。だからこそ中空構造が創出され続けているのかもしれないのである。
 だが、いずれにせよ、そこには連続性があったのであり、その連続性こそが我々自身である。もしもそう見えないとするなら、そこには何らかの隠蔽があり、詐術がある。本書は激しい怒りを込めて、そう語る。
 もちろん、意図的にアグレッシブな姿勢をとっている以上、たとえば柳田民俗学にせよ、その功績が意図的に軽んじられている部分はあるだろう。が、それでも、この怒りに触れてみることには、誰にとっても一定の価値があると思う。
(2004.9.2)


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子安宣邦

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