松本章男



『京都 春夏秋冬』
 (光村推古書院
 2003年7月刊)

●京都びいき


 著者である松本章男氏がどのような略歴を持つひとであるかは、以前の『京都花の道を歩く』の感想でも書いた。同じことを繰り返し書くのは好きではないので、ここで再述はしないが、この人は現在、京都新聞など京都土着のメディアに軸足をおきつつ、たまに全国紙・誌にも寄稿をするという、いわば悠々自適の文筆家として、第2の人生を送っている(と、いっても僕が松本氏を直接知っているわけではないので、本当に悠々自適なのかどうかはわからないが)。
 本書は、そんな松本氏が京都新聞その他に書いた、京都、それも古い京都のいとなみをテーマにした原稿を集めて編まれたものである。
 原稿の性質上、仕方がないことなのだが、一読して「ひいきの引き倒し」と感じる部分は少なくない。雑誌「京都」や京都新聞が、京都を批判する原稿を欲しがるわけはないのだから。
 しかし本書の場合、それを指弾することは適当ではないし、またそうすることに意味はほとんどない。

 京都というのは、特殊な都市である。
 千年の王城という歴史がそうさせるのだろうか、人々はこの都市に、そこにしか存在しえないなにものかを見いだしたがる。それは伝統と呼ばれたり、歴史の重みと呼ばれたり、文化や粋と呼ばれたりする。
 千年にわたり文化の中心地であった京都だからこそ、それができた。あるいはそんな京都なのに、こんな最先端のものがある(京都は進化しつづけている)。とか、まあそんな感じの見方だ。
 要するに、京都にあるものにはたいていのものに、歴史の裏打ちみたいなものが欲しいのだろう。そうあってほしい、という無意識的な願いがある。日本人は(あるいはそうでなくとも)京都に関する限り、ロマンティストになってしまうらしい。
 もちろん、京都にしか生まれえなかったもの、千年の王城という歴史の重みを背負わなくては存在できなかった伝統があるのは事実である。といって全てのものに歴史の裏書きを欲してもそれは、実際には無理な話なのは自明だろう。
 だが、そうした願望の当否を問う以前に僕には面白く感じられるのは、京都の文化を歴史の裏書き付きで眺めたい、もっと言えば京都という都市の歴史の重みに圧倒されたい、という願望が、割に普遍的に存在しているらしいことだ。松本氏は、本書に収められた各種の原稿でもって、そうした人々の欲求に応えている。松本氏がそうした読者の願望に自覚的であるかどうか、それは知らない。しかし、京都の風物をどのように紹介するか、それを考える際、そうした欲求にまったく無自覚であるとも思われない。そのような願望は、松本氏の裡にもまた存在しているであろうから。

●歴史を感じる、ということ


 松本氏が一般の人間と違うのは、京都についての知識の該博さである。
 京都生まれの京都育ち、というだけではなく、そもそもの育った環境が、京都の伝統文化みたいなものに近かったりもしたのだろうか。それにまたこの人、文章を読むだに、京都が大好きなんだろうなぁというのが伝わってもくる。文学関係に対する広範な知識については元人文書院取締役というプロフィールからして当然のことであり、それらが結びつくことで、文章にそれなりの奥行きが出ていることは否めない。
 本書の中で印象的ひとつは、ちまきなどで有名な菓子処「道喜」や漬け物の「なり田」をめぐって、匠の技がいかに練り上げられ、受け継がれているかを取材した「京都の底力 庭・食・織をめぐる」のなかの数編であり、もうひとつには1994年に京都新聞で連載したという「短歌のある風景」のなかに収められている、与謝野鉄幹・晶子のロマンスをめぐってのいくつかの文章である。
 どちらもともに、松本氏がそれを玉のように大切に思っているらしきことが文章の端々から伝わってくる。個人的な好み、ということはもちろんあるにせよ、ここに、京都の伝統の本脈が息づいていると松本氏が考えているからではないか、と勘ぐって、そう間違いはないだろう。実際問題、このような伝統がある、というだけで、どこかしら頼もしいような心地よいような気分になるのは僕とても同じことだ。
 南北朝期に生まれたという川端道喜の粽(ちまき)餅や江戸時代以前としか発祥のわからないすぐきの漬け物、鉄幹と晶子の歌の贈答はもちろん、平安朝の歌人たちの恋歌のやりとりを背景に透かし見ることができる。そして、京都という都市を歴史の重みという裏書きつきで見たい、という願望は、そうしたものをベースにして京都を見ることで一応はかなえられるわけだろう。
 そうした歴史の積み重ねのある都市として京都があり、そこから枝分かれしたそのずっとさきに自分がいる、と思えるようで心地はいい。そこに幾分か幻想が混じっており、自我の満足のさせ方にありがちな論理の飛躍があることに対しては自覚的であるべきだと思うが、ロマンチシズムのあり方としては比較的まっとうではある。少なくとも、自分が過去の歴史と無関係である、と強弁するよりは救いがあるというものだ。
(2006.5.5)


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『京都 花の道を歩く』
 (集英社新書
 1999年12月刊)
 銀色を基調にした表紙が特徴的な集英社新書が、3年ほど前に創刊された。その創刊時に出された10冊のうちの1冊がこれ。同時に発売されたものには、大岡信の「北米万葉集」や、奥本大三郎「博物学の巨人 アンリ・ファーブル」、佐藤文隆「物理学の世紀」、宮城谷昌光「クラシック千夜一曲」といったタイトルが並んでいて、はからずも、というか確実に図っているのだが、この新書の嗜好性を示している。
 つまり、いわゆる「実用的」なものではない、ある種の余裕を感じさせる教養。ディレッタント的な知識の提供を、近年、メンツを気にするようになったか、しきりとハイカルチャー的出版物を企画するようになった集英社としては、企図していたらしい。わかりやすく言うと、講談社現代新書よりはちょっとおじさん向けなんだけど、文春新書ほど下世話でない、できれば洒落た料理屋で自分よりも20歳くらい年下の女の子にワインをつぎながら教養をひけらかしたがっているたぐいのおじさん向け、という路線。
 こうしてディレッタント的姿勢は好きではないし、集英社の戦略自体にも疑問を感じざるを得ないのだが、まぁ、良書が増える分にはやぶさかでない。

 で、本書も、そうした趣味的知識人向けの内容となっている。
 松から始まって、山桜、樗、秋明菊など、季節に沿うた25種の花を京都のあちこちに訪ね、その都度に和歌を引いて和歌の味わいとともに花を愛でる。
 おおよそ、本書の内容はと問われればそういったところで、趣味としては決して悪くないが、そこから何か新しい物を見つけようとするには無理がある方向性だ。ただ、そういって切り捨ててしまうには、著者の和歌に対する造詣の深さと、語り口の味わいが尋常でない。
 著者の松本さんは、人文書院の取締役から随筆家になったという人。人文書院は、中堅(やや大手より)どころの文学系専門書出版社。そもそも専門書の出版社というのは、業界では中堅でも、世間的に見れば全然弱小だったりするが。しかし、こういう会社というのは、専門書を企画して、しかるべき人に執筆を依頼し、構成・編集して、さらには大学や研究期間への売り込みを行わねばならないわけで、そこにつとめている人というのは、実は結構、その分野には造詣が深かったりする。
 そういえば、高村薫の「神の火」の主人公は、こういう専門書系出版社の営業の人という激シブな設定で、作者のアカデミックなものや純文学に対する愛憎入り交じった姿勢の一端を窺わせた。ま、これは与太話だ。

 最初の方でも書いたとおり、この本を読んで、何か建設的な思考の展開を期待するのは難しい。というよりもお門違いと言った方が清々しいだろうか。
 だがそれよりも僕個人としては、かつて慣れ親しんだ飛鳥井雅経や藤原家隆、寂蓮、藤原良経、源俊頼、後鳥羽院といった和歌の名士たちの名に、再び出会えたのが懐かしく、嬉しいと同時に、彼らの名をほとんど忘れかけていたことを悲しいと思わずにいられなかった。
 最終官位がどれほどだったか、時系列的にいって誰がどの時代の歌人か。かつて、憶えていたとは言わないまでも、朧気には把握していたそれらの情報が頭の中で混濁し、霧散しているというのは、ほとんど絶望したくなるような衝撃である。
 この後、どのように生きていくにしても、僕自身が和歌に再びあれほど親しむことはないだろう。
 したがって、この本がもたらした感懐は僕にはとても苦々しかったし、またそのディレッタント的姿勢に苛々したりもしたのだが、それでもやはり捨てるに惜しいと思わせられたのは、松本さん自身の知識の面白さ・クオリティの高さがなせる業に他ならない。ただ、こうしたディレッタント的姿勢で書かれた本というのは、どれだけ知識として豊かであっても、研究という立場からはほとんど正反対と言っていいほどに遠いものであることも事実なのだが。
(2002.7.14)


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松本章男

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