町田康 |
『爆発道祖神』 (角川書店 2002年7月刊) |
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●前置き 『爆発道祖神』である。といっても、爆発もしないし、別に道祖神もそうたくさん登場するわけじゃないのであるが。そういえば昔、「爆裂聖飢魔II」という企画ものバンドがあってね、などと全然関係ない上にアピール範囲が狭いことを言ったりしつつ感想にうつる。 ●町田氏と写真 町田康氏のオフィシャルサイトでは、『テースト・オブ・苦虫』同様にこれも小説集ということになっている。で、たしかに『苦虫』よりも文体が小説的だと思うのだが、しかしこれが小説であるかないかということよりも(いやまあ本人が小説だというのだから小説なのだが)、町田氏本人撮影の写真とテキストとのコラボレート作品であるということをまず言うべきだろう。 氏には荒木経惟氏の写真とのコラボレーションである『俺、南進して。』というのもあるが、これは未読。ただ、『南進』が先行しているものの、趣旨としては同様であろうと勝手に思いこんでいる。 町田氏が写真をよく撮る人であるというのは、割に有名であるらしい。『苦虫』にも写真について書いたのがいくつかあって、写真が趣味、という言い方で連想されるような、高額なカメラでもって風景とか人物とかを撮るのではなく、自分のは使い捨てカメラに毛が生えたようなので、とにかくどうでもいいようなものを撮っている、というようなことが書いてあった。 本書の写真を見ても、まあ、その通り、といえばその通りである。表紙になっているのは、パックに入ったままのキビナゴかなにかの小魚で、それが台所のまな板の上に置いてある包丁の上に乗っかっている。表紙の紙質がかなり光を反射するタイプのものであることも手伝って、生活感の溢れかえりまくる写真である。 本編では、こうした写真1枚につき、2ページ程度の小説というか随筆に近いような気もする小文が付されている。いや、小説に写真が付されているととらえるべきなのかもしれないが、基本形は写真先にありきであろう。食卓のキビナゴだけでなく、道端のどうということのない道祖神、自転車、看板、普通の道とか、何でまたこんなものを撮ろうと思ったですか、という写真が多い。そこに何らかのメタファーみたいなものを読みとろうとすれば読みとれなくもないけれど、それは恣意的というか深読みしすぎというか、鰯の頭も信心ってもんだろう。たぶん、とりあえず被写体については何も考えずにセレクトして、目にとまったものを撮っている、というとらえ方で間違ってない。 それでも一定の傾向みたいなものは自然に出てくるわけで、それを強いて言うなら、うらぶれたものとか、生活感のあるもの、見られることを前提としてないもの、そういったものが多いようだ。 ●適当な分類をもとに 分類してみる。ま、分類方法がかなり適当なので、研究資料としては意味をなさないが、およその傾向は読みとれるかと思って。 まず一番多いのが、路傍の様子を撮ったもので15例。飲み屋の前に出てる看板とかアパートの2階とか、本当にただの道端とか。 ついで風景写真が13例。ぬいぐるみとかの静物が10例。人物を撮ったのが9例。台所を撮ったのが7例。台所以外の屋内の様子を撮った写真と、店先の風景を撮ったのが5例、道祖神とか布袋さんとかの石像が4例。店舗の外観全体像、食事内容、猫が2例。車中の風景、鳥、エフェクトをかけて撮ったのが1例ずつ。 いちおう断っておくが、カウントの方法にはいろいろと問題がある。何を撮ったかの判断基準が僕一人の主観であるし、「猫」と「エフェクトつき」とか、被写体による分類と撮影手法による分類とが混在してるのも本来はよろしくない。看板を撮った写真がいくつかあって、これを「看板」として独立させてカウントするか、「路傍」に含めるか、という分類上の問題があることも重々承知である。 ちなみに、ついでなので言っておくと、屋内の写真だけど人が写ってるとか、自転車と猫の写真であるとか、判断に迷ったやつは2ジャンルにカウントしているものもあるので、全体のカウント数は本書収録の写真枚数より多くなっている。 で、そこらへんの瑕疵はあらかじめ了解していただいた上でちょっと集計した数字を眺めてみると、一番多いのが路傍の様子と。これはまあ、ここに含めた写真の範囲が広い、というのが、数が大きくなった最大の要因ではあるが、しかしまあなんというか、アパートの2階だとかなんということもない路地裏とか、普通これは撮らない、という、日常の空間という「ケ」の雰囲気にあふれた感じのものがトップだというのはやっぱり最大の特徴だなと。 ついで風景写真。これは、うーん、なんというか「ハレ」的な雰囲気のある、「絵になる」感じの風景を撮った写真をカウントしたのだが、正直、これが意外と多いのにびっくりした。やっぱり、路傍の、日常性にあふれた写真の方が、インパクトが大きいせいか、こういう写真は印象に残らない。 あとは、やっぱり台所の写真が多い。まあ、詳しく説明しようとすると、生活の基盤である食の風景を、とか、つまらない説明に終始するのでそれはしないが、やっぱりこういう写真はインパクトがあるのが多いのだった。やっぱり台所・閨房・御不浄などというのは、日常生活の中でもさらに舞台裏なのであって、こういうところを写した写真というのは、何かが剥き出しになっている、というような雰囲気があってドキッとする。 全体を通しての傾向としては、前半は路傍の、なんかわびさびのある感じの写真が多いんだけど、後半になるにつれて、なんかトマソン的というかネタみたいなな写真が多くなっていって、連載をしている間にわびさびにも飽きたのか、それともトマソン的な写真の方が小説のネタにするのに楽だからかは定かじゃないけど、そういう町田氏の心境の変化みたいなものも感じられたかなと。ま、連載の日付順に並んでいるのかどうかはしらないけど、そんなことを感じた。 (2006.10.11) |
『テースト・オブ・苦虫』 (中央公論新社 2002年11月刊) |
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●こいつも消えやがった柄刀一『連殺魔方陣』の感想でも書いたが、一度書いていた原稿が消えてしまったので、これもまた同じ原稿を2度書いている。 いま思えば、珍しく殊勝な心がけをして、連続アップしてやろうなどと目論んだのがいけなかった。馴れないことをするから、Cドライブのフォーマット中に「あっ、不完全ブックレビュウの原稿、デスクトップに置いたままだよ!」などと気づく羽目になったのだろう。おとなしく週に1回アップできれば上首尾としておけばよかったのである。 とはいえ、消えてしまったものはしょうがないから、大して気乗りはしてないけど、書きますよ、もっかい。 幸い、こいつの感想はあんまり長くならないのである。一度書いてあるからわかるのだ。予知能力者気分で予言しちゃうぜ。 ●巡り会う時間たち町田康の名前は、もちろん知ってはいたし、読んでみたいとも思っていた。が、巡り合わせというものか、読めずにずるずると1過ごしてきていたところで、これが書店に平積みになっていたのである。 実はその少し前に『爆発道祖神』も買っていたのだったが、買ったきりで、読んでいないのには変わりない。まあこれも巡り合わせだろうと買って帰り、4年近くたってから読んでいるのだから、こういう読者には巡り合わせも何もあったものではない。 本書は「ヨミウリ・ウィークリー」誌に連載されたコラムを集めたもので、つい最近、『テースト・オブ・苦虫2』が出たという話も聞く。町田康氏といえば、痩せても枯れても芥川賞作家である。初めて読むのに小説ではなくてコラム集だというのは、何か間違っているような気もせぬではないが、平積みになっていたのが『きれぎれ』でも『くっすん大黒』でもなくコラム集だったんだからしょうがない。巡り合わせだ。今回は都合の悪いこともいいこともとりあえず巡り合わせだと強弁する方針である。 もっとも、町田氏当人のオフィシャルサイトでは、これは小説集ということになっているから、べつにこれだっていい、のかもしれない。 ●書けそで書けないおもしろかったかと訊かれたら、そりゃもうとても面白かったと答えるべきだが、しかしどこが面白かったかと思って読み返してみても掴み所がなくて困る。中身的にたいしたことを書いているかというとそうでもなく、深読みすればテーマ性を読みとれるものもないわけではないが、そもそも週刊誌の連載でそう毎度、深みのある内容など書けるものではないし、読まされる方にしても毎度それでは重すぎる。 だからありきたりな結論になってしまうけれど、やっぱりこれは文体の魅力だと答えなくてはならない。 町田康の文体は感染るよ、てなことを何度か読んだり聴いたりしたことがある。そのときは、ほうそうかね、ってな相づちのひとつも打っていればよかったが、確かにこれは、真似してみたくなる文体だ。今回の感想は、そう影響が出てもいないと思うけれど、それは単に読んでから1ヶ月くらい経っているからだろう。 なんというのかな、たいしたテーマ性がないということもあるのかもしれんけど、文体だけ真似ていれば俺にも面白いものが書けるんではないかと、そう錯覚させるような文章である。でもそもそも真似するのにそれなりの下地がいる文章でもあるし、きっと文体だけそっくりに真似できたところで大して面白くないんだ、こういうのは。 ショートショートの神様である星新一がそうだった。簡単に真似できそうに見えるけど、真似してみると難しい。うまく書けたと思っても後で読み返すと自分をぶん殴りたくなるような出来で、あのときついうっかりよく書けたと思いこんで「週刊ストーリーランド」に原稿を送ってしまった自分を、もしもタイムマシンがあるならひと思いに刺してやりたい、という御仁は一定数いるのではあるまいか。 この町田康氏のコラムにしても、うーん、何だろ、やっぱり、ひとつの話の切り口から、飲んだくれがクダを巻いてるようにグデグデと話を転がしていくわけだけど、それをどう転がしていくか、という部分で、常人ではないセンスが出ているのだろうな、と思う。 グデグデと話を転がされに転がされて、笑いながら読んでいるうちに最初の話の切り口はどこへいったものやら、よくわからないところで読者一人が笑い転げていたというのは、なんだか狐に化かされたような話で、それは狐ならぬ常人に真似ろと言っても無理な話であろう。 (2006.9.22) |
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