三田誠広



『団塊老人』
 (新潮新書
  2004年7月刊)

●三田誠広といえば


 本の買い方には色々ある。著者で買う場合、本のテーマで買う場合、装幀で買う場合、書名に惹かれて買う場合、ペラペラと立ち読みして買う場合。この本の場合は完全に、著者の名前で買ったケースに当たる。
 三田誠広氏といえば、迷うことなく出てくるのが『僕って何?』だろう。言わずとしれた1977年の芥川賞受賞作で、前年の芥川賞受賞作である村上龍氏の『限りなく透明に近いブルー』や、あるいはそれと前後して登場した村上春樹氏の『風の歌を聴け』をはじめとする初期作品とともに、新しい時代の到来を文学の世界に告げた一作だ。ただし、村上龍・村上春樹両氏がその後、たとえば「村上龍といえば?」「村上春樹といえば?」と尋ねられてもちょっととっさに代表作をひとつに絞りきれないような作品群を生み出してきたのに対し、三田氏の場合は、悪い意味で代表作がこれに絞り込めてしまう。『赤ん坊の生まれない日』や『いちご同盟』をはじめ、佳作と見なされている作品はいくつもあるのだが、少なくとも文学の世界に与えたインパクトと影響という意味では、これを越える作品はまだ書けていないと言うしかないだろう。
 もっとも、比較対象が両村上になってしまうというのは、この人の出てきた時期を考えると仕方がないとはいえ、不幸なことだと思う。でも宿命というか、同じ時期に同じような芸風でデビューしてしまったんだからしょうがないことでもあるよなぁ。少なくともスタート地点付近では横に並んでいたのだから。

 さて、『僕って何?』について書くのが本稿の趣旨ではないので軌道を修正しておくと、その後この人は、古代から中古あたりを舞台にした歴史小説を書いたり、聖書とか仏教とかのレクチャー本を書いたり、早稲田大学での講義を元に小説の書き方講座を書いたり、色々と幅広く仕事をしている。小説の書き方講座については、昔、久美沙織氏の本をきっかけに「新人賞の取り方」みたいなハウツー本が流行した折に『天気のいい日は小説を書こう』がちょっと注目されていた記憶がある。
 で、この人の仕事は幅広くはあるのだが、ものすごくエポックメイキングなことをしているわけではない。少なくとも小説に関して言えばそうなると思う。たしかに飛鳥時代の歴史小説というのはオンリーワンであると思うけれども、まあ、ニッチという呼び方とどっちがいいか迷う部分もあるわけで。僕も実際にここらへんの小説なんかを読んで書いているわけではないのだけど、まあ、目立って業績を上げているわけではないのは確かだろう。
 それでこの『団塊老人』という本も、著者の幅広い仕事のうちの一環ということになる。

●整理と空隙


 本書のテーマは、間もなく日本中で大量に排出されることになる団塊世代の退職者の問題。
 何が問題なのか、という整理と、それから個人のレベルで、余生をどう生きていくべきなのか、という提案が二本柱になっている。まあ、当の団塊の世代の人たちにとっては大変な問題なのだろうし、実はそれ以下の世代の人間にとっても、生産性のがっつり低下した世代をどう養うのか(あるいは養わないのか)、という意味では他人事じゃないのだが、まあ実感としては薄いよねぇ。だからこそ軽い読み物としてはいいんですけど。
 で、全体的な感想としては、ちょっと机上の空論じみたところもあるんだけれども、割に整理の仕方もスッキリしてるし、提案にも具体性があって、悪くないと思います。
 机上の空論っぽいというのは、たとえば三田氏は高度成長期からバブル期にかけて日本の経済を生産・消費の両面で推進し、また年金システムを支えてきたのはこの世代なんだから、年金に税金を投入するべきだと主張する。でも、これ僕のような20代(末期だけど)の人間にとっちゃたまったもんじゃないじゃん。過去はともかく、現在・未来のGNPに貢献しない人たち(ということはつまり、僕たちの世代が経済的に幸福になることにこれ以降、貢献しないわけです)が酒呑んだりメシ食ったりタバコ吸ったりする生活資金に、収めた税金が使われていくわけだから。その分、公共サービスに使える金は減るんだし。
 別に公共サービスなんてアテにしてはいないけど、単純に「お前らに俺の金はやらん」という気持ちは僕にもある。いろいろと僕たちを抑えつけてきた世代でもあるし、同時に学生運動やってバブルを謳歌して、と美味しいところを持っていった世代でもある。あんまりいい印象がない世代というのが偽らざる印象といったところだろう。
 ただまあ、この世代の人たちというのは人数が多いだけに、有権者としても力を持ってます。だから、この世代の人たちの動きようによっては実際にそうなるかもしれない。でも、仮にそうなったとして、だったら自分たちの世代がそこを肩代わりするんだから、自分たちが年寄りになった時にも同じようにしろよ、という怨念みたいなものは今のもっと若い世代に残っていくだろうし。結局それって連鎖的に問題が先送りにされていくだけだろう、とも思える。
 だからどっかで制度を自助的なものにシフトする必要があるんだろう、と僕は思うけれども、まあ、そういうところなんかは、敢えてそうしてるのか意図せずになのかはともかく、三田氏の論理のまだゆるい部分なんだろうということは言える。

●社会の枠組みのシフトが視野に入っていない


 でも、年金問題なんていうのはそう簡単に解決の妙案が浮かぶものでもないわけで、そこらへんは難じてみたってしょうがない。
 むしろ、本書の感想として僕が一番指摘しておきたいのは、この人には「社会の枠組み自体が変わる可能性」というのが見えていない、ということだ。
 たとえば三田氏は現在(註:2004年のこと)の日本の不況は、世代構造が根本的な原因のひとつにあるという。団塊の世代にあたる層がそのまま年齢を重ねていった結果、人口ピラミッドはいびつな逆三角形を描き、給料はやたらかさむくせに老後の心配してるからカネを使わない彼らが内需を萎縮させ、結果的にバブルが終焉を迎えたのだと。だから、この層が退場するまでこのいびつな構造は続くし、不況は続くと。
 でも、それってある意味、産業の主力が製造業だった時代のことなわけだ。サービス業が産業の主力になった現在、団塊の世代の人はもはや産業の主力ではない。わかりやすく言うとライブドアにオッサンなんてほとんどいないじゃん。ホリエモンは十分すぎるほどオッサンくさいけど。ライブドアは実例としてあげるにはちょっと適当でないとは僕も思うけれども、結局、それってサービスの提供コストは、平均値的には下がっているということだ。まあ、リストラだなんだで団塊の世代がカネを使わないことは変わらないにせよ。
 また、年金の問題にしても、たとえば現在、日本で不法合法を問わず働いている外国人からも年金費用を徴収するとなったらどうなるか。もちろんそのためには、彼らの存在を合法化してクリーンにし、その上で待遇の底上げをしなくてはいけない。でもすでに日本の商業の底辺は外国人なくしては成立しないところまで実は来ているわけで、これは遅かれ早かれの問題でもある。
 社会の枠組みというのは変容する。
 でも三田氏には実は、社会の枠組みは自分たちがまだ青年だった時代とあまり変わらないだろうという甘えというか油断みたいなもんがあるんじゃないか。その上で論を展開していると思う。
 そういう油断が、小説家として、『僕って何?』以上の衝撃を小説界に与えられていない原因のひとつなのじゃないか、というのは言いすぎだろうか。氏の小説を読んだことがないからなあ。あんまりフェアな発言ではないとは自分でも思うけれども。
(2005.11.4)


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