南伸坊(共著を含む)



『心理療法個人授業』(河合隼雄との共著)
 (新潮文庫
 2004年9月刊
 原著刊行2002年)

●生徒芸とは何か


 早いもので、という言い方はちょっとおかしいが、南伸坊氏が各分野の第一人者から生徒として授業を受ける、この「南伸坊の個人授業」シリーズも、4冊目になるんだそうだ。ちなみに僕が持っているのはそのうちの3冊で、2冊目にあたる、多田富雄氏が先生をつとめた『免疫学個人授業』だけが抜けている。
 どの「先生」も口を揃えてたたえるのは、南氏の「生徒」としての優秀さだ。
 優秀であると言っても、予習復習をしっかりやっているとか、理解が抜群にはやいとかいった意味合いではない。もちろんこのシリーズの実際のライティング作業は、南氏が授業を元にノートを作るようにして原稿に起こすことによって成り立っているので、毎回、復習はぬかりなくおこなわれているということになるとは思うが、多分、そういうこととはちょっと違う。
 養老孟司氏は、『解剖学個人授業』の中でこんなことを書いていた。「教師の短所を見るなら、反面教師にすればいいわけだが、ダメな教師からでも学んでしまうという、理想的な生徒になるには、生徒芸がいる。私も長年大学にこもっていたから、生徒芸にはいささか心得があるが、このたびの生徒の芸にはいたく感服した」(『解剖学個人授業』p.22より)。
 じゃあ、その生徒芸ってのはどんなもんなのか。岡田節人氏は、『生物学個人授業』で次のように言う。「レポートを読んでみると、大変面白く、こないおもろくしゃべったんかなあ、と自分で思っています」(『生物学個人授業』p.24より)。
 これに生徒役である南氏の次のような証言をくっつけてみると、生徒芸の正体が見えてくる。

 実にゼイタクなようなモッタイナイような話ですが、授業を受けた、ほんの一部、私が理解したというより、興味を感じたその部分だけがノートになりました。もとよりそこが一番ダイジの要点だったということではなく私の歯が立つ範囲だったということです。
 (中略)ところで私は、岡田先生の授業に骨を折っただろうか? 残念ながら折っていない。もっと折っていれば、もっともっと興味が広がっていただろうに。
 しかし、私には十分すぎるくらいに、おもしろかった。知らなかったことを突然一挙に知らされたのだ。どっちみち、人には許容の範囲というものがあるのだ。大事なことは、「おもしろい」ことだ、と私は思う。

(『生物学個人授業』p.163〜164より)


 大事なことは「おもしろい」こと。つまり、すべての情報が等価ではなくって、授業という形式の中で与えられた情報の中から「おもしろい」と感じられたことがらが、少なくとも自分にとっては「大事なこと」だという信念が、ここに示されている。そしてそうやって取捨選択された「おもしろい」情報によって、本書の原稿が形成される。
 だから、講義をした方も「こないおもろくしゃべったんかなあ」と感じてしまうことになる。
 そうした取捨選択の末に、自分が面白いと思うこと、興味を感じたことを、先生の話の中から抽出し、そしてそれを自分なりに消化して学びとってしまう、それが生徒芸なのだろう。
 まあ、高校生くらいまでのうちはそうもいかんでしょうがね。理想的な生徒であっても、テストでは赤点だったりして。

●心理学を解剖する生徒


 今回の「先生」は河合隼雄氏。一時期は、僕も河合氏の著作を好んで読んでいたが、最近はとんとご無沙汰だった。同時に、せいぜい斎藤環氏の著作くらいしか、心理学関係のものに興味を引かれることもなくなったということも考え合わせれば、心理学一般に対して、僕自身がさしせまった必要性を感じなくなってきているのだと思う。
 心理学に飽きたということではなく、それによって自分を知りたいとか癒されるにはどうしたらいいか知りたいとか思うことが減ったのだ。
 ま、読めば読んだで面白く読むのだと思うが、前ほど切迫した気持ちで心理学に手を出さなくなってはいる。成長したのか、もうどうでもよくなっちゃったのか、なんなんだかはよくわからない。

 ただまあ、一時期、ちょっと心理学関係の本が多く出ていた時期があって、それが落ち着いてきている、ということもあるんじゃないかという気もする。世間的な趨勢としての話だ。
 心理学(心理療法)は、人間の心の話なので、生物学とか解剖学よりも、なんかちょっとわかりやすそうな気がする。してしまうのだと思う。実際はそんなことなくて、心理学は生物学と同じように複雑で奥の深いものだったりもするし、解剖学は心理学と同様に僕たち自身に密接に関わりのあるものでもあると思うけれど。
 そんな経緯もあり、心理療法には、用語だけは知っている、という代物がおおい。箱庭療法、ロールシャッハテスト、転移、リビドー、イド。でもそれがどういうもので、どういう効果があるのか、おおまかにでなくてちゃんと説明できる人がどれだけいるだろうか。
 今回の南生徒の生徒芸は、そういった、おおまかには知っているが細かくは知らない、というものについて、南氏の目を通して再構成した形で、説明しなおしてくれる、という形で示されている。
 例によってウームと唸ったりアハハと笑ったり、つまらない部分は極力省いての再構成で、楽しめる。どういうところが生徒芸の発揮されているところなのか、と考えながら読んでみるのもまた一興かもしれない。
(2004.10.17)


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『シンボーズ・オフィスへようこそ! 完全版』(鏡明・関三喜夫との共著)
 (フリースタイル
 2003年12月刊)

●チキンラーメン


 これは楽しい本だ。
 角川が昔出していた「バラエティ」って雑誌で連載されていた座談会「シンボーズ・オフィスへようこそ!」。その完全収録単行本化である(ちなみに完全収録でないのが角川文庫から出ていたそうだが、絶版になっている)。
 昔と言っても、実に1983年2月号から86年6月号(最終号)ってことで、一番最初の回なんて20年以上前だ。
 当時、僕はまだ7歳であった。当然、映画中心の文芸その他よろずバラエティ情報誌なんて読んでたわけもない。が、当時、チキンラーメンのCMに南伸坊氏が出演していたのは、なんでか知らんがうっすら記憶にある。僕よりも若い年代の人だと、もう知らないでしょうなあ。
 今から考えると、なかなか思い切った人選だったのかなあという気もする。

●結局「アハハハハ」のステキスタイル


 少し話がそれてしまった。
 中身としては一応、大人のレギュラー陣と大人のゲスト陣が集まって、「大人のナントカ」てなテーマにあわせて話すという趣旨ではあるらしいこの座談会だが、何と言っても魅力的なのは、どんなテーマであれ、結局はバカ話をして「アハハハハハ」とかみんなで笑っておしまいになっちゃうというステキスタイルであろう。
 こう書いちゃうとお気楽なだけみたいにとられるかもしれないけど、どんなテーマであってもバカ話ができる、という懐の深さは、実は結構すごいぜ、とか僕はこっそりと思いつつ、結局ゲラゲラ笑いながら読んだのだった。

 座談会を原稿にまとめていたのは、お亡くなりになられたそうだが、関三喜夫氏。鏡明氏とともに電通の制作セクションに所属して、松下をはじめ色々なCMを手がけつつ、何冊か本も出していた人のようだ。
 すでに第1回にして、座談会の方向性を明確に打ち出してスタイルを固めてしまっているあたり、編集サイド、あるいはレギュラー陣での話し合いもあったのではあるだろうけど、関氏の手際は実にただものではない。会場となっているそば屋で鏡明氏がわんさと食べ物を注文する場面から書き起こすというのは、もうこれ一発でどんな座談会か打ち出すという意味では比類ないと言えるだろう。
 ちなみに鏡氏の名前が出たので軽い豆知識を述べておくと、鏡明氏は「魔導師」という言葉を創った張本人でもある。なんだか全然本書と関係のない豆知識で申し訳ない。

●全文公開中


 ま、なんだかんだとレビューするより、実は本書はそのほとんど全内容が、Web版としてフリーで公開されているので、そちらでゲンブツを拝んでもらった方が、面白さを理解してもらうにはいいのかも知れない。公開されてない箇所は、南伸坊氏のイラストと、特別座談会「大人の「あとがき」」くらいのものだと思う。
 一部、文字コードの変換がうまくいってないんだと思うけど、「!」(多分)が「・」になっちゃってるところもあったりする(割とありがちなミスではある)のは、決して大手とは言えないフリースタイルという出版社の悲しいところだが、そういうところだからこそ出せた本でもあるだろう。それは次の箇所を見てもらえばわかる。

鏡 とにかくオレは、発展途上国はダメなんだよ。あいつら、人食ってんじゃないかって感じがして。
(p.149「大人の海外 PART2」より)


 アハハハハ、よく出版できたなあ、これ。
 あと、さきほども触れたように随所に南伸坊氏によるイラストや似顔絵が入っているので、ゲストで頻繁に登場する呉智英氏とレギュラーの鏡明氏の生え際の後退っぷりにも注目。特に呉智英氏初登場時の似顔絵は、完全に今とは別人だ…とか最後に失礼なことをほざいて終わる。
(2004.9.15)


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『生物学個人授業』(岡田節人との共著)
 (新潮文庫
 2000年8月刊
 原著刊行1996年)
 さて、この本は、以前に読みました養老孟司・南伸坊の共著となる『解剖学個人授業』と同じシリーズであります。正確に言うと、シリーズ第一弾がコレ。
 南伸坊さんが生徒役となって、各分野の第一人者の先生から講義を受ける、という内容で、本書では生物学の岡田節人先生から講義を受けることになります。
 このシリーズの特徴は、わかりやすいし面白いということ。講義自体も、一般向けに言葉を選んでくれているんでしょうが、それを南さんがさらに構成し直すので、一段とわかったような気になれる。
 この「気になれる」ってとこがポイントで、読んでる時は「面白いなぁ、そういうことなのか」と思ってても、後から思い出そうとした時にはいろいろと抜け落ちていることが多い。きっちり腑に落ちてれば、人間、そうそう忘れないもんです。だから、これはやっぱり、きっちりとはわかってないってことだと思う。
 あとがきで南さん自身、次のように書いています。

 二年経って、読み返してみると、正直な話、すっかり忘れちゃってるところも、沢山あります。たしかにあの時はわかってたんだけどな、まァいいか、というところです。講義を聴きながら、岡田先生はカッコイイなァ、岡田先生の「考え」はカッコイイゾ、とボクが思った、そのことは忘れてないんですから。

 抗議を受けている南さん自身、どうも、きっちりとはわかってなかったらしい。いや、この言い方は語弊があるかな、これだけ面白い講義ノートが作れるんだから。言い方を変えれば、講義の内容を完全に自分の物にはできてなかったらしい、とでもすればいいでしょうか。
 けど、この本は専門書ではないし、まして僕たち読者は専門家ではない。だから、なにも、いつでも他人にかみ砕いて説明できるようになる必要などない。この本を読んだことで、生物学の考え方に少しでも興味が持てれば、それで問題ないんだろうと思います。
 能動的に興味を持つということが、岡田先生が繰り返す「オモロイ」であり、南さんの言う「カッコイイ」ということなのでしょう。それによって、何かを正しく考えるきっかけになれば言うことはない。

 ところで、本書の第2講で、「生物学的には、一卵性双生児の命はひとつだ」という話が出てきます。生物学は一切の価値観を問わないから、遺伝子的に同一な双子の生命は1つとカウントするんだそうです。もちろん、そこに倫理的な価値観を持ち込んでくると、双子の生命は2つです。そうでないと、刑法の専門家とか保険会社は大変でしょうな。
 しかし、生物学にそういう価値観を持ち込むのはよろしくない。
 生き物を考える時に、我々はあまりにも倫理観とか価値観の要素を前提にして、かつごっちゃにしすぎてきた。生命尊重はもちろん結構だけども、それはそれ、これはこれとしないと、生物学という学問が、特定の倫理観に隷属する羽目になる。それはまずいんや、と岡田先生は言うのであります。
 そうすると、生物学的に、胎児はどこからがひとつの生命かな、と僕は考えてみたりしました。遺伝子が親と別物になった時点、というのはつまり、受精卵ができた時点で、生物学の考え方ではひとつの生命としてカウントするんでしょうか。

 そしてここから、話は生物学と切り離された方向に向かうんですが、中絶というのはどうなんだろうと。
 個人的に、中絶手術に反対するつもりはあんまりないんです。しかし、例外はあるんじゃないかと。
 2002年11月20日号のニューズウィーク誌によると、現在、インドでは中絶を利用した生み分けが問題になってるんだそうです。カースト制度のお国なので、いまだに男尊女卑の伝統はとても強い。また、女の子の場合、結婚費用がバカ高い。そこで、ある程度経済的に余裕のある都市部の中流階級以上の市民は、しばしば、超音波診断で胎児の性別を調べて、女の子だと中絶しちゃうんだそうで。
 デリーでは、出生児の男女比が10:8〜9とかいう感じになってきているようです。大したことがないと思うかもしれないけど、従来よりも女の子が10%も減っていると考えれば、これは大したことです。
 男女判別のための超音波診断は、昨年から違法ということになっているそうですが、まだまだ闇で診断をする医者も多い。
 中絶が問題ないとすると、生み分けだって問題ないように思えます。が、釈然としない。
 生物学的には胎児でもひとつの生命で…と、ここで生物学を引っ張ってくるのは、先にも述べたようにスジが違うんですが、しかし、そしたら倫理的価値観上の「生命」って何だろなと。胎児が生命じゃないんなら、種としてのバランスが崩れるまで間引いてしまってもいいのか。
 いいわけがないんだけど、これは、おそらく、個人の生命のみを問題にする既存の生命観だけでは解決しない問題で、もっと巨視的な「種の生命」観というようなものを引っ張ってこないと落としどころが見つからないんじゃないか。
 そしたら、そこに生物学はどのような知見を提供するんでしょう。
 うーん、難しいですな。難しいけど、考えてみたい問題ではあります。
 と、そんなところまで妄想の広がった1冊でありました。
(2002.12.24)


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『解剖学個人授業』(養老孟司との共著)
 (新潮文庫
 2001年4月刊
 原著刊行1998年)
 あー、頭が心地よくマッサージされていく。しかし、養老さんの書いたもの…というかしゃべったものを伸坊さんが意訳してるんだけど、そういうものを久しぶりに読みましたね。
 かつては、どうしても受け入れがたいものを感じたこともありましたが、今だとそうでもない。視座が広くなったのか人間が丸くなったのか。後者かもなぁ。しかし、まさしく切断的な思考と言うべきでしょう。いや、駄洒落じゃなくて。
(2001.8.30)


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南伸坊(共著を含む)

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