三島由紀夫



『三島由紀夫十代書簡集』
 (新潮社
 1999年11月刊)

●本の来歴


 昭和15年から19年にかけて、三島由紀夫が学習院文芸部の5年先輩であった東文彦(本名:東健)に宛てて送った百通以上にのぼる書簡を編んだもので、同様の趣旨である『川端康成・三島由紀夫往復書簡』とは異なり、東からの返信は収められていない。三島、あるいは三島死後の平岡家が返信を保管していなかったのか、編集上の方針として収めていないのかは不明だが、残念なことだ。
 しかし、『川端・三島書簡』も文庫に入り、この『十代書簡集』が1400円で書店に平積みになるわけだから、これはすごいと思う。死後30年近くが経っても、三島由紀夫はまだ商品としての価値を保っているわけだ。そういう作家は、なかなかいない。純文学では5人もいないと言っていいだろう。
 東文彦は、室生犀星や堀辰雄などに師事し、その才を認められていた人物で、三島の手紙からは、この先輩に対する敬慕の情が伝わってくる。
 昭和18年10月8日に、東は結核で夭折した。したがって昭和19年分は東の遺族への手紙1通のみとなるが、実に東の死の5日前まで、三島からの手紙はつづられ続けている。

●東との出会い、詩から小説へ


 少しこの手紙の前後関係をまとめておくと、学習院の中等部に入学した三島は文芸部に入部。そこでまず坊城俊民という先輩と懇意になる。
 坊城は東よりもさらに年長で、三島よりも8歳年上。もったいぶった姓にもあらわれているとおり、伯爵家の出。学習院文芸部の交友会誌である「輔仁会雑誌」に載せた三島の詩に目をとめて、野球の試合中、三島を訪れたと猪瀬直樹氏の『ペルソナ 三島由紀夫伝』にはある。
 しかし、坊城との交友は、東と懇意になるまでの間に破綻する。上述の猪瀬氏は、坊城の小説に15歳となった三島が批判的な意見を述べたというエピソードをあげているが、三島も生意気盛りの年頃ともなり、また文学的な批評眼が成熟するに従って、坊城と意見が食い違いはじめたらしい。とはいえ、16歳ごろはまだ、坊城との交友は続いている。
 直接にあの人のあそこがどうだとはさすがに書かないが、本書に収められた手紙でも、「坊城さんはあんなご性格ですから…」などと苦々しい書きぶりをしているところがいくつか目につくのが印象的だ。

 本書に収められている手紙は、昭和15年12月のものを嚆矢とするが、この1ヶ月前、つまり11月に、三島は処女小説である『彩絵硝子』を輔仁会雑誌に発表する。それに東が批評を手紙で寄越したらしく、最初の手紙はその批評への謝辞と、試験前で忙しいのでとりあえずの返礼まで、という内容の、簡単なハガキとなっている。
 これが東と三島の本当のファーストコンタクトであったかどうかはわからない。しかし後に「詩を書く少年」などで三島自身が振り返るところでは、東との交流がはじまったとき、すでに東は結核で入院して面会ができない状態だったとのことで、そこから手紙だけの交流が続けられたということだから、直接に何らかの対話が成立したのはこの手紙の往還が最初であると考えていいと思う。
 この頃の三島はまだ詩作が中心で、それが段々に小説を中心としはじめるのが、昭和16年に『花ざかりの森』を「文芸文化」に発表してからのこととなる。今でも新潮文庫に収められている『花ざかりの森』は、「文芸文化」の清水文雄が認めて連載させたもので、実質的に三島のデビュー作にあたる。

●三島少年の甘え


 さて、東のさらに先輩である坊城への批判的な意見が出てくるあたりにも端的に表れていると思うのだが、収められた手紙を読んでいると、三島はずいぶんと東に甘えている印象がある。
 例えば次のような箇所だ。

 このごろ同級の三谷といふ人から、よく文学だけの手紙が来ますが、やはり、その年相応の議論好きであるのには閉口します。なにげなく、素直に云つた言葉を、切口上でしかへされたり、説明を求められたりすると、全く索然となつて大人気ない気がしてきます。「学生と議論」といふのはまるでつき文句で、口角泡をとばすやうな場合をいふのですが、どういふものか、僕の趣味には合ひません、貴下もおそらくさうでせう。
(p.55 昭和16年8月5日付書簡より)


 同級生からの手紙について触れて「年相応の議論好き」に「閉口」し、さらにそれを「大人気ない」と、一段高いところから批判している。さらに「貴下もおそらくさうでせう」と、東を巻き込むように述べる。
 つまり、ここで三島は「東−三島」と「三谷」にグループ分けを(恣意的に)おこない、「ああいうのって嫌ですよねえ?」とすりよっていっているわけだ。
 計算してやっているというよりは、おそらく無意識に出た態度なのだろうが、それはやはり年長の東に対する甘えだと思う。「いやそんなことはないよ」と東が返せば、プライドが高かったという三島のことだから大いに傷ついたところだろうが、東がそんなに無慈悲にはふるまわないと踏んでか、あるいはそこまで考えずにのことなのか、隙を見せていると言ってもいい。
 また、次のような箇所もあげる。

 十三日、夏休みの宿題研究(といふと大袈裟ですが)で、氏神様の由緒をしらべてこいといふことなので、生まれてはじめて氏神様に雨のなかを参拝してきました。それはそれは大へんな雨でしたが、赤土のヌルヌルしてゐる境内で、ものゝ美事にころんでしまひました。この一部始終は随筆にでも編んで、研究のはじめに挟み、大いに先生に同情の涙をこぼさせようといふ魂胆をいだいてをります。
(p.60 昭和16年8月14日付書簡より)


 別にドジっ子萌えを誘っているわけではない。この手紙の中で、この話の前に来るのが志賀直哉の小説中における「コク」のような味わいについての文章談義、そしてこの挿話の後に来るのが「和泉式部日記」を読みました、という話である、というのがミソで、この2つの堅い話の間にほほえましいエピソードを置いて息抜きにしているわけだ。しかし、その息抜きの内容が、16歳のものとしてはちょっと幼さすぎる。まして書いているのが翌月には『花ざかりの森』を連載しはじめる三島だとすればなおさらだ。
 微笑ましさを誘うにせよ、三島なら同じエピソードでももっと他に書きようはあったはずで、つまりこれは意識的におどけている公算が強いと思う。それを「一種の媚態」と結論づけてしまえば話がホモっぽくなってしまうが、要するに意味合いとしてはそういうことだろう。ここで三島は「文学の話を対等にすることもできると同時にかわいげもある後輩」を演じて東の歓心を買おうとしている。
 そして、邪推するなら、その媚態が少々芝居じみていても、それを許してくれる東であると見込んでいる。どちらにしても、警戒心や体裁より甘えが先に立っていると思う。

 もちろん甘えべったりではなく、清水文雄に認められたのを契機としてさらに文壇への進出を熱望していた三島としては、東経由で室生犀星、あるいは佐藤春夫など、師事すべき作家を求めて連絡を取ったり原稿を送ってみたりもしているし、そうした作家に送った原稿が十分に閲されていないのに悄然としたりもしている。
 あるいは東および徳川義恭とともに出した同人誌『赤絵』についての相談などもしていて、結核で病院から出られない東に代わり、印刷所の手配から紙不足の心配までなにかと奔走しているようすなども伝わってきて興味深い。
 ちょっと意外なのは、東と揃って堀辰雄を絶賛していることで、堀の『麦藁帽子』を読んで「いくぶん『ドニイズ』の影響があるのでせうがあれよりずつと上品で堀辰雄一流のシネマ的な心理手法が目もあやです。やはり今の日本の作家では私のいちばん好きなのは堀辰雄におちつきさうです」(昭和16年8月31日)と評したり、「聖家族」なども褒めている。
 この頃の三島の作風を考えれば、納得できないことはないが、堀と三島の共通項というのは僕の中ではあまり無いように思うので、へえ、と虚をつかれた思いだった。
 その他、色々と面白いところはあるが、ここがこうで、といちいち取り上げてもきりがないだろうから、このへんで終わりにする。
(2004.4.24-25)


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『仮面の告白』
 (新潮文庫
 1950年6月刊
 原著刊行1949年)

●初期三島の総決算


 初期三島のひとつの総決算にして、三島由紀夫の作品の中でも、ほぼ異論なく代表作のひとつと言えるであろう1冊。
 「永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」という書き出しが有名だが、私小説という形態を取りつつ、生まれついて女性よりも男性に心惹かれたというホモセクシュアルな性癖を語っているという中身については、今日、どのていど膾炙しているだろうか。
 少なくとも、僕が当の書き出しを目にしたのは、確か高校の時に国語の授業で使っていた要覧が最初だったが、作品の内容についてはいっさい触れられていなかったと記憶する。まぁ、中学高校で教えにくい題材であるのは確かだろうが、だからといって代わりに『金閣寺』では三島の何を教えたことにもなるまい。ならばいっそ完全に黙殺した方が良かろうものを、日本の国語教育は、イコール道徳教育に堕している、ということを隠蔽しようとして、とりあえずあたりさわりのない冒頭の一文だけを引くからこんなことになる。
 ちなみに、この冒頭の一文は、子供の頃、周囲の大人にそう強弁すると、大人たちは最初は「そんなことはありえない」と説得を試み、次第に「この子が本当は『自分がどこから、どのようにして生まれたか』を問おうとしているのではないか」と感づいて鼻白む、というエピソードにつながっていく。
 しかし実際には「私」はそんなことを問いたかったのではなく、ただ記憶の中に残る産湯を入れた盥に日光の反射が揺曳している光景が、自分の生まれたときに見たものだとしか思えないのだ、と言うのだが。

 前年に9ヶ月つとめた大蔵省をやめて小説家一本の生活に入った三島にとって、みずからの半生を解剖的に振り返る本作は、先にも述べたとおり、ひとつの総決算と呼ぶにふさわしい意味合いを持っていたと考えられるし、またそれにふさわしい面白さと完成度の高さを持っている。
 本作の焦点は「私」の男色趣味であり、その男色趣味は、おそらく大蔵省に勤めながらでは、なかなか披瀝できるものではない。三島はおそらく、大蔵省を辞職することで、これが書けるようになったのだ。
 しかし今読むと、男色趣味くらいでよく悩む人だなあという感じもする。ま、今はそういう人趣味の御用達のお店やなんかもあるし、そういう性癖の人がいるということ自体はもはや常識に近いものがあるけど、当時としては無理からぬ、というところだろうか。なんせ三島の生まれは大正14年。つまりちょうど日本が戦争へと傾斜していく時代に思春期を迎えることになる。
 当時、ゲイの人が少なかったということでもないと思うが、白眼視の度合いは強かっただろう。軍隊のような閉鎖的な組織の中ではホモセクシュアルな意識が生まれやすい。ということはつまり、それが問題になりやすいということであり、してみればそれは白眼視されねばならない。また、二十歳前の青少年として、自分の性癖が他人と違うということへの不安もあるのだろうし。
 ゲイといっても、この小説の主人公は、ゲイであると同時にサド・マゾ的な興味も持っているので、ちょっと複雑だ。半裸の姿で木から吊され、2本の矢によって腋と脇腹を貫かれてまさにいま命尽きんとしている聖セバスチャンの殉教画に性的興奮をおぼえたり、夢の中では、同級生を大勢の客にディナーとしてふるまおうと、皿にのせた彼にナイフを突き立てたりする。
 それを周囲にカミングアウトするわけではない。どちらかと言えば、それを自分自身に対してさえなかば隠蔽し、他人に対しては、ごく普通の若者であるふりをし、また自分自身もそれを信じようとする。
 そうしたことは、無論、実際の性行為(男性同士にしろ男女間にしろ)が未体験である間だからこそ実現できるわけだが。
 そうこうしているうちに戦争があり、主人公自身は兵役をまぬがれるものの友人が徴兵にとられ、そのごたごたのうちにその友人の妹と精神的な部分のみで恋人同士のようになってしまい、結婚を申し込まれ、それを拒絶し、やがて戦争が終わり、悪友に女郎買いに連れていかれるも、結局は性行為に及ぶことには失敗し…。
 と、短い期間のことながら、遍歴がつづられる。

●戦後という時代の中で


 奥野健男氏は『三島由紀夫伝説』(新潮文庫版の表紙は藤浪理恵子氏の描く聖セバスチャンの殉教画で、なかなか雰囲気があります)の中で、三島が『仮面の告白』を書けたのは、敗戦によって三島自身の超自我が一時的に崩壊・消滅していたからだと指摘している。「超自我」というとちょっと大げさではあるが、戦中、ぼんやりと描いていたような、兵役に出ても徴兵逃れをしても、東京にいても疎開をしても、いずれは戦火の中で夭折するのだ、という未来予想図が、日本の降伏という形で否応なしに白紙撤回されて、それをひとつの根拠にしてきた自我自体も揺らいでしまっていた、という意味合いにとってよいだろう。
 『三島由紀夫伝説』という本全体は論考としては多分に問題があるものだと思うが、戦後の同時期、三島とほぼ同年代であった奥野氏自身や、やはり同年代の文学者たちの多くが「二十歳で死ぬと考えていた僕たちは戦後の情況の中で途方に暮れていた。余生だという感じと再出発だという感じ、伝統と革命、絶望と希望とが交錯し、しかも奇妙に共存していた。そして死にもっとも近づいていた」(『三島由紀夫伝説』(新潮文庫版)p.226)という証言は、ともにあげられている三島の『私の遍歴時代』の「そのころ私の文学青年の友人たちには、一せいに死と病気が襲ひかかつてゐた」という記述とあわせ、同時代のものとして貴重だ。
 当時、三島は川端康成に宛てた書簡で、『仮面の告白』の構想について次のように述べている。

 私、近頃、怠け者になり仕事も〆切間際に忙しがるやうなことばかりやつてをりまして、お恥かしく、十一月末よりとりかゝる河出の書下ろしで、本当に腰を据えた仕事をしたいと思つてをります。「仮面の告白」といふ仮題で、はじめての自伝小説を書きたく、ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で、自己解剖をいたしまして、自分が信じたと信じ、又読者の目にも私が信じてゐるとみえた美神を絞殺して、なほその上に美神がよみがへるかどうかを試めしたいと存じます。ずゐぶん放埒な分析で、この作品を読んだ後、私の小説をもう読まぬといふ読者もあらはれようかと存じ、相当な決心でとりかゝる所存でございますが、この作品を「美しい」と言ってくれる人があつたら、その人こそ私の最も深い理解者であらうと思はれます。しかし日本戦後文学の世界のせまさでは、又しても理解されずに終つてしまふかとも思はれますが……
(『川端康成・三島由紀夫往復書簡』p.52〜53 昭和23年11月2日付川端宛書簡より)


 師である川端に、意気込みを見せたいという心情もあったにせよ、ここで三島は「もう読まぬといふ読者」があらわれるかと危惧しつつ、それでも構わない、と言っている。前年に職業作家一本で食べていく決心をしていることを考え合わせれば、この判断は重い。
 それは結局、この作品を書かないと、自分は戦後に作家として再出発できない、という切羽詰まった判断である。書いた結果、見捨てられるかもしれないが、書かなくても作家としての破産は避けがたい。そうした判断を川端宛書簡の中に読むのは、あながちいきすぎた憶測でもないと思う。
 『私の遍歴時代』で三島は、「これを書いたことは、大いに私の気分を軽くし、又、妙に自信をつけた。」と告白している。
 現代でも、例えば、作家や漫画家が、代表作について「これを書いたから、あとは何でも書けるような気がした」と言うことがあるが、三島の「妙な自信」も、おそらくはこれに近い。

●ひょろっとした三島由紀夫


 さて、三島自身にとってのこの作品の意義がいかに重かろうと、僕たち読者にとっては、乱暴に言ってしまえばそんなことはどうでもいい。読者と作家が作品を通じてしか出会えないものなら、大事なのは作品そのものだ。バックステージはバックステージとして押さえるにせよ、最重要ポイントが舞台上であることにかわりはない。
 ひとつ、この作品を読む上で押さえておきたいのは、この小説を書いた当時の三島由紀夫は、今、主に僕たちが写真で見るような、丸刈りで意志の強そうな目の、ボディビルで体を鍛えて日に焼けた、あの姿ではないということだ。
 三島が体を鍛えはじめるのは、昭和20年代末ごろからのことで、それまでの三島は、徹宵、執筆に励み、朝になってから眠る、という生活習慣もあって、青白く、ひょろっとした青年であったという。大蔵省勤務時代に、昼は大蔵省で、夜は執筆活動でと休みなく働いていたのがたたり、通勤途中で電車が入ってくる駅のホームから転落しそうになって危うく命を落としかけた、というエピソードがあるが、その習慣が専業作家になってからも抜けなかったものらしい。
 もっとも、三島がひょろっとしていたのは体の弱かった子供の頃からのことらしい。そうした記述は『仮面の告白』の中にも出てくるが、むしろ、ちょうど新潮社から出ている『三島由紀夫 十代書簡集』の表紙が、学習院時代の制服制帽姿の写真(15、6歳ごろ?)であるので、これを見れば一目瞭然だろう。
 なるほどあまり丈夫そうではない。
 おもざしは後の写真よりも柔和で、良家の子弟という雰囲気がある。同書に収められている、うっそりと暗い目をした本人の自画像(同書所載)を見る限り、当人はそうは思ってなかったかもしれないが、まず美少年と言ってもとおる顔立ちだ。
 そういうなりだからこそ、たくましい青年に憧れ、またそうしたたくましい青年への「自分が彼だったら」という入れかわり願望も成立するわけである。

●どこまでも不可能な愛と性欲


 この作品が三島にとってのひとつの総決算であり、ブレークスルーであったことは先に繰り返して述べた。
 しかし、そのことは作品が作家にとって重要な位置を占めるものであることを示しはしても、読者にとってなぜ名作と感じられるのかを示す根拠にはならない。
 また、「死刑囚にして死刑執行人」として自己解剖をおこなうなどということは、旧来の私小説が躍起になって取り組んできたことでもある。三島の作家としての技量は疑うべくもないとしても、それだけでは作品にここまでの緊張感をもたらすことはできないだろう。
 思うに、本作の面白さの秘密は、「私」が次々と不可能性に出会っていく、その性の不可能性そのものではなかっただろうか。
 『仮面の告白』というタイトルから、ここで告白されていること自体が「仮面」すなわち虚構なのではないかという憶測が発表当時からあったようだが、基本的に本作が事実に沿っていることは、奥野氏らに三島自身が認めている。ただし、13歳にして処女小説を書き、詩作にも才能を発揮した早熟の文学少年としての側面などはばっさりとカットされて、焦点が性に絞られている点に、三島の意識的な操作と趣意がある。
 つまり、三島はここで、性の側面においての自分自身を再定義しなおそうとつとめているわけだ。そう考えて読むと、結末のダンスホールでのシーンは非常に象徴的である。
 戦中にプラトニックながらも恋愛関係となり、婚約をさえ申し込まれた女性「園子」と、戦後、「私」は再会する。園子は「私」との破談の後すでに結婚しているが、2人はたびたびデートまがいの逢瀬を重ねる。そしてある日、夏の昼下がりのダンスホールへ赴いたとき、「私」はそばにいる園子のことも忘れて、1人の半裸の青年を遠目に見て、情欲をわきたたせてしまう。そこに園子の声が降ってくる。

「あと五分だわ」
 園子の高い哀切な声が私の耳を貫いた。私は園子のほうへふしぎそうに振向いた。
 この瞬間、私のなかで何かが残酷な力で二つに引裂かれた。雷が落ちて生木が引裂かれるように。私が今まで精魂こめて積み重ねてきた建築物がいたましく崩れ落ちる音を私は聴いた。私という存在が何か一種のおそろしい「不在」に入れかわる刹那を見たような気がした。目をつぶって、私はとっさの間に、凍りつくような義務観念にとりすがった。
「もう五分か。こんなところへつれて来て悪かったね。怒っていない? あんな下劣な連中の下劣な格好を、君みたいな人は見てはいけないんだ。ここの踊り場は仁義の切り方がわるかったので、断っても断ってもああいう連中が只で踊りに来るようになったという話だよ」
 しかし見ていたのは私だけであった。彼女は見ていはしなかった。彼女は見てはならないものは見ないように躾けられていた。見るともなしに、踊りを眺めている汗ばんだ背中の行列をじっと眺めやっていただけである。

(p.211より)


 「私」は、自分の性癖を勘づかれることを恐れている。だから、園子の声に私がおののき、慌ててその場を取り繕おうとしたのは、自分の熱っぽい視線が園子に何ごとかを気づかせたのではないかという恐怖だっただろう。
 しかし実際は、「青年−私−園子」の両極にある青年と園子は、何事も勘づいてはいない。ただ「私」だけが滑稽にうろたえたのみだ。
 そしてそのすぐ後に来る結末は、次のように締めくくられている。

 私と園子はほとんど同時に腕時計を見た。
 −−時刻だった。私は立ち上がるとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た。一団は踊りに行ったとみえ、空っぽの椅子が照りつく日差の中に置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた。

(p.213より)


 「私」は、青年と欲望を共にすることも、園子と欲望を共にすることもできない。青年はいなくなり、園子は帰らねばならない。「私」は両者の中間点でただ孤独である。
 その孤独と不可能性が、こぼれた飲み物に反射する夏の日差しに象徴される。
 ここまでに不可能性はさんざん証明されてきている。幼い日に抱いた「私が彼であったら」という入れかわり願望も、相手の青年を殺傷せずにはいられないようなサディズム的な願望も不可能であり、園子との恋愛前に抱いていた「プラトニックなままで女を愛することができる」という無謀も園子との恋愛の中で不可能が立証された。そして悪友と女郎買いに行ったことで、いざその場に至っても女性とのセックスは不可能だということも立証されてしまった。
 その次々と現れてくる不可能が、この私小説に緊張感をみなぎらせ、それはダンスホールでの結末で極点に達するのである。

●関係ないけど


 ところで、完全に余談というか蛇足ではあるが、この園子さん、結婚前はかなり強力な萌えキャラだと思うのだがどんなもんだろうか。
(2004.4.15)


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『豊穣の海 第4部 天人五衰』
 (新潮文庫
 1977年11月刊
 原著刊行1971年)

●三島と日本人


 現在、桐野夏生の『OUT』が、エドガー賞の候補作になったということで、アメリカでかなり売れているんだそうだ。「OUT」はテレビドラマ版をかなり面白く見させていただいたが、日本人作家の小説が小説そのものとして、ジャポニズムとは違った局面で評価される、というのは、アメリカにおいては非常に幸福なことであると思う。ちょっとアメリカ自体が特殊な国だというのはもちろんあるにせよだ。
 三島は、その点で非常に不幸な存在だったような気が、「天人五衰」を読みながらしていた。三島が不幸だったのは、「近代能楽集」の諸作品の舞台化をブロードウェイでおこなったりしたことで、かえって日米両方の読者から、作家としての三島と、三島の作品と、そして日本的な作家というイメージとが不可分に見なされてしまったことだ。
 日本というイメージを背負って立つ作家、などという虚像が、1人の人間をヒロイズム以外のどこにも行けなくしてしまうことには、何の疑いもない。
 三島は日本文学の系譜の中では、かなり特異な作家であって、その意味で日本的な作家とはとても言えない。能楽や歌舞伎を好んだのも単に趣味性の問題だと見なすべきで、ジャポニズムをそこに見ようとするのは、観光客的なめずらしたがりの視点によると思う。まして、三島の作品は、三島という作家個人とは、いま、ひとまず切り離したところから考えるべきだ。
 三島という作家自身の個性を、ひとまず埒外に置いたとき、「豊穣の海」という大作がどのように見えるのだろうか。

●本当は何が起きたのか


 さて、4部全てを読み終えてすべからく読者が思うのは、松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャンらは、果たして本当に輪廻して生まれ変わっていたのか、また、安永透は果たして本当に贋物だったのか、という疑問であろう。
 そうした疑問は、全ての輪廻の源であった、80年前の清顕と綾倉聡子との大恋愛の存在そのものを根底から瓦解させる、老いて門跡となった聡子の言葉「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」から次々に湧いて出てこずにはいない。
 「あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公は送っていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いずれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るという小説なんです」
 文庫版解説の田中美代子氏は、三島が対談「三島由紀夫 最後の言葉」で語ったこの言葉を引いて、物語の構図を示し、すべてを唯識論の涅槃に包み込んで時の流れに浮かべてしまえば、「あった」も「なかった」も同じこと、とするわけだが、実際、キミはその説明で納得できるか?

 その説明で「オー、ブッディズム、ニルヴァーナー、ヘイヨー」と感銘を受けるのであればニューヨークにでも行けばよかろうであるが、僕には色々と腑に落ちなかった。この小説の全てを唯識論に還元してしまうのであれば、それは全てを説明するのと同時に、何も説明していないということでもあるのではないか?
 仮に三島の意図がその通りであったにせよ、小説の読者には、能う限りその小説をどのようにも読みうる権利と自由が与えられている。ならば、別な構図の描き方もあっていい。

 簡単に整理する。
 清顕、勲、ジン・ジャンは、それぞれ清顕の生まれ変わった姿であり、第4部の主人公透は、生まれ変わりの徴とおぼしい脇の下の3つのほくろを持ちながらも、20歳で死ななかったことをもって決定的に贋物であると見なされる。そして、この設定はすべて、本多の視点を通して見られた世界のあらわれである。
 したがって、ここで本多による「生まれ変わり説」そのものをただの迷妄と否定してしまえば、世界はまたまったく違った様相を現すだろう。脇の下のほくろなどただの偶然であり、清顕が残した夢日記と現実との符合もまた、夢独特の曖昧さを、数十年の時間の経過の中で、本多が恣意的に現実に当てはめて予言にしてしまっているのに過ぎない、と。
 確かに、それはひとつの見方ではある。本多の言う生まれ変わりの根拠はいずれもいささか根拠薄弱というべきだろうし、それで齟齬は特にない。
 だが、それはすでにはなから何も起きなかったというのと同じである。それでは結局のところ、全てを唯識論に還元するのと同じ要領で、全てを現実主義へ押し込めたのにすぎない。

●門跡の特権性とその放棄


 先に述べたように、この小説において、何が起きたのか、あるいは何が起きなかったのかは、読者の判断に委ねられていると言ってもよい。
 本多は3人の本物と1人の偽物の間に生まれ変わりがあったのだと主張するだろうし、門跡はそもそもの源である松枝清顕その人さえも夢幻だったのではないかと言うだろうが、それはそれで、彼らが彼らの主観を通して見立てるところの真実であり、またそれだけのものでしかない。
 第1部の末で月修寺の尼籍に入り、俗界と切り離されたところでひたひたと、生まれ変わりの物語とはまったく無縁に生を送ってきた門跡・綾倉聡子の「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?」という言葉は、彼女が第2部以降、小説の表舞台から徹底して隠蔽されていたにも関わらず、本多とともに最後まで生き残った第1部の最重要主要登場人物であるという事実を背景にせおうことによって、物語を根底から覆すほどの破壊力を帯びるにいたる。
 門跡は、自らと本多とが若い頃に旧知であったということも含めて、全てが夢幻であったのではないか、と語るわけだが、しかしそのようにして、門跡が自らを含めた松枝清顕をめぐる物語をそっくり否定してしまうとき、読者は新たな疑問にぶつからざるをえない。
 仮に門跡の言うことが真実であったとして、ならば清顕から60年あまりを経た月修寺門跡・綾倉聡子は、いかなる理由でこの小説の重要人物として存在しえるのか?

 清顕にはじまる輪廻を世界の中に厳然と存在する事実と確信している本多なら、輪廻を幻に還してしまう門跡の言葉に、世界の存在自体を危うくされて、「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」と叫ぶことになる。しかし、それはいささか早計であるだろう。もちろん、このときの本多には、予想だにしなかった門跡の言葉に足下が崩れていくようなある種の恐怖とパニックを感じているという部分はあったにせよ。
 結局のところ、門跡が「清顕と会ったことがない」と主張するということは、「清顕が存在しなかった」ということとイコールではない。「会ったこともない」人間の存在を、本多の話が雲をつかむような話だからといって、なぜ否定できるというのか。
 実際がどうであれ、このとき、門跡は清顕やその生まれ変わりたちについて語る資格を放擲したと見なすべきだろう。それだけ自らの特権性から後退したからこそ「それも心々ですさかい」という言葉がこぼれてくるのである。それはたしかに、アーラヤ識風の涅槃にすべてを委ねる態度であるかもしれないが、この小説で何が起きたか、という疑問に対する解答にはなりえていない。

●透は生まれ変わりと言えないか


 そこで注目したいのが、「贋物」安永透の存在である。
 4部作である「豊穣の海」の4人の主人公のうち、唯一の「贋物」とされているのが安永透だ。彼は生まれ変わりの証のひとつ、脇の下の三つのほくろを本多に認められて彼の養子となり、ついには本多の資産をほぼ乗っ取るにいたるが、久松慶子によってその俗物性を喝破され、生まれ変わりの姿ではなく「何か昆虫で言えば擬きの亜種のようなもの」と断定される。生まれ変わりであるならば他の3人のように20歳で死ぬ宿命にあるのだ、と慶子に教えられた透は、みずからが本物の生まれ変わりであると証明するために服毒自殺をはかる。
 それでも彼は死にきれずに盲目となって21歳を迎え、決定的に清顕の生まれ変わりではないことを露呈することとなる。
 透の本性自体は、慶子の言うように「どこにでもころがっている小利口な田舎者の青年」に過ぎない。それは一読すればわかることだろう。
 だが、それと彼がモドキであるということは、果たしてイコールなのか。

 本多と慶子が措定している生まれ変わりの条件は、簡単にまとめれば次の3点である。
 「1:左の脇の下に3つ並んだほくろがある」「2:純粋ななにものかに突き進んでいく運命を背負っている」「3:20歳で死ぬ」。
 これに、サブテクストとして「清顕の夢日記」が絡んでくる。全ての生まれ変わりは、清顕があらかじめ夢に見て日記に記していたのだ、というわけで、勲やジン・ジャンの姿も、この日記に描かれている。
 だが、少なくとも2番と3番については、かなり本多たちの恣意的な解釈が入っているように思える。これらの条件に当てはまらなかったからといって、透が贋物であると果たして言えるのか?
 「ジン・ジャンまでは生まれ変わりがあった」ということを前提にして言うならば、透は少なくとも飯沼勲やジン・ジャンらが備えていた条件を備えてはいなかったと言える。
 というのも、透は慶子からその話を聞いてすぐに本多に「清顕の夢日記」を借り、1週間かけてそれを読んだ後、夢日記を焼いて毒をあおるからである。透はなぜ夢日記を読んだのか。無論、夢日記の中に、自分の姿が描かれていないかと探すためであると考えるのがもっとも自然だ。なぜならば透は慶子に「生まれ変わりではない」と宣言され、と同時に自分が生まれ変わりであると信じたがっていたからだ。自分が生まれ変わりだと証明するためには、ほくろ以外に生まれ変わりである証拠を示さなくてはならない。夢日記に透が描かれているなら、透が生まれ変わりだという何よりの証拠となるだろう。
 しかし、おそらく、夢日記の中には透に関する記述は見られなかった。なればこそ、彼は毒を飲まなくてはならなかったわけだ。また別の証拠、すなわち「20歳で死ぬ」という証拠を残すために。

 ではやはり、透は贋物であり、秀麗な容貌と3つのほくろという外貌のみを似せたモドキであったのか。
 実はこれはかなり微妙だと思う。「生まれ変わりではなかった」という証拠はどこにもないのに対し、「生まれ変わりであった」という証拠は、そのほくろがあるからだ。結局、彼が生まれ変わりでなかったとするためには、慶子のようにかなり恣意的に判断を下す必要がある。
 しかし彼が生まれ変わりであったと仮定しても、少なくとも彼は勲がジン・ジャンに転生したように、新たに別の誰かに転生していくことはないだろう。なぜ夢日記を焼いたのか、と本多に問われ、彼はこう答えている。「僕は夢を見たことがなかったからです」と。
 その前に「透が答えた言葉は透徹していた。」とあるから、この透の言葉はおそらくは嘘ではない。「20歳になるまで夢を見たことがない普通の人間」などという者が果たしているのかはさだかでないが、清顕や勲は、生前、鮮やかに自らの生まれ変わり後の姿を夢に見ていた。となれば、透はおそらく、このあと転生するということがないのだ。ちなみにジン・ジャンは、本多に見られる対象としてしか描かれないので、彼女が夢を見ていたかどうかは確かめる術がない。
 透が生まれ変わりであったとしても、またそうでなかったとしても、この物語の締めくくりにはふさわしい人物だったというべきだろう。
 彼が生まれ変わりであったとしたなら、その転生の遍歴はこれで終了ということになる。また彼が生まれ変わりでなかったなら、本多がつれづれに思うように、この先もどこか本多のあずかり知らない場所で、生まれ変わりは続いていくだろう。清顕からジン・ジャンまでの3人が相次いで本多と出会ったのは、ただの偶然だったことになる。

●可能性の輪廻


 さて、ではそもそもこの物語では、一体何が起きていたのだろうか。いよいよ準備が整ったので、それを明らかにしたい。
 転生があったとした場合、これは無論、転生の物語である。門跡が老いて何を言おうと、そう読むことは可能だ。
 清顕に始まる4人の転生が、透にいたってついに絶たれる物語とも、ジン・ジャンまでの3人の転生と、天人になろうとしてついに果たせず墜落した哀れなイカロス、透との織りなす物語とも受け取ることができる。
 そもそも転生などなかったとした場合、これは、数奇な運命を持った清顕、勲、ジン・ジャン、そして本多との邂逅と別れの物語である。清顕と同級だった本多が、成長し、やがて老いていく中で、かつての親友によく似た面影の若者を見いだす。よくあることだ。
 だが、それを生まれ変わりと結びつけるのはそうそうありそうな話ではない。
 彼らを傍観し、あるいは覗くだけなら大過なかった本多は、やがて生まれ変わり、という妄疾にとりつかれ、ついに新たな生まれ変わりと思われる1人の青年を養子にするにいたる。だが、それがかえって、その青年を悲劇へと導くことになる。
 この物語は、いずれのパターンででも読むことができる。それを輪廻の物語と読むことも、群像譚と読むことも可能なのである。まさに「それも心々」だ。
 そして、唯識論は、それが輪廻であったかなかったかに関わらず、ただじっと時が流れていくのに任せている。本多のようにそこに輪廻の影を喝破するのは、それが事実であれどうであれ、迷妄なのだ。
 門跡は、もしかするとそうした本多の迷妄を、清顕の存在そのもの、そしてその中で自分自身が占める特権的地位をも否定してしまうことで、解き放とうとしたのではあるまいか。
 無論、それもひとつの読みの可能性でしかないのだけれど。
(2004.2.14-18)


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『豊穣の海 第3部 暁の寺』
 (新潮文庫
 1977年10月刊
 原著刊行1970年)

●だから何。


 なんというかこう、読むのがしんどかった、という言い方は果たして適切なのかどうかわからないけれども、決して次へ次へとページをめくる手が止まらないようなスリリングさとは縁深くない感じが後に残った。
 文庫版解説の森川達也氏が言うように、この「豊穣の海」という大部の作品が起承転結の構成をそれぞれ4巻に割り振っていると見るのは、確かに至当であるように思えもする。しかし、この力こぶを入れて大盛り上がりに書いたはいいものの、どうにも的の中心から5センチばかり外れたところに渾身のパンチを叩き込んでしまったかのような肩すかし感はいったい何なのか。
 単に僕の読みこみが甘いのかもしれないが。

 第3部となる本編の主人公は、これまで傍観者であり続けた本多である。そして、松枝清顕の、また飯沼勲の生まれ変わりとして登場してくるのは、タイの王女であるジン・ジャン(月光姫)。
 清顕が「純粋な恋愛」を、勲が「純粋な死」を求めて凄絶に死んでいったのに対して、ジン・ジャンは、どうにもその性格がはっきりしない。
 本多を主人公に据えていることからもわかるとおり、三島はここで、その性格のぼかしを意図的におこなっていると読みとるべきだろう。転生者が、主格から対象へと後退しているわけだ。何の対象か。本多によって「見られる」対象である。そら性格ぼけるっちゅーねん。
 ちなみにもちろん、初老にさしかかって地位も財産も得た本多の趣味が覗きであり、彼が美しいジン・ジャンの露わな姿を覗き見ようと別宅の壁に覗き穴までしつらえる、というのは、この構造の隠喩、というよりは読者へのヒントと見るのが正しい。
 ではそれによって、三島は何を企図したのか。
 三島自身の考えはともかく、物語をとらえるカメラの位置を転生者から傍観者へとスイッチするということは、ふたつの視点を読者に提供し、物語の構図を多角的にとらえさせることにつながる。片目で見るよりも両目で見た方が遠近感がつかみやすいというのと同義である。
 まさに物語の鍵である輪廻転生という事象についても、本多により、唯識論のアーラヤ識という観点から説明がなされる。
 近くを走る車よりも遠くを走る新幹線の方がゆっくりとしたスピードに眺められるように、そうした別の観点から物語を眺め直すことで、色々なものが確かに見えてくる。

 しかし、これはあくまで、第3部を単体で読んでの感想なので、乱暴は承知であえて言うのだが、「だから何?」と問い返したくなるのは、僕だけなのか?
 そもそも、輪廻という事象を、いささか当たり前にうけいれすぎなのかもしれない。また、カメラの位置を引いてみることで、時間の流れや老醜が際だって見えるとしたところで、そんな小細工にどれだけの用があるかというのは、ちょっと意地悪な読み方であるかもしれない。
 だが、小説の面白さを、文学というものの真摯さを、ここにどれだけ認められるのか、と問うたとき、そのいささか陳腐にも見える構図の後ろ側に、三島なりの解答が用意されているのかどうなのか、僕には今、よくわからないのである。
 真摯さがどうのともったいをつけずとも、単にこう言えば、もっとわかりやすいだろうか?
 「え、こんだけ?」と。
(2004.2.9)


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『豊穣の海 第2部 奔馬』
 (新潮文庫
 1977年8月刊
 原著刊行1969年)

●疾走と空虚


 第1部を読み終えるまでに2週間以上かかっていたのに比して、第2部は1週間。ペースとしては割にサクサクと読んだ形だけれども、面白さとしては第1部の方が遙かに上だった。と言うか第2部はちょっとつまんなかった。
 もちろんこれは、大長編の第2部を、その部だけで単体で見て感想を書こうという、そもそもが無茶のある見方をしているのでそうなっていることは否定しない。普通、「坊つちやん」の布団にイナゴを入れられるくだりだけを読んで面白くなかった、とは喚き立てないものだ。
 ただし、ある程度の長さを持つ長編の場合、途中までを読んでその時点で感想を抱くということはあっていい。でないと「グイン・サーガ」の感想を書くには30年以上待たなくてはいけないことになってしまう。
 本作においても、この論法でいけば、部立ごとに、毀誉褒貶あってしかるべきであると思う。無論、全体の構成を知っておいた上で、その構成の中でこの部はこう、と言えればいいのだろうが、それはまた、第4部を読み終えたときにとっておこう。
 小説には力のいれどころ抜きどころがあってしかるべきだし、緩急がなくてはまたつまらないのは当然のことだ。しかし長編小説の場合、あるていど持続して面白さが提供されないと、読んでいる方としてみれば辛い。面白さの質が違うだけのことで、これはエンターテイメントでも純文学でも同じことだ。そしてこの点において、この第2部はつまらなかった。

 第2部の主人公は飯沼勲という右翼少年だ。この右翼少年が、型どおりに「ウヨクー!」という感じで怒りつつ、財界の要人暗殺を仲間と計画し、とっつかまり、物事の裏にある醜い現実を突きつけられるうちに、キレて単独での要人暗殺並びに割腹自殺を遂げる。
 この勲少年は、右翼であるがゆえに社会の現状を憂えて怒っているわけではない。周知の通り、彼は第1部の主人公である松枝清顕の生まれ変わった身であり、清顕が純粋な感情を希求したように、勲は純粋な死を希求する。その純粋な死のために、右翼的な憤りを利用しようとしている。
 右翼的な怒りが果たして純粋なものだと言えるか、というのは、まぁ、どうでもいいはなしで、とりあえず作品世界でそうなっているのだから、そこにケチをつけたって始まらない。それは三島自身の思想的嗜好の問題だし、勲の一人称的な視点で描かれた稚拙な論理の中に、三島の右傾化した思想の全てが開陳されているとは僕は思わない。それはおそらく、勲の稚拙さを表現するという十分な意識的作業の中で描かれている。
 それは、はしばしに、「純粋ではあるが稚拙で猪突猛進」という勲の論理への指摘が覗いていることでもわかるだろう。
 で、そうなると、右翼的な交友やら純粋を守るための論理やらをガガガッとさっぴいて後に何が残るかって、ほとんど何も残らないんだよこれが。
 生まれ変わりをなかば疑いつつ、途中で決定的な証拠を手に入れて、放心の内に裁判官の職を辞する本多や、その本多が弁護士となって臨んだ勲らの裁判の場面、そこから次々と明かされる真実、といった場面は、まぁ、面白かった。
 しかし、そこに行き着くまでの300ページは、かなりの苦行。伏線や表現に三島が気をつかって書いているのはわかるが、そもそも筋立てがつまらないのであれば宝の持ち腐れと言うしかないだろう。
 自分の得意ジャンルの話だけにちょっと張り切りすぎてしまったのかな、とは思うが、第1部の精巧さの後にこれを読まされるのは、苦痛に感じる人が多いんじゃないだろうか。
(2004.1.12)


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『豊穣の海 第1部 春の雪』
 (新潮文庫
 1977年7月刊
 原著刊行1969年)

●自意識と気恥ずかしさ


 三島の遺作となった『豊穣の海』の第1部。第1部だけ読んで感想を書くのも少し無茶かなと思ったが、全部読み終わるまで待っていると色々と忘れそうなので、ひとまずの感想を書いておくことにする。
 つたない興味を三島に抱いて、ちらほらと作品を読んでいた頃から、気がつけば5年に近い年月が過ぎてしまった。その間、三島からは遠ざかっていた。
 改めて彼の代表作のひとつである本作を読んでいると、痛々しいほど意識的に作業をこなす作家であるという、往時には抱かなかった印象を抱く。しかも、意識的であるということを隠そうとしない。川端康成のように、意識的な筆致の上にさりげなさという絵の具を上塗りすることをしていない。
 そういうことを5年前には思わなかったというのは、当時は僕も自意識過剰気味な青年だったからだろう。というようなことも思わされて、今読むとちょっと気恥ずかしい。

 意識的に作業をしているというのは、例えば次のような箇所を見るとわかる。

 綾倉伯爵はただ放心していた。破局というものを信じるのはいくらか下品な趣味だと考えられたから、そんなものは信じなかった。破局の代りに仮睡というものがあるのだ。だらだら坂が未来の方へ無限に下りてゆくのが見えていても、鞠にとっては転落が常態で、驚くべきことは何もなかった。怒ったり悲しんだりするのは、何かの情熱を持つこと同様に、洗煉に飢えている心が犯す過誤のようなものだ。そうして伯爵は、決して洗煉になぞ飢えてはいなかった。
 ただ引延ばすことだ。時の微妙な蜜のしたたりの恵みを受けるのは、あらゆる決断というものにひそむ野卑を受け容れるよりもましだった。どんな重大事でも放置しておけば、その放置しておくことから利害が生れ、誰かがこちらの味方に立つのである。これが伯爵の政治学であった。

(p.349 第45章より)

 伯爵の娘である聡子が、宮家への輿入れを間近に控えている身で、突如、髪を下ろして僧籍に入ってしまったという報せに、伯爵はただ放心して何もしない。そのときの伯爵の心情を、三島はこのように記している。
 後段の政治学はともかくとして、破局を信じず、驚きさえもなかったということのロジックを示した前段は、おそらく、伯爵にしてみれば半ば無意識のロジックであると考えられる。その少し前、出家の原因でもある、聡子の妊娠が発覚した場面において、伯爵はやはり、ただいたずらに時を過ごすのだが、そのくだりに「伯爵は心底から困っていたのである。しかし、自分一人で処理するにはあまりに大きく、人に相談するにはあまり面伏せな事柄は、できれば忘れていてしまいたかった。」という文章があるのが、このいたずらな放心が趣味性に基づく戦略でないことを物語っている。ちなみに、この部分でも、先の引用と同工異曲な怠惰の理由が少し長く描写されており、伯爵の心の動きが2度の危機に際してまったく同じであったことをうかがわせる構造になっている。
 伯爵の放心は、没落していく名家の貴族に生まれた伯爵がおのずと身につけたものであるのに相違ない。
 とすれば、作者の筆は、その無意識的なふるまいを理詰めで説明しているということになる。
 三島は、綾倉伯爵の行動を想定し、その想定したとおりのロジックを読者に開陳しているわけだ。これが川端であれば、もっとぼかした描き方をするに違いない。川端に限らず、多くの作家はここまで事細かな描写をしないだろう。仮に描写をしても、推敲の段階で削るだろう。
 それをそのままに残し、かつ、表現に彫琢をこらすという三島の意識のありかたは、特異である。
 しかし、この特異な気恥ずかしさに、三島に従った右翼青年などは惹かれたのかもしれない。
(2004.1.9)


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『反貞女大学』
 (ちくま文庫
 ****年*月刊)
 元々、三島っていう作家は、僕にとって、「興味はあるけど好きではない」という位置にいる作家なんで、延々と三島ばっか読んでると苦痛に感じだすところがあります。
 つまり、三島って、文体も考え方もエネルギッシュな作家なもんで、熱い風呂みたいに、長いこと浸かってはいられないんです。小説なんかでも、面白いんだけど、読み終わった後、こっちの精気を吸い取られたみたいになっちゃう怖さがある。
 顔写真とかでもエネルギッシュでしょ。油断してると殴られそうな雰囲気のあるオッサンですよ。

 さて、この本には、女性について書いた「反貞女大学」と、男性について書かれた「第一の性」が収められています。
 前者は「産経新聞」に、後者は「女性明星」に連載されたものですが、読んでみると、両方とも、主に女性の読者を想定して書かれていることは、一目瞭然です。
 高度成長期には、男性の方が仕事仕事になっちゃったもんだから、雑誌や作家の側も、ターゲットを女性に絞った展開をしている例がずいぶんあります。柳田国男なども、そういう仕事をしてた時期がありました。これもその1つと言っていいでしょう。
 もっとも、そのせいもあってか、「第一の性」の方は、随分と、言い訳がましいというか、切れ味が鈍いかな、と思わせるような部分が目立ちます。
 「男というのはこれこれで、これこれなんだけれども、まぁ、それはある意味しょうがないんだよ」というような。

 反面、「反貞女大学」には、三島らしいユニークな意見があふれてますね。
「不貞を働いた女房を愛するもっとも男性的な愛し方は、彼女を殺すこと以外にはありません」(第一講 姦通学)
「ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである」(第十二講 整形学)
などなど。

 「第一の性」にも「目的のはっきりした社会では、男は戦争用に使われ、女は子孫繁殖用に使われるだけだから、男らしさも女らしさも、ちゃんと黒白がつきます」などという名言がありますが、その後でしっかり、「近代社会のように、目的のはっきりしない社会」では「『男らしい』男は、あんまり女にもてもせずに、毎朝満員電車にもまれて、安月給の勤め先に通勤している筈です」という、なんだか言い訳がましい男性弁護が行われたりする。
 ほほえましいといえばほほえましいですが、歯切れが悪いとも言えるかもしれません。
 いや、うんざりするほどエネルギッシュだけど、面白いオッサンなんですよ。ホント。
(1998.8.23)


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三島由紀夫

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