森村泰昌



『美術の解剖学講義』
 (ちくま学術文庫
 2001年2月刊
 原著刊行1996年)
 森村泰昌の名前を初めて聞いたのは、「たけしの誰でもピカソ」の番組内だったから、そんなに古い話ではない。せいぜい、この3年ばかりの間の出来事だ。といっても、これは単に僕がアートシーンに疎いからに他ならない。ゴッホの自画像をはじめとする様々な名画のワンシーンに自らが扮した写真によるセルフポートレート・アーティスト、森村の名は、90年代の初頭からすでに世界の注目を集めていたそうだ。
 でも、僕が彼の名を聞き、作品を見たのは「誰でもピカソ」だったわけだから、およそ5年から7年ほど、耳目が追いつかなかったことになる。何しろメディアに登場しないから、さして美術方面にアンテナを延ばしていない僕としては、まぁ、無理からぬことかと思っている。たしかになかなか紹介に困るアーティストだから、メディアとの親和性は高くない。永江朗の『批評の事情』では、椹木野依を紹介する項目で、「浅田彰が森村の作品を『吉本興業的』と評した」というエピソードに、椹木が「しかしそれは吉本興業のなんたるかを勝手知った日本という国に生活を送る人たちだけに通用する認識である」と指摘したことが引かれている。つまり下手に一面的な見方をすると、ただの悪ふざけとしか認識できないところが、森村作品のメディア受けしないところだろう、と思う。
 僕がディレクターだったとして、森村を紹介しろと言われたら、たしかに困り果てるだろう。逐次、その作品を構成する意図を解説しないと、なかなか理解を求めることが難しいだろうし、それがなかなか説明しづらいからまた困るのだ。
 しかし、それでいて、森村作品が、高い緊張感をはらんだ代物であることは、割と簡単に伝わってくる。何しろ記憶力には人一倍自信のない僕が作品の特徴と彼の名前を一発で覚えていて、しばらく経ってからこの本を買ったくらいだから、それはたしかだ。
 そんなわけでこの本では、そんな説明のしづらい作品を作る森村さんが、写真や絵画について自信の芸術論を語り、さらにそこからセルフポートレート論を経て、森村さん自身の作品についても、それを構成している制作意図を説明してくれる、という構成になっている。これが非常に親切でわかりやすい。というのも、「書きながら考えている」のではなくて「普段から考えていることを講義する」というスタンスで書いているから、とてもこなれている。
 森村によれば、写真や絵画の名作というのは、いずれも画面内、あるいは画面内と画面外との間に、緊張感をもたらすような構図(など)で描かれている。また、セルフポートレートとは、基本的には「画家←→モデル」の「見る←→見られる」という関係を崩して、見られる側にも「画家」を代入する自己解剖の試みである。
 しかし、森村作品は、「自分とは何者か」という解剖ではなく、「自分が何者になれるか」を問うための試みだそうだ。その一環の中で、20世紀を代表する芸術形態である映画において、「見られる者」として君臨しかつ使役された女優に仮装し、「見る←→見られる」の関係性を崩したりもしているのだという(モノクロなのが残念だが、巻末の「黒いマリリン」が持っている緊張感は素晴らしいと思う。絶対テレビでは見られないだろうけどな)。
 森村自身は本書での言及を避けているようだが、森村作品は明らかに、その作品を見る側である「鑑賞者」を秤にかける構造を組み込んでいる(というのも椹木が言っているそうだが)。つまりは森村作品で、テンションをはらむ対というのは「作品←→鑑賞者」なのだという部分がある。両者は互いに「見る側」であり「見られる側」であり、かつ森村が提唱する第3の立場たる「見つめる者」でもある。そこには対立ではなくて静かな対置が存在していると言えば良かろうか。
 と同時に「模倣する側」「模倣される側」として「森村」と「名画や女優たち」との関係が存在していて、さらに森村自身、時には作品の鑑賞者という立場でもあるのだから…と、考えていると頭がどんどんこんがらがってくるわけである。そこらへんを計算して、あるいは計算抜きでやってしまうから、芸術家というのは侮れないのだ。
 ま、とりあえず、森村作品を眺めるときに感じる、あの緊張感の正体が少しつかめただけでも、本書を読む価値はあったのだろう。
(2001.10.26)


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森村泰昌

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