夏目房之介



『マンガの深読み、大人読み』
 (イースト・プレス
 2004年10月刊)

●第2部のために


 えっと。
 マンガをいかに読むか、またいかに読みうるかについての本、なのだが、これは夏目房之介氏の著作のほとんどに言えることであり、本書の説明としては適当ではないだろう。
 じゃあ本書にしかないものって何だろうか、というと、『ジョー&飛雄馬』誌で連載していた記事を中心とする、当時の関係者へのインタビューも含む『明日のジョー』『巨人の星』の2作品への詳細な言及、ということになってくる。
 本書は3部構成になっていて、それぞれに「マンガ読みの快楽」「『あしたのジョー』&『巨人の星』徹底分析」「海の向こうから読むマンガ」というタイトルがつけられている。こういう言い方が夏目氏の意にかなうものかどうかはわからないが、手塚治虫から永井豪、浦沢直樹、鳥山明までをそれぞれ短い原稿で論じた「マンガ読みの快楽」は、第2部に進むための導入、あるいはレッスンに過ぎないと思う。
 第2部で『ジョー』『巨人の星』の2作品は、当時の関係者へのインタビューを中心にしつつ多角的に読みこまれる。夏目氏によるそれぞれの作品の、時代的なものもふくめた位置づけがあり、作画の川崎のぼる氏やちばてつや氏のインタビューあり、当時のアシスタントや担当編集へのインタビューあり、梶原一騎夫人である高森篤子氏へのインタビューもある。それぞれがそれぞれの立場から作品を語ることで、この両作品にさまざまな角度から光が当てられている。
 ここでさまざまな角度から光が当てられているのだと読者に気づかせるために、第1部は存在していると言っていい(といって第1部が読みごたえがないというわけではないが)。
 第3部は、夏目氏が近年取り組んでいる、海外のマンガと日本のマンガとの比較研究になっているが、まあ、外部からの視点を持ち込んでくる、という意味あいはマンガ研究全体にとっては大きいものであるにせよ、本書においては、オマケという域を脱していないと思われる。
 少し散漫になってしまったが、何が言いたかったのかというと、本書のキモは第2部である、ということだ。なので僕も、第2部について感想を書くことにする。

●ジョーと飛雄馬と夏目房之介


 『ジョー』と『巨人の星』についての夏目氏の位置づけというのは、この2作品が出てきたことで、日本のマンガが子ども向けのものから、青年層が読むに耐えるものに進化していったのだ、ということに尽きる。これ自体はそう目新しい結論ではないと思うけれども、青年層がマンガを受容するために必要だった主人公の内面の葛藤とか宿命とか、そういったものを表現するために、マンガ技法もまた確立されていった、という話の持っていきかたは、夏目氏の自家薬籠中のものだろう。それだけに説得力がある。
 技法の話は『巨人の星』について主にされているのだが、顔の陰影とか「がーん」という有名な擬音、見開き裁ち切りの使い方、それらすべてが、飛雄馬をはじめとする登場人物の内面を描くために開発されたものであり、そうして表現された内面の「熱血」が、川崎のぼる氏の絵自体も変質させて、それまでむしろクールでスマートな印象だった人物の肉体が、はちきれんばかりに膨れあがっていくのだ、という。
 一方、『ジョー』については、夏目氏自身が当時、マンガ青年だったこともあり、むしろ『巨人の星』論よりも、作品との距離感が近いというか、論に込められている熱量が大きい印象を受ける。こっちに力が入っているというよりも、論じる対象を客体化しきれていない部分があるんじゃないだろうか。『巨人の星』のファン層よりも『ジョー』のファン層の方が少し年齢層が上であったというのは定説だが、『巨人の星』とは十分に距離を取りながら楽しむことができた当時の夏目氏は、『ジョー』については、より密接な距離感、言い換えるなら作家と読者との共犯関係の中で作品と接していたのだろう。『ジョー』はまた、夏目氏自身にとっても、自分の体験そのものでありすぎるのだ。
 もちろんそのことは、『ジョー』論の不備ではない。
 『ジョー』論は、技法そのものというより、梶原一騎とちばてつやという2人の作家が、どのように拮抗しあいながら作品を書き進めていったのかという点に、最終目的地を定めている。技法的な話も出てくるが、それはあくまで原作と作画がどのように互いを理解し合い、ひとつの物語を織りなすのか、ということを読み解くための手法にすぎない。
 結論から言えば、マンガが実際に読者の元に届けられる際、その最終プロセスはあくまで作画であって、原作単体ではマンガとは呼べない以上、原作つきマンガとは、作画を担当するちばてつや氏が、いかに原作である梶原一騎氏の世界を理解しかつ表現したか、というプロセスの表出なのだ、ということになるだろうか。
 つまり、梶原一騎的な登場人物というのは、本来、ちば氏が持っている世界とは異質なのである。ちば氏は、それゆえにどうも「よくわからな」いジョーや葉子といった登場人物を、どうにかして理解しようと、梶原原作に本来なかったドヤ街のエピソードを掘り下げ、あるいはサチら孤児院の子どもたちや紀子といったキャラクターを登場させて、梶原的世界へとアプローチする。
 その結果として、最後のホセ・メンドーサ戦においては、それまでのオールキャストが試合会場に顔を揃える中、孤児院の子どもたちも紀子も登場しない。つまり、彼らちば的世界のキャラクターは、ちば氏がジョーたちを理解するにしたがってその役割を終え、彼ら自身の生活の中へと後退していった。
 この『あしたのジョー』論は、ふたりの世界の拮抗と融和を描出していて、なかなか感動的である。

●融和する川崎のぼる


 インタビューでは、川崎のぼる氏へのインタビューが出色だと思う。
 興味深いエピソードがいくつも出てくるのだが、そこからは『ジョー』と違って、原作と作画が拮抗するのではなく、互いが影響を与えあいながらもすんなり融和して物語を作っていた様子がうかがえる。

夏目−梶原さんは、原作に「夕日」と書いたら凄い絵ができてきた。川崎さんの夕映えは千万言にまさる。「がーん」も、川崎さんの使ったのを原作に使った。目の炎もそうだ、と書いてますね(梶原一騎「わが原作作法」「月刊COM」68年3月号)
川崎−あ、そうですかぁ。梶原さんの原作、原稿用紙でたしか10枚くらいやったと思います。甲子園の前あたりで、もう凄くイメージ湧いたから、原作1回分を3回に分けて描いたり、だから一球投げるのにえらい時間かかったりね。観客があり、花形、飛雄馬の顔があり、手がみえてバットを握る、太陽がぎらぎらしてる、歓声があがる……そういうカットを分けて描いてたら、いくらでも描けるっていうかね。梶原さんの原作はイメージがふくらむんです。ストーリーは同じでも、コマのとり方や展開で、描き手によってぜんぜんちがう。
(p.120より)


 『あしたのジョー』と『巨人の星』は、いずれも原作と作画の幸福な出会いがあった作品だと思うのだが、その出会いかた自体はずいぶん違うと感じさせられる。
 梶原一騎氏の世界と川崎のぼる氏の世界は、一見するとずいぶん違うようにも見えるわけだが、実は意外に、そのナイーブさのような部分で通底していたことが、当時の少年マガジン・マンガ班チーフ(のちに編集長)であった宮原照夫氏から証言されている。
 そうした下地が共通していて、川崎氏の方はとくに感激屋であったというから、こうした、両者が影響を与えあって、その影響をさらに作品へと反映させて昇華させていくといった形がありえたのだろう。それぞれに違った世界同士がぶつかり合いながら融和し、新たな世界となって作品へと昇華していった『ジョー』とはまた違う形だと思う。
 他にも、当時、まさに作品の生み出される現場にいたアシスタントや編集者の証言には興味は尽きないが、いずれにせよ、こうして単なる懐古趣味にとどまらないかたちで、ひとつのメルクマールを振り返ることができるというのは、日本のマンガ業界の幸福である。
(2005.9.15)


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『マンガはなぜ面白いのか -その表現と文法-』
 (NHKライブラリー
 1997年11月刊)
 NHKの「人間大学」でのテキストに、大学での講演を文章に起こしたものが2篇ついている。
 どちらも「です・ます」のしゃべり言葉を基調にしているので、読みやすくて、夏目氏自身も「まえがき」で言うとおり、入門書として適切だろう。
 内容としても夏目氏がこれまで手がけてきた、マンガを構成する諸要素、つまりコマ割り、フキダシ、間白、漫符等の概説がほとんどで、正直なところ、それまでに夏目氏の他の著作に接してきた身としては食い足りない印象も残らないではない。
 まぁ、「人間大学」ってテレビでカルチャースクールやってるようなもんだから、あんまり先鋭的なことをやる場ではない。それにそもそも講座が放送されたのが(僕は残念ながらそれを知らなかったが)1996年ということなので、時代的にもまだあまり多くを望める時期じゃなかったかもしれない、特に一般向けの書籍としては。
 入口としてはこれで必要十分だと思うけれども。

 むしろ面白かったのは、大学での講演で扱われている香港マンガについて。
 日本で暮らしていると別に意識はしないことだけれども、日本での漫画の制作過程というのは、割に特殊な方で、香港マンガのように出版社が作家を社員として雇い入れる形式を採用している国も多い。アメコミもそうらしいですが。
 今、原作:尹仁完・作画:梁慶一の『新暗行御使』とか、日本でも次第にアジア各国の作家の書いたマンガが読める状況になって来つつある。『新暗行御使』などはクオリティも高いし日本人向けに書かれてるしで人気もあるわけだが、いかんせん、そうでないマンガの方が圧倒的に多い状況は変わらない。
 夏目氏がしばしば言う、「絵はものすごくうまいんだけどマンガとしては日本人にはさっぱり面白くない」という韓国や香港のマンガがなぜ生まれているのか、また向こうの人はどこを楽しんでいるのか、というあたりが、この作業工程の違い、また読者層の違いというあたりから透かし見られている。
 このへんは彼我の比較から日本のマンガの記号性の高さを再認識するとかいったことにもつながってくるんだろうけど、本書ではそこまで踏み込んでの論考はない。ただ、色々なことを考える入口としてはやっぱり非常に興味深いと思う。

 ところでNHKライブラリーという文庫シリーズでは、表紙の折り返しのところに著者のプロフィールが書かれているのだが、そこに「87年〜89年にはNHK教育TV土曜倶楽部で『夏目房之介の講座』担当。」などと書かれていて不覚にもちょっと笑ってしまった。あーた、10年近くも前に終わっちゃった番組を今さらプロフィールに書きますか。
 たしかに僕も好きだったけどさ、「土曜倶楽部」も、いとうせいこう氏が司会を担当する東京スタジオでの録画の際にだけ放送されていた「夏目房之介の講座」も。
 自社で放送した番組だからってだけでそれを引っ張り出してくる夜郎自大さというか律儀さというかはNHKらしいが、その肝心の「夏目房之介の講座」を本にまとめて出版したのは廣済堂出版(1989年)であり、さらにこれをちくま文庫が文庫化(1997年)しているのであった。NHKライブラリーではなく。
 以上、ちょっと余談である。
(2004.5.15)


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『風雲マンガ列伝』
 (小学館
 2000年1月刊)
 夏目房之介氏の著作を読むのは、実はけっこう久しぶりだ。といっても、この本は「ビッグゴールド」誌に連載されていた時評を集めたもので、氏の仕事の本筋であるマンガ批評よりも格段にゆるい。
 「ゆるい」というのは、悪く言えば散漫だということだが、時評であるにもかかわらずいつもいつも同じ方向を見つめてばかりでは視野が狭いというものだし、だいいち肩がこる。読む方だってゆるーく読めばいいんじゃないの。

 そんなわけで、へらへらと笑いながらざーっと目を通す。
 1回につき3〜4本のマンガを取り上げて、そのどこがどう面白いのかを腑分けする、という構成も手伝っていると思うのだが、近田春夫氏の『考えるヒット』に似たテイストだな、と直感的に思ったのだった。
 腑分けの手管自体も、ちょっと似ている気がする。
 例を挙げよう。まず、近田氏によるモーニング娘。『LOVEマシーン』評。

 この曲の魅力は、いわゆるクオリティみたいなものなどどうでもいい、勢いがすべてと太っ腹にせまってくるところである。
 デモテープのように貧弱なエレピのガイドに音程もおぼつかぬといった風なモーニング娘。のコーラス。もう曲の始まりからして雑である。その質感が曲の最後まで途絶えることなくキープされる。何でもかんでもカッチリした音だらけのJポップ界にあって、とにかくこの曲、新鮮に響いてくるのだ。音が雑だから素晴らしいのではない。雑でもノープロブレム。この音で平気な点がすごいのである。音響的な効果を頼りにしていない。同じことの繰り返しを書いているようで申し訳ないが、今時ユーザーは皆耳が肥えている。普通なら、このような音の作りではダサいのひとことで一蹴されて終ってしまいかねない。そういう音なのに『LOVEマシーン』は文句なくカッコいい。そこが素晴らしいのである。

(近田春夫『考えるヒット3』p.214「『LOVEマシーン』は「太陽」型プロデュースで成功」より)


 続いて夏目氏の『北斗の拳』評。

 老人、子供、女性という弱者が、これでもかってほどいじめられ、残虐きわまる殺されかたをし、主人公があらわれて読者とともに怒り、あたたたたぁっと悪い奴をなぎ倒す。毎回、そうした怒りと悲しみと興奮と爽快感を確実にあたえてくれる。感情の類型づくりがうまいのだ。
 圧力釜みたいな感情のもりあげかたは、かつての東映やくざ映画と同じだけど、健さんの任侠的忍耐のかわりに、主人公ケンシロウはゴルゴ13なみのクールな達人の無表情をもっている。やくざ映画ほどウェットではないが、『仁義なき戦い』ほどドライではない。舞台は『マッドマックス』な近未来の破滅世界だが、中国武術的神秘主義(秘穴〔本文ママ〕をつけば「お前はすでに死んでいる」状態)にいろどられた身体への信頼感は、あんがい健康で屈託がない。
 破滅と救済という、いかにも70年代以降のマンガの主題をバックにしながら、まだまだ健康で余裕のあった肉体って感じである。それにしても、ケンシロウの等身だ!
 極端な絵になると12等身くらいある。一時の少女マンガでも、こんなのはなかったと思う。でも、こういう極端な身体の違和感もまた、読者の壮快感をさそい、感情の圧力を上げる要素なのだ。

(p.200「巻の二四 破滅と救済の系譜および手塚研究の前進」より)


 (一般的な意見としては)『LOVEマシーン』はバカバカしくもカッコイイし、『北斗の拳』はバカバカしくも面白い。
 その感覚的なかっこよさとか面白さのからくり、ここがこうだからかっこよかったり面白かったりするんだ、というのを、時評らしい屈折の弱さでパキッと指摘。これが快感なんだろうと思う。そこからさらに問題の系を発展させていくこともできるだろうけれど、時評だからあえてそこまでしない歯切れのよさ。
 『手塚治虫はどこにいる』とか『マンガと戦争』とか、夏目氏の著作はこれまでに何冊か読んではいるのだが、ああ、この人はこういう芸風も持ち合わせているのか、と目ウロコな思いであった。研究者肌というか、けっこう粘着的な論理展開をするイメージがあったが、それだけではないのだな、と。

 『考えるヒット』と違うのは、時評とは言いながら、別にその時々に出たマンガからめぼしいものをピックアップしているというわけではなく、そういう新作もあつかいつつ、何かで気になったところがあれば昔のマンガでも取り上げるところだ。
 石ノ森章太郎氏が亡くなったときの回では、初期作からコマ割りの実験性に富む中期、特撮とのタイアップによりプロデューサー的なスタンスを獲得した後期まで、さまざまな石ノ森作品をあげて、その功績をたたえていたし、高橋葉介、吾妻ひでお、いしかわじゅん、ひさうちみちおら諸氏の諸作をとりあげて、彼らがニューウェーブと呼ばれた時代の思い出について語った回もあった。
 あとは、韓国、台湾、香港などのマンガを重点的に取り上げていたり、マンガ関連書籍ということで、割に節操なくフレデリック・ショット氏や唐沢俊一氏らの研究書やアジアマンガ紹介本を取り上げていることもある。
 また、そういう回がけっこう面白かったりする。

 弱点は、少女マンガとマニア向けマンガだろう。特に「萌え」に関してはまったくノータッチと言ってもいい。ボーイズラブ系にいたっては見向きもされていない印象である。
 とはいえ、ま、夏目氏に「ヘンリエッタ萌え〜」などといわれても、それはそれで困るというか、むしろ衝撃的だし、専門分野が違うってことでしょうけども。
(2004.5.6)


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夏目房之介

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