中島義道



『生きにくい… -私は哲学病。-
 (角川文庫
 2004年12月刊
 原著刊行2001年)

●中島義道と香山リカ


 どこでどうつながっているのだか、解説が香山リカ氏である。別に誰がどこで誰とどうつながっていようと、そりゃ構わないんだけど、なんだか不思議な人選ではある。
 「哲学的思考」というのは、たとえば、考えてもどうしようもないことを考えずにはいられない、というような思考の系のことを指す。ひとくくりに言えるものでもないのだろうけど、そうした思考にとりつかれた人のことを、本書はとりあえず「哲学病」という看板のもとにくくりこむ。
 もっとも、くくりこむと言ったところで、もともと色々なところで書いた原稿をまとめて本にしてあるという体裁のものなので、そんなにまとまりらしいまとまりはない。とはいえ、哲学にとりつかれてしまった人を一種の病気(80年代的に「ビョーキ」と言った方がニュアンス的にはちょっと近いかね)としてとらえつつ、苦しかろうがしんどかろうが、とにかくその思考と一緒に日々を暮らしていかなくてはならない、という見方自体は一貫している。
 そういう人たちにとっては、そうやって苦しみながら生きていく以外に自分らしく生きることは不可能であり、もしそうでない生き方を選ぶとするなら、それは少なくとも中島氏にとっては欺瞞でしかない。宮台真司氏は日常の中で生きていくことのしんどさを説いたが、中島氏は非日常的思考が日常化することのしんどさを説いているのだ。
 まあ、そんなところが、香山リカ氏に解説を頼もうと編集者に思わせた理由なのではなかろうか。ある種の精神病理学的な見立て。しかし多分、中島氏が直接に頼んだわけではないと思うし、ひょっとしたら面識が十分にあるかどうかさえも怪しいような気がする。なんかあんまり相性がよくない気がどうしてもしてしまうのだよなあ、この2人。いち読者としてはどっちも好きなのだが、2人で仲良く会話しておられるところが想像できない。

●入門書としての「惜しさ」


 本書は角川文庫なので、裏表紙に梗概というか、まあ、簡単な紹介文といったようなものが掲載されている。
 その文句をそのまま借用するなら、本書の位置づけは「中島哲学、恰好の入門書。」であるらしい。ハナっから入門書を作りたかったのか、掲載できる原稿を集めていくと、入門書っぽくなったのか、そこらへんが正直微妙だと思うが、確かにこれは入門書だろう。中島氏がこれまでに関心を持ち、あるいは怒り、書いてきた著作のテーマを総ざらえするように並べている。気に入ったテーマがあれば、他の著作も読んでみては、というところだろうか。
 ただし、227ページというけっして厚いとは言いがたいページ数に、いくつものテーマに渡っての文章を収めている関係上、ひとつひとつの文章は短いものが多い。そしてその短さは、幾分か中島氏の他の著作に見られる面白さを損なっていると思う。

 永江朗氏が指摘するように、中島氏の著作がどこかユーモラスなのは、中島氏自身が「かくも哲学的にしか生きられない私」という存在の滑稽さを幾分か意識して、少し自分自身を突きはなしたところから筆を執っているからだ。もちろん、そのあらわれが「哲学病」という呼称であることは言うまでもないが、本書の中の文章のいくつかはその短さゆえに、読者がその滑稽さに気づかずに通り過ぎてしまうおそれがある。その滑稽さに気がつかないと、読者としては中島氏の説に真っ正直に感心するか、何を偏屈なことをと鼻で笑うかしかなくなってしまう。
 でも、たとえば町の公共施設や自動販売機でのアナウンスを騒音として感じ、「うるさい!」と憤る中島氏の滑稽は、その憤り自身よりむしろ、どんなに冷淡にあしらわれようが、アナウンスを流している施設や店の人にくってかかり、「言いたいことはこれに書いてあるからこれを読め」と自著を献呈して帰ってくる、といった行動を執拗に繰り返すところにあらわれるのではないか。
 しかも、それを何十回も、本当に執拗にやるのだ、この人は。
 そこに生まれる滑稽は読者に笑いの心情をもたらすが、その笑いは鼻で笑うような軽侮とは無縁である。その笑いは、どこかしら読者自身の意地の悪い部分に繋がっている。そしてその笑いは中島氏ではなく、中島氏に直接憤られた施設や店の人に向かう。その先に僕たち自身が属している社会というものが存在しているのは言を待たないだろう。
 そういう滑稽さを感じさせる部分が希薄なのは、入門書としては惜しいと思う。
(2005.3.9)


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『ぐれる!』
 (新潮新書
 2003年4月刊)

●ぐれて生きろ


 椎名林檎氏の『警告』という曲は次のような歌詞でクライマックスを迎える。
 「嘘はつきつかれるもの あなたはそう笑うが 間抜けなアタシをはじめ不可能な人種もいる うまく前に進めずに 不器用に倒れるなら 起きあがる道具ひとつ 持たないで死んでゆくわ」
 「バカにしないでって言いたい」という台詞で終わるこの曲が、まさしく本書『ぐれる!』の論旨の急所を押さえているのは、まあ、椎名林檎氏ほど「ぐれ」たアーティストも少ないからなのだろう。

 中島義道氏についての説明は、前にも書いたことがあるのでひとまず省く。ただし、本書はそのコンパクトさもあって中島氏の思想的営為の一端をしかあらわしていないと思うので、できれば氏について通り一遍の知識くらいは持ち合わせておいた方が、書かれてある内容についても理解しやすいのではないかとは思う。
 カバーの折り返しにもあるように本書は「自分の置かれている理不尽をまっこうから見据えて、それを噛み締めながら生きていくしかない」から、「『ぐれる』ことこそが正しい生き方だということを、初めて、かつ徹底的に説いた書」だ。ただし、ここには主に3つの要素が混在しているので、それをまず整理しておきたい。
 ひとつ、生きていくというのは、とても「理不尽」なことだということの再確認。
 次に、その「理不尽」に対し、「ぐれる」生き方こそが、理不尽をごまかしで糊塗することができない人にとっては唯一の正しい生き方だという主張。
 最後に、「ぐれる」とはどういうことか、まだどのように生きることが「ぐれる」ことか、という実践。

●こんなに理不尽な「人生」というもの


 この3つの要素のうち、実践については、説明するまでもない。読めばわかる。
 とはいえ、中島氏の言う「ぐれる」生き方というのは、たとえば高校時代にヤンチャしてましてとか、20代の頃にギャンブルで身持ちを崩したんですが、とか、あるいはそのまま30代で犯罪をおかして刑務所暮らしとかいうものではなく、更正もせず、犯罪をおかして社会からドロップアウトすることもなく、一生涯にわたって「ぐれ」続けるという意味合いなので、この「ぐれる」という言葉で一般に想像する状態とは、ちょっと違うかもしれないが。
 問題は、「理不尽さの再確認」ならびに「その理不尽を見据えたまま生きていくために『ぐれる』べきだという主張」だ。
 生きていくというのは理不尽なことだ、と、中島氏は延々と主張する。多分、本書でもっとも文章量が多いのは、この主張に関する部分だ。中島氏の本領発揮というべきか、いかに人生が理不尽さに充ちているか、これでもかこれでもかと説いてくれる。いや、しつこいことしつこいこと。
 まあ、いきなりポンと産み落とされて、ある者はいきなり病気だったり、ある者はブサイクだったり、ある者は貧乏だったりしつつ、どうあがいても100年がとこしか生きてはいられない。そしてまたしんどい思いをして生きている理由というのもよくわからん、となれば、そりゃ人生が理不尽なものであるのは誰も否定はしないだろう。

 でも、多くの人は、そういう理不尽に折り合いをつけて、うまくやっていく。「善良な市民」というやつになる。
 しかしそれができない人間、そういう善良な市民を見ると「こいつらバカじゃねえの」としか感じられない不器用な人間もいる。といって、社会から逸脱しきって犯罪者になってしまうのも怖い。そして、善良な市民的な価値観が嫌いなくせに、逸脱することもできない、自殺も怖い、そんな中途半端な自分も大嫌い。
 なんというか、「エヴァンゲリオン」か斎藤環氏のひきこもり分析かといった感じである。中島氏自身、一時期、引きこもっていたそうだが、そりゃさもありなんだろう。
 自分へのシバリがきつい人間ほど引きこもりになりやすい、というのは斎藤氏が説くところだが、そういう意味では中島氏のシバリって相当きつそうだ。

●ぐれるのも大変すなあ


 で、もう、そういう人はぐれて生きるしかないんだという結論になっていくわけだが、問題はそのために何をすればいいのかという部分だ。
 何というか、提示されているぐれ像が、どうも魅力に欠けるのである。そりゃそういうもんだと言ってしまえばそれまでのことながら、結構ハードルが高いものが多かったりするのだ。
 たとえば、油絵を趣味としてはじめる。で、ものすごくのめりこむんだけど、全然うまくならない。それでも全然それにめげるようすがない。そうすると、みんながその人を「そういう変な人」として認識する。そうなると、もう出来もしない目標を目指す必要もなくなって生きていきやすくなる…と、中島氏は言うのだが。それ、けっこう大変じゃないか、とか思うのだ。
 趣味を続けていくには金もかかる。金のかからない趣味というのは、実は現代社会ではほとんど無かったりする。で、うまくなんなくてもめげるようすを見せてはいけない。それでずっと続ける。なんか胃潰瘍にでもなりそうですが。
 もちろん、ハードルは高いよ、難しいよ、というのは中島氏も何度か書いていることなのだが、うーん、正直言って、僕自身はそこまで努力してぐれたいかというとそうでもないかなあと。
 いやはやぐれて生きていくのも大変ですな。
(2004.10.13)


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『ぼくは偏食人間』
 (新潮社
 2001年8月刊)
 中島義道の名を聞いたのは、少なくとも意識的にその名へと注目したのは永江朗の『批評の事情』で名前を見かけてからのことで、これは必ずしも僕が世辞に疎いからというだけの理由にとどまらないと思う。つまりは中島義道の知名度というのは、今、そういう「知っている人は知っているしわりと好きな人も多いんだけど」というレベルのものだということだ。
 ただ、この人の名前は、今後、もっと広く知られるようになるだろうなと思う。何と言っても内容が魅力的だ。『批評の事情』は当世の論壇ガイドとしてはコンパクトにまとまってもいるし、良くできた本だが、中でも中島について書かれた項目はよくまとまっていて、その魅力を存分に紹介し得ている。

 本書では、「本来的偏食家」を自認する中島が、日記という形態をとりつつ、偏食的なものの感じ方、考え方をコミカルに述べている。
 「本来的偏食」というのは、味が嫌いだとか宗教的にダメだとか体質的に受け付けないといったものではない、と中島は言う。例えば鰻が食べられない。なぜならあの細長い形態が蛇を連想させるからだという。同様にドジョウもダメだし、そこから発展して細長い魚、例えばサンマやシシャモなどもダメになってきたそうだ。ただしアナゴはOK。というのもアナゴの原型を余りよく知らないので、料理されて出てきたアナゴから蛇を連想しないからだ。つまり、本来的偏食とは観念によって食べられないものを作ってしまうということだというわけである。(シャコはダンゴムシを思わせてちょっと引くが、エビに似ているからどうにか食べられる、というのもある。エビだって十分、ダンゴムシっぽいところがあると思うんだけど、先にエビはOK、という観念があったら大丈夫ということか)
 例えば鶏肉が好物の人でも、自分がヒヨコの頃から飼っていた鳥をしめて食べるのには抵抗がある、それを拡張して、様々な食べ物の「嫌な部分」に過剰に反応してしまい、また食べ物以外にも様々な場面で同様の「観念的にダメ」だという意識に支配されるのが、本来的偏食家だということである。
 著作『うるさい日本の私』でも知られる中島は、本書の中でも幾度となく、店先や駅で流れるスピーカーからの音声に「うるさい」と怒り、さらには店内や駅の事務室へ行って、「うるさいから止めてくれ」と抗議を行う。その際、ほとんど必ず「これを読め」と『うるさい日本の私』を置いてくるのが、合理的ではありながらどこか笑いを誘う。「言いたいことは全部これに書いてあるからここで言うよりも読んで理解してくれ」というのは非常に合理的だが、そのために常時、この人は鞄の中に自著を用意しているのかと思うとおかしさがこみ上げてくる。
 この「音の偏食」にも「白線の内側にお下がりください」はまだいいが「駆け込み乗車はおやめください」はダメというように、明快な区切りがあるそうだ。どういう区切りかは、本書を読んでいるうちに大体わかる。前者はもうすぐ電車が来るという状況に即した実効のあるものであるが、後者はわかりきったことをくどくどしく言い立てるだけで効果もないし、聞く側をバカにしているのかという気分になるかららしい。

 単に「嫌だ」と言い立てるだけの一言居士にとどまらず、しっかりとその場で抗議を行うのが、著者自身も自覚しているように「嫌なやつだなぁ」という感じで笑いを誘うところだが、しかし「大勢の人は気にしないことでも、このことで自分はこんなに不快な思いをしているんだ」というアピール以外には、もはや一般のマジョリティへの恭順しか偏食家に取れる道が残されていないという認識がその裏にあって、それがどうやら本気であるらしいところに悲壮さがにじまないこともない。
 偏食というのは、つまりは自己愛の一種だと中島は言う。「私は多くの人が好きである。だが、その人がいなければ、耐えられない人はいない。(妻や子やを含めて)「いつも肌で感じていたい人」はいないのだ。かつての自分のような「悩める青年」の観念以外は何も愛さないのだ。つまり、めぐりめぐって「自己愛」にがんじがらめにしばりつけられているのだ」という、その自己観念の縛りが厳しいのが、つまりは偏食家であり、そして哲学者というものだ。
 それゆえに、本書には、著者の日常を描いているにもかかわらず、「生きた他者」がほとんど登場しない。クローズアップされねばならないのが自己観念だからしょうがない。登場人物自体は多いが、そのほとんど全員が「1 駅員・店員・出版社の人間など中島に文句を言われる人」「2 中島の周囲にいる哲学者を志す悩める青年」の2パターンに類別できてしまう。本書の焦点は常に、その間にあって中島自身がどのように偏食ぶりを発揮し、その偏食によって何を考えたかに絞られている。
 そんな中でほとんど特権的な位置を占めているのが、別居状態にある妻と子供である。ウィーンでベランダから落ちて面会謝絶となった妻に、中島はいたわりの言葉ではなく不注意をなじる言葉をぶつけた。そのことによって、妻と息子は中島をウィーンの部屋から追い出し、家族は実質的に別居状態となる。
 あきらかに「鈍感なマジョリティ」の一員である妻の安直な鈍さに中島は怒り、若い息子の怒りにため息をつきながら、しかしそれでも中島とその妻は、共に歩める道を模索しているようだ。それは、偏食的な行動によって他人に不快感を伝えることで、哲学者とマジョリティが共存していける道をつくろうという中島の姿勢と一貫したものである。
 偏食的であること、マジョリティとの齟齬を顕在化させることは、敵を作るだけでなく、時に他者との出会いをも生み出すのだ。

 とはいうものの、僕自身は多くの人がそうであるように、街にあふれるスピーカーの音や夕方に点けられる蛍光灯の光を「無意味な情報」としてやり過ごし、むしろ「必要な情報」の方に敏感に反応する人間であって、「マイナスの情報」の方に敏感であり、また自身もむしろ敏感であろうとしている偏食家ではないわけで、正直なところ、中島義道が近くにいたら、嫌だろうなぁ、と思うのではあった。
 このへんが、哲学者と物書きの違いであるのだろうか。
(2001.12.27)


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中島義道

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