乃南アサ



『鎖』(上・下巻)
 (新潮文庫
 2003年12月刊
 原著刊行2000年10月
 文庫化にあたり加筆修正)

●四角い顔


 乃南アサは、顔が四角い。
 その四角い顔でほおづえなどついて、本書に封入されていた新潮文庫の新刊案内に写真入りで登場していた。
 仮に僕なら、こんな駄作の作者として顔をさらすのは耐え難いから写真はナシにしてくれと頼み込むところだが、そう考えないのが乃南アサ氏ということなのだろう。伊達に四角い顔をしてはいない。
 まず言っておきたいのは、この小説は駄作だということだ。
 このレビューでは、この小説がなぜ駄作なのか、その理由をみっちりとあげつらうことにする。もしも乃南アサ氏のファンの人でこれを読んでいる人がいたら、すみやかに退場するか、もしくはしっかりとこの小説の欠点を見届けてやっていただきたい。

●描写の拙さについて


 僕は、乃南アサ氏は描写がヘタだと思っている。それは風景描写にしても心理描写にしても同じだ。
 乃南アサ氏の描写には、省略がないのである。思いついたものを片っ端から書いていくだけの猿写実であって、そこに取捨選択がない。

 四人は、それぞれ布団の中に横たわっていた。仲良く枕を並べ、顔の上まで布団を掛けて並んでいるその姿は、周囲の喧噪にも気づかないくらいに、昏々と眠っているのではないかと考えたくなるほど穏やかで、ひどく密やかにも見えた。だが、それがいかにも見せかけのものであることは、室内に立ちこめている匂いと、彼らが身を横たえている布団の色が物語っていた。掛け布団の白さに比べて、彼らの横たわる敷布団の方は、いずれもどす黒く染まっており、さらに、その色は畳にまで染み出していたし、布団からはみ出ている彼らの髪さえ、束になって固まっていた。さらに、室内の至る所に血しぶきが飛んでいて、この部屋こそが凶行の現場であったことを物語っている。
(上巻p.24 第1章より)


 少々長めのプロローグに続いて、いよいよ本編が始まる、その最初の一文がこれである。
 殺人事件の4人の犠牲者の様子であるわけだが、この整理のいきとどいてなさは一体なにごとだろうか。この一文で述べられていることを順に列挙してみると、それは次のようになる。
 「4人の人物がいる」「彼らは布団の中にいる」「それぞれの布団は並んでいる」「顔の上まで布団が掛けられている」「周囲がうるさい(すでに地域の警官が来ているという説明が後ろにあるので、現場検証は始まってなくとも、それでうるさいのだろう)」「その様子は眠っているように見える」「掛け布団は白いが、敷き布団は血に染まっている」「血は畳にも染み出している」「彼らの髪も血で固まっている」「部屋中に血しぶきが飛んでいる」「この部屋が殺害の現場らしい」
 カメラワークを仮に想定するなら、4人の犠牲者のアップから入り、次第に画面が引いていくという形になるだろう。途中で一度、カメラのズームアウトが止まり、穏やかに寝ているようにも見えるという印象が入る。そののちに再びズームアウトが始まると、布団や部屋の血が、寝ているようだという印象を打ち消すことになる。

 顔の上まで布団をかぶって横たわっている4人の人物をいきなり見せられて、穏やかに眠っていると感じる人間がどのていどいるのかは知らないが、僕自身はそうは思わない。顔の上まで布団がきちゃったら、横向きになってでもいない限り、息苦しいでしょう、普通。
 それでも眠っている「ように」見えるとしたら、その原因は2つだ。つまり、筆者が普段から布団を顔までかけて寝ている人物であるか、あるいは、眠っている「ように」見えても本当は眠っているのではないということを前提として、この一文が書かれているのか。
 つまり、ここでの描写はおそらく、この4人がすでに死体であるという事実、あるいはそうではないかという推測を前提にするから成立するのである。
 確かに犯罪小説の冒頭で「眠っているように見える」人物が出てきたら、それが被害者である可能性は高いだろうが、そういう「約束事」にいきなり寄っかかってしまうのはどんなものだろうか。
 「穏やかである」ことと「密やかである」ことがどのように意味の上で違うのかもよくわからないが(辞書を引いてみたがやっぱりよくわからなかった)、流れ出した、あるいは飛び散った血の痕を敷き布団・畳・髪・部屋とひとつひとつ見ていくにいたっては、わからないどころかいたずらに紙幅を無駄にしているだけではないかと思わされる。少なくともそのことによる効果は僕には感じられなかった。
 順にカメラの焦点を移していくことでひとつひとつの血痕をクローズアップし、生々しさを出していこうということなのかもしれないが、成功している試みだとは言えないだろう。畳と室内に関する描写の冒頭がともに「さらに」で重複しているのも意味がない。

●構造の崩壊


 文章が上手かヘタだということと、作品がよいか悪いかということの間には、必ずしも正比例関係が成り立つわけではない。瀧井孝作のように、悪文であっても名作を遺した作家はいる。
 しかし悲しいかな、この小説の場合は、そもそも小説としての骨格もまたあまりうまく組まれているとは言い難いだろう。ややネタバレになるが、本作の主眼は、『凍える牙』の音道貴子刑事が冒頭の殺人事件の捜査の過程で、犯人グループに拉致されてしまうというところにある。
 主人公が非アクティブな状況で何が語られるか。
 ひとつは犯人グループにいる女性との交流だ。同じグループにいる年下の彼氏から暴行を受けていることが明らかになるこの女性を、音道刑事がどうにか懐柔しようとする。なんだかんだで職場や家庭で女性が受ける抑圧が毎回のように顔を出すのはこのシリーズのひとつの特色だが、誠に残念なことにはそうした問題の描き方が紋切り型で、それをカバーするためにひたすら描写量を積み重ねることで厚みを出そうとしている点だろう。確かに厚みは出るのだが、つまらない描写をどれだけ重ねられても、それで面白くはならない。
 語られることのもうひとつは、同じく『凍える牙』で音道刑事と組んだ滝沢刑事らが、音道刑事および犯人グループを追いかけるその過程である。割に緻密に捜査の過程を描いている割に、どうもこちらも薄っぺらいのは、基本的に警察関係者は職務に熱心で、特に仲間同士の結束が厚く、正義感に熱い、という描かれかたしかされないためだろうか。かわりに一部の悪役刑事には、必要以上に苛烈な筆誅が加えられるが、悪役は悪役でまた紋切り型なので、どうにも入り込めないということになる。
 以前からあとがきなどで乃南氏自身も書いているように、この人は警察と割に仲がいいらしく、警察内部への取材を割によくやっているようだ。ただ、それは警察をあしざまに描きにくいという弊害をも生んでいると思うので、トータルで見れば、もう警察とのパイプはひとまず切ってしまったほうが小説を書く上ではプラスになるのではないかと僕自身は思う。

 主人公が拉致監禁されるという構造は、おそらく必然的に2種類の面白さをその構造自身の延長線上に持っている。
 ひとつは誘拐物としての、主人公と対誘拐者側とのネゴシエーションの面白さだ。もうひとつはヘタをすれば主人公が殺されてしまいかねないという(まあ実際のところ、エンターテイメント小説で本当に主人公が死ぬという確率は限りなくゼロに近いし、読者の側もそれは了解済みだろうが)ハラハラドキドキの緊迫感だろう。
 本シリーズには滝沢刑事というもう一人の主人公がいるので、外部での捜査が描かれているが、「主人公が拉致監禁される」という構造の外側で展開されている話だということになると思う。わかりやすく言い換えれば、別に誘拐されたのが音道刑事でなくても、捜査パートは描くことができる。
 ネゴシエーションとしては、音道刑事と誘拐グループの女性とのやりとりがそれに該当するだろう。だが、遺憾ながら面白いという印象は受けない。
 それは、途中から脱出のためのネゴシエーションという目的をなかば忘れたかのように、音道刑事がその女性に同情してしまっているからでもあるし、もっと突っ込んで言えば、乃南氏がネゴシエーションを面白く書けるほど双方の心理とロジックをきっちりと考えることが出来ていない、言い換えれば頭が良くないからでもあるだろう。
 結果的にこのネゴシエーションは、なんだかドメスティックバイオレンスについての実例紹介と説教のようになってしまっていて、問題としては深刻なんだろうけど面白くはないぞ、ということになっている。

 でまあ、ここまで色々と、つまんないぞ面白くないぞ、と書いてきたわけだが、これが上下巻あわせて文庫で850ページという長さである。
 人間、これだけ長く退屈な話を読まされると、主人公に感情移入しろとか共感しろとか言われても、それは無理ってもんですぜ、と反発したくなってくる。
 で、何が起きるかというと、音道刑事がどれだけ犯人に恫喝されても、ちっともハラハラドキドキせんのじゃよ、これが。もう殺すなら殺せよ、と無責任に言いたくなってくるのだが、犯人側も腰が引けているというか頭が悪いというか、恫喝するばっかりで実際には殺さない。
 そもそも何のためにこの刑事を誘拐したのか、というあたりも「何かの役に立つから」というばかりで全く明確さに欠けるのだが、最後の解決編での投降シーンを見ても、何というかこの犯人グループは最後まで頭も度胸も存在感もなかったなあと感じることしきりである。
 言語道断なことには、せっかくのシチュエーションがなにひとつ面白さに結びつかないまま、この小説は大団円をむかえる。何が大団円か、と怒り心頭の読者は、決して僕だけではないだろうと思うのだが。
(2004.9.12)


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『花散る頃の殺人』
 (新潮文庫
 2001年8月刊
 原著刊行1999年)
 少し前に、直木賞を取った「凍える牙」を読んだわけですが、あれの主人公だった音道貴子刑事を主役にした短編集。一応、時系列が順々に流れているようなので、連作短編と呼んでもいいのかもしれないですが。

 あとがきの替わりにくっついている、もう一人の「凍える牙」の主人公、滝沢刑事と作者である乃南アサの疑似対談を読んでもわかるとおり、乃南さんとしては、この音道刑事や滝沢刑事を、キャラクターとして立てていこう、シリーズみたいにしていこう、という思惑があるようです。まぁ、それはそこそこ昔からある手法でもあるし、特に最近は京極堂の例を持ち出すまでもなくよく使われる手でもあるので、悪いことではないのですが、しかし、音道刑事は、いささかシリーズものの主役を張らせるにはキャラクターとして弱い部分があるのではないでしょうかね。バツイチの三十路でバイク乗り、という音道刑事の造形は、長編1作ならともかく、シリーズでずっとつきあうにはいささかトリッキーな部分が少なすぎるように感じます。むしろ憎々しげなオヤジという、滝沢刑事のディテールの方がアクは強いけれども魅力的である。
 そもそも、同性に好かれるタイプの女刑事にしよう、という作者の意図が、読んでいて妙に見え透いている(と感じられる)部分があるので、僕なんかは、むしろそこで引いてしまうんですが。

 収められている短編は、どれも、まぁ、すんなりと読めてしまうというか、決してつたないわけではないですが、グサッと引っかかってくる部分の少ない代物であります。一番、心に残るのは、音道刑事自身がストーカーにつけねらわれるという「あなたの匂い」だろうと思いますが、それにしたって、核になるモチーフの拾ってきかたが、ちょっとばかり意外性に欠けるというか、あけすけに言ってありふれていると思う。
 読んでいる最中は、それなりに入り込めるにしても、それで面白いかと問われると、ちょっと微妙だなという点はあるし。刑事物として犯人を捜す、という物語の定番的な構造に甘えすぎているというか、その展開でなかったら、正直読めないかな、という印象さえ抱きました。
 実際、特に事件の起きないまま、警察署の大晦日の夜を描いてしまった「茶碗酒」は、あまりに退屈だと思いましたし。
 きっと好きな人もいるだろうけど、でも、僕としてはちょっと採れない1冊かな、という感じです。
(2003.2.19)


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『凍える牙』
 (新潮文庫
 2000年2月刊
 原著刊行1996年)
 いろいろな角度から受け取ることができると思う作品ですが、とりあえず、「リーサル・ウェポン」のような、いわゆるコンビ刑事ものというとらえ方で間違っていないと思います。
 都内で起きた人間炎上事件から端を発する、一連の連続殺人に、30歳バツイチの女性刑事音道貴子と中年で昔気質の滝沢保のコンビが迫る。途中までは滝沢の女性に対する偏見などもあってとても悪かった仲も、次第に互いを認め、尊敬するようなものに変わっていく。
 絵に描いたようなコンビものの骨格に、ジェンダーに基づいた女性差別を絡めて前半部分を読ませ、後半は次第に明らかになってきた犯人像を追いかけつつ、コンビ仲の話を解消してストーリーが煩瑣になるのを防いでいます。そのへんの組み立ては、いささかありきたりながらも、なかなか技があると言って良いでしょう。
 ただ、いかんせん、話の中身に比して長い。おおよそ500ページもかけて書かれるべき作品じゃないと思います。人物描写や話に厚みを持たせるためのエピソードは、割に丁寧に書かれている印象を持ちますが、そんなに一から十まで書かれると、特に貴子の妹の智子が出てくる周辺は、ドラマの脚本を読んでいるような気分になります。そして、それだけ丁寧な描写から、何か浮かび上がってくるものがあるかというと、僕にはなかったんですね、これが。
 展開はそこそこ巧みで、人によっては「あのシーンが良かった」というような思い出を本書の中から汲み取ることができるかもしれない。人によっては「この一冊」になれるかもしれない、というくらいの価値はある本です。
 しかし、高校も卒業しているなら、そろそろこの内容では喰いたりなさを感じてもいい。音道と滝沢のやりとりは、たしかに丁寧に書かれているが、最終的にその齟齬の解決策が「長くつきあうことによる互いの理解と慣れ」というのではあまりに陳腐ではないか。真犯人に対する貴子の心情はいささか唐突すぎてとってつけたような印象を受けはしないか。貴子の膀胱炎の話は、序盤のアクシデントとして登場した後、ラストのチェイスシーンでは完全になりを潜めるが、それでいいのか。
 作者の誠意というのは、見てとれると思うんです。ただ、作家としての誠意が「丁寧に書く」ことだけだと、乃南さんが思っているとしたら、もうちょっと「よく見る」ことにも重点を置いてもらいたいと思う。
 表紙裏の作者紹介では「巧みな心理描写が高く評価されている」とのことですが、これを「高く評価」しなきゃならんというのは、ちょっと小説界全体で考え直さないといけない問題じゃないでしょうか。
(2002.7.27)


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乃南アサ

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