レイ・ブラッドベリ



『火星年代記』
 (ハヤカワ文庫
  1976年3月刊
  原著刊行1950年)

●SF的なるものの源流


 SF界のスーパースター、ブラッドベリの代表作。
 火星への人類の移住というトピックにしたがい、26本の短編をそれぞれの起きた年代順に並べての年代記、という構成に、マイク・レズニックの『キリンヤガ』を思いだしたが、まあこれは深く考えなくてもレズニックの方がブラッドベリへのオマージュを込めているのだろう。
 ブラッドベリの作品では、多分、これと『華氏四五一度』あたりがもっとも有名なんじゃないかと思う。あとは大槻ケンヂ氏が好きだという『太陽の黄金の林檎』あたりか。
 中学生の頃、星新一の洗礼を受けたクチで、ブラッドベリの名前は星氏の書いた文章で初めて見たのだったと思う。真鍋博氏による焚書のイラストが添えてあったような気がするので、多分そこでは『華氏四五一度』の方が名前があがっていたんじゃなかったかと思うが、単に順番というものではあるだろう。遅かれ早かれ、『火星年代記』の名前を聞かないわけにはいかなかった。
 最初の短編「ロケットの夏」は1999年1月を舞台にしている。すでに過去だ。でもこの作品は最終話の「百万年ピクニック」が舞台とする2026年10月を過ぎてもずっと読まれ続けていくだろうし、あるいは人類が火星に到達し、テラフォーミングが終わっても読まれているかもしれないと思う。

 それにしても、『キリンヤガ』を思いだしたから言うわけじゃないが、本書を読んで、あ、あの作品に似てる、と思わない人がどれだけいるだろうか。
 パクリとかなんとかではなく、それだけこの本が、日本のSF者に愛されてきた証拠だと思う。
 火星にたどり着いた地球人の探検隊が、火星人の人々に「地球から来た」と告げるものの精神病院に入れられてしまう「地球の人々」や、すでに主人は死んでいるのに変わらず朝食を作り、目覚ましを鳴らし、掃除をし続ける、すべてがオートメーション化された家の様子を描く「優しく雨ぞ降りしきる」は、他ならぬ星新一氏のショートショートによく似たものがある。
 「沈黙の町」も、星新一氏の作品で読んだような既視感があった。
 わずかに残った火星人の地球人老夫婦との交流を描く「火星の人」や、人々が地球に帰ってもなお火星に残った一家を描いた「長の年月」に、手塚治虫氏の『火の鳥』を重ねて見る人は多いだろう。
 もちろん、月面基地前制作のギャルゲー『ロケットの夏』のタイトルも、この作品の第1話から取られてるわけだし、きっと探せばもっと出てくる。
 でもそれは、この『火星年代記』という作品が日本のSFの土壌にいかに馴染んだかということの証明であり、もっと端的に言えば、かつてのSF者がめざしたのはまさにブラッドベリが立っていた地平だったのだということを物語っているのだろう。
 これがどう考えても剽窃ではないというのは、星氏など、けっこう色々な文章でブラッドベリを紹介していることでもわかる。どこのバカが自分がパクった作品をわざわざ紹介したりするものか。つまり星氏たちは憧れたのだ。ブラッドベリのような作品を書きたいと願ったのだ。結果として星氏はブラッドベリとはまた違う独自の地平にたどりついたわけだが、その根っこにあった願いはたしかに一端でブラッドベリを志向していたのである。

●テクストの詩魂


 どうしてブラッドベリがここまで愛されるのか。皆が言うことだとけれど、やっぱりその秘密は作品に流れているポエジーだろう。
 SFというジャンルはその内に科学を抱え込んでいる。それが擬似的なものであれ、どっかでハッタリをきかせているものであれ、そこにはロマンはあるけれどもポエジーはない。どっかから持ち込んでこないことには。でもどこから?
 SF的な背景でポエジーを語ることはできるかもしれないが、それはSFではない。そうではなく、あくまでSFでありつつ、同時にポエジーをそこに込めなくてはならない。そしてそのためには、テクストにこそ詩情をこめなくてはならないのではないか。

 ひとときはオハイオ州の冬だった。ドアはとざされ、窓には錠がおり、窓ガラスは霜に曇り、どの屋根もつららに縁どられ、斜面でスキーをする子供たちや、毛皮にくるまって大きな黒い熊のように凍った街を行き来する主婦たち。
 それから、暖かさの大波が田舎町を横切った。熱い空気の大津波。まるで誰かがパン焼き窯の戸をあけっぱなしにしたようだった。別荘と灌木の茂みと子供たちのあいだで、熱気が脈を打った。つららは落ち、こなごなに砕け、溶け始めた。ドアが勢いよくひらいた。窓が勢いよく押しあげられた。子供たちは毛織の服をぬいだ。主婦たちは熊の仮装をぬぎすてた。雪がとけ、去年の夏の古い緑の芝生があらわになった。
 ロケットの夏。そのことばが、風通しのよくなった家に住む人々の口から口へ伝わった。
(「ロケットの夏」より。下線部は原文では傍点)


 訳者の小笠原豊樹氏の仕事をたたえるべき部分もあるとは思うが、ロケットの発射による膨大な熱がオハイオ州の冬をいっしゅん夏に変える、その情景をあらわしたこの文章は、もはや詩と呼んでもいいと思う。1段落目で閉塞のイメージが並列され、2段落目でこんどは開放のイメージが並列される。その鮮やかな対象を「ロケットの夏」という言葉が包み込んでくる。
 これはもう詩のテクニックですよ。SFには詩情こそが必要なのだと無言で訴えかけてくる。このテクストの詩情こそが、読者をしてSFに希望を抱かしめる。
 でもそれができる作家は少ないんだよなぁ。ブラッドベリはそれをとてもうまくこなすことのできる数少ない作家の一人だろうと思う。もちろん文章表現上のテクニックだけではなく、その構成においてもだ。
 地球を飛び出して別の星に到着し、冒険をし、火星人という存在を知り、彼らが滅んだにひとしいことを知り、火星に都市をつくり、大規模な移住をし、そんな騒がしい数十年の後、最後に訪れる孤独は、特定の登場人物ひとりのものではなく、地球人という概念自体に覆い被さってくる。
 科学考証の面では色々とそれで大丈夫かというところはあるけど、それでもこの魅力は抜きがたいものがある。
 アシモフだったりクラークだったりハインラインだったり、そういう正統なSFに憧れたであろう星氏をはじめとする先人たちは、それでもやっぱりこうしたポエジーが小説には必要だと思ったんじゃないだろうか。

 地球を飛び出し、新天地を求めて旅立った地球人たちは、火星へ到達し、テラフォーミングの末、結局そこに地球の似姿を作ってしまう。
 その愚かさをよく伝えているのが、宇宙港近くにホットドッグスタンドを開こうとする男の話「オフ・シーズン」だろう。その愚かさは、より大きな悲劇と源を同じくしている。そりゃシャアも地球の重力に魂をひかれた愚民どもを粛清したくもなるわ。
 でもその愚かさにはやっぱりポエジーがあって、それはどこかで、読む者の心に地球人という存在の哀しさを響かせて、それを波紋のように広げていく。
 その波紋が、かつては(今も?)SFというジャンルの可能性を信じさせてもくれたのだろう。その波紋こそが、現在にいたるまでのSFを底流で支えているのだ。
(2005.10.17)


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レイ・ブラッドベリ

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