佐藤春夫



『田園の憂鬱』
 (新潮文庫
 1951年8月刊
 原著刊行1919年)
 佐藤春夫という小説家・詩人について、現代の読者がどこまで知っているかというと、これはかなり怪しいような気がします。まず、名前にインパクトがないね。「おっと、文学者だな」という感じのいかめしさというか、得体の知れなさが、「佐藤」にも「春夫」にもない。まぁ、パッと見て、名前をいきなり憶えられない、という点では、小島信夫なんかといい勝負です。
 これ、受容という面から考えるんなら、割と重要なことだと、僕は思います。というのも、現代、少なくとも1960年代以降において、文学者の名前とまず最初に出会う場面はどこかと言ったら、多分、教科書の中だと思うんですよ。教科書の中だから、あんまり深く興味を持って見てない。
 そこで「夏目漱石」「芥川龍之介」「佐藤春夫」と並んで出てきたとしたら、そりゃ、漱石や龍之介に目がいくでしょう。もっとはっきりした例で言ったら、武者小路実篤。武者小路と佐藤春夫だったら、日本文学を語る上では佐藤春夫の方が重要だと僕は思うんですが、作品も何も知らない状態で最初に名前を目にして、記憶に残るのは、まぁ間違いなく武者小路の方だと言っていいと思う。
 いや、受容というのはそういうもんなんですよ、まず興味を持つところから、全ては始まっていくんだから。
 で、くどくどと何を語りたいのかというとですね、僕は佐藤春夫のことをあんまりよく知らないよ、という前置きがしたかったわけです。

 佐藤春夫と言えば、昭和初期には「門弟三千人」と言われるほどの(実際にそれだけいたわけではないそうですが)大家をなした人物。それをよく知らないとは仮にも文学屋としてそれでいいのか、との声が聞こえてきそうですが、実際、大正期を専門にやっていればともかく、昭和とかをやっていると、名前は頻々と聞こえてくるんだけど、そこまでよく知らないで通り過ぎてしまうことのできる人物ではないかという気がします。
 これが、よく比較される谷崎だとそうはいかない。
 ということの原因には、活躍時期の長短ということもあるだろうけれども、あるいは佐藤にはそれだけ、長く人々を惹きつけ続けることができないだけの弱点もあったと考えていいんじゃないか。

 妻とともに農村の一軒家に引きこもって精神の恢復を図る若き文学者を描いた、この「田園の憂鬱」。
 当時の時流からは完全に離れていると言っていいし、プロレタリア的な物からは対極にある(農村的エゴに対してはむしろ嫌悪感があるようで、このへんは太宰を彷彿とさせるものがあります。というか、太宰も佐藤の教えを受けてるんでしたっけか)。実体験を元にしていると言いながら私小説ともちょっと違う。
 当人にとってはそれなりに深刻な悩みを主人公が持っているんだけれども、その中に私小説のようにドロドロッと入っていかないで、一歩外側で、その恢復を眺めている、余裕のようなものがある。
 この、ちょっと貴族趣味的なところが、その天性の詩的言語センスのよく発揮された文体の魅力とも相まって、当時の文学青年達を魅惑していたわけですが、ただ、それは一作ならそれでいいんだけども、あんまりそこから深みが出ていくものではないような気がするんですね、本質的な部分で。また春夫自身も、ひとつの問題に深く入っていく、という才能はあまり持ち合わせていなかったんじゃないかと思える。
 後には、谷崎の奥さんを弟分である自分が寝取ってしまうという、かなりドロドロとした人間関係の中に自ら身を置くことになるわけで、その中で有名な「さんま苦いか塩っぱいか」の詩が歌われることになるんですが、この詩の中にあるような、人間の救いきれない悲しさや熱情が、少なくとも「田園の憂鬱」の中には、希薄である、というか、全然無い。
 そして深入りする才能というのは、谷崎との事件の後でも、あんまり獲得されなかったのではないかと思えるのです。
 けだし、幻聴や幻視まで味わってしまう「田園の憂鬱」の主人公について、終わってみれば、その恢復の幸福さばかりが胸に残るというのは、春夫のそうした資質の故であるのかもしれません。そしてそれが、引きずり込まれていくような牽引力の欠如ということにもつながっていくのでしょう。
 とはいえ、その輝くような文章に接するだけでも、本書を手に取る価値はあると思います。感化されすぎてもいけませんが、できれば10代のうちに読んでおくべきではないでしょうか。
(2002.12.23)


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佐藤春夫

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