斉藤環



『社会的ひきこもり 終わらない思春期
 (PHP新書
 1998年12月刊)

●忘れかけてた


 ちょっと前に読んだ本なのだが、実は内容をあんまりよくおぼえていない。というか、読んだということさえ忘れかけていて、ここのトップページの「読んだけど感想まだの本」に名前を書いていたから、かろうじてそれを思いだした、というくらいのものだ。
 どうしてこんなに印象が薄いのか。お前がアホやからや、という回答は、先生、三角しかつけられないぞー。
 まあ、僕がアホだから、というのももちろんあるには違いない。でも、一応もうひとつ正解が用意してあって、それは「他にも斎藤環氏の引きこもりに関しての著作を色々と読んだから」というものだ。
 やっぱりお前がアホなんやないか、同じ著者、同じテーマの本を何冊か読んだときに、その差異に注目せずに反復している内容ばっかり見ててどうすんねん。という批判はおありのことと思うが、でもこの本に関しては、その批判はなかば当てはまらない、と思う。
 たとえば『OK? ひきこもりOK!』におけるいくつかの対談とか、『博士の奇妙な思春期』のいくつかの文章は、そのまま本書の内容を発展させたものだからだ。つまり、こっちが根っこであって、それを社会評論へつなげたり、臨床の観点から述べたり、あるいはオタクというテーマとくっつけたり、色々な形で発展させたところに、現在の斎藤環氏の著作活動は位置している、と考えたい。
 そして、そう考えると他の著作との差異として、本書がきわめて臨床的な観点、実際に治療にあたる医者としての視点から書かれているということが重要なポイントとして浮かび上がってくる。
 これは以前にも指摘したことではあるが、現在の斎藤氏の広範な著述活動を支えている基盤にあるのは、臨床医として実際に患者と接していることからくる豊富な経験なのであり、その基盤への斎藤氏自身の信頼というか自信というか、それがあるから著作が多様になることをみずからに許せるのだろうと思うのだ。引きこもりをネタに、引きこもりという個人を取り巻く社会状況を論じるなんてキワモノじみた芸当を斎藤氏がこなせるのは、何よりも「帰る場所」としての現場があるからだろう。

●症候群としての「ひきこもり」


 …なんかもっともらしいことを書いて、何となく話が落ちた感じになってしまったが、もうちょっと書く。
 精神医療系の本には、実際の症例と治療例が、そのままか、あるいは適度にリミックスされたりしてぼかしてあるかは問わず、実践として紹介されているケースが多い。しかし本書はあえてそうした形をとらず、数多くの臨床経験をもとに「ひきこもり」をどう定義するかという理論面に多くの筆を割いている。
 「ひきこもり」自体は疾病名では明らかにない。そのことは、他の精神疾患が原因でひきこもり状態になることもある、という点からも類推できるだろう。むしろある種の症候群(シンドローム)として現象しているととらえるべきなのだが、問題は、この症候群が、斎藤氏の実感としては増加しているらしい点だ。
 それ自体は疾患ではないが、症候群としてみればそれは増大傾向にある。
 その原因を斎藤氏は、「ひきこもりシステム」とも言うべき構造が、個人を取り巻くようにして成立してしまいやすくなっているからではないか、と推論している。
 そしてまたそれは限度をこえれば明らかに治療を必要とするものとなるのだから、推論の妥当性はともかくとして、精神医療の分野の中での位置づけと対処法の確立が必要なのだ、というのが本書の言わんとするところだと言っていいだろう。
 以後、実践としてどのような治療が効果的であるかの所見が続くのだが、治療法とかになると一般読者にはあんまり面白味がなかったりするので感想は割愛。
(2005.12.29)


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『博士の奇妙な思春期』
 (日本評論社
 2003年2月刊)
 この本は何と言ってもこの表紙でしょう。ぽーじゅ氏によるろぼしょた画なんだけども、いやぁ、エロいって。反則。
 リンク先はamazonの表紙スキャン画像なので、いま一歩きれいに色が出てないけど、そっち方面に免疫がある人ならこの表紙のためだけにでも1800円は…さすがに高いか。しかし、いずれにしても、かなり内容を喰っちゃった感のあるインパクト抜群な表紙です。これ、本屋で平積みになってるところを買ったけど、表紙を見て引きこもりその他の精神医学に関する本だと想像するのは、なかなか至難の業っぽい。
 斎藤環氏の著者名、並びにオビのアオリ文句で買っていかないと。

 さて、表紙のことばっかり書いていてもいささかあれなので、中身についても触れていくことにする。
 『OK? ひきこもりOK!』とは違って、本書は、特に主題を決めずに書かれた文章が12編収められている。それぞれの文章の初出は雑誌「こころの科学」。
 専門誌であるので、専門性はゼロではない。けれども連載なので、もちろん論文とはちょっと違う。共通するテーマのシバリがゆるいので、苦肉の策として「思春期」という大枠を書名に掲げたかな、という印象だ。
 ということで、斎藤環氏の著者名と表紙、オビのアオリで購入を決めるタイプの本であると述べたが、「戦闘美少女の精神分析」と表紙絵から、オタクがらみの精神分析本だと想定してしまうとすってんてん。オタクがらみの話もないわけじゃないけど、リストカットからヤマギシ会のマインドコントロール、境界例の減少、精神医学界での思春期患者を対象とした医療のあり方についてと、実に多様な形でテーマが提出されてくることになる。
 高岡健氏との論争文なども含まれていて、そこには『OK? ひきこもりOK!』への感想でも述べたごとき、一現象であり症例である「ひきこもり」を、実際の患者や施療の場面を離れて隠喩的・思想的にとらえることへの、やや戦略的な反感などが如実にあらわれている。しかし、一読者としての僕の興味は、やっぱり、オタクのセクシュアリティをあつかった第2章、ポケモンの意味を精神分析的にとらえた第4章などに向かうのだった。

 今は少し沈静化しているように見えるが(僕の視野が狭いだけであれば申し訳ない)、4〜5年くらい前から、「萌え」というのがどういうものなのかを考えよう、定義しよう、という動きが、斎藤氏や、東浩紀氏らを中心として、オタク業界の中で注目されている(あるいはそうした時期があった)。
 こうした「オタクのメンタリティがどういうものなのか考えよう」という動きは、自我・自己言及性をひとつのテーマとした「エヴァ」後に、その同じムーブメントの中から起きてきたものと僕自身は認識しているが、オタクのセクシュアリティを扱う第2章などもまた、この一連の動きの延長線上にあると考えていいだろう。
 今、こうしたムーブメント自体の当否を問うても仕方がない。しかし、さしあたってその中で、オタク絵は非常に記号的要素(ネコミミ、メガネ、ロリ、メイドなど)が強く、「萌える」とはその記号の要素をひとつのとっかかりにして、ファンとしての思い入れを構築することである、といった議論がなされていたことは踏まえておいてよい。
 それを踏まえた上で、斎藤氏は、榎本ナリコ(野火ノビタ)氏の発言を引きつつ、萌える対象が「図柄の記号性」であるのは男性のオタクに特有であるとし、それはオタクに限らずすべて男性の側が、欲望するにあたり、自分のポジションを定めなくては欲望しがたい、すなわち「ペニスの位置と方向性が定まらなければ、男性はみずから欲するものとすら向きあえない」存在であるからだとする。
 一方で女性のオタクの場合はどうかというと、ヤオイに顕著であるように、「図柄の記号性」ではなく、「キャラクター同士の位相」(つまりは「攻め×受け」とか「鬼畜」「甘甘」などの関係性)の方が重要である。というのも、その関係性の中で真に重要視されているのは抽象化されたファルス(男根)であり、それは斎藤氏の言葉を借りるなら「関係性そのものに宿るファルスの位置」であるからだ。女性はまずファルス(男根)を持たない「欠如した主体」であり、それゆえにペニスを手に入れようと希望するのだが、と同時に彼女は自然界においては「欠如した主体」としてしか存在できない。それゆえにまずヤオイの世界では女性の登場人物は徹底して排除され、その上で、「関係性そのものに宿るファルスの位置」のみをとっかかりにして、演じられる同性愛のどちらにも感情移入できるからだ、ということらしい(実はこのへん、僕自身もいまいち理解が及んでないので、間違っていたらスマン)。
 そのうえで、この非対称な男女それぞれの欲望のハイブリッドな形としてショタがあらわれてくる、という構図を斎藤氏は描く。

 ただし、こうした欲望は、それが虚構化である限りに置いて、すでに性欲というよりも所有欲である。それゆえに、オタクは、その愛好する作品がいかに性倒錯に見えようとも、(少なくともそれだけでは)性倒錯ではない、というのが、斎藤氏がひとまずの結論として、上に述べたような見取り図から導き出す答えである。
 本文中にも明記されているように、これがチャイポル法の無根拠な法制化に対するカウンターとして機能してくれるなら、まぁ、僕としては文句はない。
 細かく見ていくと、「うん?」と思ってしまう箇所もないではないが、そもそも自分を基準にしてみているという、偏向した僕の読み方による部分もあるだろうし、精神分析という手法の限界もあるわけだから、それを言うよりも、ひとつの試行として高く評価していきたいと思う。
(2003.12.14)


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『OK? ひきこもりOK!』
 (マガジンハウス
 2003年5月刊)
 基本的には対談集だと思っておけばいい。
 上野千鶴子、宮台真司、春日武彦、村瀬学、東浩紀ら各氏と、斎藤環氏との、ひきこもりを巡る対談が250ページ。新聞やネット上で連載した時評が50ページくっついてくるものの、まぁ、「オマケ」の範疇を出ていないと思う。
 『博士の奇妙な思春期』を続けて読んだのでよりはっきりと見えてきたところもあるにせよ、斎藤氏の発言の立脚点は、この対談集を通読すればおよそはっきりと見えてくるところではあるまいか。
 まず、臨床医であること。ついで「ラカン萌え」であること、続いて精神分析を用いること、最後にひきこもり者への理解者であること。スタンスが明確である替わりに、斎藤氏自身の趣味性とか嗜好性みたいなものは、おそらく戦略的に排除されている。
 臨床医であること、というのは、要するに実際に患者として引きこもりを見てきてるんですよ、ということに他ならない。臨床的な経験を多く持つ専門家だからこそできる発言、というのが、多く登場する。上野千鶴子氏や村瀬学氏との対談などで「自分が見てきた患者さんでは、そういう例は少ないですね」といった趣旨の発言も見られるが、こうした発言は強度が強い。
 強度が強いというのは、斎藤氏自身が自信を持って発言しているということでもあり、ここは曲げないよ、という最終防衛ラインでもあるということだ。これはおそらく、社会学や哲学、イデオロギーのダシにされることで、臨床医学としての立場をしばしば離れてしまいがちである精神医学への反省を踏まえてのことだと思う。ま、これを言うと「ラカン萌え」ならぬ「ドゥルーズ萌え」の僕としてはちょっと肩身が狭くなるが、特にポストモダン期にはそういったケースも多々あったわけだ。当時そのことにはそれなりの意義もあった。しかし、それは思想にとって意味があったということであって、それが実際に精神医にかかる者たちにとっては無関係な場で展開されていた議論であったことは認めるにやぶさかでない。
 斎藤氏が問題視しているのは、多分この最後の部分であり、たとえそれが思想的には意味のあることであったとしても、実際にひきこもり者の幸福に結びつかないのであれば、議論としては無価値だというスタンスが随所に見受けられる。「暦」「共同体意識」を人工的にセッティングすることでひきこもりはある程度解消できるとする村瀬学氏との議論に特に顕著なように思えるのは、すこし偏見の入った見方だろうか。

 臨床医して実際の事例を並べ立てるだけではどうにも進展がないので、そこに理論を持ち込んで交通整理をし、原因を探っていくことが必要となる。そこで活躍するのがラカンであり、精神分析である。
 どちらかというとラカンの理論に対してはやや愛が感じられる部分もないではないが、それでもこのふたつの理論は、要するにツールとして援用されるにとどまる。ラカンにせよ精神分析にせよ、「信者」になるのではなくて、便利なのでツールとして使いますよ、という感覚だ。なので、ここで「ラカン萌え」と斎藤氏自身が自称するのは、「ラカン信者」の対義語として用いられている可能性が高い(本書の中には「ラカン萌え」という単語は出てこないが)。その「萌え」の用法自体には、愛着度の程度とややうさんくさい感じを出すためだけに使用されているという点で、語義的にちょっと問題もあると思うが、萌え対象に対する主体の位相を表しているという意味では、斎藤氏らしい感度の高さで「萌え」という言葉を取り込んでいると判断していいだろう。

 対談集であるので、対談相手との関係もまた面白い。
 主として世代や専門分野で親近性が違っているのだと思うが、上野千鶴子氏との対談ではややしゃっちょこばっている印象なのが、同じ精神科医の春日武彦氏との対談では良き先輩後輩といった雰囲気だし、同年代の宮台真司氏との対談では気兼ねなく議論にいっているのがわかる。
 ただ、いずれの対談でも、上述のような立場が崩されないので、ということはつまり、斎藤氏自身の嗜好性が隠蔽されているままだったりするので、少しもどかしいような感触を、僕としては持ってしまった。話自体は脚注も充実していて簡明だと思うが、話が簡明であるということと、取っつきがいいということは、また別のはなしだ。
 もちろん、専門家としての発言なのだから、そこに自分自身の嗜好を介在させてしまっては良くない、という判断があるのだと思うし、それはそれでまったく正しいとは思うのだが、実際の話として取っつきにくい印象があるのも事実である。
 小説やエッセーじゃないんだから取っつきにくさなど意識するなと言われるかな。でもそうなんだからしょうがない。
(2003.12.13)


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『若者のすべて』
 (PHP研究所
 2002年7月刊)
 ゆずの『アゲイン2』ってありますやん。あれ、いい曲ですよね。歌っていうのはメロディなんだなぁ、と感じさせてくれます。歌詞で言ってることは、「がんばれ負けんな僕がついてる」という、言ってしまえばどうってことない内容ですけど、あの昂揚感あふれるメロディに乗せて歌われると、「立ち直ろう」っていう気分の時だったらかなり勇気づけられる気がします。
 まだそこまでいってない完全鬱モードの時だと、かえってうっとうしいかなって気もしますが。

 さて、斎藤環については、本当は先に「戦闘美少女の精神分析」を読んでおかないといけないと思うんですが、何につけても順番が逆転する僕のことなので許して欲しいと、まずは軽く弁解をしておきます。
 そんで、女の子の顔のどアップが表紙という、インパクト抜群な表紙の本書ですが、まずはやっぱり、そのタイトルを採用したことに対する勇気に拍手でしょう。「俺だったらそのタイトルはつけないぜ」系の、黙って俺についてこい的なニュアンスを持った不遜なタイトルは、前書きで色々と言い訳はしていますが、でもやっぱり勇気を持って踏み出さないとつけることがかなわない代物だと思います。
 本書は、現代の若者の精神とか生き方の有り様を、「じぶん探し系」と「ひきこもり系」というふたつの系統を想定することで、その二項を軸にしつつ分析するという体裁となっています。まぁ、本書の中でも述べられているように、この二項の適用は現在の40代あたりから下の世代には全般に適用できるということになっているので、あながち「若者」というだけのことではない分析になっていますが。
 「じぶん探し系」は、例えば街で言うなら渋谷。「コミュニケーション・スキルが高く、現在の対人関係の中でみずからの場所を容易に定めることができる。(中略)しかし将来に渡ってみずからの存在の核となるような根拠に欠ける」とされています。
 一方の「ひきこもり系」はというと、街で言えば原宿。「自分の関心領域の中に『自分』や『自信』を確保しているため、およそ『じぶん探し』とは無縁である。しかしコミュニケーション・スキルは、おそらく渋谷系ほどは高くないだろう」となっている。
 これは、どっちがいいとか悪いとかではなくて、現代という時代に適応して生きていくための精神の持ち方の二様なんですが、単に「じぶん探し」「ひきこもり」とだけ言われると、そういうふうには思えない部分がありますね。これは、そのあり方をわかりやすく規定するための一種の比喩であるわけですが、そっちの語のイメージが強すぎて、聞いた側の思考に影響を与えてしまう部分があると思います。
 まぁ、実際のところ、両系統の若者がどういう生きかたをとって生活しているのかというのは、所載のインタビューを読めば非常にわかりやすいと思うんですが、第一印象がかなり違ってきちゃうかな、と。

 ま、そういう問題点がないわけでもないと思いますが、読んでいると、なかなか納得させられる二項分類であります。
 例えばゆずの『アゲイン2』を聞いて歌詞にも感動しちゃう人は「じぶん探し系」。なんせ、「君が君であるために わずかな光を頼りに 僕とともに行こう アゲイン」ですから。そこで「よし一緒に行こう、私が私であるために!」と思えるのは、コミュニケーション能力が高いというか、その場の勢いで自分の位置を動かして行くことが出来る人間だということになります。
 ここで「いやいや、あんたと一緒に行ったら『自分が自分であるため』になってないがな」とか、心の中で突っ込んじゃう「ひきこもり系」というのは、本書によれば「自分の存在が空虚であるということをまず認識してそこから出発しているから、自分の位置を他者に動かされるような思考はしようとしてもできない」ということになる。
 これは、考え方の指標としては非常にわかりやすいなと思います。これが合っているか間違っているかはともかく、少なくともかなりの説得力は持っていると考えていいんじゃないか。そう考えたことで、何かが見えてくるのか、という疑問はさておくとしてもね。
 僕自身は、かなり明確に「ひきこもり系」だと思うんです。単純にオタクでもあるし、「変わらなきゃ」系の考え方をあんまりしないし。そういう感じで、自己分析をすると、色々と面白いかとは思います。自分の精神の持ち方とかについても、示唆するところは多いし。、

 ちなみに、実は本書のもうひとつの核となっている、日本人的な「キャラ」の持ち方という部分は、まだほんの思いつきという部分を出ていない感はありますが、これはかなりの注目であるように思えます。
 むしろこっちの方が、本書の意義としてこれから大きくなってくるか、という気もしないではありませんね。
(2002.3.4)


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斉藤環

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