清水義範



『行儀よくしろ。』
 (ちくま新書
 2003年7月刊)

●このタイトルで買おうと思うか


 著者が清水義範氏ということで、完全に著者買い。しかしそれにしても買い気をそそらないタイトルだ。これで小説ならカバーのデザインなんかで工夫を凝らすところなんだろうが、ちくま新書だもの。あのそっけないカバーデザインに「行儀よくしろ。」とだけ書かれたら、普通は「余計なお世話だコンチクショー」と思うもんではなかろうか。
 もともと清水義範のファンだという人以外でこの本を買う人ってどんなだろう…とか考えてたら軽く鬱になってきたので、早々に内容の説明にうつります。少なくともまともな人間の買うタイトルの本じゃないよな。それもわからないほどこの作家は墜ちてしまったのか、と思えば一抹のむなしさもあり。
 昔はホント面白い本を書く人だったんスよ?

●教育とは文化


 この本がなんなのか、というと、うーん、まあ、大枠では著者本人も言うとおり教育論ということになるだろう。ただし、教育論と一言で言って想起されるような学校教育を軸にしたあれやこれやではない。むしろ、愛知教育大卒でもある清水氏は、学校の先生なんてたいしたことない、ティーチングの理論なんかを一応、大学で訓練されているだけで、人格者でもなんでもない、変に学校を信頼しすぎないようにしよう、と言っている。
 本書の趣旨を一言で言うなら、いま、教育が崩れていると感じられるとしたら、それが学校教育が崩れているのではなくて、もっと大きな私たちの生活全体を包含するところの文化が崩れてきているのだ、という指摘であると言えよう。
 文化とはなにか。本書での定義によれば、それは狭義的に能だの歌舞伎だののみを指すものではなく、その文化圏で暮らす人の生活全体を統合するような生活様式そのものである。
 うーんと、だから電車の中で化粧しないとか、敬語は正しく使うとか、食事の時にうんこの話しないとか、葬式の時にゲラゲラ笑わないとか、メガネっ娘は温泉およびセックスの時にメガネを外さないとか、なんか途中から違ってきているような気もするけどそういうやつのことだ。

 それが最近崩れてきておる、かというと一概にそうでもない、と本書は言う。衣食足りて礼節を知る、ではないが、戦後日本が豊かになるに従い、日本文化は洗練されてきた、という点も多々ある。行列でおしあいへしあいしない、汽車なんかで席取りに汲々としない、など、昔はもっとひどかった、今はずいぶん洗練されてきたと思えることも多々ある、と。
 しかしその一方、崩れてきている箇所もある。美意識的な部分、こういうことをするとみっともないんだ、というようなところが、かなり変わってきていて、それはどうも進化しているのではなくて崩れてきているようである。たとえばどういうとこがそうなのか、という例もいくつかあげてあるが、そのへんはあんまし憶えてないし、あとで具体例を引くのでここではひかない。憶えてないというのは、新味に欠けるというか、他にも言ってる人がいることの繰り返しなので記憶に残らなかった、というニュアンスでとらえていただいて結構だ。
 若者、というか最近の人(ニュアンスわかるかな。若くなくても最近の風潮のライン上にいる人はいるわけで、そういう人)に対して、別に最近の若いモンはと言いたいわけじゃない、最近の人にもいいとこはいっぱいあるけれどしかし、という感じで配慮している箇所もある。あるわけだけど、でもやっぱりそれは、話が極論になりすぎないための配慮ないしカウンターオピニオンの部分だと思う。そういう配慮をしなきゃいけないということこそが、本書のウエイトがむしろかなり極度に「文化の崩壊を危惧する」側におかれていることの証左でもあろう。

●社会構造の変化と文化の変容


 でもこの本の場合、実は社会構造の変化ということをあんまり盛り込んでない。考えの中に入っていないわけじゃないと思うけど、社会が変わっても根本の部分で変わらないのが文化だという考えなんでしょうきっと。ただ、いくつもあげられている事例の中には、本当にそれは日本古来の文化の中に入れてしまっていいのか、という部分もある。つまり、あんまり考慮されていない社会の枠組みの変化の部分で変わってきている部分と、文化の変質というタームでとらえられる部分との区切りについて、本書には揺らぎがあると思える。

 たとえば、些事ではあるけれど、セレブに対する憧れ・崇拝とか、みんな露骨にお金をほしがることになったことに対する不快感なんかも表明されてる。このふたつは同じ系列の中にある現象としてくくられているわけだが、僕自身はそれぞれ別のことではないかとも思う。
 叶姉妹なんかはまあタレントだから別物になるだろうけど、ヒルズ族なんかのいわゆるセレブ層に対して注目が集まるようになったというのは、IT関連やなんかの新興セレブ層が積極的に表に出るようになったというだけのことだと思う。セレブがいくら注目されても、旧財閥系やなんかの昔からのセレブというのは基本的にやっぱり表には出てこない。出てくるのを避ける。出てくるのは新興セレブ層ですよ。まあ、新興成金といってもいいとは思うけれど。
 こういう人がなんで表に出てくるようになったかというと、ホリエモンなんかが代表例だろうけど、会社のキャラクターとして表に出た方が会社にとってプラスだからというのがまずひとつ。新興企業だから知名度を上げないといけないし、表に出ることでどこも似たり寄ったりの歴史の浅い企業の中では先行者的なポジションがとれるという判断もあったと思うし。それともうひとつは、かつては一般人がそうそう仲間に加われるもんじゃなかったセレブ層に、今はそれなりの技術とアイディアと運があれば一般人でも加われるチャンスがあって、セレブ層というのがかつてに比べると増えたということがある。
 もとが一般人だから、おもてに出て行くことにためらいがない。だから、セレブセレブというけれども、いわゆるかつての貴族階級にあたるようなセレブは今でもあんまりメディアには出ていない。つまりこれは、社会構造の変化による部分だろう。

 一方でお金がほしいということをみんなが表明するようになったのは、このまま生きててもジリ貧だというのをみんなわかっちゃったからだよね。清水氏が育ってきた高度成長期は、一生懸命働いて年金も真面目に納めてれば、とりあえず年とって飢え死にすることはない、というのが共通の了解としてあったけど、今はそうじゃないでしょう。自分の金は自分で増やさないと年とってから借金抱えてぶっ倒れることになりかねない時代だもの。
 日本という国は、豊かにはなってるんだけれど、「頑張れば死なない社会にはなったから、頑張って自分の生活資金ぐらいは自分でどうにかして」という形で、貧困層救済の福祉政策が縮小されている。そういう時代とか社会がいいかどうかはおいといて、だからそりゃあお金はほしいさ。
 それを、社会構造が変化したことで文化もまた変化しているのだ、と言ってしまうことはできる。でもそうだとしてもこれも実は問題を内包しているんじゃないか、とも思うのだけど。

●基準点は戦後


 その内包している問題の例のもっと顕著なのは敬語の崩れをしているくだりだろう。
 民主主義・平等主義が浸透していく過程の中で、儒教的な道徳観は廃れていった。目上の者は敬う、というような意識が希薄化していったことが端的に表れているのが、敬語を正しく使えない人が増えているという現象だ、という指摘である。そのうえで、家父長制のような極端なものが廃れるのは問題ないとしても、目上の者はとりあえず立てておく、といったようなことまで捨ててしまう必要があっただろうか。それで世の中がうまく回っている部分もあったのではないか。他人を敬うことができないというのは文化の崩壊ではないか、と本書は説いている。
 しかしこうした儒教的な道徳観が日本文化の重要なキーであったという視点は、いったいいつの時点を基準点にしてのものなんだろうか、と思う。
 本書を読んで端的に感じたのは、清水氏の規範というのは、つまりご自身が育ってきた戦後から高度成長期にかけての環境におかれているのではないか、という危惧である。

 もちろん日本には古来から敬語があり、他人を敬う文化もありはした。しかしその一方で目上の人間を揶揄するような意識もかなり根強くあったのであり、それがなかったなら宇治拾遺物語などの宮廷ゴシップを多く集めたような古典文学はなかったろうし、白河・鳥羽・崇徳上皇をめぐる誰が親で誰が子供かといった問題点が残ることもなかったろう。
 つまり実際のところ古代から江戸初期にかけては、目上の者はとりあえず口先では立てられていただろうけれども、その一方で「なぜその人が目上か」という証明を常に求めるような視点にさらされてもいたのだろうと、僕としては考えている。人の上に立つ、ということは実のところそういうことだ。他人から敬意を払ってももらえようが、他人に対してみずからの価値を証明し続けなくてはならない。価値とは、能力であり家柄であり精神のありようである。それが示せなければその人間は敬意を払ってもらえなくなり、やがて没落する。
 誰しも学校で習ったように、徳川幕府が儒教的道徳観を広く世に啓蒙したのは、すべてのトップに立つ徳川家を守り、政治体制を安定させるためだった。つまり、それまで「能力があるから偉い(目上だ)」だった価値観がここで転換されて、「偉い(目上だ)から能力がある」になったわけである。つまり、目上の人というのは能力があるのだ、という共通了解を定めることで実際には能力がない目上の人間を守ったわけだ。
 その風潮は明治になっても受け継がれ、高度成長期を過ぎて、およそ1980年代までは影響力を弱めつつそのまま続いたと考えていいだろう。1940年代の敗戦そして90年代のバブル崩壊という国全体が「大コケ」した時期にその影響力はがくっと弱まって現在に至るわけである。

 そうしたことを踏まえると、いくつかのことが見えてこよう。
 上の者はとりあえず立てる、というのは、果たして文化としてはいいことなのか。またそれは日本古来の文化だと言っていいのか。後者は明らかにNOである。敬語などによって形式上は立てられていたものが、ここにきて形式上でさえ立てられなくなったということだ。前者については判断が分かれるところだと思う。形式だけでも立てた方がよいのではないか、と思えることもたしかにあるからだ。それは個々人が判断すべきことだと思う。個人的には程度問題だろうと思うし、別に今くらいだったらいいんじゃないの、という気もする。
 もうひとつ見えてくるのは、ちょっと前にあげたが、みんなお金を欲しがるようになったのはなぜか、という問いに対してのもうひとつの答えだ。つまり、その人がどれだけお金を稼いだか、というのは、現代においてはその人がどれだけ能力があるかという問いに対するほとんど唯一の明快な尺度だから、というものである。精神のありようなどというのは、たいして人のいなかった宮廷とか小さい社会の中では尺度としてもちいることもできただろうが、現在のようにネットワークが発達してしまうとそうもいかない。結果として金持ちがどうかが、その人が有能かどうかを見る尺度として優位性を増し、絶対化してきているという側面があるだろう。
 確かにそれはいささか寂しい文化であることよなあ、とは思うが、しかしたとえば貧乏でも絵がうまい人は絵描きの間では尊敬され、寡作でも腕の立つ作家が物書きの間では尊敬されるのと同様に、やはり小さい社会の中では別の尺度も存在しているのも事実。世の中グローバル化しているのと同時に細分化もしているのである。

 まとめる。本書を読んでいると、何というか、明確には言えないのだが、主張にゆらぎを感じることがしばしばある。
 主張がぐらついているのかな、とも思ったのだが、どうやらそうではなくて、主張の基盤にしているのが著者の少年時代の社会における規範という、それ自体が相対的なものだから、現代の読者から見るとところどころで基準が甘くなったり辛くなったりしているのであるらしい。
 自分の生きた時代を根拠にせずして他にどんな手があるのか、という疑問の投げ返しは当然あるにしても、その相対的なゆらぐ基盤の上での主張というのは、いささか根拠薄弱の感を逃れがたい、と感じた。だからこの本、著者と同世代の団塊の世代の人に対してはそれなりに訴求力を持つのかもしれないのだが、それ以外の人にとってはあんまり読んで納得できる内容にはなっていない、と思うのである。
(2007.1.14)


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『いやでも楽しめる算数』
 (西原理恵子との共著
 講談社文庫
 2004年12月刊
 原著刊行2001年8月)

●どうしても嫌だったら楽しめない算数


 清水義範氏と西原理恵子氏によるこのシリーズも長い。『おもしろくても理科』『もっとおもしろくても理科』『どうころんでも社会科』『どうころんでも社会科』ときて、この『いやでも楽しめる算数』、すなわち5冊目である。
 とはいえ、僕が過去に読んでるのは実は理科編の2冊だけ。いや、なんていうか、小学生時代に勉強したことを面白おかしくマンガつきエッセイにしたのがこのシリーズなわけだが、理科が面白い、といわれるとそれなりに驚きもあるものを、社会科が面白いと言われても、そりゃ社会科は深く突っ込んでみていけば面白いでしょうよ、としか思えず、本屋の店頭で見たときも買うのを差し控えたのだった。
 僕が文系だからそう思うのかもしれないけど、理科と社会科を比べれば、社会科の方が、当然、そこに色々な物語が付随してくるわけで、それをつついていけば面白くなると思う。まあ、そこを理科でもって面白く語ったのが『おもしろくても理科』の偉かったところで、内容が高度になったがゆえにそんなに面白く語れなかったのが『もっとおもしろくても理科』の偉くなかったところといえるかもしれない。

 で、算数。
 僕自身は、算数はそんなに苦手な方じゃなかった。苦手になったのはこれが「数学」と呼ばれだしてからのことで、それまでは算数はどっちかと言えば好きだった時代もあるってなもんである。
 が、そうじゃない、根っから苦手で嫌いだという人もいるようで、「小説現代」誌上で連載中、このシリーズには、それまでのシリーズと比べてかなり不評が届いたんだそうな。「いやでも楽しめる」とタイトルではうたいつつ、本当は「どうしてもいやだったら楽しめない」ものだったらしい。ていうか西原理恵子氏そのものがものすごく嫌がってるし、途中からマンガの内容が全然本文と関係なくなってるし、でもマンガそのものはものすごく面白いしでなんだかもう。
 西原氏だけでなくて、なんか雑誌の編集部の人間にも受けが悪かったようなのだが、そうするとこれまで、ひとつの教科につき2冊ずつ出ていたこのシリーズ、算数に関してだけは1冊で終わるんであろうか。

●読み流せ、ということ


 とはいえ、そこまで算数に拒絶反応が出ない人だったら、読んでいればそこそこ面白くは読めると思う。
 ただ、あつかってるのが数字なので、できれば小分けにして読んだ方がいいのは事実だろう。いっぺんに読んでると、なんか頭の中がだんだんと沸いてくるので、精神衛生上はよろしくない。
 あと、この本で算数を勉強できるか、算数に興味が持てるかというと、そういう本ではない。僕などももう、読み終わって1週間もすれば、本書の中身が何一つ頭に残っていなかった。
 でも、それで何か問題が生じるかというと、そうでもない。そんな感じの1冊である。まあ、勉強解説系のエッセイってたいがいそんなもんだ。理解するのに頭を使わなかったものは、すぐに忘れるように人間というのはできているのである。
(2005.2.28)


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『日本語の乱れ』
 (集英社文庫
 2003年5月刊
 原著刊行2000年11月)
 誤解する人がいそうなので最初に断っておくが、短編小説集。『主な登場人物』とか『国語入試問題必勝法』とかと同様のタイトルのつけかたなので、清水義範を知っている人はきっと間違わないが、知らない人はきっと勘違いしてしまうであろう、という気がする。
 ちなみに表題作は、ラジオで「近ごろの日本語であなたがおかしいと思う表現を送ってください」と募集をかけたところ、ぢいさんばあさんから山のように投書が来て、パーソナリティーとディレクターがいちいちそれを読みながらうんざりしてしまう、というお話だ。

 清水義範は、一時、かなり楽しく読ませてもらった作家だが、最近はあまり読んでいない。
 芸風としては安定しているけれども、なんだかここ10年ばかりで、どうにもやり口がオッサンくさくなってしまった印象がある。それは作家本人が年を取ったせいなのか、僕が芸風に飽きてしまったせいなのか、いまひとつ判然としないのだが、多分後者ではないだろうと思う。というのは、今でも初期の作品を読めばゲラゲラ笑えるからだ。
 そう、端的に言えば笑えなくなった。
 「パスティーシュの名手」という輝かしい称号は今でもその輝きを失ってはいないだろうが、パスティーシュがひとつの技法である以上、問題はその技法を使ってどんな驚きを読者に与えてくれるかということであって、そこで「笑い」を提供しようとしたのなら、きっちり笑わせてくれないと困るわけだ。
 中途半端に現代社会への問題意識なんてものを覗かせてくれたって、笑えもしなけりゃ深刻にもなれない。加えてその問題意識の持ち方が通俗である。

 なんだか悪口ばっかになってしまったが、芸風としては確立されたものを持っている。そしてまたきっと面白いものを書くスキル自体は衰えていないのだと思うし、そう信じたい。
 僕としては、そういうスキルが存分に発揮されたこの人の小説が読みたいのである。
 もしもまだこの作家の小説を読んだことのない人がいたら、他の、できれば10年くらい昔の本を手に取ってみると、非常に楽しい時間が過ごせることは請け合いである。
 ただし、本書については、これが駄作であることを請け合わなくてはならないのだが。
(2003.12.4)


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『もっとおもしろくても理科』
 (西原理恵子との共著
 講談社文庫
 2000年1月刊
 原著刊行1996年12月)
 清水センセも巻末のあとがきで言っているとおり、前書にあたる『おもしろくても理科』より、ちょっと込み入ったところの話を扱っている。…の、おかげで、そもそも興味がない章はあんまり面白くなかったりする。
 ロケットをあつかった第4章と、ビッグバンをあつかった第5・6章なんかは、僕は面白く読めたけど、生物・非生物の区切りだとか、ジェンダーだとか、遺伝をあつかったりしている部分は、さして面白くなかった。というのは、そもそも僕があんまり興味を持っていないからだろう、おそらく。
 そういったわけで、これは前作のような「理科への導入書」ではない。前作でちょびっと興味が出てきたような人を対象にした「理科への入門書」と呼ぶべきなのだろう。プッチモニ風に言えば「ちょこっと興味」。…すいません。
 さて、後藤真希ことプッチモニはひとまずおいておくとして、この本のもう1人の著者である、挿し絵と言うか挿し漫画担当の西原理恵子画伯ですが、どんどん文章であつかってる理科的なテーマと離れていくどころか、最初からほとんど接点を持とうともしていない姿勢が素晴らしい。それでも、やっぱりこの漫画が随所にないと、ちょっと間延びしちゃうだろうから、この本にはこの漫画が必要なのだ。と、いうことにして、西原理恵子がどこまで計算でやっているのかというようなことにも頭を悩ませつつ、一言、「あー、面白かった」とだけ感想を述べておく。
 でも、生物科学的な部分は、養老孟司の本を読んだ方が面白い気もする。
(2000.2.15)


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バラバラの名前
 (新潮文庫
 1998年1月刊
 原著刊行1993年2月)
 エッセイ集です。過去に各種雑誌や新聞に発表した各種のエッセイを、テーマに沿って区分けし、かつ配列し直したもの。そして四谷ラウンドから同 清水義範の文体というのは、やっぱり落語に影響を受けているんだと思う。『主な登場人物』か何かの、東海林さだお(だったかな)との巻末の対談で、好きな落語家は誰かということを喋っていたが、清水先生の文体は、江戸前落語の影響を強く受けてるんじゃないだろうか。
 あの合いの手のタイミングは、関西ではなく関東の落語だ。会話に挟む地の文にもそう言った傾向はある。
 といったようなことを考えたのは、別に所載の『新作落語』を読んだからではなく、別の作品を読んでいてのことだと、強がりに書き添えておく。
(1998.4.26)


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清水義範

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