ダン・ブラウン



『ダ・ヴィンチ・コード』
 (角川文庫
 2006年3月
 原著刊行2003年)
★ネタバレ注意★

●ベタなところ来ました


 えー、もうね、あの、べったべたなところでしてね。特に映画化公開からちょっと経った今の時期にこの作品の感想を書くなんていうのは、もうベタの極地というか、似たような経緯で書かれた感想がこの世に何本あるのか想像もつかないといったような感じなんですけれども、まあそれでも読んだ以上は感想を書くのが流儀でもあるわけで。
 こうやって自分の首をぎゅうぎゅうに絞めたところで、ありきたりに陥らない感想を書きたいと思います。
 ええ、どっちかというとMなもんでガンガン自分でハードル挙げてますけれどもね。

●「真相」は日本人にとってショッキングなのか?


 この『ダ・ヴィンチ・コード』という小説が世界中(といっても欧米圏中心ではあるけど)に衝撃を与えた理由、というのは、なんだかんだ言ってもやっぱり日本人には理解できないもんなんだろうな、と思う。
 もういいかげん有名な「真相」だし、冒頭でネタバレ注意喚起もしてるから書いてしまうけど、「キリストがマグダラのマリアと結婚してて、その血脈は現在まで続いていた」というのがこの小説のキモになる「真相」だ。これを、小説ではあるけど作りごとでない歴史的真実ですよ、みたいな形で提示したことで、作者のダン・ブラウンはキリスト教の歴史に対して一石を投じた。
 それは頭では理解できるんだけれども、でもそう言われたからって、なんかものすごいショックを受けるという人は、日本人ではそうはいないんではあるまいか。キリスト教の信者の人とかはそうでもなくてやっぱりショックを受けるのか、そのへんはわからないけれども、まあ日本人というのはキリスト教に限らず、基本的に宗教としての教義と歴史的事実については別物として受け止めている人が多いんじゃないかと思う。

 これがたとえば、「お釈迦様には実は子供がいて…」みたいな話だったとしても、全然ショックじゃないでしょう。なんかよくある裏面史みたいじゃん。実際に、お釈迦様の場合は大富豪の家に生まれて、放蕩した後に悟りを開いているから、調べると若い頃には色々とお釈迦様的なイメージではないこともしているとかいう説もあるようだけど、でもそれもすごくショッキングなスキャンダルではない。単なる野次馬的興味の範疇の話でしかない。
 日本の場合は、あるいは宗教と歴史的事実とをごっちゃにするということに対して第二次大戦期なんかにナイーブな歴史があるから、そういう話にのめりこまないような土壌があるのかもしれないけど、いずれにしても、欧米の人がそう受け止めたようには、日本人はこの説を衝撃をともなって受け止められないだろうと思う。
 余談になるけれど、日本人にとって衝撃的な、ということになると、なんだかんだ言ってやっぱり天皇家かな。それもかなり近場でないといけないだろう。古代から中世の天皇家は、白川・鳥羽・崇徳あたりの横溝正史ばりに込み入った親子関係なんかを見てもわかるとおり、スキャンダルの見本市みたいなところがあるから、そこらへんは自明のこととして受け取られると思う。
 実は今の天皇には隠し子がいて、それがホリエモンだった、とか、昭和天皇は実は今の天皇によって毒殺された、くらいのことをさも真実であるように語れば、そこそこインパクトはあるかもしれない。まあ、もっともそう簡単に検証できることだと小説にはなりにくかろう。それに第一、出版社がいやがるよな、こういうネタは。

●骨組みとデコレーション1


 いずれにしても、欧米においては、本作でもっとも興味を持って受け止められたのが上記の「真相」と、キリスト教美術との関わりの部分だったことに間違いはない。確かに、本作で一番面白いのは、主人公であるラングドン教授らがダ・ヴィンチをはじめとする宗教絵画の解釈をおこなう場面だろう。これについては、日本人欧米人に関わりなくそのように受け止められるのではなかろうか。
 それは一応認めた上で、でもそれは本作の構造的本質の部分ではないよね、ということも言っておきたい。
 物語の構造を抜き出してくるには、たとえばそれが一言で言うとどんな話なのか、を考えてみればよい。本作の場合は、ルーブル美術館で起きた殺人事件に無実の容疑者として巻き込まれたラングドン教授と、被害者の孫ソフィーがフランス警察の追っ手をかわしつつ、被害者の残した、キリスト教美術にふんだんに彩られた謎を解きあかし、真犯人を追う話、といったところだろうか。
 無実の罪で警察に追われる主人公が真犯人を追う、という筋立ては、往年の海外ドラマ『逃亡者』などを見てもわかるとおり、類例のないものではない。あんまりこればかりになると食傷になってしまうので、たまにしか使えない手ではあるが、緊迫感を出すために特にシリーズもののミステリではしばしば使われる手だろう。そういえば金田一少年も犯人にされかけたことがあった。
 また、専門分野の知識で謎を解いていくラングドン教授の造形は、どことなく「インディ・ジョーンズ」を思わせる。もっとも、ラングドン教授はジョーンズ教授のように逃亡や冒険に際しての実務的能力に恵まれているとはとても言えず、そういった面では相棒のソフィーや協力者であるティービング教授に頼ることが多い。特に、このティービング教授はおいしいところを全部持っていくキャラクターで、彼が出てきてからしばらくは主人公が交代したかと思わせるほどの活躍ぶりである。

 良くできているとはいえ、目新しいわけではないお話の構造とキャラクターに魅力を与えているのは、繰り返しになるがキリスト教ならびに宗教美術と深く関わり合った「謎」だろう。本作における謎は、宗教美術に関する世界的権威であり、ルーブル美術館の館長でもあった被害者が、万一のために何重にも保険をかけて孫娘ソフィーへと残したキリスト教世界全体を揺るがすメッセージとして提示される。そうした謎の設定に無理があると感じるかどうかは人それぞれかもしれないが、これが本作を面白くしている一番の要素だと考えれば納得はせざるをえない。
 にしても完全に門外漢の人間が多いであろう読者にも図版をたっぷりとつけつつわかりやすく解説をしてくれる著者はいい人だ。いい人、という表現はおかしいかもしれないが、通りいっぺんでなくかなりしっかりと下調べをして書かれている印象の強い本作で、しっかりと素人にまで目配りして、文章でもってその美術品にこめられている作者の隠された意図やら構図上の秘密やらを教えてくれる、というのは、やっぱりいい人としか言えないのではないだろうか。少なくとも並の教師役にはできないだろう。インタビュー記事などで見る限り、けっこう、読者を突き放すような言いようの多い作者であるけれども、間違いなくこの人はすごくいい人だと思う。

●骨組みとデコレーション2


 少し話がずれたが、雑駁に言ってしまえばこの小説は、ミステリというフォーマットの上で宗教美術の講義をしてもらってるようなもんだということです。宗教美術に関する謎は、言ってみれば骨組みの上に盛りつけられたデコレーションで、実はこれがほとんどなくても話自体は同じように進めることができる。ただ、そのデコレートが非常に面白くて、この小説の魅力の大きな部分を担っているということ。
 ところが、よくできているのはデコレーション部分だけかというとそうでもない。
 ありきたりであるとは言え、このミステリ部分もかなりよくできている。読んでいて「ハリウッド映画みたい」と感じるところもあるけれど、警察に追われながらの謎解きはなかなか緊迫感があってスリリングだし、ほとんど犯人が向こうから名乗り出てくれているようなものではあるけれど、「犯人側」として描かれる修道士や司祭、黒幕といった人々の関連性なんかも終盤までミステリアスさを失わない。
 そしてその上に乗せられている宗教美術に関しての講義部分ももちろんよくできている。その丁寧さや説明の手際の良さもそうだし、何より大事なのは、ま、人にもよるんだろうけど、「どこかで聞いたような話」が出てこなかったということ。やっぱりねえ、それは大事なことだったと思うんですよ。あれ、この話どっかで聞いたな、みたいなのが出てくると、作者が調べものをして書いているという舞台裏が見えてしまうから、どうしても醒めてしまうだろうし。
 もちろん、完全な新説がどれだけあるかは、よくは知らないけど、そう多くはないと思う。まともな学説を紹介する一方で、「最後の晩餐」の一人がマグダラのマリアだった、という珍説もいけしゃあしゃあと紛れ込ませているから、その境目はさらに曖昧になる(本書で指摘される最後の晩餐の「女性」はヨハネだということでほぼ決着がついていたはず。著者もそれを知らずに書いたというよりは、フィクションないし珍説であることは承知の上で書いているんでしょう多分)。
 まあ、あくまでエンターテイメント小説なんだから、真面目に講義を聞くような気持ちで受け取る人というのもそうはいないだろうけど、ちょっと大学時代を思い出して、専門分野じゃないけどそこそこ面白い講義を一般教養で聴講してるみたいな感じで楽しむなら、これ以上ないほどのものだと思う。

●作家としての今後


 ミステリのフォーマットで宗教美術講義をして、そこにキリスト教の根幹に関わるような謎を仕込もう、というのは、かなり膂力が必要になってはくるけれど、ものすごく斬新なアイデアではないだろう。
 でも、それを実際にやってのけて、しかもそのいずれのパートでもきっちりとプロの仕事をしてのける、というのはなかなかすごい。欧米の作家らしい体力を見せつけられたという思いがする。
 一作だけ読んでもなかなかその作家の真価というのはわからないものだけど、この人はマンネリに陥りさえしなければ、なかなか注目に値すると思う。もっとも、扱うジャンルが宗教ないし宗教美術に偏るとなると、飽きられるのは意外と早いかも、という危惧がないではない。持ち味にまで昇華できるかどうか。

 ちなみに、マグダラのマリアがキリストの妻であったという「真相」について、これは僕が考えたことではなくて雑誌で読んだ批評なのだが、「娼婦として不当に貶められてきたマリアをキリストの妻として救い上げたように見えるがそうではない。娼婦という性的な存在から、妻という別の性的な存在に仕立てたところでたいした違いはなく、現在のキリスト教ではすでに認められているようにキリストの弟子としてのマリア像を模索すべきではなかったか」という意見が卓見だと思ったので紹介しておく。
 もっとも、本当にそういう話にすると、説教くさくなってかえって面白さを損なうのではないか、という気はする。ま、真面目にキリスト教に接している人の意見なんでしょうな。
(2006.8.16)


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