高見広春 |
『バトル・ロワイアル』 (太田出版 1999年4月刊) |
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ううん、色々と前評判が多くて、いささかこっちで身構えすぎていたところがあるなぁ。 内容については、すでにあちこちで紹介がされているので、普通の中学校の1クラスが政府に拉致られて、瀬戸内海の島でお互いに殺し合いをさせられる話だということだけ説明しときゃいいかと思うんですが。 42人のクラスが、最終的に2人になっていくまでの過程。読んでいくうちに、何かハリウッド映画でも見ているような感覚に陥ったのは僕だけではないと思うんです。それは、細かく断章に区切られながらクラスのメンバーが死んでいく過程で描かれる人間ドラマってのが、ことごとく、これまでにあった物語のパターンを巧く、しかしながら一歩もはみ出さずに踏襲しているに過ぎないからです。 だから、と言うべきなのか、序盤は緊迫感のあった話も、中盤から終盤へかけてダレてくる。666ページもあるんですけど、正直、僕は半分でいいと思いました。 ただ、それは僕がこの小説を評価しないと言う意味ではない。というのも、おそらくもっとも生き生きと描写されているキャラである坂持金発の存在と、そして主人公でありながらあまりにも役に立たない七原秋也の存在、それに何度も地の文で執拗に繰り返されるこの国への呪詛にこそ、この小説が持っている真価は表現されていると感じるからです。 たぶん、この作者が持っている日本への悪意というのは、かなり強烈な部類にはいると思います。とりわけ、「金八先生」の時代以降、つまり1969年生まれの作者が義務教育を受けてきた時代の日本というものへの悪意と、それに反抗したようでいながら、何のことはない、結局はエネルギーをスポイルされただけで日本の一部になってしまった自分たちの世代への悪意。 坂持が金八先生のパロディであるのはすぐにわかることなんですけれど(で、そこに70年代以降の日本への悪意が色濃い以上、映画版でビートたけしをここにあてて、名前を「北野武」にしたっていうのは、僕は間違いなんじゃないかと思います。まぁ、武田鉄也がキャスティングできなかったら相当厳しい状況になっちゃうのはわかりますが)、スポーツ優秀という設定ながらそれをいかすような活躍はしない、同級生を殺すことに絶対否定しながら、不可抗力で10人近い同級生の死の引き金となる、そして女の子には妙にもてる、という七原秋也は、金八先生で言えばトシちゃんのような、いわゆる主人公格(=抽象化・理想化のされた70年代の一般的少年)の少年ということになります。 そして、この七原を決してあしざまには言わないながらも徹底して無能に悪意的に描いたところに、作者・高見広春の悪意は存在します。無能でありながらも、最後までヒロインとともに生き残り、政府への叛逆に走り出す七原。それはまさしく、この小説を読み始めたときに誰しもが予想するとおりの結末です。そして、死んでいった川田に叛逆を誓ったはずの七原が、いずれ挫折してしまうであろうことも、実はこのエンディングの時点で、我々には予想できてしまうわけです。 いや、想像しない、きっとこの人が大東亜共和国を変えていくんだ、と感じる人もいるかも知れないけれども、そこに一抹の嘘臭さが香る。なぜならば、いかに有能だと強調されていようと、小説中での七原はきっかり無能だからです。それは、七原の隣に川田というアンチヒーローであり有能でもある男を高見が置いたことではっきりとします。 その徹底した悪意と呪詛にこそ、この小説の真価はあるんじゃないでしょうかね。でも、やっぱり長すぎると思うけど。 (2000.12.24) |
高見広春 |