柄刀一



『紳士ならざる者の心理学
-天才・龍之介がゆく!-

 (祥伝社NONNOVEL
  2007年11月刊)

 面白かった、ですね。
 ここしばらく、このシリーズもそろそろ幕を引く頃合いなんじゃないの、と書いていたわけですが、なんか今回は、以前の面白さが戻っていたような…。このまま安定期に入っていくのでしょうか。
 どうして面白かったのか、を書かないと書評にならないわけで、色々と考えていたのですが、その解のひとつとして、推理小説本来の面白さであるトリック、謎、そしてその解明に力が注がれていて、キャラクターが少し後ろに下がったバランスになっているということがあると思います。
 そうした構造は、たとえば防犯カメラに映し出された殺人と被害者の死を事細かに描写し、探偵役である龍之介は最後に出てきて、その映像が意味することおよび犯人を指摘しておしまい、という「見られていた密室」あたりにとりわけ顕著ですが、他の作品であってもそうした傾向は見てとれる。
 推理小説は本来どのように娯楽性を提供すべきなのか、みたいなことが語れるほど、僕は推理小説には詳しくないですけれども、少なくとも本シリーズに関しては、今巻くらいのバランスの方が適しているのではないかと思いました。
 これは突っ込んでいくと、柄刀一という作家がキャラクターの魅力で筋を動かしていく、ということを決して得手としているわけではない、というあたりに行き着きそうですが、まあ、そこらへんを言い出すとネガティブになっていきそうなので割愛。しかし、この人はキャラクターを描けない、という意味合いではないです。三月宇佐見シリーズとかにしてもそうですが、探偵のキャラクターを、性格としてではなくて役割としてとらえる形の作品であれば、この人の描き出すキャラクターは生き生きとしている。
 つまり、同人誌的なというと語弊がありそうですが、事件と直接の関係がない幕間の寸劇だったり前日談後日談、そういったものはあんまりうまくないんだろうと。長編になると、どうしてもそういう息抜き的な要素が必要になる部分がありますが、柄刀氏の長編で面白かったもので『4000年のアリバイ回廊』あたりで言うと、そういう幕間の息抜きが、キャラクターの魅力ではなくて、事件と直接関係のない考古学的な考察の面白さで構成されていたわけで、そのあたり、そもそもの資質の問題もあるだろうなと思うのです。

 さて、こうした「探偵役が一歩引いた」構成、アームチェアディテクティブとまで言わずともそれに近いような構成をとるために、今巻では、龍之介たちが現在進行形の事件に関わる話が少なくなっています。これは当然といえば当然で、連続殺人が起きている渦中で探偵が捜査をするとなると、そう悠長なことはしていられない。必然的にアクティブに動き回って聞き込みやなんかの調査をしていく必要もあるわけですから、どうしても探偵役が前面に出ることになりがちです。
 今巻でも、表題作である「紳士ならざる者の心理学」など、そういった事件がないわけではないですが、心筋梗塞で死亡した富豪の遺言のありかをその直前の行動から探る(しかも龍之介たちは遠方にいるために電話で東京の一美たちに指示するという形で)「召されてからのメッセージ」や、突如蘇った中年女性のトラウマから、30年前の殺人事件の真実を暴く「ウォール・ウィスパー」など、こういってはなんですが、あんまり切羽詰まっていないシチュエーションでの作品が多い。
 これは、僕としては柄刀氏がかなり意図的にそういう構造にしていると考えていいととらえています。「召されてからのメッセージ」なんて、別に龍之介たちが何かの用事で東京にいて、直接捜査に参加する形でも成立はする。あるいは富豪の住所自体を龍之介たちのいる仙台にもってきてもいい。
 それをあえて、電話ごしの捜査という形にしたのは、やっぱりそこに一定の企図を見ていいんだろうと思うんですね。
 その意図が、龍之介たちのポジションの後退というところにあったのか、単純にアームチェアディテクティブ的なものを志向したのか、他の意図なのか、そこはわかりません。しかし、それが一定の効果を上げて、面白い短編集になっていることは事実じゃないでしょうか。
 あるいは、こうしたスタイルは、地味だとして嫌う読者もいるかもしれませんが…でも、こっちの方がこのシリーズには向いている気がするなあ。
(2008.9.22)


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『空から見た殺人プラン
-天才・龍之介がゆく!-

 (祥伝社NONNOVEL
  2007年2月刊)

●まぁだまだいくよぉー!


 正直なところ、「うむ、まだ続くかぁ…」という印象がなくもないシリーズ7冊目。たぶんまだ、賞味期限切れというわけではないんだけれども、名探偵のスタイルという意味では完全に斬新さはなくなっていると思う。もちろんそれと反比例してキャラクターへの愛着みたいなものは読者の中に育っているのかもしれないけれども…、どうなんだろうなあ。個人的にはそこまででもない、以前からそんなに変化はない、というのが正直なところ。もちろん長編を挟んだことによってキャラクターがしっかり安定してきているというのはあるにしても。
 まあ、このシリーズがいつまで続くんだろうか、という話はこれまでにも何度かしてきたので、今回はそれは繰り返さないことにしよう。

 前作『連殺魔方陣』が長編だったこともあってか、今巻は短編集となっている。しかも、語り部である光章の単身赴任先、秋田を舞台にした第1章はおくとして、あとは諏訪湖、鳥羽、厳島、秋吉台と観光地を舞台にした旅情ミステリーの趣向。また変わったところに手を出したなあと最初は思ったものの、そういえばこのシリーズ、初期の頃には龍之介のおじいさんの遺言をたよりにフィリピンに行ったり、日本でもあちこち旅して人捜しをしたり、スキーに行ったり列車旅行に行ったりと、もともと主人公一行があちこちに動き回るシリーズなのだった。
 ただ、これまでは舞台となる土地柄を前面に押し出した趣向はとられていなかったし、旅行に行く割には観光地らしい観光地を舞台にすることも少なかったので、今作の趣向はそういう意味では際だっていると言えるだろう。同じ旅でもこれまでより旅情ミステリらしくなった、とでも言うか。
 いくら金田一耕助が岡山に旅をしていても『獄門島』を旅情ミステリとは言わない。それと同様、これまでの「龍之介」シリーズの多くは、いくら旅先での事件であっても、旅情ミステリとはちょっと違っていたと思うのだ。
 特に、あまり詳しく書くとネタバレになってしまうけれども、今回は第1章を除き、それぞれ、その観光地ならではのトリックが用意されていて、興趣をそそる。
 ただまあ、旅情ミステリとしてよくできている、という評価が、悲しいくらいに読み気をそそらないというのはあると思うんだけれども。

●旅の恥はかきすて -旅とミステリー-


 読んでから幾分時間が経ってしまっているため、この感想を書くに当たって、一応、何編か短めのやつを読み返してみたのだけど、読んでいる間はすごく面白いし、その観光地の自然現象や地域の特色等をうまくトリックに盛り込んであるし、犯人をはじめ登場人物の心理もそれなりに興味深いものがある。にもかかわらず、読み終わって自分でもびっくりするくらい、後に残るものがないんだこれが。
 旅情ミステリというジャンル自体、その根本原理に「旅の恥はかきすて」という言葉を含み込んでいるものなんじゃないかという気がする。旅というハレの空間の中で殺人事件(別に殺人に限らなくてもいいけれど)が起きて、そこにはそれなりに昏いものがあったりもするのだろうけれども、でもそれはあくまでハレの空間での事件だから、最終的には主人公あるいは読者自身だったりの日常生活、ケの空間にはあまり影響を及ぼしてこない。そしてそういう形が、悪いものではなくてむしろ理想的なものとして受容されているんじゃないかと思う。
 だって、嫌でしょう、「伊勢志摩湯けむりOL殺人紀行」みたいなドラマで、最後に丸の内のオフィスに戻ってきた3人組OLが、思わぬ人生の深淵をのぞき込んだ衝撃で1人は会社を辞め、1人は恋人と別れ、残る1人も人間不信になって友達関係も雲散霧消、みたいなラストシーンになっちゃったら。でも、実際に30年前の恨みが今にたたって、みたいな殺人事件に遭遇してそれを解決まで見届けたら、なんかそれなりにトラウマを負うのが普通なんじゃないかという気もする。少なくとも、「なんて哀しい事件だったのかしら…」って岸壁でつぶやいたら元に戻れる、というような都合のいい切り替えは実際にはないはずなんだけど、でもそこをリアルにやっちゃったらエンターテイメントにならないから、そこは切り捨てるわけですよね。そのために「旅」という装置があって、「旅」の空間のものは、日常の空間には持ち越さないという不文律がある。
 だから、火曜サスペンス劇場で、どんなに重たい背景のある事件が起きたとしても、最後スタッフロールで主人公の明るい家族生活みたいなのが出てめでたしめでたし、というのは、考えてみるとすごい発明だなと。あれが「もう事件のことは引きずりませんよ」というフォローになってるから安心して見てられるんですよきっと。あれがないと、残された人は…とか余計なことを考えてしまう人がきっと出てくる。
 少し話がずれたけれども、そういう旅情ミステリのフォーマットには、だから本作もきっちりと従っているんだろうと思うわけです。狙ってそうしているのかはちょっとわからないけれども、ただ龍之介たちのキャラクターが、事件というシリアスな毒を解毒してくれるからこれがシリーズとして成立するんだ、というのは『殺意は砂糖の右側に』の文庫版あとがきで著者本人が言っていることだから、これも狙いだという可能性は十分にある。

 ただ、そういうあとに残る物(余韻といえばポジティブだし、あとくされ、というとネガティブですが、どちらも含めて)のない作品になっているのが、仮に狙いであるにせよ、それ自体が正当であるのかどうなのか、というのはまた別の問題だろう。わかりやすくいえば、もともとあんまり事件の毒をあとに引きずらないこのシリーズで、さらに同様の志向を持つ旅情ミステリを試みるというのは、意味のあることなのかどうなのか、ということ。
 で、この点に関して言えば、僕は疑問符をつける。
 以前にも数はあまりないにしても、『殺意は幽霊館から』とか、旅情ミステリ風のものはあったし、あえてここで再びそれを試みるというのは、まあ、目先が変わる以上の意味あいはあんまりないのかなあと。
 旅情ミステリとしてはよくできてるよ、という前提のもとでだけど、そういう評価を下さざるを得ないでしょう。シリーズの中で重要な1冊になったという読後感はあんまりない。
(2007.5.13)


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『マスグレイブ館の島』
 (光文社文庫
  2005年6月刊
  原著刊行2000年11月)

●試行錯誤中の一作


 柄刀一氏の代表作、というと何になるのだろう。
 『4000年のアリバイ回廊』のような学問的な世界をテーマにしたもの、『サタンの僧院』『ifの迷宮』のような重めのテーマのもの、実験的な作風の「三月宇佐見のお茶会」シリーズ、ライトな「天才・龍之介がゆく!」シリーズと、比較的、芸の幅が広い作家であるだけに、これがこの人の資質がもっともよく現れた作品だ、という本来的な意味での代表作をポンと挙げるのは難しいが、ま、売り上げとか知名度という意味で言うなら「三月宇佐見」シリーズの『アリア系銀河鉄道』か、「天才龍之介」シリーズということになるだろうか。
 で、まあ、そういう代表作が産み落とされるまでには、それなりに試行錯誤があったわけで、本書はそういう試行錯誤の産物であります。
 解説の乾くるみ氏によれば、原書房から2000年に刊行された元版の帯には「慶子さんとお仲間”探偵団”シリーズ」という文字があったそうで、シリーズ化も視野に入っていたらしい。まあ、結局シリーズにはならなかった(2006年現在、続刊は出ていない、と思う)わけだけれども、それは無理からぬことだろう。だっていまいちつまんないんだものこれ。

●だってつまんない


 つまらん、と言いきってしまったからにはなぜつまらないかをちゃんと説明するのが流儀である。
 端的に言ってしまえばテンポが悪いということなのだが、もっとそこをしっかり言うとするなら、主人公である一条寺慶子を語り手とする一人称で書かれたのがそもそもの間違いだったのではないかというところに行き着く。
 慶子は本作で探偵役をつとめることになるキャラクターなわけだが、決して切れ者というタイプの人物ではない。むしろ、天然ボケというか、要はアレですよ、明るいんだけどおっちょこちょいで周りに迷惑をかけるタイプ、という、少女漫画の主人公とかでありがちな、というかぶっちゃけ月野うさぎとか月島きらりとかまあそんな感じの。
 でもこういうタイプのキャラって、語り手には向かない。なぜなら話がとっちらかるからだ。交通整理ができないからこその天然ボケなのであり、そこをそつなくこなすようではもはや天然ボケとは言いがたい。本作では、適度にボケつつもそれなりに話が流れるよう、著者が手綱をさばいているのだが、そのために天然ボケというキャラクターもぼやけている感があるし、話の流れも完全にスムーズとは言いがたいという、どっちつかずなことになっている。
 そして、最初の死体が登場するまでに180ページかかるという構成。別に、最後の最後まで死体が出ないのだっていいのだが、しかしそれならそれで別のトピックは用意されるべきだろう。そこにいたるまで、延々とのほほんとした描写が続くとなると…。個人的に、エッセーならともかく、ミステリにそういう展開は望んでいないのだがいかがなもんか。
 ついでに言うと、柄刀氏が得意とする「不可解な状況に置かれた死体」はさらに100ページほど進まないと出てこない。およそ500ページの本作において、これは導入部が過半を占めるということを意味する。単刀直入なのが必ずしも至上でないことは承知しているが、それも程度問題だろう。下手したらこのまま終わっちゃうんじゃないかと心配しちゃうくらいだ。僕自身の好みもあるのかもしれないが、導入部で読者を飽きさせてはいけない、と思う。ミステリなら最初の50ページ以内に死体が出てきてほしいし、謎解きは100ページ以内に始まってほしい。もちっとサクサクいこうぜ。

●軽く読めるとは何か


 ティータイムミステリー、お茶の時間にでも軽く読めるようなミステリーとも呼ぶべきものを書きたいと望んでいた、という文庫版あとがきでの著者の言葉を読む限り、こののほほんとした感じはあるていど意図して演出されたものなのだろう。
 それを踏まえた上であえて言うけれど、さしたる事件が起きない状況の中で女の子が何人かでくっちゃべってりゃ軽く読めるものになるか、というと、それは違うと思う。軽く読める、というのは、導入に優れているということであるはずだからだ。それはつまり、状況がわかりやすい、ということであり、その意味で言うなら「ティータイムミステリー」の名に叶うのは、むしろ『アリア系銀河鉄道』の方ではないかと思う。
 そのあたりも含めて、冒頭で本作を試行錯誤の時期に書かれたもの、と位置づけたわけだが、いかがなものだろうか。ともあれ、こういう言い方も失礼かもしれないが、同様のライトな味わいのミステリということであれば、柄刀氏にはいま現在、すでに「天才龍之介」などの他シリーズで秀作があるわけなので、本作を読む必要は薄い、と感じられた。
(2006.10.27)


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『連殺魔方陣
-天才・龍之介がゆく!-

 (祥伝社NONNOVEL
  2006年2月刊)

★ネタバレ注意★

●2度目の感想


 本書の感想を書くのは2度目になる。って書くと、どっか別のところで書評を発表したみたいに聞こえるけど、ぶっちゃけた話が一度書き上げていた感想がパソコンの不調でぶっとんだというお話。ま、再インストールのどさくさで消しちゃったのを「飛んだ」とは言わないだろうけど、いずれにしても、同じ原稿を2回書く羽目になっている。
 同じ原稿を何度も書くということは、それだけ推敲をしているのと同じで、中身が練れてもくるけれど、それと同時にテンションは落ちる。だからどうだってわけじゃないが、まあ、そういう原稿だと思って読んでください(投げやり)。

●竜之介最大の敵という感じでもない


 ずば抜けた知識量とひらめきを持ち合わせ、そしてずば抜けた天然ボケの世間知らずでもある天地龍之介を探偵役に据えた「天才・龍之介」シリーズも本作で7作目になる。第1作である『殺意は砂糖の右側に』(NONNOVEL版)が2001年に出ているから、足かけ5年にわたって書き継いでいるシリーズというわけで、作者本来の持ち味とは少し違うとは思うけれど、すでに代表作と言っていいシリーズに育っていると言えるだろう。
 とはいえ、もとが短編として構想されたシリーズなだけに、長編作品は少なく、本作が『十字架クロスワードの殺人』についでの2作目になる。これは、元が短編であるから、というのみならず、短編が書きやすく、長編が書きにくいキャラクターのせいもあろう。そういえば、『十字架クロスワード』の感想で僕は、このいかにも短編向きの探偵を擁して長編作品に仕立てるために、作者が苦心をしていることを指摘したことがあった。
 繰り返しになるので詳しく説明はしないが、「天才」という冠を背負うだけあって、龍之介は事件に出会うとほとんどすぐさまと言っていいほどの瞬発力で真相にたどり着いてしまう。これでは長編作品として書き始められた物語ですら短編にならざるをえないではないか。そこで、『十字架クロスワード』では、外界と隔絶した状況を作ることで、龍之介と事件のと出会いを極度に遅くするという手法がとられていた。
 本作ではどうか、というと、今回はそうした手練手管はとられていない。それでいて、事件との遭遇から解決まで、たっぷり180ページを費やしているのだから、もしかすると今回の事件、これまででもっとも龍之介を苦しめた事件だったということになるのかもしれない。まあ、なぜ龍之介が苦しんだか、についてはちゃんと理由が設定されてもいるのだが、これを言うとネタバレも行き過ぎかなという気がするのでそこはあえて伏せる。

●終幕へ?


 少しシリーズの中での位置づけというものについても考えておきたい。
 というのが、本作は時系列的に言うと、『殺意は青列車に乗って』の標題元となった「どうする卿、謎の青列車と消える」(ゴールデンウィークの事件という設定)のおよそ2ヶ月後、7月に起きた事件ということになっており、その後に刊行された『殺人現場はその手の中に』に収録されている一連の事件はおろか『青列車』に併録されている「龍之介、悪意の赤い手紙に息を呑む」(これは9月の事件)よりもさらに手前に設定されているからだ。
 これは、「赤い手紙」事件の最中に、龍之介が居候していた天地光章が秋田支社への転勤を命じられてしまうため、レギュラーメンバーである光章・龍之介・長代一美の3人を揃って登場させるためには、時期的にこの時期の方が都合がよかったということもあるだろう。あわせて龍之介の身辺にも変化があるため、この時期の方が設定として自然であるという判断はうなずける。
 ただ、そうした純粋に作劇上の理由の他に、どうも作者はそろそろ本シリーズの幕を引くべきだと考えており、そのため、『その手の中に』以降の事件として本作を設定すると、クライマックスに向けた流れが途絶する、と考えてのことではなかったか、という気がするのである。よく人気アニメが映画になるときに使うあの手法だ。『カウボーイ・ビバップ 天国の扉』とか、『ドラゴンボール』とか。ま、アニメにたとえなくても、金田一耕助が『病院坂の首縊りの家』の後、時間を戻して『悪霊島』なんかで復活したみたいなもんだと考えて良い。

 以前に『殺意は青列車が乗せて』の感想でも記したとおり、シリーズの特色である龍之介の天才性というのは、徐々に変質してきている。
 『砂糖の右側に』『幽霊船が消えるまで』あたりでは、博捜な雑学的・科学的・数学的知識を応用してトリックを看破する名探偵、というスタイルが非常に明確に打ち出されていたのが、『十字架クロスワードの殺人』あたりから、徐々にそのスタイルをいかすことが少なくなり、反面、龍之介たちのキャラクターが確立されてきている。
 これはどういうことか、と問うまでもなく、シリーズものにはついて回る問題であって、時代的な問題とか、はたまたネタが尽きてきたとか、あるいは探偵達のキャラが立ちすぎて、パズル的に作品を組めなくなってきたとか、様々な理由で、シリーズものの名探偵がたどるルートを、龍之介たちもまた、たどっているわけである。
 たとえば金田一耕助において、平穏な戦後復興の時代に突如亡霊のように現れる復員兵(『犬神家の一族』『獄門島』など)は、時代の変遷とともに姿を消して、代わって旧華族的な名家と戦後派の成金との下克上劇(『迷路荘の惨劇』『女王蜂』など)があらわれ、それも成立しなくなると、江戸川乱歩的な怪人(『幽霊男』など)が登場し、ついには無機的な団地での殺人事件(『白と黒』)が起きる。『白と黒』に至って言えば、もはや、戦後すぐにおいてすら時代遅れだった書生袴の金田一耕助があえて登場しなければならない必然はない、と言ってしまってもいいだろう。別の名探偵が解決したって別段問題はない。
 龍之介シリーズについては、当初のスタイルがなくなってきたのは、金田一シリーズよりももっと単純に、科学的知識を応用したトリック、などという手間のかかるものがそうそう作れるわけもなく、ネタが切れてきたせいではないかと勘ぐってしまうのだが、いずれにしても、シリーズ初期の空気はすでに衰えてしまっていると言わざるをえない。
 その反面でキャラクターの輪郭がはっきりしてきて、別の魅力が出ているという面があることは否定しないが、しかしシリーズの存在意義は薄れてきているだろう。著者もまた、そのへんについてはかなり自覚的な作家であろうという印象を受けるので、執筆期間の長さ的にも、そろそろ最後に、という意志があるものと見る。

●魔方陣と推理劇


 さて、少しは本作の内容についても触れておかなくてはなるまい。と言っても、このパートはそんなに長くはならない。これは消える前の原稿でそうだったからわかる。
 本作は、本シリーズでは既に何度か登場している亀村という大財閥の本家での晩餐に、龍之介たち3人が招かれる場面から始まる。『十字架クロスワード』で登場した、この家の分家筋にあたるアイドル歌手、下妻達臣の招きによるものだ。このあたり、長編と短編をそれなりに分けて考えて、作者が登場人物を案分しているように思われる。まあ、まだサンプルが長編2作では少ないと言わざるを得ないにしても、可能性は高いだろう。
 晩餐会の席上、列席者の一人が毒殺される。その捜査に当たるうち、この亀村家のルーツとも深く関わる「魔方陣」(足すと合計が一致する方。悪魔を呼び出すやつではない)が、テーマとして浮上してくることになるわけだが、捜査をしているうちにも、タイトルの「連殺」の文字の通り、第2の毒殺事件が発生する。

 あんまり感想でもって述べることではないかもしれないが、滅多にないことなので言っておくと、犯人さがし、読んでる最中に、最後に残る2人まではたどりつきました。残念ながら、もう一方の側だとあたりをつけてしまったけど。
 ま、だからどうだという話でもないが、動機についてはともかく、犯人の正体については割に多くの人が気づくのではないかな。だからダメだ、というわけでもなく、そこそこ面白くは読めたが、せっかく「魔方陣」という天才龍之介的な題材をとりながら、それが実際の事件と結びつく、その結びつき方には難があると感じた。
 難があるというか、まあ、結びつけづらいとは思うけれど、トリックと結びついて、それを数学的知識で龍之介がズバッと解決、というスタイルにはもうならないのだな、と。『幽霊船』の頃の雰囲気が非常に好きだったので、そこも含めて、残念なような気がしたわけです。
 さて、次はたぶん短編集で、龍之介達の境遇についての話も進展があるのだろうと思うが、最終巻になるのだろうか、それとも、その次あたりでラストか。あるいは、全然読みが外れていて、このシリーズ、もっと続いちゃうんだろうか。
(2006.9.20)


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『OZの迷宮
 -ケンタウロスの殺人-

 (光文社カッパノベルズ
  2003年6月刊)

★ネタバレ注意★

●探偵たちのバトンタッチ


 ネタバレじみたことを最初に言ってしまうと、本作には3人の探偵役が登場する。連作短編集なのだが、その途中で探偵役という役割がバトンのように受け渡されていくのだ。
 その受け渡し方が問題で、さすがにこれ以上は言えないので、あとは各自で読んでみて欲しいんだけど、まあ、僕は読んでてビックリした。
 収められている短編は、過去の発表作が3本に、書き下ろしが5本。3:5という比率は、短編集の構成としては明らかにおかしい。過去の発表作はいずれもかなり初期、1994年から96年にかけて書かれたもので、それらの作品の間を埋めるようにして書き下ろし作品が並べられている。本書が上梓されたのは2003年6月のことなわけだから、つまりこの探偵役のバトン受け渡しという趣向は、過去の発表作が書かれた段階ではなく、本書を編む段階で発想されたものだと考えるのが当たっているだろう。
 そしてその発想を現実とするために、5編の作品が書かれた。
 手の込んだ趣向と言うべきだろうが、それにしても奇想である。

 同一の主人公キャラクターを使っての連作短編は、柄刀氏にもいくつかある。代表作と見なされるであろう「天才・龍之介が行く」も「三月宇佐見のお茶会」もそうだし、『レイニー・レイニー・ブルー』もそうだった。だが、連作短編というスタイルにはこうした可能性もある、ということを柄刀氏は本作で提示している。主人公の同一性ではなく、連環性を軸にしての連作、そしてその連環によるテーマの描出。
 本書では、そのテーマが十分に読者に訴えかけるほどのものになっていない憾みもあるが、こうした手法の方向性は新しいものだろうと思う。ぜひこれからも試みてほしい手法だ。
 探偵同士の連環でなくても、たとえば犯人同士、あるいは事件同士のつながりを軸にした連作というものもありえるということになるし、そうなれば、もっと広がりのあるテーマが描けるだろうと思う。

●何が探偵を探偵にするのか


 探偵とはどうしたものか、何者なのか、というテーマへの関心が柄刀氏にはあるらしい。『レイニー・レイニー・ブルー』所載の「百匹めの猿」には、海水で芋を洗うことで芋に塩味をつけることを見いだした猿こそが探偵なのではないか、という探偵談義が描かれている。
 セレンディピティー、つまり偶然に予想外の幸運をつかむことができる才能というのは、たまたまそうした場に行きあわせ、そこでの偶然の発見をすることだけを指すのではなく、そうした偶然の発見を、発見としての体裁をなす形で見いだせる力のことをもさす。つまり、殺人事件の現場で重要な証拠を発見するということは、それが重要な証拠であると「認識する」ということに他ならない。同じものを同じ場所で見聞きしても、ある人間はそれを一回性の偶然として見過ごし、ある人間はそこに輝ける真理の道を見いだしてしまう。
 そうした形で偶然をセレンディピティーに高めうる人間が名探偵なのではないか、といった議論だ。

 2001年の段階で書かれたこの短編での議論には、ちょっと生硬なところもあるし、恣意性の高い議論の進み方をしていると感じるところも多いのだが、本書『OZの迷宮』の探偵交代劇は、おそらくはこの生硬な議論を受け、その実作の上への発展型として構想されている。
 何が人をして名探偵たらしめるのか、あるいはたらしめないのか。
 連作として本書の短編群を読んだときに浮かび上がってくるテーマはそれだ。
 芋を海に落としてしまうという偶然、それ自体は99匹目までの猿にも起きた。しかし、「芋を海水に落とした」ことと「その芋が美味しかった」こととを結びつけて考えることができた猿は、最後の100匹目まではあらわれなかった。だとしたら、それを結びつけられた100匹目の猿は、そうすることができるだけの洞察力と推理力を授かっていたのだ。そしてそうした才能が天賦のものであるとするならば、百匹目の猿を百匹目の猿たらしめ、名探偵を名探偵たらしめるものとは、それはすなわち宿命と呼びうるなにものかではないのか。

 警察の捜査に協力して難事件を数多く解決する名探偵、などという存在が推理小説の中にしか存在しない以上、こうした議論は、あくまで「推理小説」という小説形式にまつわる議論であると見なすべきだろう。
 なら、「何が人をして名探偵たらしむのか」と問われたときに「作者の恣意」とも答えることも可能であるわけだが、ここではあくまで小説世界内での議論として処理されていて、そういうメタな視点はあらかじめ排除されている。
 とはいえ、「宿命」=「作者の恣意」とも読みかえは可能なわけで、それを小説化すると、それはそれで、小説内で名探偵役がコロコロと入れ替わり可能な、エキセントリックなことにもなりうるよなー、などと妄想してほくそ笑んでしまう。まあ、実作上でやろうとすると、それはそれでけっこう難しいと思うけど。
 なにゆえに柄刀氏がこのテーマに惹かれているのか、というのが今ひとつまだ見えてこないが、作者がそうしたテーマ性をいっそう突き詰めてみるのであれば、そんな小説も読んでみたいと思わせられる。
(2006.2.27)


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『レイニー・レイニー・ブルー』
 (光文社カッパノベルズ
  2004年5月刊)

★ネタバレ注意★

●中盤の変化球


 車椅子の名探偵、熊谷斗志八を主人公にした連作短編集。
 年齢は30歳手前、スポーツタイプの車椅子、カラーコンタクトを愛用し、時にはチョーカーやヘアアクセサリーも身につける。名前と舌鋒の鋭さからつけられたという「熊ん蜂」のあだ名が垢抜けなさ250%な熊谷斗志八は、実は『ifの迷宮』の登場人物だったらしい。
 自分でも『ifの迷宮』を読んでおいて「らしい」というのもおかしな話ではあるけれども、いやあ、おぼえてないんだよねえ。こんなキャラ立ったやついたっけかなぁ?
 流行の言葉を借りて言ってみれば「スピンアウト」なわけだけれども、その言葉から感じるようなうわついたところがなくて、手堅い仕事ぶりが目立つ作品集なのは好ましい。
 キャラ自体はビンビンに立っているものの、とっつきの悪さも相当な斗志八に対置するように、ワトソン役として新人看護士の鹿野真理江を配したのもいい配慮だったと思う。彼女の好感の持てる人柄をクッションにすることで、読者としては斗志八にも親しみが持てるようになる。頼りがいはあるにせよ、近くにはいてもらいたくないタイプだなー、とか思いながら。
 そうして手堅い短編が4本続いたあとの「百匹目の猿」および表題作「レイニー・レイニー・ブルー」は2球つづけての変化球。この2作品がこの作品集のカラーを決定づけている。

●変化球概説


 「百匹目の猿」は、ワトソンである真理江が不在の作品。ゲストハウスに集まった名探偵たちが、1年前にそのゲストハウスで起きた事故について雑談のようにして語り合い、その中から真実が浮かび上がるという趣向で、夜のラウンジでの雑談というシチュエーションと、事件自体の発生からかなり時間が経った状況での推理ということもあり、途中までは切迫感のない、やや弛緩した雰囲気の中で物語が進む。
 シチュエーションも雰囲気も、いわゆるアームチェア・ディテクティブを思わせるが、本作の主人公が座っているのは車椅子であり、言ってみれば安楽椅子ならぬ車椅子探偵ものということになるか。
 語り手を務める未亡人が事故の犠牲者である亡夫とかわしたという、月という存在をめぐっての会話や、セレンディピティー(偶然のラッキーをつかむ才能)についての論議が、それぞれ事件の真相を解き明かすための伏線になっているのだが、ともに作品を底流するちょっと幻想的な雰囲気をもりたてる役割も果たしている。
 というかまあ、これがないと、トリックがちょっと浮いてしまうかなあという気もするんだけれども。

 「レイニー・レイニー・ブルー」は、訪日中の車椅子の老人が、誘拐を匂わせる状況で失踪したことから始まる一篇。
 車椅子をホテルの部屋に残して消えた老人の行方を斗志八と真理江が捜すわけだが、その老人自身が残したとおぼしいメモの謎解きという要素はあるものの、この作品は最後に、そんな謎解きを吹き飛ばすほどのサプライズが待ち受けている。
 サプライズというか、どちらかというと「こんなんアリか」という方が近いかもしれない。
 実際、推理小説としては「ナシ」なのだが、それでもこの作品が表題作に選ばれているということの意味は大きい。実際、「こんなんアリか」にもかかわらず読んでいて妙に心に残る作品であることも事実だ。

●罪の不在


 ここから本格的にネタバレしつつ、この2作品がやろうとしていることの意味について書くことにする。原稿の性質上、犯人とか真相まで書いてしまうので、それが嫌な人は絶対にここから先を読まないこと。
 推理小説において、作者のたくらみがもっとも明瞭に示される場所といえば、解決シーンをおいて他にはない。推理作家に限らず大体の作家は、自分の書いているこの小説で何を語ろうかとか、どのように構成を取ろうかとか、そうしたたくらみを持っている。そのたくらみの深い浅いはあれども、これはほとんどの場合に当てはまると考えていい。
 推理小説において解決シーンが重要なのは、そこで事件の全容が明らかになるからというだけの理由ではない。そこで事件の全容が明らかになるということは、それと対比することで、その作品のそれまでの語りが、どのように事件の真実を隠蔽してきたかが白日のもとにさらされるということでもある。ということはつまり、ここで作者のたくらみの大半が読者の目にさらされてしまうのだ。
 推理小説以外のジャンルでは、作者はみずからのたくらみをさらす義務を負わない。もちろん明敏な読者はそのたくらみに気づくわけで、それを可能にするのが読むという行為の練度なのだが、それでもたとえば「どこで作品が終わってもかまわない」と評される川端康成などに顕著なように、いきなりふっつりと物語が終わっても、それなりに体裁をつけることはできる。
 でも推理小説でそれをやってしまったら暴動が起きるだろう。謎だけ提示して答えを書かないというのは、普通、推理小説ではありえない。そして探偵が謎を解決してしまえば、作者のたくらみ自体もまたさらされずにはおかないのだ。

 で、いきなり書いてしまうけど「百匹目の猿」では、3人の殺意があきらかとなる。そして最初の2人は、明白な殺意をもってトリックを仕組むのだが、事件の被害者はそのトリックによって死んだわけではない。
 被害者の死は、直接的にはやはり事故だ。真夜中に悪夢にうなされ、飛び起きて崖に面したガラス戸に突っ込み、そして死んでしまった被害者は、しかしその悪夢を、語り手である妻によって見させられていた。
 それは斗志八も言うように、蓋然性のプランだ。もしも彼に悪夢を見せれば、そのように彼が行動する可能性が高い、とこの語り手は知っていた。でも、必ずしもそうなるとは限らないし、そうならない可能性も高い。でも、もし失敗してもリスクは残らない。
 そして実際にこうしてこの蓋然性のプランが成功したところで、この語り手をたとえば罪に問えるのだろうか、という問題は残るのである。裁判になったら、もしもこの語り手が殺意を認めて自供したとしてさえ、たぶんこの犯罪は罪に問えない犯罪だということになるのではないだろうか。
 つまりここで語られている事件には、罪と呼ぶべきものが不在なのである。それでも、たしかに真実を暴くことは犯人の断罪には他ならないのだが、罪を介して探偵が犯人を暴くのが推理小説の基本構造だとするなら、ここでは探偵と犯人を結び付けるものが不在であるということになる。
 あるいは、探偵が被害者を介して犯人を追うのだとすれば、そのゴールであるべき断罪がない、と言ってもいい。
 それを裏づけるように、本作品の解決シーンは犯人である未亡人の夢の中に設定されており、夢の中に登場した斗志八が犯人を断罪することになる。現実に斗志八が犯人を追及してしまえば、そこには犯罪として断罪のできない殺意だけが残ってしまう。時効などを理由にそうした割り切れなさを余韻として残す推理小説もあるが、ここでは罪自体の不在を印象づけるためにあえてそうした形は取られていないのだろうと思う。

●奇跡の不在


 「レイニー・レイニー・ブルー」は、構造としてはもっと過激だ。
 実はこの作品の真相は、失踪した車椅子の老人は、実はその日の朝、何の奇跡か、突然歩けるようになり、そして自分の足で出て行った、というもの。これが「こんなんアリか」なのは、探偵および読者に与えられている事件の前提条件が無効化されているためだ。「実はこうだった」で後からひっくり返せるレベルの叙述ではない。
 その推理小説としてのありなしはとりあえずおいておくとして、この作品では、罪に加えて犯人まで不在だということになる。
 犯罪だと思われていたものが実は事故でした、というパターン自体は実は昔からあるもので、ルブランが「怪盗ルパン」シリーズの中で使っていたりもする。そのこころはと問われれば、推理小説という構造の解体あるいは脱構築と答えるしかないだろう。推理小説を構成する重要な要素の中から「犯人・事件」という2項目を消し去ってしまうのだから、実際問題として、ここには従来通りの推理小説は成立しがたい。
 しかも本作の場合、真相は事故でさえないわけだから「被害者」までもが不在なのだ。残されたのは「探偵」だけで、探偵役の斗志八は孤独に車椅子のままで取り残されるしかない。
 推理小説において、探偵とはイコール犯人であると笠井潔氏は『探偵小説論序説』で語っている。探偵は推理を通じて、犯人がたどった道を再びみずからたどろうとする。その追跡が終わり、探偵が犯人と同一となったとき、謎は解明され、小説は終わる。
 だとすれば、被害者と目された老人が斗志八と同じ車椅子の半身不随者であったことの意味は大きい。見方を変えれば、この事件の犯人はこの老人自身であるとも言えるからだ。そしてこの老人はその朝、突然足が動くようになり、みずから歩いてホテルを出て行った。この老人が自由に歩けたのはその1日だけで、夕方にはまた動けなくなってしまったのだったが、老人はその1日を神意のもたらした「奇跡」と呼んだのである。斗志八は彼の足取りを追おうとするわけだが、残念ながら斗志八自身には奇跡は訪れないのである。犯人に決して追いつけない探偵は、そこで孤独に取り残されるのだ。
 個人的な主観に頼って作品の感想を書くのは危険だが、あえてそれをするなら、この作品の読後感には、老人の無事を喜ぶ安堵とともに一抹の寂しさが漂っている。その寂しさの源を、この探偵の孤独に求めることは、あながち間違ってはいないだろう。

●芸風


 勝手な思いこみかもしれないが、柄刀氏は、あんまりこうした推理小説の構造を逆手に取った脱構築みたいなことをしない人なんじゃないかと思っていた。どちらかと言えば、その制約の中で物語ることをよしとするタイプのパズラー型の作家なのではないかと。たしかに『アリア系銀河鉄道』のように、ロマンに富む、現実から遊離した設定の小説で高い評価を受けている作家ではあるけれど、それは構造の解体とかいうこととはまたちょっと違うと思う。小説の前提条件をトリッキーにするということは、構造そのものとは無関係だからだ。
 でもその考え方は間違っていたのかもしれない。こうした脱構築的な手法を得意とするタイプとはさすがに言えないと思うが、この人の芸風は読者の予想よりもかなり広い、と認識を改めた作品集である。
(2005.10.10)


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『殺人現場はその手の中に -天才・龍之介がゆく!-
 (祥伝社NONNOVEL
  2005年2月刊)

★ネタバレ注意★

●シリーズ全体の流れと今後


 「天才・龍之介」シリーズもこれで6冊目。『十字架クロスワードの殺人』では長編になったり、前作『殺意は青列車が乗せて』では短編4作と中編1作だったりしたこのシリーズだが、今回はもとのスタンダードな形に戻って、50ページ前後の短編が5作収められている。
 離島でともに暮らしていた祖父を亡くし、ほとんど何も持たずに東京の従兄弟を訪ねてきた天然系天才の天地龍之介も、いまや巨額の遺産を手にし、その遺産で子どもたちが科学に親しめるような施設を作る、そのいよいよ実地段階というところまできている。
 彼の身辺の変遷にともなって、と言おうか、キャラクター小説としてもずいぶんこなれてきた印象だ。レギュラーメンバーの掛け合いシーンもすっかり板についてきたし、またその一方、今巻では、過去の事件で出会った人々が一堂に会する、といったサービストラック性のある作品も収められている。もっとも、ゲストキャラクターがあんまり印象に残らないことが多い(短編が多いからしょうがないのだが)このシリーズで、それがどこまでサービスとして機能しているのかは少し疑問だけれども。
 こうやって長いシリーズになってくると、今後、主人公組がどのような運命をたどり、どんな落ちがついたところで最終回を迎えるのかも気になるところだ。語り部である天地光章などは、転勤で秋田に赴任中だし。
 予想される展開としては、龍之介が計画している科学館が完成し、光章が東京に戻ってくるかどうかして長代一美と結婚、龍之介もまた以前から気が合っているようすの中嶋千小夜とくっつく…んだろうか。この3点が片づいてしまえば、とりあえずハッピーエンドということは言える。ただし、光章と一美のふらふらしながら親密になっていく関係の間に、龍之介が天然でもってはさまってしまう、という人間関係の基本構造が崩れてしまうから、こうなってしまったら、続きを書くためにはもういちど人間関係を構築しなおさなくてはいけない。つまり、たぶんこのカップルがきっちりした形で成立したら、このシリーズは終わらざるをえないんじゃないかなと思う。
 まあ、あんまりダラダラと長く続いてしまうのもこのシリーズのためにはよくない気もするので、いちファンとして僕は、跡を濁さない華麗なラストを見せて欲しいところだ。

●雑学と物語構造の乖離


 ところで、このシリーズを最初に紹介したとき、「龍之介という天才型の探偵が、事件を物理や化学の雑学を応用してほとんど瞬時に解き明かす」という構造を持つシリーズであるというふうに書いたと思う。
 が、この構造が、この巻ではすでにほとんど生きていない、ということに気づく。
 たとえば1冊目の「殺意は砂糖の右側に」の表題作で用いられた雑学は、砂時計の上側部分のように、底にちいさい穴の空いた容器に入れられた粉状の物体は、実は下からではなく、上の方から順にずり落ちて穴に落ちていく、というものだった(ネタバレになっちゃうけどいいよね)。この雑学を利用して、龍之介は毒がどの部分に入っていたかを推理したわけだ。これは、雑学とトリックが見事に組み合わさった例であると言える。
 以前にも書いたように、この当時、龍之介の天才性というのは、瞬時にその場に適した雑学を引っ張り出してきて応用することができる、という、いわば博識ぶりによって証だてられていたわけだ。
 しかし、たとえば今巻の「アリバイの中のアルファベット」で披露される龍之介の天才性とは、材木を組み合わせて作るアルファベットが、実は並べ方次第で別の文字にもなる、という点に瞬時に気づいたということで証される。これは雑学ではなくてパズルである。もちろん、博識であることと、パズラーとしてその解法に気がつく知性の機敏さとは、どちらもともに天才である龍之介にそなわっている資質ではあるだろう。
 だが、そうはいってもやっぱり、これは最初に決めていた物語の構造のワクが維持できなくなって、構造をゆっくりとシフトさせたと考えるべきじゃないだろうか。以前より指摘していたとおり、いかに才能のある作家と言えど、そこまで次々と、雑学とトリックの融合を成し遂げられるものではない。その点、パズルを作品内に組み込んでおき、その解を探偵役に説明させるというのは、わりに量産がきくタイプの物語構造である。

 こうしたシフトチェンジがいつごろから始まっていたのかというのは、ちょっと同定が難しいけれど、たぶん、長編の『十字架クロスワードの殺人』のあたりで、かなり苦しくはなっていたのだろうと思う。
 その次の『殺意は青列車が乗せて』では、「どうする卿、謎の青列車と消える」は、ほぼ完全にパズルトリックものだし、「龍之介、悪意の赤い手紙に息を呑む」では、暗号解読に雑学が役立っているというだけにすぎない。暗号との組み合わせはなー、作者が恣意的に引っぱってきたデータを暗号に使えばいいだけだから、決してスマートな融合の形とは言えないと思うんだよな。
 多分、このへんをシフトチェンジの時期と考えていいと思うし、そう考えれば、「どうする卿、謎の青列車と消える」が中編として、丹念に書かれた作品であった理由もわかるというものだろう。つまり、従来とは別の物語の構造を試してみようとしたから、丹念にならざるをえなかったのじゃないかと。

●ページの汚れは殺人を語る


 えっと、なんだか感想というより当て推量ばっかりになってしまった。
 今巻だけれども、雑学とトリックとの緊密な結びつきが生む緊張感みたいなものが、いかんせん、どうしても薄れていると思う。ただ、タイトルのもとになっている第5章「ページの中の殺人現場」はなかなか秀逸。
 実際にこの本には、最初の方のページの隅の方に、何カ所か意図的に指のあとのような汚れが付けられている。第5章では、ある本についていた、血痕とおぼしき実際の本と同じ汚れが問題となるのだが、しかし被害者と思われる人物は、本が出版される前にすでに死体で発見されていたというのだ。
 さて、ではこの汚れはどうやってついたのでしょう、という謎が提示されている。
 解答を読むと「なーんだ」という気にさせられるところがないでもないが、仕掛けといい、使われているトリックといい、これはけっこうナイスだと思う。
(2005.8.4)


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『アリア系銀河鉄道 -三月宇佐見のお茶の会-
 (光文社文庫
  2004年4月刊
  原著刊行2000年10月)

★ネタバレ注意★

●ロマンティスト・オン・ザ・パズル


 柄刀一はロマンティストである、という定義は、もはやミステリー界では定着しているらしい。その評価を完全に定まったものとしたのが本作『アリア系銀河鉄道』である。
 「あの人はロマンティストだ」てなことを言うとき、どちらかというと、むしろけなし言葉としてのニュアンスがそこに込められていることが多い気がする。多くの業界においてそうだと思うが、たとえばかつての(今はもう違いますよ)純文学では、ロマンティストであるというのは現実を見ていないというのと同義ですらあった。
 だが、この場合はけなし言葉としてではなく、むしろ積極的な肯定のニュアンスがここに込められている。それが説明なしに読者に了解できるのは、多分これがミステリ作家に対する評価だからだろう。
 ミステリというのは、ロマンティストであるというのが褒め言葉として割に素直に響く数少ない業界なのだなと気がつく。それはおそらく、ミステリというものが、ともすれば理詰めの推理を追求したあげく極度に乾燥したものになってしまうからなのだろう。そこにあってのロマンというのは、稀少であるがゆえに価値が高い。
 たとえば、ファンタジー作家に対して「あの人はロマンティストだ」と言ったら、「まあ、そりゃそうだろうけど…」としか返しようがない。ミステリに対してロマンとは、多分にジャンルの枠の外側から持ち込まれるたぐいのものなのだ。

 しかしまあ本当は、ロマンティストかどうかというのは、単なる資質の問題であって、それをもって良いとか悪いとかいう評価軸の上に乗せる性質のものではない。
 極度のリアリズムが小説の上にいい影響をもたらすことが稀であるのと同じく、極度のロマンティシズムもまた作品を独善的なものに貶めてしまう危険性を秘めている。柄刀氏が素晴らしいのは、ロマンティシズム的傾向を、作品に潤いと気品を与えつつそこからパズルとしての面白さを損なうことがない程度にとどめることができる、そのさじ加減の妙があるからだ。

●言語にとって密室とは何か


 本書は連作短編を4本と、文庫版のみの短編1作の5編を収録している。
 柄刀氏は、第1作「言語と密室のコンポジション」で、いきなりこちらの度肝を抜いてくる。最初っから全力投球だ。
 予備知識なしに読んだ者の誰もが度肝を抜かれること間違いなしという代物なので、その設定を言ってしまうだけでもネタバレになる。ので、ここから先はネタバレしてもいいって人だけが読んでほしい、と前置きしておこう。

 この連作の主人公は宇佐見博士という。大学で先生をしているらしいが、専門がなんなのかはよくわからないこの博士、ふとした拍子に異世界に迷い込むという特異体質の持ち主である。一匹の猫に導かれ、「言語と密室のコンポジション」で迷い込んだのは、「ベテルの塔」という言語にまつわる塔が築かれつつある神話の世界。
 そこではなんと、地の文で思ったことが現実化してしまう。「彼は舌を巻いた」と思えば、その彼は舌がひとりでにまるまってしまうし、「目の玉が飛び出るようだ」などと思おうものならそれだけで殺人事件だ。「降るような星空だ」とか「この世の終わりだ」などと思ってしまった日には地球が滅亡してしまうだろう。もっとも、「まるで生きているようだ」とか「仕事から解放されて生き返った」などと思えば、死んだ者も生き返る可能性はある。
 悪い冗談のような世界だが、実際にそんな世界での物語が展開され、かつそこで密室殺人が起こり、その真相を博士が推理するということになると、もはや冗談ではすまされない。
 これがたとえば、異世界ミステリと言ってもたとえばファンタジーやSFの世界を舞台にしたミステリというなら、それはそう珍しいものでもない。僕自身もいくつか見聞きしたことがあるし、発想としてもそう突飛なものではない。昨今はSFの世界を舞台にしたホラーまであることだし。だが、それはそのような世界の物理法則が、基本的には現実世界のそれに準拠するという前提にたってのものだからこそ容易である。
 現実の世界に、たとえば魔法とかオーバーテクノロジーを足し算して、その上で話を考えればいい。逆に現代社会からテクノロジーを引き算し、その上で特殊な事情や習慣などを足し算すれば、時代物のミステリが出来上がる。都筑道夫氏や宮部みゆき氏が得意とするやつだ。突き詰めに突き詰めたところでは、エーコの『薔薇の名前』がここに位置している。

●アンチロジックはロジックによって構成される


 先ほどSFやファンタジーの世界を舞台にしたミステリは「容易である」と書いた。何が容易なのか、と言うと、成立するのがである。作品が成立するというのは、書かれることと読まれることの両者が揃って、はじめてそう言えるものだろう。つまり、そうした小説は書くのも読むのも、そう難しくはない。なお、これはそうした作品が安易であると言っているわけではないので念のため。
 だが、地の文で思ったことがたちまち現実化するなどという世界でのミステリとなると、これは書くのももちろんだが、読むのにも実はかなり骨が折れるはずなのである。なぜならそれは抽象的な思考実験だから。つまりその意味においては、哲学書を読もうとするのと同じような頭の使い方をしなくてはいけないのだ。
 でも、本作はそんなに読むのが大変な作品ではない。確かにちょっとは他の普通のミステリよりも頭を使わなくてはいけないし、ちゃんと謎を推理しようとすればなおさらそうだと思う(ちなみに僕は、ミステリを読むのは好きだが、謎を推理するということを最初から一切放棄している怠惰な読者なので、このへんは推測である)。でも、本来ならもっと大変なはずなのだ。それを、柄刀氏が、作者側の努力でもってかなりのところまで軽減してくれているのである。
 つまびらかに見ていけば、それはほとんど涙ぐましいような努力である。
 なんせ、地の文で語られることを、ユーモアのレベルと、現実に起きていることの字義通りの描写というレベルのみに限定して、それ以外は会話文で始末をつけているのだから、その「縛り」のきつさは並大抵ではない。
 もちろん、それは必要にして欠くべからざる作業だ。それをやらなかったら、今度は次から次に不可解な現象が起こり、それをまた次々に解説するという手間が増えていってしまうことだろう。しかも、事件とはまったく関係もなくヒントにもならないところで。
 そこらへんの詳細な検討はここではしないが、にしたところで、実際にこの縛りで作品をものしてしまった柄刀氏の力業には感服させられる。それは単に柄刀氏の「力量」というような漠然としたタームで語られるべきものではないだろう。柄刀氏のパズラーとしての抽象的思考力が遺憾なく発揮されているととらえるべきなのだ。抽象思考とは、哲学であり、同時にパズルである。この場合は言語パズルとして、どう書けば読者によりこの世界の法則性をわかってもらえるか、どうすれば読者に無駄な労力を使わせずに済むか、どこまでならユーモアととらえられるか、そして読者に真相を勘づかせないためにはどうするか、といったピースが、柄刀氏の中で組み立てられ、そしてそれが小説として表象されたわけである。恐るべきはその構成力だ。

 もう少しこの短編についての話を続けてみたい。
 というのは、この舞台となる世界での法則「地の文で思ったことが現実化する」というのが、いかにもパズル的で面白いと思うからだ。
 ここで行われているのは、「地の文」という小説用語を、世界を構成する法則に取り込んでしまうということであるのはわかると思う。それだけでもメタな感覚が味わえて面白いわけだが、これが世界の法則として通用するということはつまり、この短編に登場する者たちは、それぞれに地の文を所有しているということを示している。その中で、宇佐見博士に隷属する地の文(と会話文)がこの短編であるという構造であり、この地の文がいくら第三者的な立場から書かれていたところで、これが宇佐見博士のものであることは疑いがない。言ってみれば本作は一種の一人称文体の変奏であるとも考えることができるわけだ。
 これがパズル的なのは、世界をシステマテッィクに整理把握するというベクトルによる。このこと自体には、たとえば「世界とは各自の自意識が鏡となって映し出した鏡像の集積体である」といったような哲学風な意味はないものと思われるが、作家の資質を雄弁に物語ってもいると思うので付記する。

●マトリョーシカの内と外


 さて、その後博士は、ノアの方舟に乗り組み、多重人格患者の精神の中で推理し、そして表題作ともなっている銀河鉄道で親友の死について、真相を探る。ついでに、文庫版のみの特典として、パズル的な仕掛けのある密室に閉じこめられ、そこからの脱出を試みるという作品がついていて、これを作者のこの連作短編集への愛情の証と受け止めてもよいだろう。
 「言語と密室のコンポジション」ほどに突飛な設定は他の作品にはない。とはいえ、ノアの方舟に乗り込んで大洪水の地球を漂流し、アララト山の山頂で起きようとしていた殺人事件を阻止する、などという筋書きが突飛でないとは誰も言えないだろうが。
 しかし、設定の突飛さでは「言語と密室」ほどでないにせよ、その分、他の作品には豊かな詩情がある。とりわけ、「アリア系銀河鉄道」における謎解きには、やはりそれをロマンティシズムと呼ぶしかないような傾向がうかがえる。
 もうひとつ注意したいのは、それぞれの作品が、直接的には謎解きに影響してこないメタな設定を伴っているという点だろう。このメタな設定については、作者みずから作中、またはあとがきなどで解説してくれるから、ここでその真相を解説はしないが、本当の謎は事件の外側にあるという入れ子型の構造もまた、ややこしくはあるが詩情があるという、パズルとロマンスの折衷を手助けしていると思う。

 つまるところロマンスとは、現実ではない世界をどれだけ肌触りとして感じさせてくれるかの強度なのだ。
 それがたとえどんなキテレツな状況であっても、目の前には現実に起きている事件がある。それを読者にわかりやすく提示することが、まず最初のロマンス。
 でも、それは世界の一端でしかなく、入れ子構造になってその事件の外側にも世界があり、その外部の世界にも意味がある。それが第2のロマンスであり、そしておそらく、さらにその外側にも、とふとした瞬間に読者に感じさせてしまう、それこそが柄刀氏が描いているロマンスなのではないか。
 そうした入れ子構造を神の視点で見ればパズルになり、その内奥から眺めればロマンスになる、ということであるのかもしれない、という気がするのである。
(2005.6.2)


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『殺意は青列車が乗せて
-天才・龍之介がゆく!-』

 (祥伝社NONNOVEL
  2004年2月刊)

●鉄道マニアとミステリマニア


 なんだかんだ読み進めているうちに、この龍之介シリーズも5冊目である。実は先日、6冊目となる『殺人現場はその手の中に』上梓されたばかりだったりするけれども(だいたい毎年2月に新刊が出ている)、こちらはまだ買ってないので、僕が持っている中ではこれが一応の最新刊ということになる。ちなみに書名の「青列車」は「ブルートレイン」とルビがふられている。
 前作『十字架クロスワードの殺人』は長編だったが、今回はまた短編集というスタイルに戻った。とはいえ、表題をとっている「4章 どうする卿、謎の青列車と消える」には、他の章の2倍となる100ページ弱が割り振られていて、これはもう立派な中編と呼んで差し支えなく、読みごたえはかなり十分にある。

 僕個人としてはいまいちその心性がよくわからんのだけれども、世の中には鉄っちゃんと呼ばれる人種がいる。いや、「電車でGO!」のマスコットキャラじゃなくって、普通に鉄道マニアの人たちのことだ。
 その層と推理小説マニアとかどの程度かぶってるのか、それもまたよくわからないのだが、少なくとも日本の推理小説では列車を使ったトリックというのがひとつの常道であることは間違いない。鮎川哲也氏とかはかなりの鉄っちゃんだったという話も聞くが、柄刀氏はどうなのだろう。この「どうする卿、謎の青列車と消える」を読む限りにおいては、かなりお好きなのではないかという印象を受ける。
 いや、こっちに鉄道の知識がないから、書かれている内容が詳しいのかそうでないのかわからんのだけどね、もしかすると「この程度のことなら常識ですよ、ムフー」とか、本職の鉄っちゃんには言われてしまうかもしれない。

●列車消失


 本作は列車消失トリックものである。A駅を出た列車が、B駅に着く前にそのままどっかに消えてしまうというやつ。
 たしかエラリー・クイーンにそんな短編があったのを読んだことがある。でも、クイーンなので、けっこう昔の小説だ。もう素人目には何が何やらという感じに入り組んだダイヤグラムでもって狂いなく運行されている現代日本の鉄道業界でそれをやるのは、なかなか難しいのではないか、という懸念を、柄刀氏はミステリー・トレインという道具立てを使って華麗にくぐり抜ける。
 ミステリー・トレインは、普段は運行されていないイベント用の列車だから、ダイヤグラムの隙をついて走る。おまけに、どこか他の駅で乗客が乗り降りするということもない。したがって、ダイヤグラムがあまり深刻な影響を与えてこない。
 そう何度も使えない手かもしれないが、これは技ありだと思う。
 本作の場合、とある事情からタイムリミットつきでこのトリックを解決しなくてはならないという条件もあり、なかなか緊迫感もあって楽しめる佳作に仕上がっている。何より、時刻表が出てこないのが僕なんかには嬉しい。いや、アレ出てくると、ちょっとくらいはトリックを考えてみようという気持ちがあっても、それが一気に萎えていくのが自分でわかるのだ。
 ただし、この指摘はちょっと意地が悪いかなという気もするが、このシリーズの定番となっている龍之介による雑学の披露が、本作ではほぼ皆無だったりする。ちょっとネタバレっぽくなるが、トリック自体もそういう雑学を応用したものではないし。でも、それを言うのは酷だよなあ、というのは僕としても了解しているところではある。
 ちなみにダイヤを組むのを生業とするスジ師という職業があることも本作で初めて知った。かつて「A列車で行こう3」で、気がついたら貨物列車と客車が正面衝突して止まったまま1週間くらい過ぎていた、というような経験をふんだんに持つ僕には絶対にできない商売だとおもったことである。

●余談


 なお、科学雑学系のトリックや謎解きということでなら、「2章 光章、白銀に埋まる」「3章 一美、黒い火の玉を目撃す」が優れている。いやあ、しかし、これまでも何度か書いていることだけど、雑学系の謎解き・トリックをこれだけ量産できるってだけでも、なかなか芸のあることだと言わねばならんでしょう。
 なお、「5章」にも雑学はふんだんに出てくるが、こちらはまあ、犯人が出してくるクイズに答えるという形なので、直接的には謎解きに絡んでこない。それはちょっと雑学の出し方としては反則気味かも、という気もする。
(2005.2.27)


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『十字架クロスワードの殺人
-天才・龍之介がゆく!-』

 (祥伝社NONNOVEL
  2003年2月刊)
★ネタバレ注意★

●覚悟の在処


 シリーズ4冊目。
 『殺意は砂糖の右側に』『幽霊船が消えるまで』『殺意は幽霊館から』と、どちらかと言えばリリシズムの豊かなもので統一されていたタイトルが、今作では『十字架クロスワードの殺人』と、少し堅めのイメージになった。これは、単にタイトルの末が助詞ではなく名詞で終わっている、ということだけには由来しない。
 そもそも、ポーの『モルグ街の殺人』にはじまって、「なんたらかんたらの殺人」というタイトルは、すでに定型性を有していると言っていいほどに推理小説史の上では多用されてきた。その歴史を踏まえた上での『十字架クロスワードの殺人』。
 したがって、僕としてはこれを、これまでよりも、キャラクターから本格推理へ重心をシフトさせる、という柄刀氏の決意のあらわれと見たいのだがどんなものか。一種の知的パズルという推理小説の側面を織り込み済みだと誇示するように、タイトルにパズルの名前を組み込むあたりの覚悟もよし。

●かくて長編となる・1


 さて、『幽霊館から』が中編だったとすれば、本作は紛れもない長編である。
 この天地龍之介というキャラで長編推理小説をやるのは、色々とお膳立てしてやらないとちょっときつい。そのことは『幽霊館から』の感想でも書いたが、簡単にきつくなる理由を挙げるなら、龍之介は天才であるがゆえに、解くべき謎が提示されるやいなや、それを瞬く間に解決してしまう、ということだ。したがって、話が長くならない。
 これはもう、そういうキャラクターなのだからしょうがない。人に持って生まれた領分というものがあるように、キャラクターにもそういう領分はあるのだ。うじうじと悩みに悩んだ末に出さなくてもいい犠牲者を出したり、賽の河原で石を積むように推理のロジックを積んでは崩し積んでは崩ししたり、というのは彼には似合わない。というかそれをやったら違うキャラになってしまう。
 しかしながらこのまま短編のみでシリーズを続けていくのもそれはそれでネタ出しがしんどいし…、というような煩悶が作者にあったのかどうかはともかく、本作ではいくつかの仕掛けを施すことで、みごとに龍之介が主役の長編が成立している。これはなかなかの労作だと思う。

 では、具体的にこのキャラクターで長編を成立させるための仕掛けとは何か。
 もうほとんど全編のストーリー自体、構成自体がそうだとも言えるのだが、最も重要なのは、ほとんど最後の最後まで、龍之介と殺人事件とを接触させないという点だ。
 なお、ここからは大幅なネタバレになるので注意されたし。
 と、軽く注意をしつつ種明かしをするならば、龍之介と光章は、物語のかなり序盤の方で、いきなり事故に遭い、外部と連絡が取れない状況に追い込まれる。ここから物語は、龍之介たちを主人公とするパートと、長代一美を主人公とするパートに別れて進むことになる。
 龍之介たちがのっぴきならない状況に追い込まれているその一方、別行動をとっていた一美は、殺人の疑いのある事故死の発見者となってしまうわけだが、もちろん龍之介たちはその事実を知らない。ただ、自分たちがあった事故と、その事故で行き着いた先で電話線が切られていたということで、何者かの作為では、という警戒をしつつのサバイバルが始まる。
 自分たちの生存をかけて生き残りをはかり、外部と接触しなくてはならない以上は、緊迫感はそれなりにあるし、龍之介がその知識量を活かすような場面はふんだんに用意される。同時に一美は殺人事件に巻き込まれていることを察知しはじめるが、それでも龍之介や光章は殺人事件発生の事実を知らないので、短編でのそれと同様に、いきなり龍之介が事件の真相に気づくということはない。

●かくて長編となる・2


 つまり、本書のタイトルに倣ってパズルに例えるなら、探偵というピースと事件というピースが全然別の絵柄の2枚のジグソーパズルに紛れ込んでいるようなものなのだ。読者はその2枚の絵を見ることができるから、龍之介たちが事件に巻き込まれていることもわかるし、事件の真相を推理することもできる。だが、一方の絵の中にいる龍之介は、もう一方の絵を見ることができない。
 探偵が知り得た情報はどんなことであれ読者にも開示されなくてはならない、というのを本格推理小説の条件のひとつにあげるものは多いが、そうであるとするならば、あるいはこれは本格とは呼べないのかもしれないのである。なにせ、読者が知り得た事件にまつわる情報の多くは、探偵には開示されていないのだから。

 事件が終盤にさしかかると、龍之介たちのパートでも殺人事件が起きる。ページ数だけで見れば、中盤に近いような印象も受けるが、これは解決編に割かれたページ数が多いためにそう見えるだけだと言っていいだろう。実際、龍之介たちのパートで事件が起きてから、龍之介が事件の真相に気づくまではわずか50ページに満たない。354ページの本編の中での50ページであるから、これは短い。
 さらに言えば、即席の鉱石ラジオを龍之介が製作し、外で、つまり一美のパートで何が起きているかの輪郭を龍之介が知ってから、彼が真実に気づくまでは実に長めに見積もって7ページしかないのである。そりゃ、仕掛けのひとつもしないとこんなやつを探偵役に長編推理は書けませんわな。空気も読めないから、作家の事情を斟酌せずに瞬く間に事件を解決してしまいそうだし。

●光章の位相


 トリックとしては、どうなのだろう。僕はそうした点にはまったくもって疎いが、そこまで新しいトリックではないのかな、という気はしないでもない。これは、人によっては疵とみなすところだろうか。
 それともう一点、これまではずっと光章が語り部となっていたこのシリーズなのだが、今回はパートが2部に分かれる都合上、一美が主人公となるパートについてのみ、話者が光章ではなく、作家の、いわゆる神の視点からの叙述になる点は特筆しておきたい。これを欠点と見るか新しい試みと見るかは人それぞれだろうが、このことは別のひとつの事実を指し示してもいる。
 本来、語り部であった光章が一時的に語り部の座から追われるということは、この物語の中での彼の重要性が下がることを意味している。たとえば、語り部をつとめないワトソンは、ただのホームズのオマケに過ぎないであろうことは想像するに難くない。それと同様の存在感の喪失は光章に訪れたか。
 龍之介たちのパートにおいては相変わらず語り部である、という重要な事実もあるだろうが、それにしても、彼の存在感の喪失は、気にするほど大きくないと言えそうだ。それはつまり、光章自身が、彼のパーソナリティを獲得してきたことを意味する。
 つまり、龍之介が苦手とする対人関係・情報収集・肉体労働の担当として、また、一美のパートにおいては、長代一美にとってそれなりにかけがえがなくなりつつある存在としてだ。龍之介たちがサバイバルを余儀なくされるという展開も、肉体労働担当である光章の活躍の場を増やすことに繋がっている。意図的にそうされたのかどうかはわからないが、構造としては龍之介と光章の、互いの苦手を補うような関係が示される効果も生んでいて悪くない。
 柄刀氏が、書いている途中で「意外と光章が語り手じゃなくてもいけるじゃん」と思ったかどうかはわからないが、僕個人としては、意外とそれはそれでいけるのかな、という印象を受けた。これは、このシリーズが新たな展開を示しうる、という予感でもある。
 とはいうものの、龍之介を事件と出会わせない、という手は、これからもずっと使い続けられるというものではない。時々はそれもいいだろうが、長編のたびにそれをやられては興ざめだ。
 光章と一美を主役にしてずっと話を進めておいて、龍之介は最後にちょろっと出てきて謎を解くだけ、とか、色々とバリエーションはあると思うけど、なかなか作者にとっては難儀なキャラクターなことであるなあ、と詠嘆を述べて、このまとまりのない感想の筆をおく。
(2005.1.24)


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『幽霊船が消えるまで
-天才・龍之介がゆく!-』

 (祥伝社NONNOVEL
  2002年2月刊)

●ファーストインプレッションは◎


 魅力的なタイトルであると言っていいと思う。
 6篇の連作短編が収められており、「幽霊船が消えるまで」はそのうちの1篇のタイトルなのだが、これを表題作に選んだのは正解だろう。船のシルエットをバックにした緒方剛志氏の表紙もいつも以上に美しくて効果的だ。
 本書は「天才・龍之介」シリーズの2冊目、つまり『殺意は砂糖の右側に』と『殺意は幽霊屋敷から』の間にはさまった時期に発表された。
 『殺意は砂糖の右側に』では、7篇の連作短編を通して、天然系天才の龍之介が光章の部屋に居候するようになってから、後見人である中畑さんを捜してフィリピンへ飛び、そこで中畑さんが実は日本にすでに帰国していたことを知る、という流れが背景にあった。その流れの中で7つの事件に出会うわけだ。本書では龍之介たち自身もフィリピンから帰国し、そして徳之島でようやく中畑さんに面会する、といった流れになっている。その中で、今度も6つの事件に出会う。
 ちょっと出会いすぎだろう、という不粋なツッコミは無しの方向で楽しむのがキャラクター名探偵ものの読者としては正しいところだ。

●キャラクターが立ってきた


 キャラクターもののシリーズを読む場合、楽しみのひとつは、巻が進むにつれて、作者と読者が登場するキャラを把握していくことにある。これを読者の側から言えば「感情移入できる」とか「キャラに愛着がわく」といった表現になるし、作者の側では「キャラがひとりあるきする」というような表現になるだろう。
 『殺意は砂糖の右側に』の後半から本書にかけて、作者の柄刀氏は徐々にキャラをつかんできている。どこでそれがわかるか、と尋ねられると返答に窮するが、どことなく、書いていて楽しいという感じが伝わってくるのである。長年読者をやっている者の勘、という言葉で片づけてしまうのはあまり褒められたことではないだろうが、いちいち例を挙げるほどのことでもないだろう。一応、ひとつ例を挙げるなら、表題作の「幽霊船が消えるまで」だ。
 珍しく殺人の起きないこの話では、龍之介と光章があらぬ嫌疑をかけられるのだが、人死にが出ないということで重苦しさがないぶん、キャラクターの魅力が前面に立っている。これがなかなか楽しいのである。読んで楽しいばかりでなく、書いていても楽しかったのではないかと僕にはうかがえるのだが、いかがだろうか。

 反面、科学的な知識を応用して解くことができるトリックもしくは入り組んだ状況を毎回ひねり出さなくてはならないという特性上、ネタ切れや十分にネタを消化できていないケースが出てくるのもいたしかたのないこととは思うが、「石の棺が閉じるまで」など、ちょっと科学的知識に頼りすぎてエンターテイメントとしてはバランスを崩しているのではないかと思える作品もある。
 毎度毎度、いいネタを出し続けるというのは、シバリがきつければきついだけ大変なことなのだ。本格である以上、誰も知らないような科学的知識を使わないと解けないトリックは出せないし、と言って科学的知識の出番がないと、龍之介が探偵役になる意味がない。

●痛快明朗ミステリー


 このシリーズは、最近の推理小説としてはかなり健全な…というのはちょっと表現が悪いか…、明朗な構図を持っている。
 本書表紙にも「痛快本格ミステリー」と題してあるが、まさに「痛快」で、バンバン人が死ぬ割に変な屈託がない。実はそこらへんの事情は、『殺意は砂糖の右側に』の「あとがき(ちなみ編)」で柄刀氏自身が次のように記している。

 ちなみに、事件の謎を解くだけの役割に結晶化した探偵というものは、現代社会をステージとしたお話の中では存在しにくくなっている。彼らは存在のリアルを求め、作品の中の物語性(テーマや他の登場人物の人生など)とかかわるか、影響し合うかすることになるようだ。だから、キャラクター探偵の短編は難しい。彼らは次々と事件を解決する名探偵という役割を与えられており、その事件が内包するものといちいち影響され合ってはいられないのだ。探偵役である人物の主体性が揺らいでしまうし(それを目的とした連作も面白いが)、彼らも疲れてしまうだろう(それを書き込むには枚数も少ないし)。いきおい、短編の中の名探偵は、ただの謎解きマシーンになってしまう。あるいは、なにものにも動じていないような超然としたマスクをかぶることになる。
 龍之介シリーズの場合、ミステリーは雪で、天地龍之介は柳なのかもしれない。彼の主体性は、ほんわかとした湯気に似て、無に近い。そしてその湯気が、せめて、彼らの周りの物語に温かみをわずかにでも残すことができれば……というところではないか。
 (中略)ビターが現代性を映しやすいのなら、スウィートはある種のノスタルジーを漂わせるかもしれない。

(『殺意は砂糖の右側に』「あとがき(ちなみ編)」p.311〜312より)


 キャラクター探偵での短編というと、最も人口に膾炙しているのは小説ではなく、『名探偵コナン』などの探偵マンガだろう。
 コナンの場合は、黒の組織が関わってくる「本筋」とそれ以外の事件を峻別し、普段の事件では屈託を感じさせないかわりに、本筋の事件はやや重めに、柄刀氏の言葉を借りれば探偵役の主体性を揺らがせながら描かれている。それを明快にあらわすのが少年探偵団と灰原哀との対比なのだろうが、まあ、ここでコナンの話をしても始まらない。
 ほかのパターンとしては、何か事件が起こるたびに深く考え込んでシリアスになるのだが、次の事件が始まるとそのシリアスさはリセットされているという、なんか健忘症の気がある『金田一少年の事件簿』のような例もある。
 龍之介の場合は、コナンで言う「その他」の事件が延々と続いているような感じだ。龍之介自身は、事件に出会うと、驚いたり怖がったりするだけで、それで悩みこんだりはしない。その龍之介を見て「ちょっとは悩めよ」とツッコミを入れつつ、それなりに悩んだりする役目は、話者である光章が担っている。
 ただ、光章は光章で、語り部という、物語の内部と外部のつなぎ目にいる特権的な存在なので、その悩みを引きずろうが引きずるまいが、それは光章の勝手なのである。つまり、語り部という役目を果たし続けている限りで、その悩みが持続するしない、あるいは悩む悩まないを言葉にする主体は光章にあるのであり、それがいかなる語りとなるのであっても、そうそう不自然には読者には感じられない。
 つまり、物語の中で生じてくる屈託を、無視することなく語りながら、キャラクターの中には残さないように逃がす、圧力調整役としての役目も、実は光章にはある。単なるワトソン役ではないわけだ。
 そうやって、光章によって常に物語の外部へと屈託という圧力を逃がしつつ、推理のみがいかにも明朗に痛快に語られる。それがノスタルジーをもたらすかどうかは読者によるだろうが、この痛快さを不愉快に思う人間はそういないのではないだろうか。
(2005.1.17)


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『殺意は幽霊館から
-天才・龍之介がゆく!-』

 (祥伝社文庫
  2002年6月刊)

●実はシリーズ3冊目


 「天才・龍之介」シリーズを読むのは、これで2冊目。ただし、刊行された順番で行くと、これは実はシリーズ3冊目にあたり、2冊目はNONノベルの『幽霊船が消えるまで』ということになる。
 このシリーズの場合、登場人物の人間関係その他が徐々に変化していっているので、できれば刊行順に読むのが望ましいと思うのだが、本書に限って言えば、それまでNONノベルで展開されてきたシリーズの、初の祥伝社文庫進出(文庫書き下ろしなのである)ということもあり、順番が多少狂っていてもあまり差し支えはないように書かれている。
 龍之介と、それに語り部役である光章、それに光章とは恋人未満の関係である一美は、本作で温泉地にやってくる。その旅行資金の出所が龍之介である、というのが、唯一、順番が狂っているとよくわからないところかもしれない。しかしまあ、言い換えればその程度しか支障はないわけである。
 基本キャラクターのみで話が展開され、2冊目で登場した新たなキャラがいきなり出てきたりはしないので、手始め、あるいは1冊目に続けて読んでみるならオススメできるところかもしれない。

●短編的構造とキャラクター造形


 本作は、シリーズ初の文庫オリジナルという以外に、初の長編でもある。
 何かと初物の多い一作なのだが、読後の感想を一言で言ってしまうと、「短編の方法論で書かれているな」というあたりに落ち着いてしまって、どうも長編ならではの読みごたえには乏しい。これは難点と言って良いと思う。
 ページ数にして138ページ。フォントのポイント数もかなり大きめで、長編と言うよりも中編と言った方が適切なのかもしれないが、短編での構成とあまり変わらない構造でもって話が進むのはたしかだ。
 龍之介の天才ぶりと天然ぶりを印象づけるようなイントロダクションがあり、事件が起き、それを龍之介がその天才ぶりでもって解決する。
 普通なら、事件の発生から解決までにああでもないこうでもないという論理の構築・破壊・再構築があったりするのだろうが、龍之介についてはそれはない。それはつまり、彼が天才だから、という理由によるわけだが、しかし一発で真相にたどりつくという資質っていうのは、やはり長編には不向きな名探偵像と言わねばならないのではないか。
 龍之介は天然キャラでもあるわけで、あんまり事件解決に執念の炎を燃やして捜査にあたるというのは似合わない。まして職業探偵でも刑事でもないので、たまたま出くわした事件を、その場で解決しているだけなのだ。彼に粘り腰で捜査に当たらせようと思ったら、それなりの理由づけと状況設定が必要になる(4冊目の『十字架クロスワードの殺人』ではそうした操作がなされることで、長編としての体を立派になしていることを申し添えておきたい)。

●旅情ミステリー風の番外編として


 すでに『4000年のアリバイ回廊』『ifの迷宮』などでもその手腕を見せたとおり、柄刀一氏は、長編が苦手な作家ではない。むしろ傑作が多いと言ってもいいと思う。
 ただし、キャラクター探偵ものとしてはあまり作例がなかったので、そうした意味では、本作は龍之介たちのキャラで長編を書くとしたらどうなるかのテストケース的な意味合いを持っていたのかもしれない。
 いや、本編の展開とはやや独立した舞台設定といい、熱海・熱川あたりとおぼしき温泉地のロケーションといい、ある種、旅情ミステリー的な番外編という位置づけでとらえたほうが正確だろうか。
 なるほど、そう考えれば、短編的な構成のゆえにいささかゆるい印象のある読中感もさして気にはならない。ちょっと自分で自分を騙しているような感覚がないではないけれども、シリーズの中の本作の位置づけとしては間違っていないだろう。
 ちなみに蛇足になるが、キャラクターの魅力はしっかりと描かれているので、読んでいてそれなりに楽しい作品である、ということはつけくわえておきたい。湯煙旅情ミステリーとしてはお色気シーンがないのだけが難点かな?
(2005.1.10)


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『殺意は砂糖の右側に
-天才・龍之介がゆく!-』

 (祥伝社文庫
  2004年1月刊)

●去る者を追えば


 以前から個人的に注目していた推理作家、柄刀一氏による、名探偵キャラクターものの第一弾だ。
 と言っても、お前は推理小説に造詣が深いのかと問われれば、それはおそらくカンナユリのアニメに対する造詣の深さとどっこいどっこいのレベルかと思うので、僕か個人的に注目していたこと自体は、カンナリどうでもいい。
 一般的には、この「天才・龍之介がゆく!」シリーズの表紙と挿絵を、上遠野洋平氏の「ブギーポップ」シリーズで表紙その他を手がけた緒方剛志氏が担当していることの方がユリうごかされるところかもしれないと思う。カンナユリネタで引っぱりすぎだろうか。
 ちなみに、シリーズの表紙などで見る限り、主人公である天地龍之介は憂いのある美少年という感じだが、実は設定上は28歳らしい。えー、うそーん。

●天然系名探偵登場


 名探偵キャラクターを擁する推理小説ということで、一応、設定というかバックグラウンドを紹介しておく。
 探偵役である天地龍之介は、28になるまで小笠原諸島の小島で、研究者である祖父と学究三昧に暮らしていたことになっている。それゆえに数学から哲学、雑学にいたるまで、膨大な知識量を有しているが、そのかわりに世事に疎く、生活能力はゼロにひとしい。いわゆる天然系の入った天才型名探偵役だ。
 そして、彼の祖父が死んだことで、龍之介が居候として転がり込んだ先が、従兄弟である天地光章のところだった。東京で会社員をしている、こちらはごく一般的な青年で、本シリーズの語り部をつとめることになる。
 それにもう一人、光章と恋人未満の関係にある長代一美。この3人がおよそレギュラーキャラクターということになる。

 本書に収められているのは、龍之介と光章が出会った初めての事件から、彼らがある人物を捜して飛んだフィリピンで出会った事件までの、7編の短編。そう、本書(と、このシリーズの他の何冊か)は連作短編集なのだ。
 本書を読んでいると、短編であるがゆえのサクサク感が、作品中で龍之介によって雑学が披露される際の「へぇ〜」という驚きと実に相性がいいのに気づくだろう。長編になると、雑学を出すタイミングに作為が感じられたりして、ちょっとダレる部分もあるのだが、本書の場合は、短編であるがゆえに話が歯切れよく進み、そこに雑学がスパイスになって飽きさせない。
 なお、龍之介が光章宅に転がり込んだのは、彼の後見人として指定されていた祖父の友人の行方がわからず、他に行くべき場所がないから、という理由がついており、本書以降しばらくは、この祖父の友人を訪ねての道中が続くことになっている。本書の最後で龍之介と光章がフィリピンへ飛ぶのもそのためなのだが、この連作ならではの仕掛けも、けっこう面白い効果を後のシリーズでは生むことになる。

●書き続けられてるってだけですごいのだが


 トリックがどうだとか、新本格としてどうだとか、そこらへんの推理小説ならではの話には、当方まるでくちばしをつっこめないしあまりつっこみたいとも思ってはいないのだが、そこをはずしてシリーズ1冊目である本書なりの魅力を言うならば、第1冊目ならではの初々しさというか新鮮さみたいなものをあげていいのじゃないかと思う。
 龍之介の天才ぶりが深く謎解きに絡んでくる、という話の構成上、これは作を重ねるごとに作者の負担が増えることになる。
 というのは、龍之介の天才性というのは、イコール「こんなことも知ってる」という知識量の度合いだからだ。その知識をどう応用するか、というポイントももちろんないではないが、彼の謎解きの土台にあるのは知識量の豊富さそのものなのである。
 ということは、つまり雑学が深く絡んでくる(雑学を応用したトリックが使われているか、最低限ある雑学が謎解きの重要なヒントになる)話を書き続けなくてはならないわけで、そりゃそんなネタがぽんぽん浮かんでくれば苦労はしないのである。
 その点、第1冊目だけあって、本書では雑学と謎解きとの関係がスッキリまとまっていて無理がない。まだネタをひねり出すのにそこまで苦労してない時期なんじゃないかという気がする。
 もっと後のシリーズでは、雑学と謎解きとを絡めるのに苦労しているなあというのがうかがわれる反面、キャラへの愛着が出てきてそこで読ませてくれるので、どちらがいいとは一概に言えないのかもしれないが、まあ、無理がないにこしたことはないだろうとも思うわけで、ねえ。

●IQ190?


 ところで、どうでもいいことなのだが、本シリーズの謳い文句は「IQ190の名探偵」ってことになってるようで…。
 でも、IQって18歳以上は測定できないのだよな、実は。18歳をおよその頂点とする知能の発達段階の、どの地点に何歳で到達したか、というのが知能指数なので、18歳を過ぎてしまうと測定しても意味がないのだ。
 したがって、龍之介がIQ190だとすると、その数値を測定したのは9歳くらいより以前でなくてはならない。「昔神童今凡人」なんて言葉もあるけれども、龍之介がどれだけ該博な知識を有していようと、28歳になって自慢するたぐいの数値じゃない。
 もっとも、本編中に龍之介がIQ190であるという記述は、僕が探した限りでは出てこなかったのだが…。いや、これ、どっから出た数値なんだろうかねえ。
(2005.1.3)


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『ifの迷宮』
 (光文社カッパノベルズ
  2000年2月刊)
 『4000年のアリバイ回廊』の方が圧倒的に優れている。どーした、柄刀。後半、というか終盤は面白くて一気に読ませるけど、そこに行くまでが迂路で逡巡しているかのようにもどかしくて退屈だ。
 「4000年」では、殺人事件の推理というミステリの「ワク」を考古学と学問業界のリアリティで支えていて、これは見事に成功していた。「if」では、推理の「ワク」を遺伝子解析と遺伝子による胎児の生み分け・峻別といったことでもって保証しようとしているけれど、これが微妙に「倫理」に落ち込んでいきかける。そこがある意味で限界点。
 作者も、最終的にそこに気づいたのか、倫理がらみで出してきたファクターのうちのいくつかを中途半端な形で放り出すことで、小説としての面白さをどうにか確保している部分がある。終盤でこの小説が面白くなるのは、推理のロジックが倫理をどこかに押しやってしまうからに他ならない。
 学問というのは、倫理よりもでかいし深い。そこに揺らぎも生じる。だからこそ、リアリティを保証する道具立てになる。倫理は、最終的に動かない一線を持っていて、これはそうそう揺らぐことがない。逆説的かもしれないが、そんなどっしりしたもんが面白いはずあるか、ってことだ。
(2001.4.17)


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『4000年のアリバイ回廊』
 (光文社
  1999年7月)
 ミステリである。タイトルから予想のつく通りに。しかし、タイトルからは予想のつかない範囲において、良い小説である。

 ミステリを読まなくなって久しい。それは、ある意味どこまでも読者の思考の埒外へ出ることのないという根源的本質に嫌気がさしたせいでもあっただろうか(全ての、というのは実質的に不可能としても大多数の読者が想像さえ出来ないところで、謎が起きて解決されてしまうと、読み進めながら決して謎を解くことが出来ない、例えば僕のような人種は、常にゲームの敗者であらざるを得ない。よってミステリのトリックや謎は、一定量の知恵を持っていれば解くことが出来るレベルに設定されることが基本的な条件となる。具体的には「たまたまが重なって」といった偶然的な条件を取っ払うとか。与えられた情報を整理して再構成すれば、常にプラモデルのように真実が組み上がるのがミステリの王道という気がする)。
 ミステリというのは、結局、知的ゲームの枠組みをどうしても持っている。枠を食い破ることは不可能ではないと思うが、しかしそれはミステリとしては異端的であらざるを得ないだろう。宮部みゆきの『火車』が推理物としては異端であるように。
 少なくとも、現行の、多くの本格推理と称される主流にはその枠から出ない傾向が顕著だ(もう一方で、昨今の推理小説の読まれ方は、変わり者の探偵とワトソンくんとの関係を楽しむという、和製ファンタジーにありがちな「キャラクター小説」としての一面を持っていることが容易に指摘できる。京極夏彦や有栖川有栖の名をあげるまでもなく。それは決して悪いことではないが、推理小説ブームを眺めて、どうも読者の側にうさんくさいものを感じるのはこの辺が原因だろうか。こういう読者は、飽きるとあっという間にいなくなる)。それは楽しいには楽しいに違いないが、しかし最終的に知的遊戯にとどまるようでは食い足りない。小説であるならもう一歩、枠の中から出ていないとつらい。
 作者と読者の知恵比べ。作者は読者を凌駕する知識と知恵を持っていたとしても、常に読者のレヴェルに合わせて相撲を取ってやる必要がある。探偵小説が大正・昭和初期から常にほとんど遊戯的にしか読まれてこなかった原因のひとつだろう。昭和16年の「現代文学」誌上での座談会で、壇一雄だか坂口安吾だか、誰であったか忘れたが、そのへんが平野謙を指して「平野君は探偵小説の犯人当てをしても、先に犯人を言っちゃうタイプだから」といったような発言をしていた。これは戦時下でも探偵小説がひとつの遊戯として持続していたことをしめしている。

 ところで本作である。
 推理ものとしては、あまり良い出来ではないということになるだろう。いくつかのカラクリには僕でさえ気づいた。ということは、これが相当に見破られやすいカラクリであるということだ。繰り返しになるが、僕は推理ものをかなり苦手としている。本書でもアリバイ関連の時刻表が出てきた時点ですでに極限状況、考えるのを放棄してしまったくらいだ。もっと推理小説を読むのに慣れた人なら、あっという間に真実を見つけだすのだろう。
 しかしながら、本作は推理ものとしてよりもむしろ、小説として優れている。縄文時代の遺跡の復元作業という考古学的なモチーフは、殺人事件とその捜査という物語の軸とは異なる、もうひとつの軸を作り出している。よく調べられたデータとよく再現された学術的雰囲気は、殺人事件の捜査をあつかったセクションとは別個の、考古学セクションを形成し、しかも2つのセクションはやがて重層的に重なって見えてくる。そこに「母」というもうひとつのテーマを、いわば両セクションを貫く串のようなものとして重ね合わせたときに、物語はひとつの綺麗な円環を描いて閉じる。
 一応の専門分野である言語や神話をあつかったくだりになると、こっちとしても多少の言いたいことは出てこないではないが、しかし全般にわたって展開される考古学セクションの面白さは他になかなか類を見ない。これのためだけにでも買う価値のある一冊であった。
(1999.11.25)


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柄刀一

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