鶴見俊輔



『戦時期日本の精神史
1931〜1945年

 (岩波現代文庫
  2001年4月刊
  原著刊行1982年5月)

●戦後という時代の共犯性


 鶴見俊輔氏の代表的著作のひとつ。カナダの大学での講義を和訳したもので、その書名のとおり、戦時期における特に知識人が、どのようにして戦争への荷担へと堕ちこんでいったかというアウトラインが丁寧に解説されている。
 多分、今、この本について語ることはとても難しい。
 戦後の日本で思想界をリードしてきた著者が、転向という切り口から、戦時期日本の指導者・知識人たちがどのように蹉跌したのかを、カナダの大学で語る。この枠組だけを見ても本書が非常に「戦後的」なものであることはわかるだろう。
 おそらく鶴見氏が聴いたらそれは違うと言うだろうが、戦後的であるということは、戦時期の指導層に対する断罪のニュアンスを含んでいるということだ。それは鶴見氏自身の意図とはなかば無関係に、読者と著者が戦後という枠組の中で共犯関係を結んでしまう、戦後という時代のあり方でもある(鶴見氏の意図が全く無関係、とはいえないと思う。そうした時代のあり方を作り出したのは他ならぬ鶴見氏たち戦後知識人自身でもあるのだから)。読者と著者が共犯関係を結ぶというのは、とりあえず自分たちを、自分たちが裁こうとしている対処とは切り離して棚上げにしつつ、戦時期という時代自体を断罪する裁判官ないし陪審員的な立場を手に入れる、ということに他ならない。
 そうした、この本の持っている戦後的な枠組を批判することはたやすい。90年代以降、たとえば学問の場においても、そうした戦後的な枠組に対する批判や、とりあえず戦争に対する否定的な態度を前提にする態度への批判はおこなわれてきたし、また現在ではそうした戦後の超克はようやく果たされつつもある。また、本書があくまで入門的にアウトラインをなぞっているにすぎない、といった批判もある面では有効だろう。もっと個別に子細に検討すべき課題がこの中には多すぎるのではないか、という懐疑的なスタンスである。

●予防線として


 ただし、そうした本書への批判的発言を、戦後への反動的な気分が蔓延する現代のウェブでどのように表現するべきか、には細心の注意が必要になる。
 現在のナショナリズムの勃興については、僕自身はグローバリズムに対するカウンターというか、日本が日本単独で、あるいは日米関係だけで外交がとらえられていた時代を過ぎて、他のアジア諸国に対する優位性も薄らいでいる中で、とりあえず自己保全的に出てきているのが半分、あと半分は戦後の思想潮流への反動だと思っている。
 端的に言えば、80年代だったら、別に韓国とか北朝鮮の言動に、いちいち目くじらを立てなくても「金持ち喧嘩せず」で笑っていられたわけだ。それがそうもいかなくなってきたからヒステリックに反応するし、ついでに戦後という時代自体に文句をつける。
 両方とも根拠のない反動なのだが、まあ、大衆ってのはそんなもんだ、とも思うから、別に相手にはしない。ただ戦後この国が、いかにインテリをつくるのに失敗してきたか、という点には何か気恥ずかしいようなものを感じる。
 でも戦後という時代への反動というのは、おそらく、鶴見氏たちの世代が戦時期という時代に対して断罪をおこなったのと、同工異曲の流れなんだろうなとは思う。理論的にカッチリした人がいたかいないかというのは大きな差かもしれないけれど、やってることは大差ない。もっと言えば、60年安保とか学生運動とかとも、たぶん同工異曲ではある。つまりは世代闘争で。
 だからほっといてもいい、というわけでも無害だとも思ってはいないが。

●後からレフェリー
 話がずれた。
 とりあえず、これくらい予防線はっときゃいいだろと思うので、本題。
 えー、本書の問題点が、そのあまりにも戦後的な枠組そのものにある、というのは述べたとおり。ではそれの何が問題なのか。
 つまり、本書の中では自明の前提として、日本の軍国主義化から戦争へという傾斜が悪であり誤りであり、そうではない、時流にさおさす反戦的な態度が善であるという善悪の基準がある。でもその善悪の基準、正誤の基準というのは、戦争が終わって日本が負けた時点から、つまり全部の結果がわかった段階で定められた基準でしかない。
 つまり、正解を知っている者が、知らずに判断を下した人間を裁くという、アンフェアな構造がある。
 もちろん先に述べたように、そうした断罪というのは、なかば著者の意図と無関係に、いわばその時代を生きた人たち全員が裁判官になってやってきたことなわけだが、その形というのは、やっぱり今の時点から見ると、ちょっといびつな部分はあると思う。
 アメリカと戦端を開く時に、山本五十六か誰かが「2ヶ月なら十分戦えるが2年では負ける」みたいなことを天皇に進言した、みたいな有名な逸話がある。それに対して陸軍は何を軟弱なことを、と怒った、みたいな話じゃなかったか。戦後になってみてみれば陸軍はアホやなあ、という話になるわけだが、でも実際に開戦前の状態でどっちが正しいのかなど、彼我の戦力や物資量の情報を得ていない人間にはわからない。
 もちろん、それを知りえる立場にいたのに現実を見なかった陸軍がアホだったのには間違いはないので、例え話としてはあまり適切じゃないのかもしれないが、でもそういうことである。後になったから言えるけどさ、ということはあるのだ。

 もちろん、本書にそういった古い部分があるのはあるていどしょうがないし、そういった古さを除いても、たとえば戦後、アメリカによって人々は「アメリカに負けた」という色眼鏡で戦争を眺めることになり、結果的に「中国に負けた」という認識から目を背けてきた、といった指摘などは新鮮だ。
 また、戦時中を育ってきた筆者が、政府の「満州事変」「上海事変」「日支事変」といったネーミングによって、これらを一続きの長い戦争だと認識できなかった、といった言葉など、含蓄が深い。
 ついでに言えば、戦前から戦後にいたる共産党系の動きなどもけっこう丁寧に書かれているので、平野謙を読んで「山川イズム」「福本イズム」といった言葉に出会って、よくわかんなかったけどしょうがなく読み進めたというような人、まあ、僕のことなのだが、そういう人にはとっても便利な一冊でもある。
 いずれにせよ、その戦後という時代の中でしか生まれなかった一冊であり、その時代で果たすべき役割は終えているとは思うが、それだけにやはり時代を代表する本でもあることは間違いないだろう。
 なら今の時代に合った、右翼的でない戦争論、というものもあっていいと思うのだが、なかなか難しいだろうか。しかしそれがないことには、左翼陣営はこれから先しんどいぞ、と思う。
(2005.11.24)


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