横溝正史



『悪魔の降誕祭』
 (角川文庫
 1974年8月刊)

●降誕祭って言わないよね


 最初、降誕祭って何じゃらほい、と思ったんですが、要するにクリスマスのことですね。そう言われれば聞いたことあるような気もする。イースターを復活祭って言ったりするのと比べると、定着してない感がすごいですが。わざわざ日本語にしなくても、クリスマスという呼び名で定着してしまってるからでしょうね。この作品が書かれた1958年には降誕祭という言い方も少しは流布していたのかなと思いますが、少なくとも1980年代はじめには、クリスマスはクリスマスだったような気がします。

●変化球三連発


 で、解説も含めると376ページとそこそこ厚みのある本書ですが、内容はというと中〜短編が3本で、ページ数から受ける印象ほど重たい本ではありません。
 金田一耕助の探偵事務所で、彼の留守中に依頼人が毒殺されてしまうという表題作「悪魔の降誕祭」。全作品中でも2度しか描かれなかった金田一耕助の恋愛が読める「女怪」(ちなみにもう一作は『獄門島』です)。霧に覆われた軽井沢の別荘地で金田一がペテンにかけられる「霧の山荘」。
 どれもなかなか面白いと思うんですが、構成が非常にクセがある、というのは、金田一シリーズとしてはこの3本がいずれも変化球も変化球なもんだから。
 別に岡山で因襲で旧家の複雑な血縁が見立て殺人を復員兵じゃなきゃ金田一じゃないやいっ、などと言うつもりはないけれど、金田一ものとしては変わったテイストのものばかりなので、あるていど金田一シリーズに馴染みのある人にお勧めをしたい…というかそれ以外の人にはちょっと、という気もしなくもなくもいまそかり。

●各編の感想それぞれ


 変化球ではありますが、3作とも出来はそう悪くないと思います。金田一耕助シリーズは短編よりも長編に優れた作品が多い、ということを踏まえた上で、あるていど割り切って読む必要はあるかもしれませんが。
 僕自身が一番面白かったのは「霧の山荘」ですかね。
 軽井沢に休暇に来た金田一と等々力警部が事件に巻き込まれるという体裁で、金田一シリーズに特有のおどろおどろしさとか事件の奇怪性が薄い。おどろおどろしい雰囲気が金田一シリーズの大きな魅力であることはもちろんですが、行きすぎると通俗的になりすぎてしまう。実際、後年になるとそういう俗っぽさが飽きられてしまう一因ともなったようですが、横溝自身もそれはあるていどわかっていて、たとえば『白と黒』あたりではそのあたりの怪奇的な趣向をぐっと減らしたりしていると思います。
 この「霧の山荘」をそうした試みの先駆とみなすのは無理があると思いますが、しかし横溝がこの時期(初出は1958年)から、怪奇性に頼り切らないよういろいろな試みをしていたということは認めてもいいと思う。
 金田一と等々力警部がコンビで捜査をするために、等々力警部が出ずっぱりになっていることも大きく寄与しているでしょうが、ライトタッチの味わいがある作品になっていて好感が持てます。

 「女怪」については、短いということもあるんだろうけれども、恋愛と内に抱えた虚無感という金田一耕助というキャラクターの魅力を味わうのが主となった作品で、事件の内容としてはそれほどのものではなく、金田一ファン向けのサービスという感じを受ける。

 「悪魔の降誕祭」は、最後にひとひねり加えました、という感じの作品ですが、今日から見るとちょっと衝撃力に弱さがある点は否めないでしょう。本格推理としてまとまりのある作品ではないかと思いますが、正統派としてまとまってしまっているが故に印象が弱くなっている気もします。好き好きではあるでしょうが、本格としてであれば、金田一シリーズにはもっと優れた短編もある。
 そう考えると、やはり風変わりなシチュエーションを楽しむ作品という位置づけが適当でしょう。
(2007.9.14)


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『病院坂の首縊りの家』
 (角川文庫
 1978年12月刊)
★ネタバレ注意★

●HIS LAST CASE


 ええ、金田一耕助最後の事件、ということになっておりましてね。まあ、シリーズ自体は、この「病院坂」から少し年代を遡らせたりしながら、あともうちょっと続くんじゃ、ということになる。まあ、金田一の場合はドラゴンボールと違って本当にあとちょっとで作者逝去のために終わってしまうわけですが、横溝は死の前にも何作品か構想を温めていたようだから、もしかすると横溝が長生きしたら、ドラゴンボール同様にまだまだ続いていたのかもしれません。
 ともあれ、『本陣殺人事件』から数えると「病院坂」の事件解決時までには36年という年月が経過しているわけで、横溝がこれを金田一最後の事件にしようと決めたのは、ひとつにはかれこれ60歳になる金田一に定年を迎えさせようという意図があったであろう。初登場時ですらすでに古めかしいと評された、おなじみの単衣によれよれの袴、お釜帽という書生風のスタイルも、1973年ともなれば古めかしいどころではなくもはや博物館に飾られておかしくないほどになっていただろうし、なにより金田一は天才的な論理構築で事件を解決するタイプの名探偵であって、豊富な人生経験を武器にするタイプでは断じてない。いくら金田一が若く見えると言っても、60歳を過ぎてこれ以上、そのスタイルで主役を張らせつづけるのは、金田一というキャラクターにとっても酷というものである。
 他に年齢と言うことで言えば、管理人夫婦と家族同然のつきあいであると言っても、金田一はこの時点まで独身だったわけだから、これ以上いくと独居老人ということにもなってしまう。
 そういった意味では、ひとつの潮時を横溝が用意したのは時宜を心得たことであったろうと思うわけですが、同時に横溝自身もこの作品にかける意気込みは並ならぬものがあり、区切りの作品ということもあって、この「病院坂」は横溝作品の集大成と言っていい出来になっている。

●過去からの復習


 金田一シリーズを一言で大ざっぱに言うと、「親の因果が子に報い」ということになるのではないか。
 金田一もの、それも特に長編の場合、基本的にお話のキモになるのは、犯人の動機です。もちろん、短編を中心にそうではない、たとえばトリックが作品のキモになってくるようなものもあるんですけれども、長編の場合、最終的に「なぜ犯人がその犯行をおこなうにいたったか」が問題にされる作品が多い。特に、金田一と言ってすぐに名前が挙がるような代表作はほとんどがこのパターンだと言っていいと思う。
 そういう場合、金田一が少しずつ捜査を進めていって、最終的に行き着く犯人の動機というのは、隠された人間関係にもとづくものであることが多い。しかも、それが単純な、AとBは実は恋人だった、みたいな関係ではなくて、ずっと時代を遡ったところからはじまっている複雑なもの、たとえばこいつが実は誰かの隠し子で、とか、そういうケースが多い。
 それはいったいどういう意味合いなのかというと、ここでの感想文でも何度か書いていることですが、要するに横溝が描いた殺人事件というのは、過去の怨念が平穏な日常という表層を食い破って「過去を忘れるな」とばかりにその姿を現す、その現象だということではないかと僕は思います。
 これはたぶん横溝正史という作家にとって非常に根深いもので、横溝には日々平穏な日常生活というものが、過去のさまざまな事柄が地層になって積み重なっているその上に乗っかっている、非常に危ういものに見えていたということなんじゃないかと思う。過去の地層の中に怨念を含んだ地層があると、それが矯めに矯められた末に、ばいん、とバネのようにはじけて、平穏な日常を食い破ってしまうわけですね。
 これは完全に僕の妄想なんだけれども、それは横溝が関東大震災を経験した世代で、若い時分に浅草で遊んだりしていたのが、ある日、大震災というカタストロフが起きると、浅草十二階も瓦礫になってしまって、あんなににぎわっていた町が嘘のように焼け野原になってしまう、という経験をしたところから来てるんじゃないかと思う。

 まあ、その由来がどこから来ているのかはさておくとして、その考え方で言えば、この「病院坂」は、まさしく横溝的だと言っていい。なんせ、昭和28年に第一の事件が起きて、それが未解決のまま20年が経ち、昭和48年に第2の事件が起きる、それで元をたどっていくと昭和28年のさらに以前の人間関係にたどり着くということになっているわけです。趣向としても大仕掛けですが、実に横溝らしい作品で、かつ金田一という非常に長い間にわたって書かれてきたシリーズならではの趣向とも言えるでしょう。
 過去の事件が現在の事件の発端で、という推理小説は巷に数多いですが、過去の事件でも現在の事件でも同一の名探偵が登場して捜査をおこなう、というのは、40年近く現役で名探偵だった金田一でないとできない趣向であります。と同時に、足かけ20年未解決のまま心残りにしていた事件が解決したのでこれで引退だという、これが金田一最後の事件になるための説得力も十分にある。

●最後を飾る


 本作品が面白かったのかどうか、というと、僕は非常に面白く読みました。
 上下巻あわせて750ページ以上という、かなり長尺の作品なわけですが、ちょうど上巻が昭和28年の事件編、下巻が昭和48年の事件編となっていて、情感の最後でいったん事件が仕切り直しになるせいか、大長編にありがちな間延びした印象はほとんど受けない。最後の事件として構想をしっかり練ってから取りかかったのか、上下巻の長さもほとんど同じくらいにまとまっていてバランスもいいし、舞台となる法眼家の家系についての説明や、警察による捜査など、冗長になりがちなシーンも手際よくまとめられていて、流石はと思わせられる牽引力を持っている。
 瑕疵を捜すとするなら、トリックの部分が弱いことにつきる。オーラスで種明かしをされて、かなり拍子抜けする人も多いのではなかろうか。本格ミステリとしての評価は、だからそんなに高くないように見受けられるんだけれども、でももともとこの作品を評価する最大のポイントはそこじゃないような気もする。
 先にも述べたように、この事件の最奥にあるのはトリックではなくて人間関係なわけだから、トリックはむしろ重要ではないと言ってもいいし、犯人についてもそうだろう。
 とにかく、最後の最後で明らかにされる人間関係の、その愛憎と誤解が織りなしてしまった数十年間の法眼家の歴史ですね。それが明らかになったとき、結構ずっしりくるものがある。『獄門島』みたいなものすごい衝撃があるわけではないけど、余韻の残る終幕だと言っていいのではないですか。
 金田一の最後を飾るだけの出来映えにはなっていると思います。ミステリにあんまり明るい方ではないけど、引き際になった事件で有終の美を飾った、というのは、金田一耕助と、ポアロ、あとは第一期のホームズくらいしか思い浮かばない。ホームズの場合は、モリアーティ教授と滝壺に消える「最後の事件」は、あれは推理小説というよりは冒険小説っぽいし。こういう力作を「最後の事件」として持てたというのは、金田一耕助にとっては幸せなことだったんじゃないですかね。
(2007.8.28)


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『殺人鬼』
 (角川文庫
 1976年11月刊)
★ネタバレ注意★

●「百日紅の下にて」


 「殺人鬼」「黒蘭姫」「香水心中」「百日紅の下にて」の4本の短編を収録。
 有名なのは最後に収められた「百日紅の下にて」だろう。作者も気に入っていたようで自薦のベスト10にも短編としては唯一これを入れていたというし、また巷間にも名作として誉れ高い。
 誉れ高いと語り出したついでに、この作品のことを少し紹介する。まさしく敗戦直後、金田一耕助が戦地から復員してきて、ほとんどその足で解決した事件である。
 戦前の『本陣殺人事件』で登場した金田一は、登場してすぐに戦争に召集されてしまう。戦争が終わり、再び長編に金田一が登場するのは名作『獄門島』で、戦地で知り合った鬼頭千万太の今際の際の言葉が、金田一をあの瀬戸内海の小島へと誘ったのであった。なんとしても生きて帰らなくてはならない、帰らなくては妹たちが殺される、と思い詰めていた鬼頭千万太が、戦争も終わり、復員船にまで乗りながらマラリアで病死したというあたりに、横溝は千万太の無念の深さと、戦争へのみずからの苦い思いをこめている。
 「百日紅の下にて」は、したがって金田一が獄門島へと旅立つ直前の物語である。一種の安楽椅子探偵ものでもあるのだが、敗戦後、まだ日本中が焼け野原だったころの話なので、金田一は安楽椅子なんて贅沢なものには座らない。焼けて廃墟になってしまった大きな屋敷の庭で、火にあぶられながらも一本だけ残って花をつけた百日紅。その赤い花のもと、うだるような暑さの西日の中で、金田一は庭石に腰を下ろして一人の男と向かい合うのである。
 事件はまだ戦争が激しくなる前に起きたもので、今は廃墟になってしまったその屋敷を舞台とした毒殺事件である。ニューギニアで戦死した戦友、川地謙三の言葉によって、金田一はこの屋敷を訪ね、かつてこの屋敷の主だった男とともに事件を振り返りながら、その事件の真相を解き明かしていく。
 見事に事件を解き明かしたのち、金田一はその足で獄門島へと向かう。このラストシーンがとても印象的で、すでに『獄門島』を読んだ読者には特に、読後に余韻を残すものになっている。
 復員兵とともに蘇ってくる過去の事件、意外な真相とその後にあらわれるさらに意外な事実といった『獄門島』の変奏ともとれる道具立てもきいていて、それがラストシーンできれいに回収される効果が絶大であると思う。

●「殺人鬼」


 「百日紅」ほど有名な作品ではないが、表題作である「殺人鬼」も、なかなか面白い作品である。後年の『幽霊男』や『悪魔の寵児』につながっていくような怪人が登場する作品でありながら、まず真っ先に殺されていたのがその怪人だという意外性。そしてそれを隠蔽したまま、複数の登場人物の思惑が錯綜することで、事件自体に重層性が生まれている。
 もっとも、複雑さのゆえに一読しただけではそのあたりの美点が見えてきづらい部分はあると思うのだが、再読してみると念入りに構成が練られていることがわかる。
 人目を驚かすような派手さのある作品ではないが、かっちりとまとまった作品であると思う。戦後、ようやく復興にむかいはじめた社会が、しかし実は非常に脆い、誰もがふとしたきっかけで死と隣り合わせになってしまう昏さのようなものを内包している、というあたりを描いていて、横溝的な「社会派推理小説」といった趣もある。
(2007.8.11)


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『悪魔の百唇譜』
 (角川文庫
 1976年2月刊)

●魅力と幻滅

 都会の喧噪から一歩住宅街に入ったところにある無人の小道。住宅街という人々が暮らす場所にありながら、ひとたび会社帰りの男たちを迎え入れてしまうと誰も表を出歩くものがないそんな小道。街灯に青く照らされた1台の高級車。その後部トランクに詰め込まれたレインコートの女は、胸にトランプのハートのクイーンを載せ、その女王ごと、ナイフで胸を貫かれて息絶えていた…。
 森閑とした住宅街での魅力的な死体発見シーンではじまる本作は、金田一シリーズの中ではかなり後期になって書かれた作品で、時期的には『白と黒』から1年ほど遅れて雑誌に連載されたものらしい。単行本にするにあたって、元は短編だったのを長編に仕立て直しているということで、こういう仕立て直しは、元は独立した作品だったのを金田一ものにする、といったケースなどを含めて横溝の作品にはままある。
 ただ、その仕立て直しのせいかどうかはともかくとして、『白と黒』が分量的にかなりのボリュームであったのと比べると、本作は250ページと割に小品になっているばかりでなく、読後の印象としても小粒な感触をまぬがれがたい。これはネット上とかで感想を見ても、大体共通してみんな言いますね。
 内容はそれほどでもないのに冗長な修飾でやたら長大になってしまっているというのは困りものだけれども、それなりにコンパクトにまとまっていても、それが内容に比して長すぎるということはある。これはそういう作品なんじゃないかという気がします。

●やはり中編向きだったのでは

 どうして小粒な印象を受けてしまうのかを考えてみるに、つまり非常に中途半端なことになっているからだと思う。
 『犬神家の一族』の角川映画が1976年公開で、この映画の大ヒットを機に横溝の再評価が高まったわけだけれども、その再評価が起きるまで、横溝という作家は基本的には日本のミステリ界ではどんどん過去の人になりつつあった。戦後すぐの『獄門島』にはじまった横溝の最初の黄金期は、1950年代後半にはもう終わってしまう。
 1960年代にはいると、松本清張のような社会派ミステリが勃興して、横溝のようなスタイルの本格ミステリを駆逐してしまい、旧来的なミステリのスタイルは「古いもの」とみなされるようになってしまった、というのはすでに定説だろう。その松本清張の『点と線』の雑誌掲載が1957年から58年のことで、ほぼ同時期に横溝は『悪魔の手毬歌』を発表している。つまり、このあたりでミステリ界の地図というのは新旧が大きく入れ替わりつつあったわけだ。
 1962年に元となる短編が書かれた本作では、出張中だった有力容疑者に犯行が可能であったのかどうか検討するために時刻表なども登場したり、金田一と等々力警部以外の脇役刑事たちが事件に対する自説を開陳してみたり、社会派ミステリを意識したと思われる味つけが多い。ただ、それが成功しているかというと、どうも味つけの域を出ていない印象を受けてしまう。
 試みとして新味を入れてみているものの、元が短編だからなのかどうなのか、真正面から新しい潮流のものに取り組んだという感じではない。読んでいて、これはこの作品のキモだぞっ、というような感覚を受けることはなくて、むしろ、どっかよそのミステリでありがちだよねこういうの、という借り物の印象を受けてしまう。
 想像でしかないけれども、横溝自身、これが仮にうまくいったとしても、社会派ミステリを書こうという意志は持ってなかったんじゃないか。金田一のような名探偵の登場する社会派ミステリ、というのはそもそも語義矛盾だろうと思うし、そもそも、社会派ミステリ的な世の中の眺め方を、横溝は持っていなかった、ないしそれを面白いと思っていなかったんじゃないかという気がしますね。
 だから、気乗りのしないまま新しい試みにも手を出してみました、という感じになっちゃってるんじゃないか。
 題材としても、『幽霊男』みたいな怪人が登場するわけでもなく、さほど乱歩的などぎつい彩色の作品でもないし、地味な印象が残ってしまうところはある。やっぱり中編ていどの長さのままで展開するべき作品だった、という思いがします。そしたら、コンパクトななかですっきりまとまった好編になっていたんじゃないかと思わせるようなところがある。
(2007.7.16)


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『双生児は囁く』
 (角川文庫
 2005年5月刊
 原著刊行1999年)

●「やっぱりこれは横溝」か?


 角川文庫が横溝正史生誕百周年を記念して出している、黒白のカバーデザインもスタイリッシュなシリーズの中の一冊なわけだが、このシリーズ、帯には著名な作家の推薦の一言が添えられていて、これがまた読書欲をそそる。『本陣殺人事件』の帯は「読んでいない、では済まされない。全人類必読の名作。  −−綾辻行人」だったし、『獄門島』は「着想といい、舞台といい、文句なし。   −−北村薫」だった。
 で、この『双生児は囁く』の帯はというと「金田一さんも由利先生もいないけど、やっぱりこれは横溝だ。  −−三谷幸喜」。三谷幸喜氏に恨みはない、というかむしろ好きだが、このコピーには首をかしげた。実感から言うと「えー、これホントに横溝かよ」の方が正しい。身も蓋もない言い方で申し訳ないけど。

●横溝正史の初期作品


 別に金田一が出てこないのが不満なわけではない。『八つ墓村』や『夜歩く』など、金田一がほとんど出てこずに、最後に謎解きだけして終わる、という作品はこれまでにも読んできたし、それらも面白かったのだから。
 じゃあなんでそんなことを思ったかというと、要するにこれに収録されている短編の多くが初期作品だからでしょうなあ。
 横溝という作家がどのあたりで作家としてのオリジナリティを確立したのかは、僕にはちょっとよくわからない。ただまあ、金田一の初登場作である『本陣殺人事件』あたりでは、すでに本格推理に日本的なケレン味をアレンジした作風が定まってきている印象を受けたので、終戦を迎える頃までにはターニングポイントがあったと考えていいだろう。
 ファンならば周知の通り、横溝は探偵小説雑誌の編集者として働くかたわら、習作的な作品を変名も含めて数多く書いたり翻訳を手がけたりしたのち、やがて専業作家として独り立ちするために退社。そして戦争とそれに伴う岡山への疎開を経て、戦後になると金田一シリーズで本格の旗手として注目を浴びることになる。

 本書に収められているのは「汁粉屋の娘」「三年の命」「空家の怪死体」「怪犯人」「蟹」「心」「双生児は囁く」の7編だが、このうち編集者時代とそれに先立つ雑誌への投稿をしていた時代の作品が「汁粉屋の娘」から「怪犯人」までの4作品。この時代の横溝の作品は、刊行される例もやはり後年の金田一ものなどと比べるとぐっと少ないし、何より作者名を変名にしていることも多いために、なかなか触れる機会が少ない。そういった意味では本書は貴重な機会を提供してくれていると言えるだろう。
 ただ、それはわかるんだけど、なにぶん初期作品なので、やっぱり幾分か読みづらかったり、戦前の探偵小説という枠組みから抜け出た横溝らしさみたいなものが感じられなかったりして、「いつもの横溝」を期待してページをめくっていると「あれ?」という気分にさせられる。
 「蟹」から「双生児は囁く」までは戦中から戦後すぐの岡山疎開の時期の作品。このあたりになると、作風に後年の作品につながっていく一定の傾向が見られるようになってきたり、何よりも横溝らしいガジェットが登場するようになってきたりするので、安心感のような物が感じられる。とはいえ、いわゆる本格としての味わいがあるのは、私見では「双生児は囁く」だけだろうと思うし、それにしても少し「探偵小説」という趣が強い。
 まあ、変わり種を多く集めているので、横溝がこんなのを書いているという驚きはたしかにあったのだが、うーん、やっぱり変わり種は変わり種だよなあ、という気もするのであった。

●余談


 ちなみに、下記は角川書店のオフィシャルサイトでの本書の紹介。ちょっと一読してほしい。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200412000024

 下の方に、冒頭でも紹介した三谷幸喜氏の推薦の一言の帯が掲載されていて、その下に「■さらに詳しく」として本書の概要が載っている。そこにさらに三谷氏の推薦文がテキストで引用されているのだが。

金田一さんも由利先生もいないけど、やっぱりこれは溝口だ。―三谷幸喜

 溝口て誰やねーん!
 ごっついタイガーバズーカか!?
 いやあ、天然にはかないませんな。打ち間違いにしても「よこみぞ」と打つべきところを「みぞぐち」って打ってるんだもん。1文字目から違ってるって豪快すぎ。
(2007.3.25)


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『八つ墓村』
 (角川文庫
 1971年4月刊)
★ネタバレ注意★

 かの有名な『八つ墓村』である。「たたりじゃ〜」であり、「津山30人殺し事件」で有名なあれである。
 しかし、実際に戦中の1938年岡山で起きた「津山30人殺し」を、『悪魔が来たりて笛を吹く』での帝銀事件と同様に事件の背景に配置して書かれた本作が、その後、1977年の映画化における「八つ墓村のたたりじゃぁ〜」の台詞で、後々まで強いインパクトを与え続けたことは、ミステリが少しでも好きな人間なら誰でも知っていることであろうから、そうしたことについて、ここにことごとしく書き連ねることは止そう。
 津山30人殺しについては、本作で取り上げられずとも、日本の犯罪史上まれに見る大量虐殺であるから、古びることなく歴史の中に残っていたのかもしれない。島田荘司の『龍臥邸事件』など、近年になっても、この事件をモデルにした作品が書かれていることは、それを証拠だてるだろう。もっとも、「龍臥邸事件」などは、直接には「八つ墓村」を本歌取りしているような気もするが。

 それはともかく、小説での『八つ墓村』は、横溝自身「抜け孔の冒険」の段の冒頭で語るように、役割で言えばスケープゴートである寺田辰弥の視点から書かれているという点で、金田一シリーズの中でもやや特異な作品だと言えるだろう。
 もっとも、「夜歩く」や、「蝙蝠と蛞蝓」、「車井戸はなぜ軋る」など、同種の結構を用いたものは金田一シリーズ内だけを探しても他にもあるわけで、この「八つ墓村」のみを特殊例とするのはあたるまい。
 どちらかと言えば、昭和22年の短編「蝙蝠と蛞蝓」を、こうした「探偵、あるいはワトソン役以外の事件関係者による一人称がたり」という手法を用いる実験作と位置づけ、翌23年の「夜歩く」、24年の「八つ墓村」という2長編でもって、その手法を変奏しつつ実践した、と考えるのが当たっているように思う。
 こうした手法が横溝オリジナルのものかどうかは、ミステリに疎い僕にはちょっとよくわからないが、海外ミステリの翻訳などもずいぶんとこなしていた横溝のことだから、どこかからヒントを得たことは十分に考えられるだろう。

 金田一との因縁浅からぬ岡山での事件ということで、もはやこれは必然的にと言っていいだろうが、磯川警部も登場する。
 人物でおなじみなのは磯川くらいだが、他にも地下の迷路状の洞窟、旧家、知恵遅れの女性など、道具立てとしては金田一シリーズで馴染みの物が多い。もっとも、最初は「獄門島」の月代にも似た、月遅れの女性というだけの印象しかなかった典子が、話が進み、辰弥と情を通わせるようになるに従って、そこに「美しい」という形容詞が乗っかってくるあたり、連載中にもやや設定が揺れていたのかな、と窺わせるところがあり、そこに横溝自身の若さを見ることもできる。
 金田一がメインに据えられていないため、トリックを徐々に解明していく面白さはないが、読者にはぼんやりと見えている犯人の、その動機はなかなか意外性がある。

 ただし、映画化などの影響で、金田一シリーズでも代表作のひとつに数えられることが多い作品ではあるが、僕自身は、そこまでめちゃくちゃに面白いというふうには感じなかった。
 それは、先程も述べた、トリックを考える楽しさがあらかじめ削減された構成になっているせいかもしれない。また、犯人自体も、割に推測がつきやすいせいかもしれない。
 結局、横溝に背負い投げされてくるっと世界が一回転してしまうような眩暈が、本作にはないというのが、僕には不満なのだと思う。
(2003.9.27)


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『悪霊島』
 (角川文庫
 1981年5月刊)
★ネタバレ注意★

 さて、「金田一耕助最後の事件」と言えば「病院坂の首縊りの家」だが、その「病院坂」の後も、実は横溝は金田一シリーズを書いている。それがこの「悪霊島」である。この作品の後も構想はあったらしいが、横溝はその構想を形にすることなく逝ってしまった。(未発表原稿は発見されているらしいので、これが「横溝正史最後の作品」かどうかはわからない)

 「悪霊島」の舞台となる刑部島は瀬戸内海に浮かぶ小島だ。「獄門島」から32年を経て、金田一はまた、この地に戻ってきたわけである。
 そう思いつつ読み始めると、過去の名作、「獄門島」「蜃気楼島の情熱」「女王蜂」などが、瀬戸内海を眺める金田一の脳裏に回想されているという描写がかみしめられる。冒頭、金田一は鷲羽山から水島コンビナートを臨んで感慨に浸るが、「獄門島」事件の時には、そこにコンビナートはなかったわけだ。
 もちろん、「岡山弁だよ」「うっしろむき〜!」の脱力系キャッチコピーで岡山県民にはおなじみの鷲羽山ハイランドもそこにはない。
 かわりに、事件の背後にヒッピー姿の若者が現れる。復員兵からヒッピーへ。登場する若者の姿も明らかに移り変わった。
 …ていうか、「獄門島」の早苗さんのことをちらっと思いだしたりもする金田一だが、金田一自身も徴兵されて帰ってきた復員兵なわけだから、もういい加減でいい年だろう、あんたも。
 計算してみると昭和12年が舞台の「本陣殺人事件」の時が20歳そこそこだろうから、もうかれこれ50歳だ。
 なんか、これ以上つっこんでいると、金田一少年は本当にこの人の孫なのか、というところに話が流れていきそうだけど。きっと有名な疑問なんだろな、これ。

 さて、この「悪霊島」、そんな冒頭シーンが醸し出す雰囲気が、割に後半になるまで続いていくので、なんだか旅情ミステリーという趣である。
 それはそれで楽しいのだが、ある意味、どんな美しい風景も惨殺死体の発生現場となっていく金田一シリーズで旅情を醸されてもな、という気もしなくはない。
 ただ、横溝の力の入り具合はけっこうなもので、孤島の名家で不遇をかこつ絶世の美女、島にやってくる神楽の一座、封建的な島の権力構造、火事、奇形と、それまでの作品でも馴染んだモチーフを雑然となりすぎない程度にきっちりと配置して、その中に過去の作品を映しこみつつ、おどろおどろしい中にも開放感のある新しい時代のミステリとして、完成度の高いものに仕上げている。
 もっとも、それは何か全く新しいことを試みようというような力こぶの盛り上がったものではなく、総決算的に過去のモチーフを盛り合わせている、その手際が素晴らしいということなので、新奇さには欠けるかもしれない。
 実際、その犯人はわかりやすすぎるだろう、という気はするし。

 ちょっと面白いなと思うのは、過去に何度も使ってきたモチーフを、それでも使うのをやめない横溝の執拗さだ。
 多分これは、アイデアが出ないとかいうことじゃなく、いろいろなモチーフに、象徴的な意味合いを持たせようとしているのだろう。あるいは、横溝の意図にかかわらず、そうしたものは反映されているのだろう。
 復員兵が過去からの亡霊であったと同じく、譲渡される妻は男性社会の中での権力の移譲と、その中で女性の人間性が復讐を遂げるという一面を持っているし、もっと単純に、島はイエ制度のような旧来的な日本の制度を象徴しているとも言える。
 そこまでわかりやすい、ケレン味にあふれたものでなくとも、火事、建設業者、崖など、いくつもの作品に共通して登場するものというのは、そこに何かしらの共通性が見いだせる。
 復員兵や妻の譲渡などが、横溝が計算して入れ込んだモチーフだとするなら、こうした、あまり目につかないようなモチーフの中には、「こういうシーンなら、そりゃやっぱ火事だよな」といった、横溝自身が意識していない部分での、対象物をとらえるときの癖のようなものが転写されている、無意識のモチーフだと言えるだろう。
 本作は過去のモチーフの総決算だけに、そうしたモチーフの群れから作品を読み込もうとすると、また新たな顔がのぞいてきて、なかなか面白いところである。
(2003.6.18)


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『悪魔の寵児』
 (角川文庫
 1974年3月刊)
★ネタバレ注意★

 さて、なんだか『幽霊男』に引き続いて、図らずも、似たような趣向の作品を読むことになってしまった。角川文庫の金田一シリーズでも、巻数をわざわざ離して編んであるというのに。
 ま、これも何かの縁というものかもしれない。両者の比較の中から、感想をつづってみよう。

 今回もまた、怪人が登場して、金田一を嘲笑うかのように犯行を繰り返すという趣向である。今回の怪人は(なんだか、こういう書き方をすると、ショッカーか何かの怪人のようだ)「雨男」。ちょうどいま時分、「ベショベショと」雨の降り続く季節に、レーン・コート、ゴム長、フード、マスク、サングラスという、あからさまに怪しい姿で現れるこの怪人は、戦後派の辣腕社長が面倒を見ている愛人たちを、次々に惨殺していく。
 『幽霊男』はヌードモデルプロダクションのモデルたち、『悪魔の寵児』では社長の愛人たちと、どうも怪人が出てくると、話が愛欲の世界へと流れていくきらいがある。それも含めて乱歩テイストを取り入れている、という気もするが。
 しかし、『幽霊男』が、単純に、猟奇趣味の肉欲の世界だったとすると、『悪魔の寵児』のこっちは、もうちょっとドロドロとした情念の世界だ。
 どちらが好きかは、好みの問題だろう。ちなみに僕は、どっちの世界もあまり好きではない。作品として好き嫌い、という意味ではなく、趣味性の問題として。

 それはともかく、怪人が出てくる、ということはどういうことかというと、その怪人の存在によって、疑いの目から逃れられる人物が真犯人である可能性が高いということだ。
 なんだか、ちょっと裏技っぽいけれど、そう考えておくと、真犯人の目星はだいぶん、つけやすくなる。まさかこれで、いかにも雨男っぽい有島忠弘が犯人だ、なんてことになったら、それは詐欺、あるいはそれが小説であることを見越しての、メタレベルでの叙述トリックというものだ。
 そんなわけで、「雨男」がどのような人物なのか、表象として現れている事柄を、どんどん裏返しにしていってやればいい。それだけで、トリックまではわからずとも、犯人の目星はまず間違いなくつけられると思う。
 もっとも、それだけでは、「あら? それじゃ、あれはどうなってるんだろう?」というところが出てくるので、「謎は全て解けた!」とは言えない。正確を期するなら「謎は解けてないけど犯人はこいつで間違いなし!」である。
 もはや探偵の台詞ではないなあ。
 探偵としての台詞を吐きたいのなら、真犯人を覆い隠す「怪人」というヴェールが、どのようにこちらの先入観を利用しているのか、それに気を止め、そして、目星をつけた真犯人が犯行を犯すためには、どのようなトリックを用いればいいかを考えればよい。
 『幽霊男』では、「幽霊男」の目撃者が真犯人というところで、「怪人」の影が真犯人の正体を覆い隠すような形になっていた。
 本作の場合は、「怪人」という言葉で表される真犯人が、別に1人とは限らない、というところがミソになっている。それに加えて、そもそも、仮称であるはずの「雨男」に、どうして「男」の文字が使われているのか、という点だ。
 最終的に、屍姦という状況をどのように作りだしたかがわかれば、ほぼ解答は出揃う。僕はもちろん、出揃わなかったが。
 本作の場合は、今日の科学捜査で、何がどこまでわかるか、というのを、読者が知っていれば知っているだけ不利になる仕組みにもなっているので、一度、そのへんはすっぱり忘れて読むと、もうちょっと推理もしやすくなるかもしれないが。
(2003.6.16)


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『幽霊男』
 (角川文庫
 1974年5月刊)
★ネタバレ注意★

 誰が読んでもわかるとおり、乱歩へのオマージュ満載な本作。
 もちろん他に、横溝に乱歩的な趣味性の作品がないでなし、とりたててそれをもって騒ぎ立てるつもりもないが、あからさまな犯人を「怪人」として登場させる趣向は、人によって好き嫌いはあるにせよ、対決色が強くなって面白い。ヌード写真、探偵の助手的な役目をつとめる少年、不気味な笑い声と、道具立てもまた乱歩的である。
 もっとも、怪人の魅力という点では、乱歩作品には劣るかな。そのかわり、構成力では、僕は横溝に軍配を上げる。

 ものすごく犯人ばらしに近いことを書いてしまうと、これは要するに叙述トリックだ。
 まぁ、冒頭でも注意しておいたから、ネタバレが嫌な人は見てないよな、ということで、思い切って筆を進めてしまうが、その叙述のトリック性が発揮されるのは、「冒頭、怪人幽霊男が初登場するシーンでは、幽霊男が実は真犯人ではない」という点では、実はない。だって、それだけだったら、スケープゴートと真犯人、というだけのことにすぎないから。
 これが真に叙述トリックとして完結するのは、その後、幽霊男が通行人の女性を脅かすシーンで、幽霊男を「おい、女性を脅かすな」と制するのが既出の人物であるにもかかわらず、それを記述しない、という点。
 そして、冒頭での幽霊男登場シーンを踏まえた上で、その後、幾度も怪人幽霊男を、今度は真犯人として登場させる、という点が、叙述トリックとしての効果を発揮させるツボなのである。
 さらに言えば、真犯人としての怪人幽霊男の登場シーンは、探偵である金田一が知らない情報のうちでも、幾度か描かれる。
 ちょっとくどいかな、という気もしないではないくらいに幽霊男は登場してくるのだが、これがあるから、読者は「冒頭の幽霊男=真犯人の幽霊男」という構図を、なかなか疑えない。
 こうした描き方も、乱歩の叙述を意識したものだと思うのだが、本作の場合は、そうして乱歩調を意識的に使うことによって、叙述トリックを完成させている。つまり叙述トリックとして、乱歩へのオマージュを取り入れているということも出来るだろう。
 途中から登場する怪人物マダムX(このへんのネーミングセンスも乱歩的だ)の存在も拍車をかけて、全体の構図を把握できないままに、読者は真犯人逮捕の場面まで導かれてしまうことになる。というか、僕はそうだった。
 もしも、推理小説は解決編の手前で読むのを中断し、最初から読み直して真犯人を推理する、というようなタイプの読者なら、もう少し真相に近づけるかもしれない。「冒頭の幽霊男≠真犯人の幽霊男」という点に思い至れば、後の推理はそう難しくはないからだ。
 しかし、本作の真犯人は人間が小さいよねぇ。
(2003.6.15)


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『迷路荘の惨劇』
 (角川文庫
 1976年6月刊)
★ネタバレ注意★

 発端となる舞台は富士の裾野の練兵場、と言えば、これは白井喬二の『富士に立つ影』だが、本作の舞台は、富士の裾野に立つ奇妙な大邸宅で、その名も名琅荘。
 元は明治の元勲が作った趣味性バリバリのお屋敷を、戦後になって、今度はいわゆる戦後派の富豪が買い取ったもので、2つの棟を洋室棟と和室棟にすっぱり分けた部屋割の構成、江戸時代を思わせる謁見の間、そして何よりもあちこちに張り巡らされた抜け穴から、付いたあだ名は人呼んで迷路荘。
 この迷路荘を舞台に起きる惨劇、血の記憶、抜け穴より続く洞窟に、響く悲鳴と転がる屍、謎を暴くはご存知名探偵金田一耕助であります。

 そんなわけで、別にへたくそな講談調に語らなくってもいいんだけれども、読んでいてなかなか、講談調に語りたくなるような面白さの一作ではあった。
 というのも、これまでに読んだ金田一作品と比べて、サスペンス色が強いのがその一因。先にも言ったように、本作の舞台となる名琅荘は至る所に抜け穴の類があり、その一部は邸外の洞窟へと続いている。この、屋敷内から伸びる洞窟が、犯行に重要な役割を果たしたらしいということで、金田一と静岡県警の刑事たちは、ここを何度か探険することになる。
 金田一耕助という探偵は、割にあちこちを走り回っている印象は強いけれども、あんまり冒険とか探険をするような印象ではないので、これはちょっと新鮮。

 もひとつ印象深いのが、終戦から5年たって、辣腕家の叩き上げ社長、いわゆる戦後派の富裕層が出てきて、これが旧華族層から、社会の主役的な地位を引き継ぎつつあるという点。
 他の作品、たとえば『悪魔の寵児』なんかにも登場するモチーフなんだけれども、それを象徴的に表すのが、戦後派の社長が没落華族から、妻を移譲される、というか、ありていに言ってしまって金銭トレードで奥さんを譲ってもらう、もっとありていに言えば妻を買っている、という設定。
 もちろん、当時、そういうことが本当に頻繁におこなわれていたわけではないが、裏も表もひっくるめて、戦後派がその辣腕で斜陽族から権力も地位も奪っていく過程というのを、象徴的にとらえていると思う。
 そしてまた、そうして移譲される妻もまた人間であり、醜さも欲望も持っているのだ、と主張するかのように、その象徴的な構造を瓦解させる真犯人。決して印象深いわけではないにせよ、意味合いとしては深い。そこにフェミニズム的なものの萌芽を認めるのは、ちょっと考えすぎだろうか。

 抜け穴だらけの舞台の意味合いについては、多分、他のミステリ専門サイトさんの方が詳しく書いていると思うので、ここでは感想を述べるのを差し控るが、少なくとも本作については、それをあんまりうまく使っているという気はしなかったかな。
 むしろ、もう一人の真犯人、本当にラストのラストで明かされる第1の殺人の真相の印象深さと魅力に注目してみたいところ。
(2003.6.14)


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『白と黒』
 (角川文庫
 1974年5月刊)
★ネタバレ注意★

●なぜ団地は舞台になったか


 舞台は高度成長期、1960年の東京は巨大団地。
 終戦後のにおいがいまだ残る時代を舞台とした、いわゆる「斜陽族」と呼ばれた没落華族の物語であった「女王蜂」から、またずいぶんと時代が飛躍した。もっとも、これは時代順を追わずにシリーズを読もうとする阿呆な読者、すなわち僕の責任である。
 この巨大団地と、その近辺の新興商店街で起きた殺人事件に、金田一耕助が挑むのが、本作「白と黒」だ。
 犯人の正体、錯綜しつつも決して血縁地縁によっての結びつきではない人物関係など、なんとも1950年代からの時代の隔たりというものを感じさせる。そして、それらの時代性を象徴するのが、舞台となる日の出団地なる巨大団地だろう。
 第3章の冒頭には、団地というものの性格について、次のような解説が試みられている。

 日本全国にニュー・タウンとよばれる団地が、ぞくぞくと建設されるにしたがって、そこに居住するひとたちの社会心理学というものが、ちかごろ問題になってきている。
 団地という従来にまったく見られなかったタイプの住居と、そこにおける生活が日本人の社会心理に、どのような影響をおよぼすだろうかということは、これからますます必要になってくる研究課題にちがいない。
 (中略)団地のような共同社会では、後者に属するがごときソリチュード(孤独)な人間は、そこに住むことだけでも苦痛そのもののように考えられがちだが、かならずしもそうとばかりはいえない。それは団地というものは多くの家庭の集合体ではあるけれど、ひとつひとつの家庭が鍵のかかる鉄の扉によって、げんじゅうに防衛されているからである。これは従来の日本にはほとんどなかったタイプの住居ではないか。
 しかし、共同社会といってもかれらはそこで、生活のかてをえているわけではない。大げさにいえばそこはかれらのネグラに過ぎない。朝起きると男の大部分と女の何パーセントかはそこを出て、それぞれちがった職場へ働きにいく。そして、夕方かえってくると、鉄の扉と厚いコンクリートの壁に守られて、外部から遮断された生活のなかに閉じこもることができるのだ。


 本作が書かれたのは1960年、ちょうど、松本清張の登場により、いわゆる社会派推理小説なるジャンルが盛んになってきていた時期であり、このような解説や、またこうした団地の生活が犯罪の上でどのような役割を果たしていくか、といった面が、社会派推理小説を意識して書かれたものであることは疑えないところだろう。
 おそらく、この視点を、団地の上に固定したままで、80年代までずるずるっと引っ張っていくと、大友克洋の「童夢」が出てくるところへも流れ着くのではないかと思う。
 では、なぜに横溝は、団地を舞台として選んだのだろうか。

 団地が高度成長期を象徴するような、ひとつのトピックであったことは、特に説明を要しないだろう。もうひとつ、「郊外」というトピックもこのあたりで出てきて、島田雅彦をはじめ、様々な作家の原風景を形成していくことになるが、ここではそれはひとまず措く。
 しかし、時代のトピックであったということだけでは、推理小説の舞台にセレクトされる理由としては弱いだろう。
 そもそも、そこで犯罪が起きる必然性がなくては舞台になるもなにもないわけだ。
 ということはつまり、推理小説の上で犯罪が起きるのはどういった場面であるのかを、横溝がどのように認識していたか、あるいは取り扱おうとしていたか、という問題について考えれば、なぜ本作の舞台が団地であったのかも自動的に導き出せるということになるのではないだろうか。

 その答えのひとつは、「異なった文化背景の交差点」ということではないのか、と思っている。
 『悪魔が来たりて笛を吹く』の感想で復員兵の暗喩について書いたが、それはつまり戦後という背景の中に、突如として戦中を背負い込んだ人物が紛れ込んで来るということの不吉さだった。他にも、田舎と都会、貴族と庶民といった、異なったシーンが交差してくるところで、常に事件は起きていたのではなかったか。
 エイズや、近頃話題のSARSと構造としては似ている(といったら語弊があるか)。それまでは人間とは住む環境や地域が違っていたはずのウイルスが、人間がその版図を拡大していく中で、人間と接触し、そして感染する。交通網の発達は、ウイルスのキャリアーを世界中へと運び、瞬く間にその不吉な死の影をまき散らす。
 同じように、犯人と被害者が別々の場所で、別々の暮らしをしていれば起きなかったはずの殺人が、復員・移住・結婚などによって、両者が交わった瞬間に発生してしまう。
 それはつまりひとつの悲劇性であり、「モルグ街の殺人」から脈々と受け継がれた犯罪の種子の姿であると言えるだろう。
 こうした犯罪の舞台に対する見解は、横溝のオリジナルというよりは、割にオーソドックスなものではないかと思うが、では団地はそれに該当するのだろうか。

●まぜるな危険


 団地というのはひとつの共同社会であり、あちらこちらから異なった人生を背負った家族が移り住んでくる場である。ことに、高度成長期の東京であるから、それこそ日本中から、いろいろな年代の人々が集まってくる。
 それでは、団地とはまさに犯罪の舞台となるにふさわしい場所なのか。
 なるほどこの条件だけを見れば、一見、見事に犯罪の発生する場としての条件を満たしているようではある。
 しかし、先に引用した団地の性格に関する文章の「しかし、共同社会といってもかれらはそこで、生活のかてをえているわけではない。大げさにいえばそこはかれらのネグラに過ぎない。」とは、団地での共同社会が、従来から日本にあった「長屋」的共同社会とはまた異なった性格を持ったそれであることを言わんとしている。
 貧乏長屋に素性の知れない浪人が越してくる。しばらくすると殺しが…、というのは捕物帖でもしばしばあるパターンだが、これは長屋という一枚岩の共同社会に異分子が入ってきたことによって犯罪が起きる、というパターンなわけだ。団地とはそうした場所ではありませんよ、と横溝は言うわけである。
 「団地というものは多くの家庭の集合体ではあるけれど、ひとつひとつの家庭が鍵のかかる鉄の扉によって、げんじゅうに防衛されている」から、「鉄の扉と厚いコンクリートの壁に守られて、外部から遮断された生活のなかに閉じこもることができる」わけである。住民の意思によるところも大きいが、別に異分子が越してきたところで、交わらずにいようと思えば、いくらでもそうすることが出来る。
 これでは、推理小説的に言えば、犯罪は起きづらい、と言わねばならないだろう。様々な文化背景が、セパレートされたままで団地という巨大な箱の中に納められている。それが交錯し、混じり合おうとしない限り、複雑怪奇な犯罪模様は描かれるべくもない。
 錯綜した血縁関係はもちろん、没落華族も、突如として帰ってくる復員兵も、登場してきたところで、団地の中ではコミカルなゴシップのネタにしかならない。また、なんだったらそれらがひとつの団地の中で共存していくことも、そもそもがセパレートされているわけだから、別に不可能なことではない。

 つまり、「白と黒」とは、それ以前の時代を舞台に横溝が描いてきたような犯罪が不可能になった舞台で、あえて書きはじめられている小説だと言っていい。
 セパレートされている諸要素が、たまたま、異常な形で交われば、そこに犯罪は発生する。それは推理小説ではひとつの必然であり、団地とはまさに、「まぜるな危険」の集合体である。
 ただしそこで起きる犯罪は、おのずと、単純な動機と単純な手段によって達成される。別に、複雑なトリックを弄してみようと思えば出来ないことはないだろうけれども、それで何をごまかそうというのか。団地というのは、それ自体がひとつの群衆なのであって、そこに紛れている限り、犯人はすでに隠れていると言っていい。何もわざわざ、複雑な動機を抱く必要もなければ、複雑なトリックで真実を糊塗する必要もない。
 それでも、推理小説である以上、そこでは難事件が発生することになる。
 本作は、したがって、様々な要素と様々な犯罪がパッチワークのように結びつくことで、ひとつの怪事件を構成している、という設定になっている。それが必然というわけではないし、それしかありえない描き方ではないと思うが、それでも、横溝にとっては、そんな条件の中でいかに怪事件を描くか、という問いに対する、これがひとつの回答だったのだろう。

 しかし、時代の変化というものか、金田一も性格が変わってきてるな、と思わされる。もはやはにかみ屋でもなければどもり癖も出ない。単に「警察にも信頼の厚い名探偵」だ。
 何というか、それでいいのか、という気もしないではないけど。
(2003.6.2-3)


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『女王蜂』
 (角川文庫
 1973年10月刊)
★ネタバレ注意★

●この帯は反則では…?


 まず最初に。横溝生誕百年記念の角川文庫版帯には、「金田一VS絶世の美女。これほどわくわくする設定があるだろうか。」と、鈴木光司の献辞が捧げられている。書店で見て、「これ書いちゃいけないんじゃないの?」と思った。
 思いません? 普通、「VS」ってのは、対決することを表す表記であって、とりもなおさず、探偵小説で金田一と対決するというのはライバル役の探偵か、もしくは犯人でしかありえない。そして、本作で登場する絶世の美女は2人で、そのうち1人はすでに死んでいて、残る1人は探偵ではない。
 まさか真犯人バレ…?
 いかに鈴木光司と言っても、いくらなんだってそりゃしないだろうと思ったものの、一抹の不安を消し去ることが出来ませんでしたね。だって鈴木光司だもん。
 結論から言いますと、さすがにそれはなかった。これから読もうという方は安心されたい。しかし今度は、この対決しなさっぷりに唖然としなければならないわけだが。

●犯人はわかりやすいけれど


 ま、文庫の帯のことを延々と話していたところでしょうがない。
 非常に面白くて、これまでに読んだ金田一シリーズでも「獄門島」「悪魔が来たりて笛を吹く」に次ぐのではないかと思える本作ではありながら、反面、犯人がわかりやすい、という弱点も秘めている。簡単に本作の感想を概括してしまえば、そういうことになるだろうか。
 まず、欠点の方から述べる。
 本作での犠牲者は5人。ただし、うち1人は19年前に死んでいる。つまり、過去の事件の真相を巡り、長い年月を経て、別の事件が動き始め、4人の犠牲者が新たに生まれるという構図だ。
 ただ、新たに犠牲者となる4人が、どう見てもおかしいというか、全く重要でなさそうに見える者ばかりなのである。
 孤島で18年の人生を送った後、東京の養父の元へやってきた絶世の美女、大道寺智子(「CCさくら」の大道寺知世はここから来てるのかなぁ、とちょっと思ったけど、考え過ぎかしら)。彼女をめぐり、その周囲の人々のうち、幾人かが殺されていくわけだが、まず、第1の被害者は、彼女への求婚者の1人、遊佐三郎。3人の求婚者の内の1人である。まぁ、こいつはいろいろと、事前に不振な動きも見せていたので問題ないとしよう。
 次に発見された犠牲者は、彼女が投宿していた修善寺の宿の庭番の爺さんである。いきなり小粒になった。この爺さんについては、後に意外な過去が明らかになるわけだが、これを主要人物の1人と言ってしまうには問題があるだろう。
 3人目の犠牲者は、3人の求婚者の1人、三宅嘉文。求婚者の1人と言ってしまうと、重要人物のようにも見えるが、デブで小心者で、そのくせ凶暴なところもあるという、典型的な小物である。まぁ、それにしても、「でぶのくせにはにかみ屋の三宅は、秀子や蔦代を相手に、退屈な話をしていた」という、横溝の描写には「くせに、ってこたないだろ」と思わずにはいられない。太ってたって照れ屋さんな人はいっぱいいるさ。それとこれとは別問題じゃん。
 で、ちょっと話がそれたが、4人目は、宗教家にして智子の叔父のくせに智子に恋慕して乱暴をはたらこうとする、という何ともアクの強い、それでいて端役臭の抜けない九十九龍馬。
 そんな4人が相次いで殺されるんだもの。実際に起きた事件であればともかく、探偵小説的に考えれば、この人たちを殺すのが目的というより、殺人によって何か別の目的を達成しようという動機であるに決まってるさ。そして、それはつまり、殺されるのは誰でも良かった、ということを意味するわけだし、そうなると、庭番のじいさんと九十九さんはともかく、他の2人を求婚者という立場にセッティングしえた人物が犯人であろうことも芋蔓式にわかってくる。もひとつおまけに、19年前の殺人も、その人が犯人ではないかというのは、おおよそ推察できるところだろう。
 最終的に、金田一に説明してもらうまでわからなかったのは動機くらいのもんだ。

 ただ、犯人がおおよそ見えているからつまらないのか、ダメなのかというと、僕はそうではなかった、というのは言っておくべきだと思う。
 美人描写というと、どうしても泉鏡花あたりと比べてしまうからいけないのかも知れないが、横溝は決して、そういう描写が巧いわけではない。実際、智子の容貌についても、具体的な描写を重ねた後に「とにかく諸君があらん限りの空想力をしぼって、智子という女性を、どんなに美しく、どんなに気高く想像しても構わない。それは決して、思いすぎということはないのだから。」と、読みようによってはやや投げやりともとれる言葉を継ぎ足している。
 しかし、この智子が、後に妖婦的な影を宿すようになると、これが急に生き生きとしてくる。魅力的と言うよりも、妖しいのである。それが、求婚者たちのあしらいかたひとつにしてもうまく出ている。
 これはもう、横溝の資質の問題であると思うのだが、奥床しくて清楚で…と言ったような美人は、結局、描けなかったんだろうなあ、と思う。それは横溝の、ひとつの限界点でもあったかもしれない。
 そして、かぐや姫をモチーフにしたと思われる全体の構図。
 貴種流離のお姫様と、彼女を離したくない翁と媼、3人の相手にもされていない求婚者、お姫様の出生の秘密。
 誰も言ってないような気がするけれど、これはやっぱりかぐや姫だと思う。そこに欲望と殺人を投げ込んだところに、ひとつの人間関係を描き、翁の欲望と媼の悲しみをひとつの悲劇として描いた横溝の工夫があった、と考えるべきではないだろうか。
 犯人がわかっていたとしても、この悲劇は上質である。
(2003.5.31)


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『人面瘡』
 (角川文庫
 1996年9月刊)
★ネタバレ注意★

 実は『夜歩く』を読んだ際、どうにもあと一歩、のめり込んで読めなかったことが、ちょっと引っかかっていた。もうこの世界観というか、横溝の作る探偵小説の世界に、早々と飽きてしまったのではないかと。
 『獄門島』での横溝作品との出会いからわずか1ヶ月あまり、飽きっぽいことでは人後に落ちないが、いくら何でももう飽きたと言ったのでは横溝ファンからタコ殴りにされること必定。
 僕自身にしても、「獄門島」で受けたあの衝撃は何だったのかという気分になってしまうので、まだもうちょっと、飽きてしまいたくはない。
 というわけで、恐る恐る、といった心境で読み始めた「人面瘡」。
 いや、面白かった。やはりあれは、「夜歩く」が、ちょっと肌に合わなかっただけなのだな。

 「睡れる花嫁」「湖泥」「蜃気楼島の情熱」「蝙蝠と蛞蝓」「人面瘡」の5編を収めた現行の角川文庫版。
 この5編がいずれも、コンパクトにまとまっていながら、秀作と呼んで差し支えない出来。しかもそれでいて、それぞれにテイストが違うあたりが、読む側にしてみれば目先が変わって嬉しい。
 もっとも、この文庫版シリーズは全部そうなんだけれども、せめて発表年次くらいは入れておいて欲しい気がするが、文句を言ったところでしょうがないだろうか。

 僕個人の嗜好を抜きにしても、この5編でもっとも横溝正史自身の芸風がよく出ているのは「湖泥」なんじゃないかという気がする。
 封建的・閉鎖的な田舎の村と、そこに入り込んできた異分子。猟奇的な状況で発見される死体。ぼんやりと犯人らしい人物は見えているが、決して確証を得られない、という読者をよそに、表面的に糊塗されていたさまざまな暗い部分を暴き立てつつ疾走する金田一耕助の推理。
 横溝は、「汚された死体」が好きだ。いや、好きなのかどうかはともかく、しばしば、それを登場させている。
 血まみれの死体、などというのは、むしろ横溝作品ではきれいな死体の部類にはいるのかもしれない。
 「犬神家の一族」での、水面からにょっきり2本の足が突き出ているのが発見されるシーンは有名だ。映像化されたときでも抜群のインパクトを誇る。あれが代表例ということになるだろうが、「糊泥」でも、発見された第1の被害者の死体は屍姦され、義眼がどこかにいってしまって容貌が崩れている状態で発見される。
 なぜ死体を汚すのか。
 小説内に用意された解答を用いれば、それはおおむね、犯人が何かを誤魔化すために仕掛けた工作であるということになるだろう。
 しかし作家にしてみれば、別段、死体を損壊させずとも、トリックを張りめぐらせることは可能なわけで、これだけしょっちゅう、屍姦されたり首が切り落とされたり逆さ吊りにされたりといった死体が出てくる以上は、それはそこにひとつの趣味性を見るべきなのだろうと思う。
 それは見世物小屋の少女たちに通じるような、いわゆる「いかもの趣味」ではあるんだろうけれども、しかしそこに横溝が、ある種の魅力を見いだし、それを推理小説の上に描くことで、読者たちもその魅力に気づくことが出来たのであれば(もちろん、乱歩をはじめとする先駆者の存在はあったにせよ)、それは一概に否定するべきことではないのだ。

 「糊泥」の犯人は、一度抜き取り、捨て去った被害者の義眼を、屍姦の際に顔が崩れていてはあまりにおぞましいというので、また掘り出しに行く。それも、第2の犠牲者が横たわっている現場へ。
 このときの犯人の行動を思い描いてみると、なかなか滑稽で、それでいてとてもグロテスクだ。
 義眼を拾いに行く、というそれ自体がグロテスクな行為でありながら、それは失われた被害者の容貌を取り戻す、すなわちグロテスクからの回復を目的としている。しかも、なぜグロテスクから回復させるのかと言えば、屍姦という、別のグロテスクな行為のためなのである。
 このアンヴィバレントな行動を、金田一は犯人が正気である証だとして、嬉々として指摘するのだが、僕としてはその両義性は、そのまま正気と狂気の狭間にある殺人犯の存在を象徴していると考えてみたい。
 そうした犯人の像は、あまりも朴訥な村の巡査、清水巡査の田舎者ぶりと対比されることでさらに魅力を増している。実際、清水巡査は、犯人の両義性・複雑さを引き立てるためにのみ存在していると言っても言い過ぎではないだろう。
 そして、この清水巡査の単純さが引き立てるのは、もちろん、真犯人のみではない。犯人と同じ思考経路をたどることを許されたもう一人の犯人、金田一耕助の怖さのようなものも、これでぐんと引き立てられるのである。
(2003.5.30)


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『夜歩く』
 (角川文庫
 1973年2月刊)
★ネタバレ注意★

 うむむむむ、どうなのだろうな、これ。ちょっと消化不良というか、書ききれなかった部分があるんじゃないかという印象を受けたけど。
 くわせ者揃いの旧家で起きる猟奇殺人、入り組んだ血縁関係、岡山、夢遊病、佝僂(「くる」と読む。せむしの意で、そのまま「せむし」と読んでもいいだろう。だが、いくら何でもこれは読み仮名をつけた方が親切というものだ。差別用語関連の配慮とは思うが、文字面だけは残して読みも意味も教えない、という編集側の態度はちょっと読者に対して不誠実)と、金田一シリーズでおなじみのケレン味に満ちた道具立ては揃っている。
 それでいて、ぐいぐいと引っ張り込まれるような引力をあまり感じないのは、物語もなかばを過ぎるまで、金田一耕助が登場しないせいなのだろうか。

 まぁ、なかなか金田一が登場しないのにも理由はある。
 本作の語り手は屋代寅太。売れない探偵小説作家で、事件に巻き込まれていくことになる。
 物語は、彼の叙述を通して語られ、読者を誘う。
 1948年発表の本作より以前に発表されている、たとえば「黒猫亭事件」などでは、金田一が語り手を「Yさん」と手紙の中で呼んでおり、一見、この屋代虎太こそが、これまでも金田一の活躍を小説に仕立ててきた張本人「Yさん」の名前であると早合点しそうになる。なるほどそれでは、これまで「Y」は「横溝」の「Y」であり、横溝自身が金田一の実際の活躍を小説に仕立てました、という趣向なのだと思ってきたが、ここで横溝も、ワトソン役に正式な名前を与えるのか、と。
 ところが、これこそが本作に仕掛けられた最大のミスリードで、本作の真相こそは、もうこの際だからぶっちゃけてしまうと「アクロイド殺し」のそれと同様だということになっている。「Y」は「屋代」の「Y」にあらずというわけで、この屋代が金田一と面識がなかった瞬間に「あれ?」という感じで思い違いに気づいたとしても、その時点から別に疑わしい人物が浮かんでくるので、読者はなかなか真相にたどりつけないという仕掛けだ。
 まぁ、それまで金田一シリーズを読んできた読者へのファンサービスを兼ねたミスリードという感じだが、いきなり本作から金田一を読み始めたという人には、気づくことさえ出来ないミスリードだからなぁ。

 いずれにしろ、そうしたミスリードもやや過剰に感じられ、また、猟奇殺人にしろ、謎めいたトリックにしろ「もうええがな」と言いたくなるくどさをもって描写されるのはどんなものかと。恐怖心より先にくどさを感じてしまった。
 このところ、金田一シリーズを立て続けに読んできたものだから、もしかすると、いささかこの道具立てに食傷気味になっているのかもしれないが、おそらくそれだけじゃないはずだ。ずっと一人称が続くということで、少しこれまでに読んだ金田一シリーズと比べて文体が違うから、そのせいかもしれない。またあるいは、横溝自身、一人称を意識しすぎて「あの恐ろしい」だの「思いだすだに身の毛のよだつ」だの、書き手の恐怖を表すような修辞を多用しすぎているのかもしれない。
 「獄門島」「本陣殺人事件」「悪魔が来たりて笛を吹く」と、金田一シリーズでも傑作の呼び声が高い作品群と比べてしまうのも悪いんだろうけど、ちょっとこれまでに読んだ作品と比べると、落ちるかな、という印象。
(2003.5.28)


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『悪魔が来たりて笛を吹く』
 (角川文庫
 1973年2月刊)
★ネタバレ注意★

 そういえば、聖飢魔IIのデビューアルバムは「悪魔が来たりてヘヴィメタる」という、今考えるといささか恥ずかしいものであったなあ、なんてことを思い出しつつ、それとは全く関係なく、金田一シリーズでも指折りの名作と名高い本作を読み終えた。
 実は以前、片岡鶴太郎主演(だったと思う)のテレビドラマ版で、一応のストーリーは知っていたはずだが、まぁ、きれいさっぱり忘れていることだ。最後の最後まで、天銀堂事件と椿亭事件がどう関わるかなんてすっかり忘れてしまっていた。
 …っていうか、なんかテレビドラマ版って、結局、天銀堂事件の犯人が最後まで発見されずに、ラスト、椿亭の庭の片隅に死体っぽい手が映ってる、とかいう感じだったような。金田一の須磨行きもずいぶんとはしょってたし、妙なアレンジをしてたんだなあ。

 「天銀堂事件」が、「帝銀事件」をモデルにしていて…、とか、そんなミニ知識はここでは要らないだろう。
 重要なのは、「戦後」「帝銀事件」「斜陽族」といった、作品発表当時の読者なら「ああ、あの頃は何が起きてもおかしくないような時代だったね」という感慨を抱くことが出来るような状況設定を、横溝がおこなっているということだ。
 それは、実際のモデルがあったにせよなかったにせよ、おそらくは読者にリアリティを抱かせることを目的として行われている。「あの頃は…」という感慨こそが、読者と作中人物とを結びつける共通の土台となる。その土台を共有することによって、読者は、知らず、体が汗ばんでくるような恐怖感をも、登場人物たちと共有する。
 そしてそれを突き詰めていけば、作中に描かれた社会的な問題を、そのまま読者の身の上にもシフトさせていくことの出来るような、「社会派」と呼ばれる推理小説が出来上がることになる。
 読者層に共通した体験が存在していること。これは推理小説が、マニア内でのものであった「探偵小説」の世界から抜け出て、社会性を獲得し、後の松本清張らに通じる「社会派推理小説」へと歩んでいくための、ひとつの前提条件だったと思う。
 そして、本作の場合、その共通体験が「戦後」「帝銀事件」「斜陽族」であり、さらにその背後に、「戦争からの復員」ということがある。
 他の作品でも、たとえば「獄門島」でも「本陣殺人事件」でも、戦争からの復員者が登場し、そして直接的にではないにせよ、災いをもたらす。
 本作の復員者は、なかなかその姿を現さない。しかし、ひとたび、彼が復員者であることが判明すると、彼の「悪魔」としての正体もまた、露見していく。

 別に、テクストをつきあわせてみたわけではないから、これはただの思いつきの範疇を出るものではないが、横溝にとっての「復員」とは、まさに、過去の災いが再び蘇って襲ってくるということのメタファーだったのではないだろうか。
 少なくとも、僕が読んできた数少ない横溝作品では、復員者はいずれもそうした役割を背負わされていた。代表的なのは「車井戸はなぜ軋る」だろう。
 ひとたび、兵隊として家から出て行っていた人間が、帰ってくる。喜ばしいことには違いないが、彼はいったい、どこから戻ってくるというのか。
 もちろん、戦地からに違いない。しかし、この場合、戦地とは、まさに「戦争という暗い時代」の暗喩であると考えられまいか。
 かつて読者の誰もが通り過ぎ、その後の復興もどうにか目鼻がついて、ようやく過去に振り捨てられると思っていた「戦争」という時代。しかし、復員者は、その暗闇の中から舞い戻ってくるのである。その意味で、彼は地獄からの使者であり、甦ってきた死人であると言っていい。

 金田一ものの代名詞とも言うべき、えらく入り組んだ血縁関係は、本作では最初は隠されているが、後に行くにしたがって、次第にあらわになってくる。
 妹萌えもすでに少し廃って来つつある昨今、おそらく近親相姦をそこまで「恐ろしい」とか「呪われた」とか感じる感性は、現代の僕たちには欠けているだろうが、夢野久作などを見てもわかるとおり、当時はそれが自殺の原因にすらなりえたということだ。
 それは多分、戦前の(特に貴族社会の)奔放さ(と庶民には映った)への反省であり、そのツケの支払いでもあったのだと思う。
 しかし、そうしたことを感じる一方、実はトリック自体は、けっこう、筆を省いてあるなあ、という風にも感じるわけで、それはおそらく、横溝の力のいれどころが、探偵小説マニア向けの「トリックの奇想」から、より一般向けの「人間関係の奇想」へと移っていたことの現れでもあるのだろう。
(2003.5.22)


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『本陣殺人事件』
 (角川文庫
 1973年4月刊)
★ネタバレ注意★

 長編の「本陣殺人事件」に、中編の「車井戸はなぜ軋る」「黒猫亭事件」の2篇を併緑しているが、目玉となるべきはやはり、金田一耕助初登場作品でもある「本陣」だろう。
 いやはや、人を食った作品だ。
 金田一シリーズには何作かあるパターンだが、本作は実際に起きた事件と、実際の金田一の活躍を、作家である横溝が小説として記録した、という仮構の元で描かれている。
 その冒頭で著者自身から、この事件のトリックについての事件の注釈が入る。

 およそ探偵小説家を以て自負するほどの誰でもが、きっと一度は取り組んでみたくなるのが、この「密室の殺人」事件である。
 (中略)私はこの事件の真相をはじめて聞いたとき、すぐに今まで読んだ小説の中に、これと似た事件はないかと記憶の底を探ってみた。私は先ずルルーの「黄色の部屋」を思いうかべた。それからルブランの「虎の牙」や、ヴァンダインの「カナリヤ殺人事件」と「ケンネル殺人事件」や、ディクソン・カーの「プレーグ・コートの殺人」や、さてはまた密室の殺人の一種の変型であると思われるスカーレットの「エンジェル家の殺人」まで思いうかべた。しかしそれらの小説のどれともこれは違っていた。ただ、犯人がそれらの小説を読んでいて、そこに含まれたトリックをいったんバラバラに解きほぐし、その中から自分に必要な要素だけを拾い集めて、そこに新しい一つのトリックを築き上げたのではあるまいか。……と、そう思われる節がないでもなかったが。……


 いきなり、作品のトリックの類型を述べ、さらには過去の海外の代表的な密室殺人物を並べておいて、いずれとも違う、と言いきってしまう大胆さ。
 しかも、これがただの挑戦的な態度というだけに留まらず、金田一が後に発言する「いわゆる『密室の殺人』の小説は、糸だのなんだのの機械を使ったものになりがちで良くない」という発言と結びついて、見事に読者をミスリードしていくという構成になっている。
 実際、この冒頭の挑発的な言辞がなければ気づいていたかもしれないトリックに、僕は最後まで気づかなかった、というか可能性を検討はしてみたんだけど、「まさかなあ」と思っていたのだった。
 そして、このミスリードは、読者を誘導するのみならず、真犯人の共犯者をもミスリードしていく。大体において、この共犯者がすでにこの冒頭で暗示されているというのが、何というか「それはないでしょ」感を煽るのである。

 さらにいうと、この冒頭の文章は、トリックの示唆ということ以上の意味合いをはらんでいる、と僕は読む。
 それはひとつには「密室殺人などと言うのは、小説の中にしか存在しないのだ(だから現実に密室殺人を起こすなら、それは小説の模倣にならざるを得ない)」ということであり、そしてもうひとつは「探偵小説において、『犯人』とは『作者』に他ならない」という探偵小説の構造に関わる指摘である。
 探偵小説の中に、探偵小説好きの人間が出てきて、その人間が、過去の探偵小説を範にとってトリックを考える。しかも、そのもっとも外側の枠である「本陣殺人事件」が、現実の事件に材をとったという形式で描かれている。
 この入れ子構造が示唆するところは、まさにその「密室殺人」なるものが推理小説でなければ成立しえないような犯罪であるということだ。そしてそれは、本作の面白さのキモになっている部分でもある。
 そしてまた「犯人がそれらの小説を読んでいて、そこに含まれたトリックをいったんバラバラに解きほぐし、その中から自分に必要な要素だけを拾い集めて、そこに新しい一つのトリックを築き上げたのではあるまいか」である。
 何のことはない、「犯人」を「作者」と置き換えても全く問題ないというか、まさにその通りの経緯で考案されたであろうトリックであり、真相だ。「あるまいか」じゃないっつーの。
 最後の最後で吐露しているように、これに「アクロイド殺し」が加われば、本作の元になった原料はおおよそ出揃うだろう。「アクロイド殺し」の名はさすがに最後まで明かさないが、騙されきっていた僕のような愚鈍な読者にとっては「なるほどな」というか「やられたな」であろう。
 横溝自身は、「これは反則じゃないぞ」と強弁しているが、人によっては反則だと思うかもしれない。しかし、反則であるにせよそうでないにせよ、それを疑いつつもコロッと騙されるという、まぁ、そこが快感だ。

 多分、編集側が意図して組み合わせた部分なのだろうが「車井戸」「黒猫亭」にも、「本陣」に似たところがある。
 特に「黒猫亭」のラストに飾られた作者の言葉、「私は正直にいうが、(事件の構造を)見破ることが出来なかった。読者諸君はいかに?」というのは、先に挙げた「本陣」の冒頭と同じで、えらく人を食っている。「いやいや、見破るも何も、考えてんのあんたやん!」である。
 横溝がニヤニヤして、この一文を書きつけているのが目に浮かぶようだ。
(2003.5.21)


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『獄門島』
 (角川文庫
 1971年3月刊)
★ネタバレ注意★

 いまの若い人は知らないかもしれないんだけど、もう15年くらい前になるか「10回クイズ」ってのがかなり流行ったことがあった。一世を風靡したと言ってもいい。
 第三舞台の鴻上尚史が、当時、オールナイトニッポンのパーソナリティーをつとめていて、そこから飛び出した企画だった。それを少女隊が「いいとも」のゲストに出たときに、タモリ相手に仕掛けたところからブレイクした印象である。鴻上さんのオールナイトは、10回クイズ以外にも「ドラクエ3のエンディングテーマに歌詞をつけて歌う」とか、「究極の選択(『カレー味のうんことうんこ味のカレー、どっちか食べなきゃいけないんならどっち?』みたいなやつ)」とか、いろいろと歴史に残っていいような企画がある名放送だったんだが、今となっては夢のまた夢ではある。
 オールナイトニッポンの話はどうでもいいんだが、この「10回クイズ」というのは、たとえば、「『みりん』って10回言ってみて」と、回答者に先に「みりん」と言わせておき、そこで「鼻の長い動物は?」という単純なクイズを出すというもの。
 実際にやったことがある人でないとわからないかもしれないが、この場合は「みりん」の語感がまだ頭に残っているところに「〜の長い動物」という出題をされた勢いで、「きりん!」とつい条件反射で答えてしまう、というのが、ひとつの流れになっている。もちろん正解は「象」であって、ここで思いっきり優越感を込めて「ちがうね!」と回答者をコケにするのが正しい。

 さて、知っている人にはなんということもない「10回クイズ」の説明を長々としてきたのは、すべて、この10回クイズの持っている「ひっかけ」の構造が、かつての本格ミステリが持っていた構造と、実は同じものだった、と指摘したいがためである。
 最近の、いわゆる新本格以降のミステリについては、全然知らないので言及できないが、かつてのミステリでは、しばしば、「こいつが犯人だろう」と読者に思わせるためのフェイクというべき偽犯人が登場した。示されている状況証拠からすると、どうもこいつが怪しい、と思って読み進めていくと、実はその偽犯人は全然関係がなかったり、あるいは途中で殺されてしまったりする。読者が「それじゃ誰が犯人なの?」と思っているところに、名探偵がずばっと真実を指摘する、というあれだ。
 「金田一少年の事件簿」でも、律儀にこれを踏襲したりしていたが、御本家金田一耕助を描いた横溝正史の「獄門島」、このフェイクの使い方が抜群にうまい。
 フェイクだフェイクだと言ってみたところで、こちらも21世紀を生きる読者である。作品中でいくら「この人が犯人ぽいですよ」と騒がれたところで、それがフェイクなんだろうな、くらいのことはすぐにわかる。
 ところが、どこまでがフェイクなのかがわからない。本作の場合は、まもなく太平洋戦争から復員してくると伝えられている鬼頭一がそれであるのだが、どうも彼がすでに帰ってきているのではと思わせる記述はそこここにあるし、早苗など、そう考えている登場人物もいるらしいのもわかる。犯人ではないにせよ、すでに獄門島へ帰ってきているのか、それとも帰ってさえいないのか、帰ってはいないが登場人物達が「帰った」と思っているらしいことそれ自体が重要なのか、そこらへんがつかめない。
 しょうがないので、「このあたりまでだろう」と予測をつけ、それをもとに真犯人を予想する。そして、そこまでは金田一耕助自身、読者とそんなに違わないところを歩いてくれている。

 ところが、案の定、その一さん犯人説が、どうやら違うらしいことが見えてくる。これが、たとえばその一さんが殺されるといった形ではっきりと示されず、相変わらず登場さえしていない中でぼんやりと見えてくるあたりもミソだ。そして同時に、「多分このあたりだろう」と目星をつけていた犯人もまた、犯人ではないことが示されてくる。
 そして、その時点から、金田一の推理が爆走を始めるのだ。
 ついさっきまでは、読者である自分と同じようなことを考えていたらしい金田一が、ものすごい勢いで真相に迫っていく。ここの「置いていかれっぷり」が気持ちいい。

 この、さんざんフェイクっぽい情報を提供されて、それ自体がフェイクであることはわかるものの、それじゃ真相は、というと、判然としないままで「このあたり」と目星をつける、という読者心理は、まるっきり「10回クイズ」の、「きっと『みりん』が正解ではないだろうけど、それじゃ正解は…『きりん』とかかな?」という、あの心理と同じではないか。
 幻想的な山狩りのシーン、1発の銃声とともに谷底に転げ落ちた日本軍服の男が「一さん」とは全くの別人であり、その場に、真犯人と目星をつけていた早苗さんまでもが居合わせていた裏で、最後の殺人事件が発生する、というところで「さあ、それじゃ真犯人は!」と尋ねられても、こちらは「トリックはわからないけど早苗さん」くらいのことしか言えず、ただ「ちがうね!」と横溝に言い切られるのを待つばかりなのである。
 自分の間抜けな推理とは裏腹に、金田一によって次々と明かされている真相。その鮮やかな解明劇の最後に、一さんの居場所の真相まで付け加えられるとあっては、こちらはただ呆然と、獄門島を去る金田一の背を見送るしかない。

 2002年は、横溝の生誕100年にあたるということで、角川文庫から大々的に新装版の金田一シリーズが売り出された。
 この「獄門島」もその1冊だが、多分、まだ簡単に手にはいると思うし、大きめの書店ならまだ平積みになっていてもおかしくないから、未体験の人はぜひ、入手してみることをおすすめする。
(2003.4.20)


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横溝正史

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