米沢嘉博



『藤子不二雄論 FとAの方程式』
 (河出書房新社
 2002年4月刊)
 米沢嘉博『藤子不二雄論 FとAの方程式』読み終わり。「A」は、この場合、必然的に「○の中にA」なのだが、フォントで出ないので、開き直って記述してしまう。インターネットの悲しさだ。
 さて、マンガ評論家にして、コミケの代表でもある米沢氏による藤子不二雄論である。
 1976年1月生まれの僕は、すでに「ドラえもん」が大ブレイクしてからの藤子不二雄しか知らない。物心ついた時にはすでにコロコロコミックが存在し、そしてその物心がつくかつかないかのギリギリのあたりで映画第一作『のび太の恐竜』が公開された。少年SFアニメの一大傑作として名を残す『宇宙開拓史』は、リアルタイムに映画館で見たおぼえがあるが、もしかすると『宇宙小戦争』あたりと混同してしまっている可能性もある。
 しかし、僕が生まれた時、藤子・F・不二雄も藤子不二雄Aも、すでに42〜3歳だったわけで、もちろん、彼らにはそれ以前にも漫画家としての人生が存在していた(以下、本書の記述に倣って、お2人をそれぞれF・Aとだけ表記する)。
 コロコロコミックなどで、時折、「『ドラえもん』誕生」のエピソードが触れられることはあった。しかし、今思えばFによって描かれていたのであろうそうしたエピソードでは、「オバQ」があり、その終了後、すぐに「ドラえもん」があったような描かれ方をしていた記憶がある。それはコロコロの主読者層の年齢を考慮してわかりやすく描かれていたためであったのかもしれない(実際にはこの間に約2年の時間が流れている)。
 「オバQ」終了後、新しく連載を始めるため、ひたすら苦悶していたFは、たまたま見かけた猫と、自分の子供が遊んでいたロボットのおもちゃを組み合わせてキャラクターを作ることを思いついた。そんなあらすじが、サラリーマン家庭風の家に疲れ切って帰宅し子供のおもちゃを目にするF、というコマの絵とともに、今も記憶の中にある。(…のだが、資料になってくれそうな漫画家インタビュー集「オレのまんが道」が、どこにいったか見あたらない。もし間違っていたらごめん)

 本書を読んで教えられるのは、藤子不二雄が2人の漫画家であった以上、FとAとをそれぞれ別に、2人の作家として考えなくては、藤子不二雄論は成立し得ない、という、とても当たり前の、だが、漫然と不二子作品を読んでいる限り決して気がつくことはないひとつの真理だ。
 スタート地点では共通の素地を持っていた2人の漫画家は、しかしその後、自分の作家性を確立していく中で、むしろ共通性よりも相反する要素を多く抱え込んでいく。そのことを本書は、次のように記す。

 白い藤子と黒い藤子と認識されてしまったFとAは、その作品だけでなく、見えたり聞こえたりしてくるところからも、まったく違った相反するものを抽出することが可能だ。細くてノッポのFと小さいAを手塚治虫はデコボココンビと呼び、当時のアメリカ映画の人気コンビ・ローレル&ハーディ(アボット&コステロ)に見立てた。同じものを描こうと目指していた二人の子供が、他者として相手を認識し、それぞれの自我を作品行為として意識的に分離させていったのは、もしかしたらそのことがきっかけだったのかもしれない。意識的と考えざるをえないほどに、FとAは、相反する方向へと進んでいく。もちろん、元々の資質もあったはずだが、プロになって以後、その方向はそれぞれ逆に向かい、そのことが二人で一人のマンガ家を強烈な存在へと導いていった。もし二人がその後も同じ方向に向かっていたとしたら、もっと早くにマンガ家としては消えてしまっていた可能性も否定できない。(p.274)

 「ドラえもん」に代表される良質な子供向けマンガを追い求めるFと、「プロゴルファー猿」などの子供向けマンガに加えて「笑ゥせぇるすまん」などブラックな短編の名手でもあるA。
 思えば僕たちは、藤子不二雄の作家性というと、そんな言葉だけで満足してしまって、そこからさらに個々の作家性を問うことをしてこなかったのではないか。
 ストーリーの構築スタイルから絵の方向性まで、さまざまな差異を通して、2人の作家性を本書は描出する。
 絵の白さと黒さ、SFとホラー、非ヒーローとヒーロー、大人と子供、相対と絶対…。
 キーワードは実に多彩である。パッチワークのように、ジグソーパズルのように、差異という断片から、2人の作家の輪郭の全体像が組み上げられていく。それは、ドゥルーズ好きから見れば、まさに拍手したくなるような鮮やかさと映る。

 先の引用部分も含め、文章はやや勢いがつきすぎて読みづらく思えるような箇所も多い。
 また、インタビュー記事などをあまり参考文献として扱っておらず、主として筆者の作品読解がジグソーパズルのピースとして使用されるなど、その精緻さに疑問を呈することができそうなほころびも無いわけではない。(Aこと我孫子素雄氏がまだお元気であることも、遠慮という形で少し影響しているかもしれません)
 しかし、手塚治虫を継いだ偉大なる漫画家群の2人として、また日本の漫画史上、おそらく最大のヒットキャラクターメーカーとして、藤子不二雄論は必要であり、本書がその嚆矢となるなら、それは何より喜ばしい。なぜなら藤子不二雄の歩みは、戦後日本漫画史の歩みと手塚治虫と同等に近いレベルで密接にリンクしているからだ。
 そして、どうやら米沢氏は続刊を構想しているらしい。これもまた楽しみにしたい。
 畳の裏に広がっていた宇宙のどこかへの扉が次第に遠ざかっていく『のび太の宇宙開拓史』のラストシーンは、僕と同年代の子供達の多くに鮮烈な印象を残した。本書を読み終えて、「畳の裏一枚を隔てて開かれていたのは、藤子・F・不二雄にとっては漫画そのものであり、フィクションそのものだったのだな」と思い至る年の瀬である。

 ちなみに、読んでいて、初期の高橋留美子が意外に藤子マンガの影響を受けているのかなと思えたところも数カ所あり、面白かったです。
 たしかに、「るーみっくわーるど」でのホラー系の話をAの延長線上にとらえることもできるだろうし、「うる星やつら」の箱庭性にFのシナリオの影響を見て取ることもできるのかもしれません。いずれ考えてみたいテーマではあります。
(2002.12.29)


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米沢嘉博

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